Copyright(c)
2001.9.1-2003
JAMAL.
All Rights Reserved

 

安吾とジャズ


 
 
坂口安吾とジャズ・・・これは関係がない。で、有り体に言えばこれから屁理屈を述べようとしているのだ。只の思いつきだと思って頂ければ良い。安吾がジャズを好きだったなんてことは、どんな安吾関連の本をひっくり返したって載ってはいない。寧ろ彼はクラシックに蔵志があるらしい。そのくせ、何も知らないと嘯く彼が好きだ。でも、僕は彼の文体を読むとある種のジャズのスタイルを連想させるのだ。それはアバンギャルドなジャズ、ないしは一部のアグレッシブなジャズだ。フリー・ジャズと言っても良いかも知れない。
 そう思って読むと、非常に可笑しい。
 彼は”日本文化私観”という著書に”FARCEに就いて”で、こう述べている。
「芸術の最高形式はファルスである」と言い切るかと思えば、続けて「なぞと、勿体振って逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇や喜劇よりも同等以下に低い精神から道化が生み出されるとは考えていない。然し一般には、笑いは泪より内容の低いものとせられ、当今は。喜劇というものが泪の裏打ちによってのみ抹殺を免れている位いであるから、道化の如き代物は、芸術の埒外へ投げ出されているのが普通である。」で終わるかに思えて続きがある。
「と言って、それだからと言って、私は別に義憤を感じてここに立ち入った英雄では決して無く、私の所論が受け入れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しようとする---つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが。」
 で、終わらずまだ続くのだ。で、結局ファルスなんてことはこれっぽちもその起源だとか定説だとかは知らないと白状し、こういう
「最も誤魔化しの利く論法を用いてやろうと心を砕いた次第であるが、この言いぐさを、又、ファルス精神の然らしめる所であろうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止って卒倒するかも知れないのですが」という長たらしい言葉を続けるに至って、僕はこりゃあ、ジャズだと何故か思ったのだ。いや、この文だけでは勿論ない。これがファルス精神で書いた有りとあらゆる作品にこういったハチャメチャな文体が散乱しているわけだ。ところが、彼にはしっかりとその根底に論があるのだが、それをいざ書くとなると、こういった塩梅の文体が出現する。だから、言うなればジャズのインプロバイズと同様で、素人には、そこになんの脈絡も感じ得ないということがえてしてあるように、彼の文体にホントのところ真面目な読者をおちょくっているのかとも思える摩訶不思議な構造をなしていることが、多々あるようだが、これは、緻密な計算のうえに描かれた”道化”の表現のなせる技と言えよう。
 僕は例えばモンクのブリコナ(正確に言うとThelounious Monk/Brilliant conersですが)なんて聴くと、まさに安吾的だと逆に思ってしまう。この道化化した文体と道化的なモンクのアルバムを同機軸と思うというのはヘンだろうか。で、ブリコナは道化的であるけれど、実に深い思考の上に成り立った芸術的なアルバムだと思っている。だから、安吾が言いかけた
「芸術の最高形式はファルスである」という屁理屈(いや、真理かも知れない)はそのまま「モンクのブリコナは高度な芸術だ」と言えるのではないか。
 てなことを思ったりもした。しかし、これはやっぱり屁理屈だったろうか・・・。
まあ、単なる戯言だわな。ガチョーン!!

 

Jazz徒然

 

ここまで来た日本のジャズ!

 

 

南博&Go There
Go There!

ewe
July 3-6,2001

Hiroshi Minami:p
Masayuki Takeno:ss,ts
Hiroaki Mizutani:b
Yasuhiro Yoshigaki:ds


1.#1
2.Oraction
3.M
4.One kat
5.Deep through between the fourth
6.Four distinction
7.Go there
8.Sope

 

日本のジャズがこれ程進化発展したという実感を抱いたアルバムだ。洗練されたコンセプト演奏技術、演奏のダイナミックさと研ぎ澄まされた感覚。もうこれ以上言うことなど必要ない。とにかく圧倒される。南博は1960年生まれ。サックスの竹野昌邦は63年。ベースの水谷浩章は63年。ドラムの芳垣安洋は59年。働き盛りの年代だ。頼もしいと言うほかない。日本のジャズという括り自体が意味をなさないレベルを持っていると感じた。僕は今最高に期待をかけたい一群だ。これがファーストアルバムであり、既に第2作も出した。日本のジャズユニットの永続性といいうのは、それ程長続きしないと思っているから、彼らがいつまでこの組み合わせでやってくれるのかは、知らない。しかし、たとえ彼らが発展解消したとしても、またあらたな細胞を増殖してくれることと思っている。
「痛快無比にして颯爽としたアルバム」とこのライナーを担当した菊池成孔は冒頭に書いている。菊池氏のことは、たまたま後藤雅洋氏が最近著わした「ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか」のどこかに書いてあって、彼の経営するジャズ喫茶”いーぐる”でエリック・ドルフィーについて講義をしたそうだ。
 それはとにかくまさに菊池氏がズバッと言ったそのままだと思う。アルバムを構成する内容は多岐に渡っているから、一言では言えないが、自分らが持っている高い音楽性をある時に凝縮し、ある時に拡散させ、思いのままに描こうとする。
 いや、こんな曖昧な表現はいかん。
 まず、#!だが、竹野のテナーは、けたたましいという程の迫力の大ブローをやらかす。それにかぶる芳垣のドラムと南のピアノの作り出す喧噪怒濤。爽快感と感情の爆発が錯綜する。
Oraction。日本美を感じるソプラノが木霊する幻想。静寂感を破って重量感のあるバックに支えられてうねりの中に入っていく。流麗な南のピアノ・・・。怒濤・・・。
M。ソフトなバラードを吹く竹野。安らぎをもたらすふくよかさ。
One Kat。フリー・インプロバイズ。
Deep thoughts between the four。深い森に分け入るかのような深淵な趣と重層する音の厚み。深い森にに響くかのような竹野のテナー。一種孤独感さえ喚起させられる音の深みだ。
Four Distinction。前と同様の深みがある。次第にうねりだし怒濤の渦に入り込んでいく。
Go there。いきなりの怒濤。パーカッシブなバックと竹野の流麗なソプラノ。
Hope。怒濤の後の安らぎのソプラノ。
 ともかく、日本のジャズはここまで来た。カルテット構成の中で自在なアレンジを駆使した高レベルな音楽性の表出。これだ。