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書かせる人に書かせたら、この盤などはもっと魂の籠もった書き方ができるのだろうが、どれもこれもつまらなぬ。相も変わらず待望の初CD化だの、長い間日の目を見ずお蔵入りされていた盤だの。それがどうした。そのままじゃないか。それが売りか。骨董売ってんじゃねえぞ・・・と大人げなく言うのもいい加減やめにしたいが、この盤のことじゃなくて、『ソニー・クラークにおける「哀愁」について考える』という一文に出逢い溜飲を下げた思いがした。これぞ魂に訴える文だと。書き方が素晴らしい。 「レコード棚に首突っ込んで筋がつったり、頭をぶつけたり、ようやく見つけたジャケットを眺め溜息をついたり」と。そういう思いをしてあれこれ思いをいたし、漸く「哀愁」なるものの重要性がちょっとばかりわかってきたという。こうでなくちゃいかん。プロなら。 そこんとこいくと僕などはど素人だから、好き勝手テキトーに良いも悪いもどっちにころがろうが、良いのである。しかしこの人のものを読ませて貰ってクラークも浮かばれると思った。こうである。 「クラークより少し前にシーンを席巻した天才たちは、その輝きと引き換えに深い闇を背負っていった。破天荒な生き方が華麗なプレイを生んだのだが、そこにひっそりと忍び寄る破滅の影があった。しかし、先達が目の覚めるようなプレイをした何年後かに尾羽打ち枯らし、見るも無惨な姿を晒したのに対し、クラークは日毎の詩的なプレイの中に狂気を孕んでいた。クラークはなんとその闇をアメリカ的な日常の中に溶かし込んでしまった希有の天才である」と。 希有の天才だがどかはどうでも良いが、要は書き方に魂に訴えるものがないデーターの羅列など読みたくもないということだ。もっと書き方を工夫しろ。文を書くなら文そのものを見直せ・・・と。じゃあ、僕が魂に訴えるものを書けるかと言えば、・・・できない。でも、いいのだ。素人だから。できないものをできないといえるところが素人の強みである。カッカッカ・・・。 さて、ソニー・クラークと言えば、飛び抜けた技巧や才気走るフレーズによらず、永く慈しみ生活の中にとけ込んで潤いと詩情をもたらす愛すべき調べを我々に提供してくれることに間違いなく、幾度も聴けば自ずと頭の中によみがえる愛しい旋律だが、当時のジャーナリズムが眼もくれなかったのは、ただただ惜しいというほかない。 飛び抜けていること、才気走ることのみ眼を向けるのは、いつの時代も変わらぬことであるが、何の縁があってか、我が国で愛され続けた幸運をあらためて感じる。 彼の作品のなかで、長いこと聞き及ぶことの出来なかったものではあるけれど、このアルバムの多くの曲がTIME盤のSONNY CLARK TRIOで再演され日の目をみていることは、憶えておこう。TIME盤をハードバップと呼ぶのはふさわしいとは思わないが、管が入ることでまさにハードバップの煌びやかさを持つことになる。 詩情は熱気と変貌し、怒濤と化す。 |
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