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CHET BAKER
MR.B
CHET BAKER-tp MICHEL GRAILIER-p RICARDO DEL
FRA-b PHILIP CATHERINE-g* May 25 1983
TIMELESS
1.DOLPHINE DANCE 2.ELLEN AND DAVID 3.STROLLIN' 4.IN
YOUR OWN SWEET WAY 5.MISTER B. 6.BEATRICE 7.WHITE BLUES 8.FATHER X-MAS *
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MICHEL GRAILLER,RICARD DEL FLA
SOFT TALK
澤野工房
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I |
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村の阿弥陀堂の堂守をしている老婆がいる。90才を超えた老婆の口から「有り難いことです」と何かにつけ出てくる。心からそう感じて生きている姿は、自然に抱かれて過ごす日々は全く無欲なもので、いつあちらの世界に行っても構わない。こうして生かされていることを有り難い、有り難いと阿弥陀様に感謝する心のままである。
心のままに生きるということが、自ら生きるという意思からではなくて、季節のうつろいのなかで生かされていることに感謝を持って過ごすというなかにもあるのだと気付かされる。
挨拶に来たこの夫婦の持て成しに、傍らで埃を被った茶碗に出涸らしの茶を「あちーから、きいつけて」と勧め、自分の茶碗にも注いで啜っては、「あー」と如何にも美味そうに飲む北林の演技等は微笑ましく、構わない所作のなかに年季の入った老婆ならではの人生訓が籠められているようだった。
だから、僕はこの映画を観た後、何故か孔子のこの言葉を思った。
朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり
そういえば、日本一綺麗な夕焼けがみられるところがここ釧路であるとどこかで読んだ。確かに、釧路港の落日、王子製紙の高い煙突で遮られる時刻の東の空の太陽が燃える様、太平洋を臨む海岸を車で走らせるときの雲間から覗く夕陽は絶景である。また、観光地阿寒湖からの帰り道、車窓の右に後ろに浮かんでいる夕刻の太陽の大きさにも驚かされる。
そういう落日の感傷と、この「夕べに死すとも可なり」の言葉が重なってくると、急激に年老いたような、或いは日常の煩わしいことから開放された安堵感がやってくる。
最早、晩年の兆し?・・・でもないのだろうが、「もう、どうなっても構わない」と任運謄謄とした気分となる。
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さて、チェット・ベイカーの晩年もそうした趣があった。淡い寂しさが、チェットの味だなとつくづく思うものが多い。これもその一枚となろう。
ピアノにM.グレイエ、ベースがR.D.フラと言えば、澤野盤のあのデュオSOFT
TALKがあるが、ここでも彼らの深みのある音が聴ける。
雲の加減で窓から射し込む濃淡の違う陽光を静かに愉しむ時間のうつろいを感じるようなアルバムだ。
H.ハンコックのDOLPHIN DANCEのベイカーのホーンの枯れ具合が、染み入るように僕のなかに浸透してくる。
C.ヘイデンのELLEN AND DAVIDなどは、絶え絶えにさえ聞こえるホーンの萎み方・・・等々、元もとパワーで吹くタイプじゃないベイカーが更に弱々しいのだが、この枯れ方は落日にしか表れない哀感に等しい。
しかし、この老ベイカーに対峙してグレイエ、フラのサポート振りが、出過ぎず不足にならずというところで、非常に良いコントラストを持っている。ドラムレスというところも、枯淡な味を壊さない。
出涸らし番茶にも「持ち味」があるというところだろう。
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