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KENNY BARRON / LIVE AT BRADLEY'S
KENNY BARRON-p BEN RILEY-ds RAY
DROMMOND-b Apr 3,4 1996
VERVE
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1.EVERYBODY LOVES MY BABAY,BUT MY BABY
DON'T LOVE NOBODY BUT ME 2.SOLAR 3.BLOON MOON 4.ALTER EGO
5.CANDISN
SUNSET
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歩いて待ち時間に開いて少しずつ読み進めていて、漸く先月に読み終えたというペースだ。決して厚いものではない。遅読なだけだ。
様々な雑誌に掲載されたものを纏めたというものだったが、深みと言えば底なしに近い深さがある。胸中を言葉にする選び様が、古代万葉まで通じた日本語の源泉と深く繋がって、巫女的な摩訶不思議な宇宙観が広がるとういう感じで、一読しただけでは到底僕には理解が覚束ない。
しかし、彼女使う言葉の持つ意味は単なる思いつきや恣意で選ばれたものではない事ぐらいは感じとれる。
しがみつくようにして兎も角読了したが、彼女の使う言葉の深みを理解したいという欲求は捨てがたかった。
だから、いやしかしだ。
何度も読み返そうと思うものの、つい代表作『苦海浄土』に手がでて今それを読み進めているところだ。こんなことをしているから、いつも何も血肉にならず仕舞いだ。いや、そのうち、そのうちとは思ってはいるのだが。
この石牟礼道子と重なる時期に先回書いた小林弘美の『センセイの鞄』を読んだ。谷崎潤一郎賞を受賞した名作だそうだが、比較するのも酷なぐらい筆致が軽い。
いったい現代作家の受賞とはどんな基準なのか?と一瞬訝ったが、内容と使う言葉が丁度良い具合に釣り合っているのだと納得した。
「歳の差を超え、せつない心をたがいにかかえつつ流れゆく、センセイと私の、ゆったりとした日々」
「センセイと過ごした日々は、あわあわと、そして色濃く、流れた。」
まさに「あわあわ」という筆致が相応しいものだった。
今年、漱石の『草枕』も読んだが、漱石が「あわあわ」では可笑しい。
現代女性の心情を表現するには、やっぱり「あわあわ」で良いのだな・・・と。
K.バロンのピアノは、まだ僕には確立したイメージがない。ベテランの域に達している彼のピアノを他と区別出来ないのだから、お粗末である。
でも、このLIVE AT BRADLEYが例えば格闘技的なWANTON SPRITやENJA盤のSCRATCH等と比べて,如何にも「普段着」ぽいという気がしている。
格闘技的にトリオが向き合うならそれも良いし、リラックスムードで穏やかに絡み合うというのも良い。
しかし、どうも現代ピアノ・トリオにはムードもスタイルもごちゃ混ぜの傾向があるようで、最近そういうのが良いのだか悪いのだかわからなくなって来た。器用貧乏というが、何でも出来ますはかえって「残念!」な結果を生む。
筆致が一貫してなくては個性が掴めない・・・と返す刀が我が身に降りかかる思いだが、独特の個性が僕らを「♪アドークテッドかも・・・」と思わせる何かが欲しい。アドークテッドになりやすいと言えば、ビリー・ホリディの歌とかエリック・ドルフィーのバスクラやアルトとか、いやそんなに毒性の強いものでなくても良い。「・・・かも」で良い。かも、で。
座り心地の良い椅子に座っているようなゆったりとした出だしだが、こういう気分にさせることが出来るバロンとはやはり懐の深いピアニストだと実感する。優れたバイプレイヤーとして長年やってきて様々なスタイルをこなし、果てに熟成された味というべきだろう。
スウィングし緩やかに絡むR.ドラモンドのベースとB.ライリーのブラシが心地よいドラムがバロンのピアノと解け合う冒頭曲が終わると一転して駆け足なマイルスのSOLARとなる。気合いの籠もった演奏だけれど、どこか余裕があって丁々発止を互いに愉しんでいる雰囲気が伝わってくる。
さて、バロンが僕にとってアドークテッドになりやすいタイプだろうか?
無個性の個性ということもあろうか?
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