IKE QUEBEC / IT MIGHT AS WELL BE SPRING

IKE QUBEC:ts
FREDDIE ROACH:or
MILT HINTON:b
AL HAREWOOD:ds
1961.12.9
BLUE NOTE 4105

1.IT MIGHT ASA WELL BE SPRING
2.A LIGHT REPREIEVE
3,EASY DON'T HURT
4.LOVER MAN
5.OL'MAN RIVER
6.WILLOW WEEP FOR ME

 アイク・ケベックには、「夜の・・・」とか「侘びしい・・・」とか「気だるい・・・」等の総じて「やさぐれ」的イメージがあるのかも知れないが、どうも過小に評価されているとのことだ。
 人の価値を測る基準というのは難しいことで、何故彼が過小評価となったのか推察すると、一つに彼の吹くテナーのイメージである先ほどのことと関連しているのかなと思った。
 「ハーレム風」、「泣き節」という某氏の彼のテナーを特徴づける言葉が言い得てるなと思うのだが、こうなると、黒人貧民窟の安酒場で鳴る寂れたやさぐれテナーという些か下に見られる印象を持つことに繋がってきがちであろう。
 もうひとつは、彼のテナーがベン・ウエブスターやコールマン・ホーキンズに似ていながら、「ウエブスターの判断力も、ホーキンズのコントロールの効いた繊細さ」もなかったというリチャード・クックの言葉にあるように、大スターの技量に追いつけていないという面が過小な評価と関係ありそうである。
 似ていながら技量が追いつかないという中途半端な位置にいる己を自覚すると、これはミュージシャンとしてはやさぐれた気分になろうかというものだろうが、彼のキャリアのなかにはブルーノートのお抱え運転手をかってでるという、世話好きな人の良い一面を伺わせるところもあって、どうやらそっちの方が彼の評価としては好感が持てるし、やさぐれ的なテナーのイメージは敢えて彼が最底辺の人たちの心情に寄り添ったというとらえ方もできるのではと思ったりもした。
 もうひとつ彼が周りへの気配りのきく人であるという一面とも捉えることができるエピソードにブルーノートの変革期に貢献したものがある。時代はスウィングからビ・バップへとジャズのスタイルが変わりつつある時に、いちミュージシャンとして、人々の興味が当時の古風なブルーノートの感覚から遠ざかってきていることをアルフレッド・ライオン等に伝えていることである。そうでありながら、彼自身はビ・バップには手を染めなかったという奇妙さもあるが、穿った言い方をすれば彼は時代の流行如何に流されず自分が誰の為にテナーを吹きたかったのかを示すものだという気がしたのだ。
 つまりは、優しい「いい奴」なのだ。

 僕がこのアルバムを聴いて思ったのには、デクスター・ゴードンとダブるという印象だった。フレーズの取り方、ブローの仕方等々。先ほどのリチャード・クックの著書にも「分厚いロマンチックな響きを、テンポが上がるにつれてざらついた唸るような響きに音を変えることができた」と書かれている。このことは、ゴードンにも言えると思う。彼とワーデル・グレイのTHE CHASEというテナー・バトルのアルバムの印象やその他のゴードンのものとこのケベックのアルバム中のアップテンポの演奏(A LIGHT REPRIVE,OL' MAN RIVER)
の相似が特に印象的だったこともある。それとバラードの演奏の中で(IT MIGHT AS WELL BE SPRING,LOVER MAN)や黒っぽいブルースもの(EASY DON'T HURT)でゴードンとよく似たフレーズが使われているのも更にそう思わせた。でも、実際にゴードンと比べれば、きっとどこかが違うにちがいないだろう。

 このアルバムの最初の印象がオルガンとの組み合わせであることだったが、今はさして重要なことには思えない。
 ともかく匂い立つケベックのテナーをご賞味あれ。
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