あたりは薄暗くて、空にはまだ星が瞬いている。時間は明け方だ。
周りはよく見えないが、人影がひとつ。激しいスピードで動いている。ツンツンの髪が頭に巻いてあるヘアバンドでは押
さえきれずにゆらゆらと風とそれ自体の振動でゆれている。 『彼』は馬に乗っているのだ。腰には重そうな剣が一本。
「朝までには、村に着くかな…」
そう言いつつも、馬をひたすら走り続けさせる。と言っても最高速ではない。何しろ長い間を走り続けるのだから、馬に
無理をさせるわけにもいかないからだ。 眼は遠くを見つめ、口元は少し微笑んで物腰は柔らかそうだ。
彼の名はフェイ・ランライト。バイン王国の兵士をしている。年は十九。彼は今、自分の村へ向けて馬を走らせていた。
兵士といえど、そんな雰囲気は腰の剣と制服以外からは感じ取れない。 しばらく走っている内に、空はずいぶん明るくなってきた。それに伴い、周りの景色もだんだんと見えてくる。青々とした
草が周りに生えているのが見えて、いかにものどかな朝、という感じだ。遠くには山々が見え、あたりには林もある。 フェイは、少し小高い場所を走っていた。
「風が気持ちいいな…」
まだまだ村へは遠い。フェイは、馬を落ち着けながらゆっくりと走り続けるのだった。
朝、太陽が山々の間から顔を出し、村の人々が活動を開始したときくらいにフェイは村へやっと到着した。
長い道のりだったためか、安心感を覚える。フェイはとりあえず村のだいたい中央あたりに位置する自分の家へ足を
運んだ。馬からはすでに降り、横で手綱をもって牽いている。さすがに活動を始めた村人もいるようだが、まだ朝は早い ため、馬に乗って走るわけにもいかない。 この村の名前は『ルイル村』といって、バイン王国の領地内の小さな村だ。隣国との戦線にかなり近いところにある村
だが、村人達は特に何もそのことは考えずに悠々と平穏に暮らしている。実際戦火といえるものはここまで到達したこと はフェイが村に来てからは一度もない。 過去にはあったようだが…。
この村は、特に名物という物は何もないが、村の北に大きな森と、それに見合った大きな木がある。その木は『ルイル
ツリー』と呼ばれ、古くから村の人々が大切にしてきた物だ。他には特に何もない。あるのは畑と、後は家畜くらいだろう か。 フェイは自分の家に着く。木で出来たあまり大きくはない家だ。何年も住んでいるが、目立った欠損などは見当たらな
い。フェイは手で牽いてきた馬を家の横に付いている馬の家に連れていくと、そこに馬をおいてから家に入った。 家の中も外と同じく質素な造りだ。壁に掛けられている一対の剣以外は特に何もない。フェイは手に持っていた荷物を
部屋に置く。それだけして、フェイは自分の家を出ていった。フェイの仕事はこれから始まるのだ。 「おぅ!フェイ、帰ったか!」
後ろから呼び止められ、フェイは後ろを振り返った。だが誰かは分かっていた。
「あぁ、ライツさんですか…。今、帰りました!」
びし、と敬礼のまねをする。それをみて相手は「ははは!」といって豪快に笑った。
ライツ夫妻はフェイの家からは少し離れているお隣さんだ。といっても小さな村なのでお隣とかは特に関係なくみんな
仲がいい。ライツ夫妻はフェイ不在の時に家の世話をしてくれる心優しい村人の一人だ。助け合い精神が醸成されるの が村というところなのかもしれない。とりあえずフェイはこの心優しい人たちのおかげでかなり助かっている。 「…そのビッグな桶は?」
ライツ(夫)は手に大きな桶を持っていた。フェイはそれを見て、うすうす気付いてはいたが聞く。…これも任務の一環
だ。 「あぁ…。これは下の川まで水をくみに行くんだよ!」
「(やっぱな…)なら、僕が代わりに行きましょう」
ライツは何か言いかけたが、フェイは半ば強引に桶を取る。そして、「家で妻孝行でもして下さいよ」と言って、桶を持っ
て村の外へ向かう。 村の外は広大な平原になっている。水源に行くには南にある村の入り口から出て、少し歩かなければならない。そこに
は川が流れている。フェイの村は結構標高で言うと高い位置にあるので、川は源流に近く、とても綺麗だ。 それにしても、山ひとつ越えればそこが戦場などと、誰が思うだろうか。このあたりはそれほどに平和そのもので、人っ
子一人見当たらない。 「…この川も、いつも綺麗だな…よっと!」
フェイは桶に澄んだ川の水を汲んで両手に持った。結構な大きさがあるので男が持ってもかなり重い。若いフェイが持
ってこれなのだから、ライツはすごい力の持ち主なのだろう。フェイはやめておけばよかったかも、と少し後悔した。 これも任務で、修行にもなる、と自分に言い聞かせた。だが、それはフェイがやりたくないと思ったからゆえの行動では
ない。 「お、重いな…」
原因は、両手にぶら下がる重圧だ。
フェイは重い足取りで村へ向かう。村への距離がここまで遠く感じられたのはフェイにとっても初めての体験だった。フ
ェイの右腕および左腕は、軽く悲鳴を上げているがフェイはそれを無視。淡々と歩き続けた。 「すまないねぇ、フェイ…助かったよ」
ライツ夫妻はそろって激しく息を切らしたフェイに向かってお礼を言った。夫のほうは「情けねえな」と一言付け加える。
「い、いえ…、家の世話をしてくれているんですから…お互い様ですよ…はぁ…」
(しかし…確かに、情けないな…)
フェイの体力はもう限界に近づいていた。と言っても腕だけだが。
ライツ家に桶を置くと、腕が開放されて一気に軽くなる思いがした。が、動かそうにも疲弊してうまく動かせない。そのま
ま苦笑いを振りまきながらとりあえずフェイは家に戻ることにした。 フェイの兵士としての仕事の一つに、この村の警戒がある。何と言ってもフェイが世話になっている村である上に、この
場所は戦線にかなり近いので、一応警戒されることになっているのだが、申し訳程度の物だ。兵士一人で村ひとつの警 戒など聞いたこともないし、いくら兵士が有能であってもそんなことは不可能だ。…フェイは普通程度なのだが。 それであってもフェイとしては満足だ。
だいたいこの村は警戒することも特にはないし、もめ事も起きるはずはないので、フェイはぶらぶらするか、又は家で
休んでいるか、村の手伝いをしているため、ほとんど休暇と変わらない生活をしている。一応は村の周りを歩いてみたり はするが、やはり、いつも何の異常もない。 (今日は村の人の手伝いでもしますかね…)
その日一日中フェイは村の人たちの手伝いをした。多くは重い物などをいっぺんに運んだり、牛や馬の手入れ、畑の
水やりなどだ。腕はほぐして何とか動く程度にはなったのだが、結局その日が終わる頃にはまた動かなくなるまでに陥っ ていた。それも手だけではなく全身にまでそれは蔓延していた。 次の日の朝、フェイは結構早めに目が覚めた。まだ日が昇っていない。うっすらと明かりが差し込む程度の明るさだ。
フェイは掛け布団を勢い良くはぎ取ると、その勢いでベッドから降りる。そして普段着に着替えた。結構寒くなってきたの で、今日は少し厚着する。そして、忘れずにヘアバンドを付け替えた。…いわゆるトレードマークのようなものだ。 「……」
フェイは家でゆっくりするのも何かもったいないと思い、いつもフェイが行っている場所へ行くことにした。
それは村の北の森の中にあるところだ。
それも、ルイルツリーのある場所である。
聞いた話によると樹齢はとうに千を越えているらしいが、実際の所はどこまで本当なのかは判らない。だが、それに見
合うだけの大きさはあると思う。事実村の外からも見えるくらいに大きい。 「じゃ、いくか…」
フェイは壁にかけられている三本の剣のうちの一本を手にとって、静かに家を出て行った。
村の中はまだ静かだ。人はおろか、動物までもがまだ眠っているのだろう。あたりの聞こえる音と言えばフェイの足音
と時折聞こえる小鳥の鳴き声くらいのものだった。 標高のせいで温度はかなり低い。厚着をしたつもりだったが、それでも少し寒気を感じる。時折頬をなぜる風がまた寒
さを感じさせ、それにまたフェイは身を震わせた。 ルイルツリーのある森は、村人の間では『神樹の森』と呼ばれている。あの木は村人にとっては古くから神として崇め
奉られていたらしい。だが、別に入るのを制限したり、わざわざ祈りに行ったりとかいうことはしない。 それでもフェイはこの場所がお気に入りで、村に帰ってくるときは必ずと言っていいほどここに来る。フェイ自身何がい
いのかは全く判らないが、とにかくこの場所は家にいるときよりも落ち着くような、そんな感じだった。 「いつも通りだな…、さすがに自然ってやつは短い時間では早々変わらない…」
道なき道を歩きながら、フェイはうっすらともらした。
森の道はもうフェイにとってはいつも通る道なので、迷うことはない。しかし、この森は結構広く、目印になる物はルイ
ルツリー以外にないので、村人以外はこの場所には立ち寄らないのだ。迷ってしまうと、結構出るのは難しい。 森の中は外とは違い、多少気温が暖かいように感じられた。森の中で吹く風は、木々の葉の波となり、寒さを感じさせ
ない。緑を基調とした空と、茶を基調とした地面が、生命を感じさせ、まるでひとつの大きな命に抱かれているような、そ んな感じがする。 いつも感じることであったが、いつ感じてもそれはいい気持ちだった。
しかし、その日はただ一つ、普段通りではないことがあった。
ルイルツリーの膝元(根っこ)に、先客がいたのだ。
(なんだ?)
よく見てみると、女の子だ。緑色の髪をしていて、それは長く、綺麗にのびている。フェイから見て、その女の子は後ろ
を向いていた。なので、顔は判別できない。とは言っても、おそらく村人ではないだろう。フェイにはあの緑色の髪は村で 見たことがない。 フェイは一瞬ためらったが、もしかしたら外の(村の外)人間が、この森に入って迷ってしまったのかもしれないと思い、
声をかけることにするが、その女の子はくるりと振り返り、フェイの方を見て微笑んだ。それでフェイは話しかけるタイミン グを失った。 「フェイさん…、ですよね?」
神秘的、といえばそうだし、謎めいた、といってもそう感じるような声で少女は言った。透き通る声で、見た目どおりに
かわいらしい声をしている。 (俺の名前を知ってるのか?一体誰だ…?)
フェイは戸惑った。見知らぬ人、それも女の子に名前を呼ばれるとは予測不能の範囲だったからだ。しかし、フェイは
なんとか自分を落ち着かせてその女の子を見てみる。 (なんだ…?雰囲気が人間のそれとは何か違う気がする…。よく見るとかわいいな。って違うだろ!あの子は、一体何
者だ?) フェイが自問自答していると、女の子は微笑んだ表情のままフェイに近づいてきた。
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