新・僕の初体験

 

 ある晴れた日の午後、みちるは、マンションの居間で、コタツにもぐりこんで、テレビを見ていた。マンガ雑誌の編集員としては、年末のこの時期に休むなんてもってのほかだったが、主人の英太郎と一緒の休みを取れそうなのが、今日というだけだった。

 といっても何かする訳でもなかった。ただ、二人だけで、部屋の中にいるというだけの時間が、すれ違いの多い今の2人には大事だった。

 英太郎が、キッチンで、昼食を作っている間、みちるは、ごろ寝をして、面白くもないお昼のワイドショーを見ていた。誰がくっついたの、別れたの、何処そこに、誰と誰がいっしょにいただの、高校時代のみちるだったら、食い入るように見ていただろうが、今の彼女にはまったく関心がなかった。新聞記者をしている英太郎なら、見入っているかもしれなかった。

 あまりのつまらなさに、みちるが欠伸をしかかった時、街頭インタビューのカメラが、1人の少女を映し出していた。それを見た瞬間、みちるは、顎をおかしくしてしまった。

 前髪を軽く内側にウェーブさせ、肩まで垂らした黒髪、光の加減で美しいエメラルドグリーンに輝く瞳、陶磁のように白く極め細やかで、シミ一つない肌、天使のように端整で華麗な容貌。だが、少女の目には、鋭い光があり、その顔は、デスマスクのように、無表情だった。その少女は、確かにどこかで見た顔だった。ただ、あまりの印象の違いに、みちるはすぐには気づかなかった。少女は、インタビューに答えることもなくその場を去っていった。インタビュアーたちを馬鹿にしたような視線を残して。

 みちるは、気にかかった。あの少女を何処で見たのか。だが、すぐに英太郎のつくった昼食で、そのことは、わすれてしまった。

 夕食後、二人は、テレビを見ていた。それは、ドッキリテレビで、売れない芸人をだまして、金髪にし、小うるさい師匠に合わせようというものだった。もちろん、師匠もグルだった。ダマさてた芸人が、黒髪から金髪になった時、みちるは、昼間のあの場面を思い出していた。金髪と黒髪。キンパツと黒髪。キンパツと・・・

と、突然、みちるは叫んだ。

「あのこ、秋奈ちゃんだわ。」

英太郎の胸倉を掴んで、揺さぶりながらまだ叫んでいた。

「ちょっと、ちょっと、お、落ち着いて。くくくるしい〜。」

興奮しているみちるを何とかなだめると、訳を聴いた。

「いったいどうしたんだよ。」

「え、あ、ちょっとまててよ。」

 そういうと、みちるは、どこかに電話をかけ始めた。英太郎は、いつものように、藪の外だった。

「もしもし、ええそう、みちる。ねえ、秋奈ちゃん帰ってきてるの。それならば、なぜ知らせてくれないの。今日テレビを見てて驚いたわ。何処に居たかって、それじゃあ、あなた。何処に居るか知らないの。チョッと、泣いててちゃわからないでしょう。今から行くから、まってなさい。」

そういうと、みちるは、電話を切ると、いそいそと出かける準備を始めた。

「おい、どこか出かけるのか?」

「何のんきなこといってるのよ。あなたも行くのよ。」

 そう言うと、のんきにみちるを、眺めていた英太郎にジャケットを投げつけた。

ぶつぶつ言いながらも、英太郎は、そのジャケットを着ると、みちるの後をついて、部屋を出て行った。

 地下駐車場から車を出してくると、待っていた英太郎を乗せ、みちるは、無言のまま走り出した。

 車は、夜の道を、走りつづけた。その頃になると、英太郎にも、行き先の見当がついてきた。ただ何のためにいくのかは、わからないままだった。やがて、車は、こじんまりとした医院の前に止まった。見慣れたあの屋敷から、この医院になってから来るのは、久しぶりだった。みちるが、玄関のベルを鳴らすと物音がして、1人の女性が、ドアを開けて出てきた。それは、昔の美しさに、大人の魅力が加わり、ショートカットにした人浦春奈だった。

「どういうことなのよ。」

 いきなり質問するみちるに、春奈は、泣きじゃくっていたのか、赤らめた眼をして、言った。その声は、少しかすれていた。

「どうぞ、中に入ってください。」

二人は、招かれるままに、中に入った。そして、居間へと通された。

 春奈は、2人をソファーに座らせると、台所へ行き、紅茶を入れて戻ってきた。

「どうぞ。」

 勧められるままに、二人は、ティカップを手にとった。

一口飲んだところで、みちるが、春奈に言った。

「いったいどういうことなのよ。秋奈は、どうしたのよ。」

 その問いに、春奈は、答える代わりに下を向き、泣き出してしまった。二人は、対応に困ってしまった。まさか、これほどとは思ってもいなかったからだ。

 これほど、完璧に、春奈が再生されるとは・・・

ここで、少し、時間を戻すことにしよう。なぜなら、春奈が生きている理由をお話しておいたほうが、これからの、展開を理解しやすいと思うからだ。

(そして、これが、このサイトの、いえ、全世界の人浦ファンを敵に回すかもしれない理由です。)

 それは、十年程前のことだ。狂児と春奈の一粒種の秋奈は、5歳になっていた。母もいず、父も老いてきては、これからの、この子のことが、狂児には、一番心配だった。いつお迎えが来るか解らない自分が、無事この子を育て上げる自身はなかった。春奈のクローン再生による復活の失敗が、さらに、狂児を老わせ、失望の中に落とした。もし、春奈が生きていたら、様子はもっと変わっていただろう。だが、その春奈はいない。その抜け殻が、生命維持装置のカプセルの中に横たわっているだけだった。狂児は、悩んでいた。

 そんな時、春奈の母方の祖母から、秋奈を引き取りたいという連絡があった。フランスの高名な家柄で,春奈の母は,ここの一人娘だった。しかし,日本人外交官の,父と,春奈が幼いときに,事故で亡くなっていた。春奈は、14歳までこの祖母と一緒に暮らしていたが、14歳の春に日本に帰国し、16歳のときに、人浦狂児と結婚したのだ。三十近く違うこのカップルに、祖母は、反対したが、春奈の説得によって、何とか結婚できたのだった。春奈の髪が、金髪なのも、瞳が、エメラルドグリーン(光の加減で茶色に見えるときもある)なのも母方の血による者だった。

 その祖母からの提案、それに、春奈復活計画の挫折。もろもろの事から、狂児は秋奈をフランスにやることにした。祖母は高齢だが、秋奈の面倒を任せられる人がいたからだ。

 狂児は、別れ行く、娘のために、楽しい思い出を作ってやろうと、家族旅行を計画した。といっても、春奈は、生命維持装置なしには、動けない、かといって、また誰かの脳を使う気にはなれなかった。そこで、頭蓋内蔵可能なポータブルの生命維持装置を作ることにした。

 それは、何とか完成して、日帰りだが、親子三人、旅行へと出かけた。この装置は、春奈を動かすことが出来、簡単な受け答えなら、何とかできた。秋奈は、生まれて初めて動き、話をする(といっても、「ええ」とか「まあ」とか「秋奈ちゃん」ぐらいだが)母の姿に、喜んだ。狂児は、春奈とともに、秋奈も失う自分になんともいえない悲しみと、秋奈の将来に夢を託している自分に気づいた。無邪気に母の周りではしゃぎ回る娘の姿を、ビデオに撮りながら、知らず知らずに、その子に、妻、春奈の面影を追っている自分に気づいた。そして、電池が切れかかっていることにも気づかずに、娘を撮り続けた。

 と突然目の前が真っ暗になった。

「誰じゃ、電気を消したのは!」

「やだ、おとうちゃまたら、でんちがきれてまちゅよ。おかあちゃま、おとうちゃまたらおかしいね。」

そんな娘の、少ししたったらずの言葉に、微笑むことのないはずの、春奈が微笑んだように、狂児には見えた。

 夕日が傾いてきた頃、家路へとついた。狂児の自信に満ちたつやのあるちょび髭が、今日は、心なしか、しなれているように見えた。

 三人の車が、カーブに差し掛かったとき、それは起きた。助手席に座っていた春奈の生命維持装置が、突然ストップし、運転する狂児に、倒れかかってきた。倒れてきた春奈に驚き、ハンドルを切りそこなって、人浦一家は、カーブのガードレールを突き破り、崖底へと落ちていった。

 幸い、その後すぐに通りかかった車の通報で、すぐに救援され、狂児と春奈は、軽症だったが秋奈が重症を負ってしまった。脳に傷害を負い、その手術をするには、大量の血液が必要だった。そして、問題はもう一つあった。それは、秋奈は特殊な血液型で、輸血できるのは、父である狂児か、母の春奈のどちらかだけだった。生命の危険があるほどの輸血量が必要な娘の手術。そこらの医者ではこの手術は不可能だった。だが、この狂人的天才、人浦狂児なら、60%の成功の確率があった。狂児は、悩んだ。娘の手術には、大量の血液が必要だった。しかし、そのためには、自分か、春奈の生命が危険だった。それに、この手術は、自分以外には成功の確率はない。娘のために、春奈を失うか、それとも、娘を失うか。それは、彼にとっては、残酷という言葉はあまりにも安易なものだった。彼にとっては、どちらを失うにしても、生きていく望みを失うことだった。

 このまま生きていても仕方がない。それならばいっそ。そう考えたとき、あるアイデアが、狂児の頭に浮かんだ。それは、あまりにも、ばかばかしかった。だが、いくら考えても、さっきのアイデアしか浮かんでこなかった。

 

人浦家の地下にある狂児の研究室の中で、狂児は、母と同じタイプの生命維持装置に入り、眠る幼子の顔を眺めながら、こう呟いた。

「秋奈、おとうちゃまが、きっと助けてやるからな。」

 幼子を見つめた顔を上げると、狂児の表情は、いつものあの不屈のマッドメディカルドクター人浦狂児の顔に戻っていた。くるっと、娘に背を向けると、自信に満ちたいつもの足取りに戻り、ドアに手をかけた、そして、振り向くと、目に涙を浮かべ、そっとつぶやいた。

「さよなら、秋奈。元気でな。」

そして、静かにドアを開け、出て行った。外に出ると、胸のポケットから携帯を取り出すと、狂児は、どこかに電話をかけた。それは、相手に有無を言わせないほどの、迫力があった。

 30分後、つたに覆われた人浦家の玄関のベルが鳴った。

 狂児がドアを開けるとそこには、押しかけ弟子になり、博士号を取得した中島志郎とその妻花恋が立っていた。

「先生本当にあの手術をするつもりですか。」

「うむ、君には、すまんが、執刀を頼みたくてな。学会を追放になったわしには、医者の知り合いは君しかいないんじゃ。」

「でも、それでは、先生は・・・」

「何も言うな。これが一番なのじゃ。やってくれるな。」

狂児の目には強い意思が読み取れた。いつもなら、ちょっかいを出す花恋も、狂児の迫力に何も出来ずにいた。それが、許されぬ行為だとしても・・・

 数時間後、秋奈の手術が行われた。執刀は、若い女性・・・だった。サブに着いた志郎と花恋は、その神業的なメスさばきに見入ってしまった。3時間後、手術は無事終わり、秋奈は、その幼い生命の火を再びともした。父、人浦狂児の命と引き換えに・・・

 一ヵ月後、秋奈は、フランスへと旅立っていった。母、春奈や、英太郎ママ、みちるに見送られて。

 秋奈を見送った後、三人は、空港のカフェのテーブルに座っていた。

「どういうことなの。あなたは誰なの。あのきちがい博士は、まただれかを犠牲にしたのね。」

「みちるさん、落ち着いて。わたしのはなしをきいてください。」

「聞くわよ。あなたは誰、どういって、あのヒットラー野郎に騙されたの。」

「騙されてなんかいませんわ。わたしが、そのヒットラー野郎ですから。」

「そう、あなたが、あの・・・。なんですって、」

「君が、あの人浦博士?」

「はいそうです。でも、いまは、春奈ですけど。」

 そういう目の前の春奈は、天使の笑顔を二人に見せた。

それは、どう見ても、春奈の笑顔だった。

 みちると、英太郎は、この衝撃を和らげようと、手つかずのままになっていた飲み物に手を出した。みちるのコーラはほとんど氷が溶け、英太郎のコーヒーは、温くなっていた。二人とも気づいてはいなかったが、春奈の言葉に意識を失っていたのだ。それほどのショックが二人を襲っていた。

「でもなぜ、なんで、博士が、春奈になる必要があったんだ。」

 英太郎は、コーヒーカップを持ったまま、春奈に詰め寄った。

みちるは、そんな、英太郎を座らせると、静かに、春奈に聞いた。

「春奈、いえ、人浦先生。どういう訳なんですか。説明してもらえますか。」

「いま説明しようとしてたのに、英太郎さんが、怖い顔するものですから言いそびれてしまいましたの。」

そう言うと、春奈は、先日の事故の件、秋奈の手術のこと、輸血のための血液のことなどを二人の話した。

「でも、それならば、先生じゃなくても。」

「ええ、良かったわ。春奈でも、どちらでも。でも、狂児は5年間、秋奈と一緒に暮らせたわ。春奈は、あの子との思いではないのよ.あの子が生まれたことすら知らない。あの子もカプセルの中に横たわる春奈しか知らないの。これからは、春奈と秋奈に思い出を作ってもらいたいの。そのためには、狂児がするしかなかったの。」

「でも、それで本当に良かったのですか。ほんとうにそれで。」

「後悔はしてないわ。」

「さっきから気になってるんだけど、先生は、どうして、そんな話し方をしているの。」

「それは、女性ホルモンが頭に回ったからだよ。僕のときもそうだっただろう。」

「わかった風な言い方しないの。あの時と、いまの春奈の態度はちがうわ。」

「さすが、みちるさんね。そのとおりよ。わたしの脳にはホルモンは回っていないわ。」

「それじゃあ、なぜ。」

「それは、わたしが、春奈だからよ。」

またまた、春奈のわかりにくい言葉に、2人は困惑した。

「わたしは、狂児の脳をこの身体に移植することを決めた時、わたしは、すべてを春奈にすることを誓ったの。春奈として感じ、春奈として考え、春奈として行動することを。春奈を知らない人にこの身体を与えるよりも、春奈を良く知っているものが、春奈になればいいと考えたの。わたしは、春奈の身体に脳を移植した瞬間から、人浦狂児はこの世から消え去り、春奈が蘇ったのよ。」

 そこには、春奈に脳を移植された英太郎が、起き上がり、かがみに映った自分に、駆け寄って、鏡にぶつかってこけた英太郎を、抱き起こしたときの狂児の顔があった。愛する者のためには、どんな犠牲をも惜しまないものの顔だった。みちるは、何か言いかけたが、言うのをやめた。周りのものが言うべきことではないからだ。

「そんな、先生は、単に春奈の身体を失うのが怖かったからじゃないか。そうすれば、彼女を失うことはないし、四六時中彼女と一緒にいられるし。」

英太郎は、言ってはならないことを言ってしまった。それは、気づかぬうちに、春奈になった狂児に嫉妬していたのだ。春奈になれるのは自分だけだという思いが、いつのまにか英太郎の中にあったのだ。そして、それは、気づかぬうちに英太郎の心の中で大きくなっていた。それが、彼に、そう言わせたのだった。

「そうかもしれない。英太郎さんが、奈になっていた時、わたしは、嫉妬していたのかもしれない。春奈を別の男に取られたと。そして、2度とほかの男に渡したくないという思いが、狂児にこんなことをさせたのかもしれないわ。」

英太郎は言葉に詰まってしまった。吐き出すように言う春奈の顔が、重く曇っていたからだ。

 そんな2人を見ながら、みちるは、案じていた。このことが、問題を起こさなければいいと。だが、その思いは悪いほうへと転がっていった。まるで、急な下り坂を卵が下っていくかのように。いつ崩壊するかもしれない運命を背負って。

 その後も、春奈とみちる、英太郎夫婦との交流は続いた。春奈は、大学試験資格をとると、一流国立大学の医学部を受験した。もともと超天才の狂児の頭脳だから、合格も、定期試験も問題はなかったが、レベルがあまりにも、狂児のレベルに比べると低すぎた。しかし、それを我慢し、インターンを終えると、春奈は、あの壊れかけた洋館を取り壊し、診療所を建て、老人とこども専門の病院にした。その頃は、まだ、秋奈も時々帰っては来ていた。みちるは、時々、訪れては、春奈と秋奈の仲むつまじい姿を見ていた。しかし、秋奈が、飛び級で、大学進学が決った頃から、2人の中がおかしくなりはじめた。

 秋奈が受ける大学を、ドイツのフランケルク総合医科大学に決めた切っ掛けは、祖母のフランシーヌ・ピカードが、脳腫瘍に犯されたからだった。母が罹り、寂しい子供時代をすごす切っ掛けとなった病を根絶するつもりで医者になる決意をしたのだった。それ以来、秋奈の日本へ帰国する機会は減り、春奈は、さびしい日々を送ることとなった。秋奈が帰国できずにいる間も、メールのやり取りがあり、しきりに、春奈に祖母の見舞いに来るように連絡はあったのだが、春奈は頑なに行こうとはしなかった。それは、春奈の変化に一番敏感な祖母に会えないからだ。会えば、春奈の変化を知られてしまうだろう事を恐れてだった。ある日を境にぷっつりと途絶えてしまった。最後のメールは、祖母の死を伝えるものだった。正体がばれることを恐れ、亡くなるまで、祖母に愛する孫の顔を見せることの出来なかった自分に、春奈は、落ち込んでしまった。それは、決して、狂児では起こりえぬ感情だろう。しかし、いまは、完全に春奈なのだ。数日後、春名は、フランスへ発った。

 葬儀は、フランスの、いや、ヨーロッパの名士にはあまりに質素なものだった。小さな教会で、かなり親しかった人々だけで、行われた。葬儀に立ち会う親族の中に、秋奈はいた。14歳の少女にとって、身近な人の死は、あまりに衝撃が大きく、使用人はいたとしても、肉親として、幼子が、死に行くもののそばで、なすすべもなく、ただ見取るだけの辛さは、春名が一番知っていた。その辛さを、我が子に与えた親として、彼女は、ただ、秋奈のそばにより、ただ黙って、抱きしめてやることしか思いつかなかった。こんなとき、言葉は何の役にも立たないのだ。

 春名は、秋奈のそばにより、やさしく、彼女の肩を抱いた。春奈の顔を見つめて、彼女は、何か言おうとした。しかし、言葉が、あまりにもいっぺんに出ようとして、詰まってしまい、ただ眼に涙を溢れさすだけだった。

 「秋奈。」

 久しぶりに抱く娘の身体は、徐々に女へと変わりつつあった。悲しみに暮れているのであろう。彼女の身体は硬く強張っていた。

 春奈の耳元で、秋奈が、何かささやいた。

「えっ。」

 聞き返すと、今度はドイツ語でこうささやいた。

「お父様。」

 春奈は、その言葉に驚き、秋奈を突き放してしまった。

「おかあちゃまは、ドイツ語がわからないのよ。やはり、あなたは、お父様だったのね。だから、わたしが、いくら来てといっても来てくださらなかったのね。この変態、おかあちゃまの身体を返して、おばあちゃまを生き返らして。出て行け、この悪魔。おかあちゃまのからだから、でていけ〜。」

 突然の秋奈の変貌に、周りの人々は驚き、二人を見た。春奈は、周りになんでもないことを説明し、秋奈の手を取り、別室へ連れて行こうとした。だが、その手は秋奈によって払われ、さらに、彼女を激怒させた。春奈はなすすべもなく。秋奈のことを親類のものに頼むと、教会を後にした。その背中に罵声とともに秋奈が投げつけた花束があたった。身体の痛みはなかったが、心に、衝撃を受けて、春奈は日本へと帰ってきた。それ以来、春奈は、秋奈の消息を知ることはなかった。ピカード家に連絡しても、大学に連絡しても、本人の希望ということで、すべて、拒否されるからだ。

 みちると、英太郎に事情を話し終えた春奈は、老けて見えた。そのとき以来、さらに悩んだのだろう。狂児の春奈化は、さらに進んだように見えた。

 憔悴しきった春奈に、みちるも英太郎もかける言葉はなかった。みちるは、語り終え、うなだれる春奈のそばに座り、優しく方を抱いた。春奈は、くずれるように、みちるの膝に倒れこむと、泣き出した。それは、みちると、英太郎の心にも言い知れぬ思いを生まれさせた。その夜、みちるは、人浦家にとまり、英太郎だけは帰宅した。

そして、翌朝、英太郎は、みちるが見たTV局の知り合いに電話して、あの番組の、問題のシーンを見せてもらえるように頼んだ。最初はしぶっていたが、面白いものに目がないマスコミ人、ディレクターの芝田は、何か感じるものが在って、了解した。

2時間後、英太郎は、編成室のモニターの前にいた。そこに映し出される映像は、つまらないインタビューシーンだった。

「次が、問題のシーンだからね。」

 その声に、身を乗り出すようにして、モニターを見入ると、たしかに、あの頃の春奈にそっくりの黒髪の美少女が映っていた。

「これは、何処で撮ったんだ。」

「これか、これはT町交差点だな。ところで、この子を知ってるのか。」

 ディレクターの芝野の目が光った。

 その言葉が聞こえないのか、英太郎は、編成室を出て行こうとした。それを、彼は押しとどめた。

「この子を探しているんだろう。この子は誰なんだ。教えてくれたら、居場所を教えるよ。」

「知ってるのか。」

「スタッフの1人が気に入って、仕事も怠けて、この子の後をつけたんだよ。」

「それで?」

「交換条件。」

「わかったよ。この子の名前は、人浦秋奈。ドイツのフランケル総合医科大学の学生で、今年15歳だ。」

「あの、ヨーロッパ一の医科大学の。天は2物も与えるんだな。それじゃ、恵まれすぎてる。わかったよ、教えるよ。あの子は、ある建物の近くで見失ったんだ。」

「それじゃ、居場所はわからないじゃないか。」

「まあ、慌てなさんな。そこで、しつこくその場所で張って、ついに、彼女が出てくるところを見つけたのさ。」

「それは?」

「T町の交差点の少し先にある中島クリニックだよ。」

「中島クリニック?」

 どこかで聞いたような名前に英太郎は考え込んでしまった。

(ナカシマ、ナカシマ、ナカシマ・・・!ナ・カ・シ・マ!)

「中島クリニック。」

 そう、人浦博士の手術をしたのが、たしか中島といったことを思いでした。

「ありがとう、それじゃ行って見るよ。」

 そう言って、英太郎は出て行った。

 局を出ると、タクシーを拾い、T町にある中島クリニックへ急いだ。そこに、秋奈がいるとは限らなかったが、何か手がかりがつかめることを期待した。

 20分後、中島クリニックに着くと、休診日だった。だが、住まいと一緒になっていたので、英太郎は、住まいのほうにまわってみた。呼び鈴を鳴らすと、やさしそうな、青年が出てきた。

「わたし、宮田英太郎と申します。あの、人浦秋奈さんのことでチョッと伺いたいのですが。」

「宮田さん?ひょっとしたら、あの、マンガ雑誌の編集者の宮田みちるさんのご主人じゃありませんか?」

「えっ、妻を御存知なのですか。」

「はい、以前、漫画家を目指していまして、そのときにお世話になりました.ここではなんですから、中へどうぞ。」

 英太郎は、誘われるままに中に入っていった。

居間に誘われ、勧められるままに、ソファーに座った。

「今、妻が外出していますので、なにもお構いできませんが、お茶でもどうぞ。」

 そう言って、中島は、英太郎にティーカップを、彼の前に置いた.カップからは、いい香りが立ち上っていた。

「どうぞ、なにもないですが。」

「いや、当然、お邪魔して申し訳ございません。わたしは、宮田英太郎、H新聞で記者をしております。」

「私は、中島志郎です。」

 そう答えながら、英太郎が差し出した名刺を受け取り、挨拶を交わした。

「今日は、どんな御用で、さっきは、人浦秋奈さんの事でこられたとか。」

「そうです.実は・・・・」

 英太郎は、人浦春奈のことを話した.そして、彼女が、憔悴しきっていることも。

「そうですか、人浦先生と秋奈さんがそんな事になっているのですか。実は、先日、ストーカーにつけられている彼女を妻が見つけまして、それで、うちに匿っていたのでした。」

 それは、あのTV局員かもしれない.そんなことを考えながら、英太郎は、志郎の話を聞いていた。

「でも、あの先生に限ってそんなことは在りませんよ.奥さんを何よりも大事にしているのですから.奥さんの復活のためならなんでもする人です。」

「それは、誰よりも、私が良く知ってます.」英太郎は、そう答えてあの不可思議な経験を思い出した。

「そうですか、あの先生は、人付き合いは下手ですが、決して悪い人手はありませんし。」

「そう、純真で、まるで、子供のまま、大人になったような。」

「そう、そして、眼が離せない。なんとなく、憎めないのですよね。」

 2人は、あの、苦虫を噛み潰したような渋い顔をしたちょび髭、七三分けの人浦狂児の顔を思い出して、笑い出してしまった。する事は、異常だか、その理由は、純粋な思いからだった。英太郎を春奈にしたことも、春奈のクローンを作ろうとしたことも、すべて、妻、春奈を蘇らせるためだけだった。妻が蘇るならどんなことでもする。それが、人浦狂児だった。文字どおり、自分の命どころか、存在さえも放棄したのだ。

 もし、自分たちが彼の立場だったら、どうだろう。2人は、そのことを考えることがあったが、答えは出なかった。いや、出せなかった。あまりにも、いろんなことを考えすぎて、彼ほど単純に答えが出せないのだ。そんな彼を知らない人は異常というだろう。

 自分を失ってまでも、助けようとした娘に憎まれ、去られた彼を助けたい。二人はそう思うのだが、どうすればいいか。わからなかった。2人の確執は、他人にはどうしようもないものだ。どちらかの希望どおりにしても、どちらも不幸になるだろう。2人は、自分たちの無力さにジレンマを感じた。このまま、秋奈に会っても仕方なかった。英太郎は、志郎にまた会う約束をすると、中島家を出た。通りで、春奈に似た子を連れた若い女性とすれ違った。英太郎は、近寄って何か言いたかったが、気づかぬふりをして通り過ぎた。5歳のとき、見送った女の子は、無表情な人形のような美少女になって彼の前を通り過ぎていった。冷たい北風が、通りを走り向けていった。

 

 あの日から、英太郎は、人浦親子のことを考えた。満ちるも、悩んでいるようだったが、決して、口に出そうとはしなかった。お互いに何も出来ないことを知っているからだ。

 英太郎には、志郎に会った日から、何か気になることがあった。それが何なのか、どうしてもわからなかった。

 数日後、英太郎は、勤める新聞社の近くの喫茶店で志郎と会った。そこで、また人浦狂児の話になってしまった。

「そうなのですか。脳移植の話は本当だったのか。」

「ええっ、春奈さんを無くして半狂乱になっていたのでしょうね。自殺した私の脳を、春奈さんに移植したのです。」

「貴重な体験をしたのですね。春奈さんは確か・・・」

「そう、脳腫瘍です。天才人浦狂児にしても、これだけはどうしようもなかった。」

「そうですか、でも、確か奥さんが亡くなったのは、16年前ですよね。人浦博士は、何処から、奥さんの記憶を手に入れたのだろう。」

「それは、亡くなった奥さんの脳からでしょう。」

「そうでしょうか。人の記憶なんて、そんなに、丈夫じゃありませんよ。どんなに、厳重に保管しても1年持てば大成功です。それを、3年以上,持たせるなんて考えられません。どこかで,新鮮な記憶を手に入れたとか。」

 そのとき,英太郎は、この間からの気になっていたことのヒントを手に入れた。そして、それを、志郎にはなした。それは、奇想天外すぎることだった。だが、人浦狂児ならありうることだ。英太郎の話を聞いて、志郎は頷いた。

「宮田さん、それなら、説明がつきます。おそらく、宮田さんが仰った通りでしょう。それさえあれば、秋奈ちゃんを納得させられるかも。」

「じゃあ、早速計画を練りましょう。私の妻や、あなたの奥さんも加わってもらって。」

「それじゃあ、今晩。私の家で。」

「いや、それよりも私の家のほうがいいでしょう。秋奈ちゃんに知られることもないし。」

「それじゃあ、今晩。」

「私の家で。」

 英太郎は、再会を約束すると志郎と別れた。この試みが成功することを祈りながら・・・

数日後の夜、みちると花恋は、嫌がる秋奈をつれて人浦邸に来ていた。居間のテーブルを挟んで、春奈は、みちる達と座っていた。春奈は、秋奈の無事な姿を見れることを喜んだが、秋奈は、春奈の顔を見ようとはしなかった。そんな2人に何とか会話をさせようと、花恋は、話し掛けたが、春奈が話そうとすると、秋奈はそっぽを向き、決して、春奈を見ようとはしなかった。

「秋奈ちゃん、お母さんにそんな態度をとるなんて、どうしたの。グジグジと、いらいらするな〜ぁ。」

 短気な花恋は、いらだっていた。みちるは、そんなことはお構いなしに、三人の様子を見ながら、紅茶を静かに飲んでいた。

「みちるさんも何とか言ってくださいよ。」

「なんとか。」

「なんですか、やる気あるんですか。」

「宿六たちが帰ってこないと、何をやっても無駄よ。」

「でも・・・・」 

 そんな2人の会話をよそに、春奈と秋奈は険悪なムードになっていった。

「秋奈ちゃん、帰ってきてくれないの。」 

 秋奈は黙ったままだった。

「帰ってきて頂戴。ママは、なんでもするから。」

「ママなんて言わないでよ。わたしのママでもないくせに。あなたは男でしょ。この変態。わたしのママを帰してよ。そして、2度とわたしの、前に現れないで。」

「秋奈ちゃん、それは言いすぎよ。春奈さんに謝りなさい。」

「いえいいのです。花恋さん。本当のことですから。秋奈ちゃんいつから知っていたの。わたしが、ママじゃないって。」

「あの事故の後よ。でも、信じられなかった.おとうちゃまが、おかあちゃまの、身体を乗っ取ったなんて.自分の身体がだめだから、おかあちゃまの身体を取ったなんて。」

「それは違うわ。」花恋が、弁護しようとしたのを春奈は止めて、言った。

「誰に聞いたの。」

「亡くなったおばあちゃまよ。以前、おかあちゃまが生き返り、わたしを生んで、また消息不明になった時調べたの.おとうちゃまが、英太郎という人の脳を、おかあちゃまの身体に入れたことを、その人、おとうちゃまの恋人だったそうね。その人、わたしを生んだショックで亡くなったそうね。残念でした、せっかく男の恋人といっしょに暮せたのにね。」

「秋奈ちゃん、それは、間違っているわ。その男は、わたしの夫よ。今も生きているわ。」

「えっ、そうなの.じゃあまともになったんだ。よかったね。」

 みちるはそっと、秋奈の脚を抓るつもりが、間違って、花恋の足を抓ってしまった。花恋は、訳もわからずいきなり抓られ飛び上がってしまった。

「ちょっと、みちるさん。」

 花恋が、みちるに詰め寄ったが、みちるは、無視したままだった。

秋奈は、2人を見もしなかった、いまの秋奈にとってそんなことは、どうでも良かった。母の身体を乗っ取った男が、母の姿をして目の前にいることが問題だった。

「そうね。この身体、お返しするわ。」

「そう、それでいいのよ。」

「春奈さん、早まってはだめですよ。」

「いいの、この子が望むなら、そうするわ。」

 春奈の顔は、いつになく穏やかだった。すべての重荷から開放されたかのようだった。

「おかあちゃまの身体から、あなたの脳を取り出したら、2度とこんなことが出来ないようにしてあげるわ。」

「ええ、それであなたの気が澄むのなら。思うようにしてちょうだい。」

 澄んだ春奈の顔に、秋奈は戸惑った。本当に、自分のために母の身体を奪った男なのだろうか。秋奈は、自分の信念が揺らぐ気がした。

 とそこへ、別行動をとっていた、英太郎が戻ってきた。

「会ったぞ。やっと見つけた。」

「なにを・・・」

「人浦先生、あなたが、大事に保管していたものですよ。あなたが、命より大事なものです。」

「まさかあれを・・・。だめ、絶対にだめ。この子には、見せられないわ。お願い。そっとしておいて。」

 いままでおとなしかった春奈が半狂乱のようになって、英太郎に掴みかかった。

「いったい何のこと。あなたは、英太郎おじさん。どうしてここに。」

「そんなことはどうでもいいから、秋奈ちゃんおいで。」

 英太郎は、秋奈の手を掴むと、引っ張っていった。春奈は、それを押しとどめようとするが、みちると花恋に止められてしまった。

 英太郎は、隠してあった地下室へのドアを開けると、秋奈をその中に引っ張っていった。地下室には、最新式の機械が所狭しと設置され、部屋の中央には、ガラスケースに収められたうすい桜色の塊が、液体の中に浮いていた。その横には、志郎が立っていた。英太郎は、ガラスケースを指差すと、秋奈に言った。

「あれが何かわかるかい。」

「脳だわ。それも生きてる。あれは・・・」

「そう、これは、君のお母さんの、春奈さんの脳だよ。それも生きている。」

「そんな、おかあちゃまは、死んだのよ。脳腫瘍で。この悪趣味な出来事は、またあの男のやったことなの。」

「悪趣味かどうかは置いとくとして、この脳は、睡眠状態にある。病気の進行を抑えるためにね。そして、いまだに治療が繰り返されている。だけど決定打にはなっていないけどね。」

 志郎は、秋奈にそう言った。春奈の腫瘍に冒された脳は、地下室に保管されていたのだ。この発見は、愛するものの身体の一部を、大事なものを狂児が捨てるわけがないという英太郎の推測によるものだった。

「そう、それが、あなたの母、春奈の脳よ。わたしの知識と技術のすべてを使って治療していますが、一向に直らない。もし、この脳を身体に戻しても。3ヶ月とは持たないでしょう。そして、この身体も後一回の脳移植しか出来ないでしょう。脳移植による免疫を抑える薬の使用限度が後一回分ぐらいなの。もしそれ以上与えると、この身体は死んでしまうわ。」

 悲嘆に暮れた春奈の言葉に、その場の全員が、言葉を失った。やはり、狂児は、春奈のすべてを捨てられずにいた。だが、それは、夢を捨てられず、敵う筈もない相手に戦いを挑んでいる幼い兵士の姿だった。彼は、妻の姿になっても彼女が、再び、本来の姿に立ち帰る日を信じて、むなしい戦いをしていたのだろう。それは、彼の永遠の死を意味するとしても、彼には何の関係もなかったのだろう。志郎のそばにあるガラスケースを見つめる春奈の姿に、老い疲れ果て、だが、倒れることも休むことも許されぬ人浦狂児の姿が見えた。

「さあ、中島先生、この体から私の、いや、わしの汚れた脳を取り出してくれ。」

「人浦先生、私に殺人を犯せと仰るのですか。」

「殺人ではない。わしは、もう死んでいるのだから。」

「だが、あなたはこうして生きている。そんなあなたの脳をその身体から取り出すのは殺人です。」

「そうよ。彼に殺人なんかさせないで、彼は医者なのよ。」

 花恋は、春奈にそう言い放った。

春奈は、あたりを見回し、鋭い錐状のものを手にとると頭に突き刺そうとした。咄嗟の事で誰も、止められそうになかった。と、そのとき怒鳴りつける声がした。

「また、おかあちゃまを傷つける気、いいかげんにしてよ。その身体は、おかあちゃまのものよ。」

 それは、秋奈の声だった。その声には、泣き声になっていた。

「あなたは、まだ、その身体から出してあげないわ。私と一緒に、おかあちゃまを治す手伝いをしてもらうの。そして、おかあちゃまが、完治した時、あなたは、死ぬのよ。どう怖いでしょう。自分が死ぬために、おかあちゃまを治すなんて。」

「ありがとう。春奈を治すチャンスをくれて。春奈が生き返るならわしの命なんてどうでもいい。さあ、秋奈、早速始めよう。」

 そういう春奈の顔は妻復活に燃える人浦狂児の顔になっていた。(あの、本当になったわけじゃありませんので、春奈の身体に狂児の顔が乗ったところなんて想像しないでくださいね。きもいから)

 それから、寝食を忘れ、2人は、腫瘍撲滅を計った。ふたりの天才が、係っても経過は遅々として進まなかった。周りの期待むなしく、2年の月日が過ぎた。

「これが失敗すれば、また一からやり直しよ。」

二人の希望を込めて、薬剤が、春奈の脳が保管されたガラスケースに注入された。

「効果は、3時間で現れてくるはずよ。」

 肉体があれば効果はもう少し遅いのだが、直接、適用できる今の状態では、効果は予想以上に早く現れた。そして、それは、2人の成果も疲れを取る間もなく解るという事だった。

 そして、3時間後、結果は現れた。春奈の脳を蝕んでいた腫瘍は、徐々に小さくなりつつあった。それは、春奈の復活を意味し、狂児の消滅を早めるものだった。だが、この効果を見つめる春奈の眼には涙が溢れ、頬を伝わって、とめどなく流れていた。

「は、は、春奈〜ぁ」

 長年の悲願であり、夢がいま花開いた。春奈は静かに、秋奈の方に向くと、頭を下げた。

「ありがとう。春奈をよろしく。」

 それだけを言うと、春奈は、いや、狂児は、静かに部屋を出て行った。その後姿は、喜びに溢れ、これから死に向かうものの悲壮は微塵になかった。その後姿を見つめる秋奈は、気づかぬうちに、涙ぐんでる自分に気づいた。

「おとうちゃま。」

その声に振り向いた。春奈の顔は、晴れやかで、まるで女神のような、やさしさと暖かさがあった。そして、何をも言わせぬ強い意志があった。秋奈は、ただ、出て行く春奈を無言で見送るだけだった。

春奈は、書斎で中島医師に、研究の完成と、春奈の脳移植の以来をすると、イスに、その疲れた身体を任せた。彼の、頭の中では、これまでのことが、走馬灯のように現れ消えた。研究への挫折、春奈との出会い、短い新婚生活、そして、春奈の突然の死。英太郎を使っての春奈復活計画。あの後のドタバタ。彼らにはかなりひどいことをしたのに、慰め助けられ、諦めていた娘秋奈の出産。それからの、悪戦苦闘の育児に、あのピクニックと事故。そして、秋奈との別れ。クローンによる春奈復活計画と失敗と、花恋によるドタバタ劇。これらのことが懐かしく思えた。自分を憎んでいる娘とは言いながら、この2年間は、狂児にとっては、いままで以上に楽しい日々だった。そして、その日々を、今度は、春奈が引き継ぐ。これが、春奈の身体をもてあそび、秋奈を苦しめた自分の罰だと思った。これからの秋奈を見ることは出来ないのが心残りだったが、狂児の心は穏やかだった。

3日後、腫瘍は完全に消え去り、異常も副作用も見られないので、手術が行われることとなった。執刀医は、中島志郎、助手は秋奈、手術看護婦は花恋がつとめた。当日、棺おけのような箱が、手術室に運び込まれたが、春奈は、知らなかった。なぜならば、最後の手紙を妻春奈に書いていたからだ。

『愛する妻 春奈。

  君が目を覚ましたときには、私はいないだろう。そして、君が、眠りに着いた時とはかなり様子が変わっていることに驚くだろう。なぜなら、君が眠ってから17年の歳月が過ぎているからだ。

 君のそばにいるだろう君そっくりの少女は、秋奈。君とわしの娘だ。君に似て美人でいい子だ。君が眠っている間の詳しい事情は、宮田英太郎君に聞いてくれ。

それでは、君が、目覚めるときに、そばについていてやれないわしを許してくれ。それでは、元気で、身体を大切にして長生きしてくれ。秋奈と仲よくな。

                                

人浦狂児    』

 

 手紙をしたためると春奈宛ての封筒に入れ、書斎のデスクの上に置くと、静かに、書斎を出て行った。そして、手術室へと歩いて行った。

 手術室に入ると、二つある手術台の片方に、シーツを被せた物体があった。それは、手術台いっぱいに乗っていた。いったい何なのか。そう思ったが、春奈は聞くこともなく、手術台の上に横になった。麻酔をかけられ、眠り行く春奈に、秋奈がささやいた。

「あなたは、死なせはしないわ。これから、罪を償っていくのよ。」

 春奈は、夢見ることのない深い闇の中へと落ちていった。2度と目覚めることのないはずの眠りの中に・・・・

 耳元がざわついていた。地獄とはこれほど騒がしいとこだったのだろうか。地獄そう、春奈や秋奈、英太郎達に行った行為を考えれば仕方がないことだった。耳元で聞こえる声に目を開けると、そこには、見慣れた顔が並んでいた。

「どうしたの。手術はまだ。」

 その声は、聞きなれた懐かしいものだった。

「先生、手術は終わりましたよ。起きてください。これから大事な手術があるのですから。」

 訳がわからず起き出すと、いつもより視線が高いことに気づいた。そして、慣れてきていた胸の重さも感じなかった。胸に手を当てると、ある筈の膨らみはなく、またの間には違和感があった。

「な、ない。」

股のほうに手をやると何かあった。

「あ、ある。これはいったい。何で、どうして、春奈の身体にこんなものが・・・」

「それは、あなたが、おかあちゃまの身体にいないからよ。おかえりなさい。おとうちゃま。」

 そういいながら、秋奈が、抱きついてきた。

『おとうちゃま?』

 まだ、事情が理解できない狂児に、志郎は言った。

「先生、私は、言ったはずです。私を人殺しにする気ですかと。先生の身体は私が、保管しておきました。先生の生命維持装置はすごいですね。失った大量の血液も、この十年の間で、完全に補充されていますし、各個所の病巣も治っていますよ。いまの先生は健康

そのものですよ。医者が保証します。」

「藪の保証か。まったく無駄なものを保存しおって。」

 むすっとした狂児の目に涙が浮かんでいた。が、すぐにいつもの調子に戻ると、志郎に言った。

「手術の準備だ。春奈の身体に脳を戻す。いいな。」

「でも、先生。お体のほうは。」

「そんなことはどうでもいい。すぐに準備しろ。」

 志郎と秋奈、花恋は、次の手術の準備に取り掛かった。それを見ながら、狂児は、思った。春奈に会える。しかし、17年のギャップは大きい。彼女にそれが絶えられるだろうか。下手すれば、また、彼女を失うことになるかもしれない。そんな事になれば、自分は、生きて居れないだろう。だが、春奈を救う最後のチャンスではある。狂児は賭けにかけることにした。もし、春奈が絶えられなくて、自身を見失っても死ぬまで付き添ってやる覚悟を決めて、狂児は、手術に取り掛かった。人浦狂児最後の脳移植手術にして、最高の手術に・・・・

 それは、素人目にも美しいものだった。手術というと血生臭い印象しかないが、それらを忘れさせるほどのものだった。志郎やほかの2人も、狂児のメスさばきに見とれて、狂児に怒鳴られるほどだった。そして、手術は終わった。だが、春奈は目覚めることはなかった。あまり長い間、眠りについていた春奈が目覚めるには、時間が必要だったのだ。

 その日から、狂児は、春奈のそばに付きっきりになった。秋奈が変わろうとしても譲らず、付き添った。

 そして、2ヶ月が過ぎた。秋奈が、狂児に朝食を運んだとき。秋奈は、朝食ののったトレイを落としてしまった。そして、その場に座り込み、泣き出してしまった。その声に起された狂児は、春奈のベッドに倒れこむようにして眠ってしまっていた自分に気がついた。起き上がり、目を上げると、そこには、光の中に佇む女神を見た。女神は、やさしく狂児に微笑みかけていた。

「おはよう、あなた。」

 それは、紛れもなく妻、春奈だった。春奈は、窓際に立ち、窓から差し込む朝日を背にしていた。

「あらあら、秋奈ちゃん。大丈夫。」

 そういいながら、泣きじゃくる秋奈のそばにより、やさしく娘を抱きしめた。

「春奈、おまえは、何で、娘が。」

「あら、あなた。以前言ったはずですわ。わたしは、あなたの心の中に生きていると。わたしはいつもあなたと一緒にいましたのよ。英太郎さんがわたしの中にいたときも、そして、あなたが、わたしになったときも。いつも、あなたといっしょに。」

「あれは、幻じゃ。それでは、おまえは・・・はるなぁ〜。」

 狂児は、春奈と秋奈を抱きしめた。力いっぱいに。

「あなた、痛いですわ。ねえ、秋奈ちゃん。」

 その日、人浦狂児は号泣した。その声は、近所中に鳴り響き、謝りにいくことが、春奈の復活最初の仕事になった事を付け加えておこう。

 

 

 数ヵ月後、美人姉妹が、街を歩いていた。それだけでも人の目を引くのに、それ以上にすれ違う人の目を奪うものがあった。それは、2人の美人に挟まれた中年男の姿だった。父親なのだろう。(まったく似てないが)長身で、痩せて、七三分けのちょび髭、三白眼の目つきの怖い男は、美女2人に見とれる男たちを睨み付けながらも、満更でもない風な顔をしていた。

暖かく、やさしい風が、三人をつつんで通り過ぎていった。

 

 

あとがき

 これで、「新・僕の初体験」全巻の終わりです。ご清聴ありがとうございました。