DA秘話

月 光 石

原案・水谷秋夫

作・よしおか

 

 白衣の若い女が、冷たいタイル張りの床の上で、目を覚ました。そして、何とか身体を起こすと、目の前に、窓から差し込む月明かりを反射して光輝く小さな物が目に入った。女は、ふと呟いた。

 「月光石(ムーンライトストーン)」

 

 「はるひこ、はるひこ。もう、鏡晴彦君」

 「おっと、あ、霞か。どうしたのだい。そんなところに突っ立って。誰かがぶつかったら、危ないじゃないか」

 「どっちがよ。歩きながら本を読んでいる人には、言われたくないわ」

 霞は、その端正な美しい顔の目頭に、縦皺を作って、正志を睨んだ。

 「え、あ、あ~ぁ、大丈夫だよ。小学生のころからやっているから、読んでない時よりは、はるかに安全だよ」

 「もう、これなんだから。だからってねぇ。私は、この歳で、未亡人にも、体に障害を持つ人の妻にもなりたくありませんからね」

 「わかった、わかった。あとすこしで、読み終わるから黙っていてくれよ」

 「もう」

 霞は、腕を組み、頬を膨らませて、晴彦を、怖ろしい表情で睨んだ。そんな、霞に気づいて、晴彦は、読みかけていた本を閉じた。

 「仰せの通りにいたします。お嬢様」

 「よろしい。それでは、昼食に参りましょう。爺や」

 「おいおい、ボクは、爺やかい」

 「ええ、私よりも年上ですもの」

 「たった六ヶ月だろう」

 「六ヶ月でもよ。フフフ・・・」

 すこし変色したシミのある白衣が、まるで羽衣のように見える霞は、晴彦には、過ぎたる恋人だった。頭は、歴代の学生の中でも、五本の指に入るほどの優秀さで、化粧気のまったくない彼女の容姿は、世界でも有数の美女と競っても見劣りはせず、性格も、誰にでも優しく、すこし相手に感情移入するところがあり、涙もろく、おてんばで、そして誰とでもすぐに親しくなる性格だった。そんな彼女が、小柄で、ずんぐりむっくりの牛乳瓶の底のような分厚いめがねをかけた、さえない男の恋人というところが、大学の、いや世紀の最大の謎と呼ばれていた。

それは、晴彦自身も不思議だった。そのことを、霞に聞いたとこがあったが、はぐらかされて、まともな返事はもらった事がなかった。

 「それは、内緒。いつか教えてあげるわ」

 彼女は、いつも微笑みながらそう答えるだけだった。だから晴彦も、霞が自分なんかとつき合う訳がわからなかった。だが、その笑顔も含めて、晴彦は、霞が好きだった。どんなものにも変えられないほどいとおしく思っていた。たとえ自分の命と引き換えにしても、彼女を救えるのなら、ためらいなく自分の命を差し出しだすだろう。彼女が救えるのなら・・・

 

 五月に入ると、二人は、お互いの研究で、なかなか合う時間が取れなかった。晴彦が、時間が取れても、霞の都合が悪く。霞がよくても、今度は、晴彦のほうが、時間が取れないといったように、すれ違いが多くなり、一ヶ月近く、二人は会うことが出来なかった。 

 だが、なんとか六月に入ると時間の余裕も出来、第一週目の日曜日に、久しぶりに二人は時間が取れた。晴彦は、ぼさぼさの頭に、無精ひげを生やし、洗いさらしのGパンに、よれよれのTシャツ姿で、待ち合わせ場所の駅前の噴水の前に行くと、そこには、美の女神のアフロディーテが、地上に舞い降りたのかと思うほどの美女がいた。彼女の前を通り過ぎる男はもちろん、女さえも、その彼女の姿に見とれてしまうほどだった。女性たちは、彼女に目を奪われた男どもを、睨みつけるのだが、彼女をチラッと出も見ると、それ以上のことは何も出来なかった。勝負はすでについているからだ。だが晴彦は、そんな彼女には目もくれず、霞を探しまわった。だが、霞は、まだ来ていない様だった。晴彦は、駅の出口が見えるほうに立つと、ぼんやりと駅から出てくる人を眺めた。心なしか、霞との久しぶりのデートの事を考えると身体が浮かれ出していた。

 ふと気づくと、晴彦の前を通る駅から出てきた男性たちが、不思議そうな、そして、嫉妬に燃えたような怖ろしい目つきで睨んで彼の前を通り過ぎていった。だが晴彦には、それがなぜなのかわからなかった。すると、ヤンキー風の若者と、見るからに好男子といった感じのスーツをびしっと着こなした青年が、晴彦の前に立った。

 「おい、おっさん。いい加減彼女の腕を放したらんかい。彼女が困っているやろ」

 「そうです。お嬢さん。さあ、こちらに」

 晴彦は、二人の言っている意味が理解できなかった。青年の視線に沿って見ると、いつの間にか、あの美女が、晴彦の腕を取って、彼の横に立っていた。ひとつのことに夢中になると、まったく周りが見えなくなる晴彦は、霞を見落とさないように、改札口から出てくる人を見ている事に夢中で彼女が、横に来ていたのに気づいてはいなかった。

 「あわわわ。あなたは何を。私は待っている人がいるのです。変なことはしないでください」

 晴彦は、あわてて彼女の腕を振り払うと、横に飛びのいた。

 「なにゆうてんねん。おっさんが、彼女にうでをまわしとったのやないか。ふざけんな!」

 ヤンキーのパンチが、晴彦の顔目掛けて伸びてきた。晴彦は、思わず目を閉じた。彼は殴られた時の衝撃に耐えようとした。だが、パンチの音はしたのだが、その衝撃は、感じられなかった。

 「な、なにすんねん。あんたのためにやってんのやで」

 「そうですよ。やり方は、問題ありますが、彼はあなたの気持ちの代弁をしているだけですよ」

 「人の大事な旦那様に手を出して、なに言っているのよ。彼は、私の大事なハズバンド。旦那様よ。勝手なことはしないで」

 彼女の啖呵に、彼らどころか、噴水の周りに集まっていた人々は、唖然となった。

 「そんなこと信じられません。こんな男が、あなたの旦那なんて」

 「それじゃあ、これなら信じてもらえるかしら」

 そういうと、彼女は、晴彦の唇に、自分の唇を重ねた。まだ、目を閉じたままだった晴彦は、なにが目の前で起こっているのかわからなかった。突然、自分の唇にやわらかいものが接して、心地よい香りが鼻をくすぐり、暖かくやわらかい濡れた物が、彼の唇をこじ開けて、彼の舌に触れてきた。晴彦は、驚いて目を開けて、さらに衝撃的なものを見た。目の前に、あの美女の顔があったのだ。晴彦は、彼を抱きしめる美女の身体を押し返した。その時彼女のふくよかな胸を触ってしまった。

 「いや〜〜ん」

 「あわわ・・・す、すみません」

 晴彦の顔をこれ以上無理だと言うぐらいに真っ赤になった。だが、顔を赤らめながらも、彼は言った。

 「き、君は、なんて事をするのだ。離れろ。離れろ、僕には、愛する人が・・・かすみ〜!」

 「やっと言ってくれたわね。晴彦」

 美女は、心からうれしそうな笑みを浮かべて、晴彦を見つめた。良く見るとそれは、きれいにメイクをした霞だった。

 「え?霞。でも、なんで。いつもは化粧なんてしないのに」

 「それは、愛する人には、きれいな自分を見てほしいわ」

 「でも、でも・・・」

 「それに仕事柄お化粧なんて出来ないでしょう。でも、今日はオフ。それに久しぶりのデートだもの。めいっぱいおめかししたのよ。この女心がわからないの、もう。」

 晴彦は、どぎまぎしてしまった。あの美女が、霞だなんて。晴彦は、ほっとしたような、驚いたような。複雑な気分だった。キャンパスでのデートのときは、いつも薄汚れた白衣姿のデートだったからだ。

 「いつも、大学のキャンパスでのデートだったでしょ。外でのデートはうれしいし、あなたはいつも好きとは言ってくれないのだもの。ちょっと、悪戯したのよ。でも、うれしい、私の名前を読んでくれて。でも、何で、すぐに私とわからないのよ。プン」

 そこには、悪戯ないつもの霞がいた。

 「ごめん。あまりにもキレイだったから、君とは気づかなかったのだ」

 「さっき、私の名前を呼んだのは?」

 「それは、君に悪いと思って、見知らぬ人に口付けされて。君とは、まだ・・・」

 「それじゃあ、改めてしようよ」

 「ここでかい?」

 「うん」

 霞は、晴彦を抱きしめて、激しく口付けをした。ナイトを気取って出てきた二人は、彼らに完全に無視され、立つ瀬がなくなってしまい。いそいそとその場を立ち去った。そして、彼らを取り囲んでいた人たちも、その場にいたたまれずに、自分の向かうべき方向へとちらばって行った。

 二人は、ひとつになって、その場に立っていた。周りの風景に溶け込んだ二人は、まるで、その場に立てられた美女と野獣のオブジェのようだった。

 

 それから、またしばらく、二人は、すれ違いの日々を過ごした。そして、六月の最終日曜日、何とかスケジュールの工面がついて、二人は、また、デートの約束をした。今度は、街の高層ビルの最上階にあるレストランでのディナーだった。この日は、晴彦もいつになくおめかしをしていた。珍しく風呂に入り、生やしっ放しの無精ひげを剃り、朝から床屋に行き、一張羅のスーツを着て、予約していた席について、霞の来るのを待っていた。だが、この前のデートの時には、早々と来ていた霞だったが、この日は、十五分たっても現れなかった。そして、三十分、一時間と時間は過ぎていった。オーダーもせず、予約席に座ったままの客に、レストラン側もしびれを切らして、一時間三十分後には、席を立たされた。その間、いくら彼女の携帯に連絡をしても、何の返事もなかった。

 晴彦は、力なくそのレストランを後にした。彼の背中にで、哀れむような、せせら笑うような気配を感じたが、彼は、振り返ろうともせずに、家路に着いた。

 もうすぐ晴彦の住んでいる安アパートというところで、街頭の下に立ちすくんでいる人影があった。

 「かすみ?霞」

 晴彦は、その人影に駆け寄った。それは、いつもの白衣姿の霞だった。

 「どうしたのだ。ん?顔色が悪いぞ。さ、中に・・・といいたいが、汚いしなぁ。それじゃあ、そこの公園で・・・か、かすみ」

 晴彦が、公園に誘おうとしたとき、霞は、その場に崩れるように倒れた。晴彦は、あわてて抱きかかえると、自分の部屋へと運んだ。その時、霞は、まるで、綿菓子で出来た人形を抱えたかのように、軽かった。部屋に運び込むと、本で散らかった万年床の上を片付けて、そっと、霞を寝かせた。その時、霞が、うっすらと目を開けた。

 「気がついたか?起き上がらずに、そのまま寝ていろ。なにか、飲み物を買ってきてやるから」

 「はるひこ」

 「なんだ」

 「やっと部屋に入れてくれたね。ありがとう。ごめんなさい」

 「なに言っているのだ。徹夜でもしたのだろう。すぐ帰ってくるから、静かに寝ていろ」

 「晴彦、私の手を握って・・・晴彦の手って、大きくてあったかい」

 霞は、晴彦に微笑んだ。それはまるで、陽炎のようなはかなさを帯びた笑顔だった。

 「なに言っているのだ。霞の手が冷たいだけだ。どれくらいあそこに立っていたのだ」

 「晴彦の手、あったかい」

 晴彦の問いには答えずに、ただ、その言葉を繰り返すだけだった。やがて、霞は、静かに目を閉じた。そして、寝言で、晴彦に謝りながら、寝てしまった。

 それを見届けると、晴彦は、その場を離れ、近くのコンビニに、飲み物を買いに行った。何気なく、携帯を取り出してみると、バッテリーが切れていた。晴彦は、コンビニで、電池を入れ替えると、霞の待つ、アパートへと急いだ。そして、後すこしというところで、携帯がなった。発信者は、霞の親友で、霞と同じ医療薬学部に勤める研究者で、晴彦もよく知っている女の子だった。

 「はるひこ?どこに行っていたのよ。大変なことになっているのよ」

 「今帰ってきたところだよ。どうしたのだ?」

 「霞が、霞が・・・」

 後は、泣き声に変わって、よく聞き取れなかった。

 「もしもし、梓?霞がどうしたのだ。霞なら、うちにいるぞ」

 晴彦がそう答えると、聞き覚えのない男の声が、携帯からしてきた。

 「もしもし、鏡晴彦さんですね。わたしは、T署の者ですが、須藤霞さんは、残念ながら、先ほど亡くなられました」

 「なにを言っているのですか?霞ならうちにいますよ。あ、数馬だな。声色使って騙そうなんて。騙されないぞ」

 「それならばいいのですが、須藤霞さんは、交通事故にあわれて、先ほどT警察病院で亡くなられました。ご家族には連絡したのですが、一番親しかったのが、あなただとお伺いしたので、こうして連絡させていただいているのです」

 その声は、彼が知っている数馬とは、まったく違っていた。そして、誰かの悪戯とも思えなかった。晴彦は、携帯をしっかりと掴むと、部屋へ駆け戻った。玄関を開け、霞を寝かしつけた万年床のある部屋を覗くと、そこには、いつもの見慣れた床があるだけだった。誰かが寝ていた様子もなかった。晴彦は、力なくそこに座り込んだ。

 「かすみ、かすみ〜〜〜」

 その夜、晴彦の号泣は、鳴り止むことはなかった。

 

 霞の送別式の会場の入り口で、晴彦は、うろうろとするだけで、中に入いれずにいた。この中に入るということは、霞の死を認めること。今の彼には、まだそのことを認める気にはなれなかった。だがそんな彼の腕を強引に引っ張る者がいた。それは、霞の事を連絡してくれた梓だった。

 「なにやっているのよ。霞とお別れの挨拶をしなさいよ」

 「いやだ、いやだ〜」

 駄々をこねる晴彦を、梓は無理やり祭壇の前に連れてきた。棺の中に横たわる霞は、まるで眠っているかのようだった。

 「かすみ、霞~~、起きてくれよ。かすみ〜〜〜」

 晴彦は、思わず棺に近寄ると、そこに横たえられた霞の遺体を抱きかかえると揺さぶった。寝ているものを無理やり起こすかのように。涙と鼻水をたらしたままにして、泣き叫ぶ晴彦を、誰もが異常者と思い、ちょうど焼香に式場に来ていた霞の事故担当の警官に取り押さえられてしまった。それでも、泣き叫ぶ晴彦に、喪服の品のよい初老の婦人が近寄ってきた。

 「あなたが晴彦さんね。私は、霞の母です。お願いですから、娘を静かに行かせてください。愛するあなたが取り乱していては、娘は、安心して眠れませんから、ね」

 静かに諭すように言われると、さっきまで、泣き叫んでいた晴彦は、まるで憑き物でも落ちたように、おとなしくなり、静かに焼香を済ませた。そして、彼が立ち去ろうとすると、霞の母が、晴彦を招いて、親族席に座るように言った。彼は、そのまま、そこに座って弔問者を迎えた。彼が何者かと尋ねられると、霞の母は、婚約者だと答えた。まだ、プロポーズすらしていない彼をそう紹介した。それは、彼を親族と認めたことになり、引いては、最後まで、霞と一緒に居させてやろうという心遣いだった。

 晴彦は、荼毘に付され、納骨されるまで、霞と共にすることが出来た。晴彦は、霞がいなくなったことを実感した。霞の形見分けのときに、晴彦は、髪の毛と彼女がいつも首にかけていた月光石(月明りの淡い青白さの石を霞がそう呼んでいた)のはめ込まれたロケットを譲り受けた。そのロケットの中には晴彦の写真が入っていた。彼はその写真を生前の霞の写真に変え、彼女の髪の毛を一緒に入れて、自分のクビにかけた。どうするというわけでもないのだが、自分なりの供養をしたいと思ったからだ。霞は、晴彦の前から姿を消した。

 霞の実家は、かなりの資産家で、名門の旧家だったが、晴彦を、亡くなった娘の婚約者として大事にしてくれた。そして、何かあったときのバックアップさえも約束してくれた。だが、晴彦は、彼らとの関係もこれで終わったと思っていた。あのことさえなければ・・・

 

 霞の葬儀が終わって、四ヶ月が立ったある日、彼の部屋に一個の小包が届いた。それは、亡くなる前の霞が、彼宛に送ったものだった。包みを開けるとその中には、彼女の研究資料の入った数十枚のフロッピーと、一通の手紙が入っていた。それは、懐かしい霞の香りと、新たな困惑を、晴彦に運んできた。

 『親愛なる晴彦

   あなたが、この手紙を見ているということは、わたしはもう、この世には、いないのでしょうね。ゴメンネ。

  わたしは、ある陰謀を知ってしまったの。それを暴こうとして、彼らに見つかってしまった。でも、三ヶ月、私が無事ならば、

彼らは、もう、私に手出しが出来なくなる。そうなったら、晴彦、わたしをあなたの妻にして。

 でも、もし、この手紙を読むようなことがあったなら、同封の資料を焼き捨てて、わたしのことなど忘れて、おねがい。

そして、このことは誰にも話さないで、あなたの命が危ないから。

この手紙をあなたが読まないことを祈りつつ、わたしは、ペンを置きます。

 

 大好きな晴彦へ                                  かわいい霞より         』

 

晴彦は、涙が出てきた。自分の知らない所で、霞は、危険にさらされ、殺された。今まで、感じたことのない怒りと憎しみが、彼の

身体にみちてきた。晴彦は、霞の残した資料を調べた。ここに、霞の死の謎があるのだから。

 霞が残した研究資料は、驚愕するものだった。彼女は、医療全般にわたる万能薬の完成まで、あと少しのところまで来ていたのだ。だが、この研究は、医療薬学部の彼女にとっては、限界まで来ていた。これ以上は、薬品の力だけでは無理だった。だが、生物学教室で、遺伝子工学を研究している晴彦の知識を使えば、それを完成させることも可能に思えた。しかしそれには、莫大な研究費用と、設備が必要だった。晴彦は、霞の遺産を完成させることをあきらめ、うず高く積み上げられた書物の上に置きっぱなしにしていた。だが、ある日、それをCDにコピーして、それを大学の研究室に持ち込んで、暇を見つけては、書き込みを続けていた。元のフロッピーは磁気を当て処分した。

 彼女の考えでは、細胞の活性化を図って、完治するというアイデアだったが、それでは、体力の落ちている病人では、負担が大きいように思えた。そこで、晴彦は、ガン細胞に目をつけた。あの繁殖力を利用して、再生ではなくて、新生するのはどうだろうかと考えた。つまり、身体全体を作り変えるのだ。だが、そうすると、元の体を維持できない可能性もある。今までとは違う、まったく別な姿をした、新しく生まれ変わった自分は、自分なのだろうか。そこまでして、生きる必要があるのだろうか?晴彦は、そんな疑問を感じ出した。

 疑問を感じながらも晴彦は、霞の研究を続けた。晴彦は、答えの出ない疑問を感じながらも最後まで研究を続けた。命の危険を感じながらも、完成させようとした霞。自分の妻となることを夢見ていた霞。この研究を続けていると彼女といつまでもいっしょにいられるような気がしてならなかった。最愛の人を失う結果となった研究を続けることは、正しい事なのだろうか。

だが、彼女との接点がこの研究しかない今、晴彦には研究を続けるしか彼女といっしょにいると感じられるものがなかった。

 だれにも知られることがないように、晴彦は、細心の注意を払いながら研究を続けた。そして、研究は一応の完成を見た。それは、霞がこの世を去ってから一年後のことだった。だが、完成を見たこの研究を晴彦は発表することはなかった。一応の完成を見たと言っても、身体を新生する事に対しての倫理的な結論を見出せてないからだ。今までの自分とは違う、まったく新しい自分。外見は同じだったとしても、今までの自分の身体とは、まったく違うのだ。肉体の新生。このことが与える精神的な影響と、新生者の周りの反応がどうしてもわからなかった。シュミレーションするには、彼一人では無理があった。かなりの数のデータが必要でそれを集めるには、ある程度の数の協力者とバックアップが必要だ。それに、これが最大の問題なのだが、この研究が発表されたら日本ばかりではなく、世界中の医学界が震撼する事になるだろう。いや、医療はその存在意義をなくし、消滅する事になってしまうのだ。この研究の完成によって、晴彦は世界中の医療関係者を敵に回した事になった。これは、彼の生死、いや、存在さえも消滅させられる危険性があるものだった。だから、下手に協力者を増やすことは出来ない。もしこの研究が他の者の手に移ったら、この世界を自由にすることさえ簡単だろう。人の生死や老化を自由に操れる研究。いや、死者さえも甦らせることが出来るかもしれないこの研究は、これは天使の皮をかぶった悪魔の研究と言えるものだ。

 晴彦は、研究の完成を霞の墓に報告すると、それを闇に葬るつもりだった。あまりにも効果のありすぎる成果。それは今の人類には核兵器以上の脅威でしかなかった。いつしかこの研究成果を託すことのできる人類になることを信じて(?)、晴彦は封印する事にした。

 だが、研究の完成は、どんな研究としても、研究者にとっては嬉しいものだ。晴彦は、久しぶりに研究を完成させた満足感を味わっていた。万年研究室から外に出てきた晴彦には、外の空気は、何よりもおいしかった。例えそれが排ガスで汚れたものだとしても、研究室の味気ない空気よりはましだった。キャンパスの青い芝生の上で、晴彦はぼんやりと空を見つめていた。

 「かすみ」

 青く広がる空に、ふと霞の笑顔が浮かんで見えた。霞の幻に晴彦も微笑んだ。と、ふと霞が好きだったメアリー・ポピンズの挿入歌「Supercalifragilisticexpialidocious!!」が、ズボンのポケットから聞こえてきた。晴彦は、ポケットから携帯を取り出した。

 「はい。鏡ですが?」

 「おう、晴彦か。俺だよ」

 「あ、なんだ。数馬か」

 それは、大学付属病院に勤めるイタズラ好きの友人の声だった。

 「なんのようだ?」

 「今は、研究室か?」

 「いや、キャンパスの芝生の上だ」

 「それはよかった。研究室に閉じこもりきりだったからな。処で、今から会えないか」

 「それはいいけど?なにかあったのかい」

 「ああ、大事な話だ。それではいつものところで」

 「わかった」

 それだけ言うと数馬は通信を切った。晴彦は、携帯をポケットになおすと、芝生の上から立ち上がった。空に浮かんでいた霞の顔はいつの間にか消えていた。

 「やあ、待ったか?」

 「ああ、ビックマック三個目だ」

 「食欲は戻ったみたいだな。よかった」

 「アレから一年半だから戻るよ」

 「ああ、そんなになるのだな」

 中学からの友人の数馬が屈託のない人懐っこい笑顔を浮かべた。

 「ところでなんだよ。急に人を呼び出したりして」

 「実はだなぁ・・・あ、俺も腹が減ったから、特製ジャンボマック買って来よう。ちょっと待っていろよ」

 そういうとがっしりとした身体をすばやく動かしてカウンターへと急いでいった。しばらく経つと、大きなハンバーガーの包みを三つとポテトの大とLサイズのドリンクカップをのせて戻ってきた。

 「さあ喰うぞ」

 「勝手にすればいいだろうが」

 晴彦は数馬の食欲にあきれていた。ビッグマックの三倍はあろうジャンボマックを数馬は、十五分もかからずに(ポテトも含めて)すべて平らげてしまった。

 「で、用件は何だよ」

 「う、うん」

 数馬はぽつんと答えるといつもの明るさは姿を消して、妙に険しい顔になった。テーブルの上に置かれた彼の両手は、せわしなくハンバーガーを包んであった包み紙を織り出していた。知り合ったばかりの人だと、また数馬の冗談だと思っただろうが、長い付き合いの晴彦には、それが重大な用件だと気がついた。数馬は辛く重大な話をするときには、彼の手に落ち着きがなくなるからだ。

 「どうしたのだ。早く言えよ」

 「実はだな。須藤和江さんが、大学病院に入院されたのだ」

 「おかあさんが・・・」

 それは、霞の母の名前だった。あの形見分け以来、晴彦は会っていなかった。

 「入院だって、どうして。最後にお会いした時には元気そうだったのに・・・」

 「ガンだ。それも末期の。もう手の施しようがない」

 「そ、そんな。助からないのか」

 「三ヶ月前の検査ではなんともなかったのだが、ここ三ヵ月の間にガン細胞が広がったのだ。異常な広がり方で、抗癌剤を投与しても効き目は見られなかった。俺は医者の無力さをこれほど感じたことはないよ」

 数馬は唇を噛みしめ、涙をボロボロと流した。晴彦は、冷静に泣く数馬の顔を見つめていた。

 「おかあさんが・・・」

 あの品のよい霞にそっくりの上品な女性の顔が目の前にちらついた。

 晴彦は、数馬に案内させて、和江の病室を見舞った。日当たりのいい個室の病室のベッドには、見る影も泣くやせ細った霞の母が横たわっていた。そのそばには、ふくよかでやさしい容貌をしていた霞の父の幸一が、別人のように頬がこけ、看病疲れからか、目の周りにはクマが出来、無精ひげが伸びていた。数馬の話では、自分の持っていた会社をすべて人手に渡し、一日中、ベッドの横たわる妻のそばから離れようとはしないと言うことだった。愛する娘を失い、さらに、最愛の妻までも失おうとしている幸一の姿に、晴彦は、霞を失った時の自分の姿が重なって見えた。和江のガンは、二年前に一度発見されたが、それは、四ヵ月後の再検査の時には見つからなかったそうだった。それが、今になって突然、急速な転移速度を持って現れたのだ。

 それを聞いた時、晴彦は、ある事に思い立った。そして、数馬に頼んで、和江の血液検査をしてもらった。そして、その結果、晴彦は、あることを確信した。そして、彼女を救う唯一の方法があることも。だが、この方法は、晴彦ひとりの手ではどうしようもないものだった。確実に助かる方法。だが、それは闇に葬られるべき呪われた方法なのだ。晴彦は悩んだ。最愛の人さえも失おうとしている幸一の姿を見て、晴彦の決心は揺らいでいた。

 「この方法なら必ず助かるだろう。だけど、この研究が知られてしまう。それでは霞に対して申し訳がない」

 晴彦は悩んだ。その間にも和江の身体は、徐々にガンに蝕まれている。和江の死への旅立ちの時刻は刻一刻と迫っていた。晴彦が完成させた万能薬を使えば、和江は救えるのだが、完全な万能薬を作るには時間も設備もなかった。ただ彼女のガンに対するピンポイントの治療薬ならあるいは、時間内に完成させられるかもしれない。それには、彼女の病状を把握した医師の協力が必要だった。それは、この薬の存在がばれる危険があった。晴彦は、悩んだ末、ある人物に連絡を取った。

 

 「こんなものが理論的とはいえ完成しているなんて、信じられないよ」

 「でも、これ。霞の遺産なのね」

 須藤幸一氏が準備してくれた研究施設に招かれて、晴彦に万能薬のレクチャーを受けていた数馬と梓は、その驚異的な薬の効果に驚愕していた。

 「こんなものが出来たら俺たち医師は商売上ったりだな」

 「あら、わたしたち薬剤に携わる者もだわ」

 「でも、和江さんへの薬を作ったらこのデータはすべて消去するつもりだ」

 「でも、勿体無いわね。これさえあれば地球上から病気は根絶させられるわ」

 「老化もな。ただし、不死の兵力を持つことも可能だ。そして、人の生死さえも操ることが出来る」

 「そう、だからこんなデータがあってはいけないのだ」

 「そうね。さあ、仕事を始めましょう」

 梓のその言葉に、晴彦も数馬も和江の薬を作る事に没頭した。それから二週間。三人は不眠不休で薬品の開発に没頭した。そして何とかベースとなる薬品を作る事に成功した。だがまだこれをベースにして特効薬を作らねばならないのだ。だが、二週間の作業疲れから彼らは眠ってしまった。目覚めることのない眠りへと・・・

 「う、う〜〜ん。うっ!痛い。いったいどうしたというのだ」

 晴彦は、目覚めると腹部に激しい痛みが走った。痛むところに手を当ててみると、そこは血でぐっしょりと濡れていた。

 「こ、これはいったいなぜだ」

 「おや、まだ死ななかったのか。残念だった。そのまま死んでくれたらよかったのに。でも仕方がないね。ちょっと苦しんでもらうよ。そうすれば霞に会えるからいいよね」

 実験台を背にして寄りかかって座っている晴彦のそばに立って、今まで見せた事のないほど残忍な笑顔を浮かべた数馬が、晴彦の顔を覗き込んだ。

 「数馬。おまえはいったい?梓さんは・・どうした」

 「おやおや?こんなになっても他人の心配かい。お~い梓。呼んでいるよ」

 「もう、目的は果たしたのだから、さっさと行きましょうよ」

 数馬の後ろに研究資料を詰め込んだらしい紙袋を持った梓が、あきれたような顔をして数馬に言った。

 「あ、あずさ・・まさか、君までも」

 「あら、当たり前じゃないの。こんなもの出来たら、猛勉強してこの大学に入った意味がないじゃないの。これのおかげで、わたしたちは職を失うのよ。そんなのいやよ」

 「そ、それは・・でも、この世から病に苦しむ人がいなくなるのだぞ」

 「人は自分ではどうしようもないから、わたしたち医療関係者を神のように崇め、思うがままの財をなせるのよ。その地位を得るために誰もが必死になって勉強し、ライバルを蹴落としているの。この世から病がなくなったら、今までの努力はどうなるのよ。いやよ。すべて無になるのは」

 「そ、それじゃあ。な、何のために、俺に協力して・・」

 「あまりしゃべると死期を早めるぞ。でも、それを知らないと死ににくいか。それはサンプルをえるためさ。いくら万能薬といってもサンプルがないと信じてもらえないからな。それと、残りの薬はすべて処分したよ」

 そういいながら数馬は胸のポケットから、ベースとなる薬品の入った薬ビンを取り出し手見せた。

 「か、和江さんは・・・」

 「おば様?昨日なくなったわ。おじさまから連絡があったけど・・あなたに伝えるのを忘れていたわ。ごめんなさいね」

 梓は平然とした顔をして言った。晴彦は、見慣れた二人の顔が、この上なく醜いものに見えてきた。

 「かすみは、どっちが・・・」

 「霞は、わたしよ。交差点でちょっと押してあげたら事故って死んじゃった」

 「君は霞の親友だったのでは・・・」

 「あら親友よ。こんな薬さえ作らなければね。そろそろ出血で、意識が朦朧としてきたでしょう。では、さようなら。晴彦さん」

 「じゃあな、晴彦。おかげで俺たちは巨万の富が手に入るよ」

 「あら、わたしたちじゃなくて、わたしよ。さよなら数馬」

 そういうと研究室から出掛かっていた数馬の背中を、梓は後ろからぶつかる様にして刺した。

 「な、なにをする・・」

 振り向いて梓を睨んだ数馬に、彼女は微笑んだ。

 「うふ、謎を知っている者はすくないほうがいいのよ。希少価値があるからね。バイバイ!」

 梓の刺し傷は、数馬に致命傷を与え、彼は振り向きざまに梓に手を伸ばしたまま倒れてしまった。

 「あはは。じゃあ、さようなら。お元気・・じゃなくて、霞にヨロシクね。お二人の結婚式には欠席させていただくから謝っといてね」

 そういうと、彼女は、数馬が握っていた薬ビンを、彼の手から取り出すと研究室を出て行った。後には最後の最後で自らの野望が崩れ去り、憎しみで顔の醜く歪んだ数馬の死骸と、死を迎える時を静かに待つ晴彦だけになった。

 「このまま静かに死を迎えるしかないのか。霞が言ったように、そのままにしておいたほうがよかったのかもな。人は、生き物の生死を自由にしてはいけないのかなぁ。それはやはり神の領域」

 晴彦は掠れ行く意識の中でそんなことを考えていた。

 「晴彦生きているか?」

 薄れ行く意識の中で、晴彦は自分を呼ぶかすれた声を聞いた。

 「だ、だれだ」

 「く、梓の奴、内臓をダメにしてくれたよ。だから俺はもう助からない。でも、おまえならまだ助かる見込みがある。こ、コイツを使いな・・・」

 死んだと思っていた数馬の命の火はまだかすかに灯っていた。残りわずかな力を使って胸ポケットからサンプルの入った薬ビンを取り出して晴彦のほうに転がした。

 「これだけでは使い物にならないのだろう。これに何か手を加えるのだろう。そうしないと、これはただの水と替わらないのだろう」

 「数馬。なぜそのことを知っているんだ」

 「おまえとは腐れ縁だぞ。おまえが何か隠しているのはわかっていたさ。奴がおまえを刺すのを止められなくてすまなかったな」

 「数馬」

 「おまえだけでも助かって・・くれ・・」

 「数馬?数馬。かずま〜〜!」

 晴彦は、身体から抜けていく命を奮い立たせて数馬の名を叫んだ。だが、数馬は微笑んだまま答えなかった。

 「かずま〜〜〜」

 だが、晴彦の呼びかけに数馬は何も答えなかった。

 

 「君のような若くてきれいな子がうちのような貧乏医院に勤めてもなんらいいことはないと思うがな」

 「いいえ、経験を問われない上に、希望するなら看護学校にも行かせていただけるなんて、わたしには過ぎた条件です」

 あと二・三年経つと男の目を奪うだろう十六・七歳ぐらいの美少女の面談をしながら老医師は、気持ちが若返る気がした。

 やさしそうな眼差しの老医師を見つめながら彼女は数日前のことを思い出していた。

 「かずま〜〜」

 自分を裏切ったとしても親友を失った悲しみは変わらなかった。そして、梓が持ち出したデータと薬品の行く末も気になった。晴彦は、最後の力を奮い立たせて、数馬が残してくれた薬と、自分しか知らない調合薬をビーカーに入れ、首からかけていたロケットから霞の遺髪を取り出すと同じようにビーカーに入れた。ビーカーに入った遺髪はかすかな音を立てて薬に溶けていった。そして、ランプに火をつけるとビーカーをあぶった。

 「これは試作品だから臨床実験はまだ。どんな事が起こるかは謎だ。それならば霞と一緒になりたい。これで冷えたら出来上がりだ。それまで持つかな?俺の命」

 致命傷ではないといっても出血が止まらない晴彦の命は、消えかかっていた。晴彦は、少し熱いお湯程度になった薬を飲み干した。

 「運があれば助かるか。ダメだったら、霞、そっちに行くからね」

 晴彦は、そのまま気を失ってしまった。

 『か、かすみ』

 いつの間にか。晴彦の前にウエディングドレス姿の霞が微笑んで立っていた。

 『かすみ』

 晴彦は、霞に手を差し伸べた。だが、その手は血に濡れて真っ赤に染まっていた。その手を見て、霞は悲しそうな顔をして晴彦を見つめた。

 『か、かすみ』

 『あの薬を処分してくださらなかったのね。あの薬が命を弄ぶものたちの手に落ちたら、たくさんの人が不幸に・・・』

 『かすみ』

 霞は悲しそうな顔をしたまま晴彦の前から去っていってしまった。

 『かすみ〜〜』

 晴彦は、霞の名を叫ぶ自分の声に気がついた。辺りを見回すと窓から差し込む月の明りが、床に横たわる数馬の身体に射していた。晴彦は、ふと自分の身体を見た。梓に刺された傷は消えていた。そして、身体の節々に痛みがあったが、青白い月明りに照らし出された身体は、月明りよりも白く感じられた。まさかという思いとやはりという気持ちから、晴彦は、自分の身体を探ってみた。胸は膨らみかけ、あるべきものはなくなっていた。処方の時に一緒に入れた霞の遺髪の作用によるものだろう。晴彦にもそのことは想像が出来た。晴彦は、新しい身体に生まれ変わったのだ。たが、あのロケットだけは、いつものように首からかかっていた。それを手に取ると月明りにかざした。月明りに照らされたロケットにはめ込まれた月光石が、キラキラと輝いた。

 「俺は当分死ねないな。霞ゴメンね」

 晴彦は、心の中で霞に詫びた。そして、自分に架せられた使命を必ず果たす決意を固めた。ゆるゆると、まだしびれたように痛む身体を起こし、立ち上がると、晴彦は瞳を開けたまま横たわる数馬のそばに近寄り、そのそばにしゃがみ込んだ。

 「ありがとう。おやすみ」

 晴彦は、もう何も聞こえない数馬の耳元でそうささやくと彼の瞼をやさしく閉じた。そして、再び立ち上がり、ふと窓のほうを見るとそこには、うら若い女性が映っていた。

 「え?これはやはり、俺か?」

 研究室の非常灯と外の闇の関係で鏡のようになった窓ガラスに映っていたのは、霞に似た美しい少女だった。

 「かすみ」

 晴彦がつぶやくと、ガラスに映った少女の愛らしい唇もかすかに動いた。だが、その少女の美しさは、仮面のように固く冷たい感じがした。

 「俺は、梓を探し出す。そして、あの薬を闇に・・いや、命を弄ぶものたちに思い知らせてやる。それまでは、霞。君の姿を・・・」

 ふと、晴彦はガラスの中の少女が微笑んで頷いたように見えた。それは、彼の見た幻だったのかもしれない。彼は、いや、彼女はまだうまく動かない身体を引きずるようにして研究室を出て行った。

 

 「ところで君の名はなんと言うのかね」

 「は、わたしですか。わたしは鏡はる・・いえ、キリカです。樹木の桐に、香りの香です」

 あの日のことを思い出していた彼女は、老医師の問いかけに戸惑いながらも愛した女性、霞から思いついた名前を答えた。

 「桐香君か。ヨロシク頼むぞ」

 「はい、ヨロシクお願いします。先生」

 晴彦、いや、鏡桐香は、彼女にとっては未知なる医学の世界へと歩みだした。

 

 「といういきさつだと思うのですが、先輩どう思います?」

 青空蒼は、依頼先へと向かう新幹線の中で、横の座席で寝ている白帆真帆に問いかけた。

 「まったく、どこからそんなくだらないことを思いつくのだ。昨日は遅かったのだから少しは寝ろ」

 「でも、鏡さんの過去って、謎でしょう?気になって、気になって」

 「とにかくつまらないことを考えてないで寝ろよ。それに、そんな昔に携帯なんかあるか?」

 真帆は、蒼にそういうと瞼を閉じてかすかな寝息を立てだした。

 「携帯なかったのですか。あ、せんぱい〜〜、もう、つまらないなぁ」

 蒼は、座席に座りながら、脚をぶらぶらさせながら鼻歌を歌っていたが、車内販売が来ると早速捕まえて、食べ物を買い出した。

 「え〜と、笹かまに、幕の内、それにウナギ弁当も。ポッキーもチョウダイ」

 『誰がそれを食べるのだ。そんなに食べたらお腹壊すぞ』

 寝たふりをしながら真帆は、心の中でつぶやいた。

 二人を乗せた新幹線は、そんな二人に関係なく目的地へと走っていた。ただ、定められ路線の上を・・・