青蛙堂シリーズ

                       

 その日は珍しく青蛙堂で、一冊の本を買った。いつも覗いてはいるが、本を買ったという記憶はない。だから、これが最初ではないだろうか。

 『一冊100円。3冊150円』のところで見つけた本だったが、ほかにはこれと言ったものがなかったので、わたしは、この一冊だけを買う事にした。いつものように立ち読みをすればいいのだろうが、なぜかこの本には惹かれ、買ってしまった。

 何度も読んだ事のある本なのに、青蛙堂の不可思議な本たちを一冊だけでも手元に置いておきたいという気持ちがあったのかもしれない。

 それにこの本は、表紙を見ただけで、なぜかここでページを開く気にはなれず内容も見ないままに買ってしまった。よく知っている作品だという安心感からだろうか。

 そして、その本の題名は・・・・

Kwaidan

 ラフカディオ・ハーン(日本名 小泉八雲)。明治維新前の日本に魅入られ日本人に帰化した英国人。幼いころより不思議な事に興味があり、日本の怖い昔話に強く引かれる。わたしも幼いころから怖い話には興味があったので、彼は、いつしかわたしの大好きな作家の一人になっていた。そのなんともいえない語り口調がわたしを魅了していた。だが、原作は英語なので、訳者のよってかなり感じも違ってはいたが・・・

 わたしは、紅茶のはいったポットと、口汚しにビスケット、それとお気に入りのティーカップを近くに用意すると、おもむろに、不思議な世界への扉を開いた・・・

第壱話 Muzina

何処の国のお話だったかは、トンと忘れてしまったのですが、ある夜、野暮用で帰りが遅くなった若いお侍さんが、暗い夜道を家路に急いでいたそうです。そのお侍さん。剣の腕はほどほどでしたが、小柄で、色も白く目鼻立ちもはっきりとして、役者のそれも、女形にしたいほどのいい男だったそうです。

そのお侍さんが堀端の柳の近くを通りかかった時の事でした。誰やら柳の木の下で誰か泣いているものがいました。丁度そのとき、雲に隠れていた月が顔を出し、あたりを照らし出しました。柳の下で泣いていたのは、身なりのいい若い娘のようでした。ただ、堀のほうを向いてしゃがみ込み、着物の袖で、顔を覆っていたので、その顔はわかりませんでしたが。

「娘御。かようなところでいかがいたした。」

いくら声をかけても、娘さんは泣きじゃくるばかりで、何も答えようとはしませんでした。お侍さんは困り果ててしまいました。

「娘御。わたしにできることなら何でもしてやろう。だから、訳を話してみよ。」

お侍さんがそう言うと娘さんは屈んだままでしたが、まるで清らかな鈴の音のような声で答えました。

「はい、大事なものをなくしてしまったのです。」

「大事なもの?金子か?金子なら多少は持ち合わせがあるぞ。」

娘さんは首を横に振りました。

「違います。もっと大事なものです。」

「かんざしか?櫛か?それならば、一緒に探してやろう。どのへんだ無くしたのは?」

「そうではございません。もっと大事なものです。」

「うむ。話からん。そちの言う大事なものとはなんだ。」

「それはこれでございます。」

そう言って、娘さんは立ち上がり、顔を袖で覆ったまま、お侍さんの方を向きました。そして、着物の袖をそっとはずすとこういいました。

「これでございます。」

娘さんの顔には何もなかったのでございます。目も鼻も口すらもなく、卵のようにのっぺりとした顔があるだけ。

「返してくださいませ。わたくしのそのお顔を。わたくしに返してくださいませ・・・」

「うわ〜〜、よるな化け物。よるな〜〜。」

お侍さんは、その場から逃げてしまいました。いくら剣の腕が立っても相手は化け物です。息の続く限りその場から逃げました。

どれくらい走ったでしょう。ふと気がつくと、蕎麦屋の屋台が見えました。お侍さんはその屋台のたどり着くと、屋台の親爺に声をかけました。

「み、水をくれ。水を・・・」

背を向けて、しゃがんで洗い物をしていた親爺が、水の入った湯飲みをお侍さんの前に差し出しますと、またしゃがんで洗い物を始めました。屋台の明かりに照らし出された親爺の頭は黒々としていて、まだかなり若そうでした。お侍さんはその親爺の出してくれた水を飲み干すと、ほっとため息をつきました。

「どうなされました。かなりあわてておられたようですが?」

「なに対した事ではない。ところで、親爺この先の堀のあたりに何か出ると言ううわさは聞いた事がないか。」

「はい、そうですね。確か化け物が出ると聞いた事がございます。」

「どんな化け物だ。」

「どんなといわれましても・・・あれ、お侍さま、お声の様子が・・・」

「うむ。実はな・・・」

そう言うと、お侍さんは今自分が体験した事を、背中を見せたままの親爺に話しました。

「そうですか。それはあぶのうございました。それは、ムジナに顔をとられた娘でございましょう。」

「ムジナ?」

「はい、それは恐ろしい物の怪で、人の顔を盗ってしまうのでございます。そして、盗られた者は、盗られた自分の顔を求めてさまようのでございます。」

「いつまでもさまようのか?」

「そうです。それが物の怪の呪いでございますから。」

「そうなのか。恐ろしい事だ。」

「そうでございます。恐ろしい事で・・・」

「そうか、危なくいうところであった。その話を聞いて安心したら急に腹が減ってきた。親爺、そばをくれぬか。」

「へい、でも、もう店じまいするところで、お出しするようなものは、ございませんが・・・」

「そこに蕎麦があるではないか。それを所望いたす。」

「これはわたくしの晩飯で・・・」

「客に出す蕎麦はなくて、自分が食する蕎麦はあるというのか。それでも蕎麦屋か。金子はある。それをくれ。」

あまりにも強引に言うので親爺は根負けして、立ち上がると、ほっかむりをして、顔を伏せながらお侍さんの前に立つと自分ように取っておいた蕎麦をそのお侍さんに差し出しました。よっぽど腹が減っていたのでしょう。お侍さんは、その蕎麦をあっという間に平らげてしまいました。

「ふフォ〜〜、うまかった。いかほどだ。」

「へい、18文です。」

「18文か。安いな。さあ、手を出せ。いくぞ。」

そう言って、お侍さんは、懐に手を入れました。そして、巾着を取りして、銭を親爺の手に渡しだした。

「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな・・・親爺いま何時だ。」

「へい、ここのつで・・・」

「とう、じゅういち、じゅうに・・・・じゅうはちと。ご馳走であった。」

「へい有難うございました。ところえ、先ほどの話ですが、つづきがございまして・・・」

「なんだ?」

「お侍さま。実は、わたくしは以前、役者をやらして頂いておりまして、二枚目をはらさせていただいておりました。ところが、ある夜、ごひいきのお誘いの帰りに盗賊に会いまして、それ以来、夜鳴き蕎麦屋になったのでございます。」

「おぬしも何か盗まれたのか。」

「はい、これでございます。」

親爺は、被ていたほっかむりを取って、お侍さんに顔を見せました。

その屋台の明かりに照らし出された親爺の顔は、目も鼻も口もなく剥きたてのゆで卵のようにつるんとしていました。そんな顔で迫って来る親爺を突き飛ばすと、お侍さまは、その場を駆け出していきました。

そして、なんとか知人のうちのたどり着くと、休ませてもらう事にしました。玄関で中に声をかけると、若い娘が、明かりをもって現れました。突然の夜分の来訪を侘び、主人の在宅を聞くと、娘さんはあがるように言って、奥の方へと去って行こうとしました。お侍さんは、あわててはいていたものを脱ぐとその後を追いました。

娘さんは、お侍さんを奥の部屋の中へと案内すると、静かに襖を閉めました。そこは、いつも、お侍さんとこの家の主が会談する部屋でした。

「主はいずこに・・・」

「いま参りますので、おすわりになっておくつろぎください。」

いわれるままに、お侍さんは座り込みました。いままでのあまりに恐ろしい出来事と、それから逃れられた安心感から、お侍さんはその場に崩れそうになるのを抑えるのに必至でした。

「ところで、お女中。あなたはどなたですか。」

「あら、ご挨拶が遅れまして、わたくしは、当家の主の姪でございます。」

その涼やかな声とその美しい容貌はまさに天女のようでした。

「叔父上は、急な用で出かけております。明日の夕刻までは帰らないという事でした。

「そうですか。先生が旅より戻られたとお聞きしたのでお伺いしたのですが・・・」

この家の主は、このお侍さんの学問の師匠で、長く旅に出ていて先ごろ戻ってきたのでした。

「なにやら顔色が終わるいですが、いかがなされました。」

お侍さんの顔色の悪いのに気がつき、娘さんはそっと聞きました。

「いやなんでもありません。」

「わたくしでよろしければお話くださいませ。」

「いや、お話するほどのことではないのですが・・・」

そう言いながら、お侍さんは、先ほどのことを話し始めました。最初は興味深げに話を聞いていた娘さんもだんだんと怖くなってきたのか、顔色が青ざめてきてしまいました。

「おお、このようなお話をお聞かせして申し訳ございません。わたしは、お暇するといたします。」

と、そのとき、玄関の方でなにやら物音がしました。

「きゃ〜〜。」

娘さんは、お侍さんに抱きついてしまいました。

「お女中。大丈夫ですよ。ただの風です。」

「いえ、あなた様を襲った物の怪かもしれません。どうぞこのままでいてくださいませ。」

そう言われては、放すこともできず、さりとて、若い男女のこと。いつの間にやら二人はなさぬ仲になってしまいました。

「お願いでございます。あなた様をわたくしにくださいまし。そして、いつまでもわたくしのそばにいてくださいませ。」

「わたしをほしいと。わたしのようなものでよければ、もらっておくれ。いつまでも、おまえのそばに居てやろうぞ。」

「ほんとうでございますか。」

「ほんとうじゃ。武士に二言はない。」

そうお侍さんがいうと、娘の目の色が妖しく変わりました。

「その言葉を待っておったのだ。これでお前はワシのものだ。」

その声はこの娘の声に違いないのですがその口調は年配の男のような話し方でした。

「いかがなされた。話し方がおかしくなられたぞ。」

「まだ気づかぬか。お前の師じゃ。娘の姿となってお前を待っておったのだ。」

「なんですと、そのようなことが・・・」

「フフフ、ワシのものになったお前のために話してやるとしようか。ワシは旅先で、ある物の怪に襲われた。その物の怪はワシの顔を奪っていきおった。わしは、新しい顔を捜し求めた。そして、お前がであった蕎麦屋の親爺や娘の顔をいただいたが、満足できなかった。話師はおまえの顔が欲しいのだ。」

お侍さんは、あまりの事に黙りこんでしまいました。師匠は、恐ろしげな顔をしていて、そのため女子供が恐れて四十の声が聞こえるのにいまだ一人身だったのです。

「お前がワシの所に学問を学びに来ているころからワシはお前が憎らしかった。お前の美しい顔が・・・だが、それはわしの心の中にそっとしまい込んでおった。だが、物の怪に顔を奪われると、お前への恨みを抑えきれなくなってしまったのだ。こっそりと戻ってきたワシは、お前が出会ったあの蕎麦屋の親爺の顔を盗り、美しい娘に近づくと、この娘の顔を盗んだ。だが、ワシは、この顔にも満足できなかった。そこでお前を待つ事にしたのだ。」

その言葉を聞きながらも、お侍さんは、ただただ黙ったまま、師匠を見つめていました。

「これでお前の顔をいただくことができる。ぐわははは・・・・・」

娘は笑いながら恐怖のあまり身動きの取れないお侍さんに近づいていきました。