ある雪の夜の出来事(十万の女)
それは、雪の深々と降り積もる寒い冬の夜のことだった。俺は、いつもより早い時間に行きつけのバーで、ホット・ウイスキーで、凍りついたような感じのする身体を温めていた。その店は、俺が座っているカウンターと、テーブルが3っつ。それと、いつも無表情の初老のマスターがいるだけの、本当に時間を楽しむだけのバーだった。
外は激しく吹雪いていた。こんな日は、常連でも、よほどの酔狂でなければこないだろう。たとえば、俺みたいな。ふと、そんなことを思っていると、ドアが開いて、外の風が、雪と共に入ってきた。だがすぐに閉まり、入り口のドアには、雪にまみれて真っ白になった物体があった。その侵入者が、身体に降り積もった雪を落としていくと、赤いマントを身にまとった若い女性が現れた。雪に濡れた赤いマントが気にならないのか。赤いマントを脱ぐでもなく、そのままカウンターの空いた席に座った。
ショートへヤーに、切れ長の目じりの上がった目。筋の通った鼻、形のいい唇。振り払った雪よりも白いきめ細かい肌。まるで、雪のフェアリーが、この店に現れたと錯覚しそうになるほどの美女、いや、まだその顔には幼さが残っていて、美少女といっても通りそうな顔立ちをしていた。
カウンターの席に座ると、ぽつんと一言言った。
「ホット」
その声は、かすかで聞き取りにくいものだった。だが、その声が聞こえたのか。マスターは、彼女の前にホット・ウイスキーを出した。彼女は、黙ったまま、湯気の立つグラスを、そっと、細くしなやかな手で包むと、その唇をグラスに当てて、おいしそうに呑んでいた。酔ってきたのか、その白い頬が、赤く染まっていた。その姿が妙にかわいらしかった。だが、声をかける雰囲気だけはなかった。いや、声をかける隙が、彼女にはなかった。
俺はただ黙って、無表情なマスターの顔を見つめて呑んでいるだけだった。彼女に声をかけることもなく、そろそろ帰ろうかと思った時、入り口のドアが勢いよく開いた。
「おい、マスターおるかぁ」
大きな声をあげて、男が入ってきた。それは、いつも、ツケで呑みながら、一向に払わない白神という男だった。元俺の上司で、バブルのころは、景気がよく、よく高級バーを飲み歩いていたらしいが、バブルがはじけてからは、その日の金にも困るくせに、賭け事にのめり込み、会社の金に手をつけて首になり、その後も、あちらこちらに借金を重ねていた。
「今までのツケは、ぜんぶ払うぞ。そして・・・たった二人か。ん?お前は、佐伯じゃねえか。まあいい、こいつらの酒代も俺が持つ。いいな、マスター」
いつになく景気のいいことを言っていた。
「なけなしで買った馬券が、100倍だぞ、100倍。笑いが止まらねえよ」
そう騒ぎながら、彼女のそばに座ると、声をかけた。
「よう、彼女。どうだい。今夜、俺と一緒に・・どうだい」
いつものだらけた服装ではなく、こざっぱりした姿をしていたが、禿げ上がり、脂ぎったおっさんでは、いくら金を積んでもだめだろうと思っていたが、彼女の答えは意外なものだった。
「わたしを買いたいとおっしゃるのですか」
「お、ストレートにいうなぁ。最近の娘は・・・そうだ。お前が買いたいんだ。どうだ!」
「では、10万と5千円ください」
「10万5千円だと。お前は何様のつもりだ。誰がそんなに払うか!」
そういって怒り出すと、白神は、トイレへと歩いていった。よっぽど腹を立てていたのか、ドアを勢いよく閉めた。
俺は、その会話を聞いていて、信じられなかった。彼女がそんなことするなんて・・・俺は、彼女のそばによって、言った。
「今のうちに帰りなさい。君は、そんなことをする子じゃない。後は任せて」
だが、彼女は覚めた目で、俺を見つめた。そして、ふと、笑顔を浮かべると、言った。
「わたしのことは、ほっといてください。わたしが、元に戻れるかどうかなのですから」
俺が、まだ何か言おうとすると、彼女は、言った。
「あなたが、代わりに買ってくれますか?」
「いや、そんな金は・・・だが、ここに3万はあるからこれで、帰りなさい」
ここの支払いのことも考えずに、俺は、言ってしまった。足りない分は、何とかマスターに頼んで、待ってもらうしかないだろう。そんなことを俺が考えていると、彼女は、おかしそうに言った。
「あなたは、変わらないわねぇ。わたしは、変わってしまったのに、でも、お気持ちだけは頂いとくわ」
そういうと、後は、どんなことを言おうと彼女は、俺の言うことを聞こうとはしなかった。そうこうするうちに、白神が、トイレから戻ってきて、内ポケットから金を出すと、勘定しだした。
「1、2、3、4、5、6、7。なあ、すこしまからんか」
「だめです。値切ろうとなさるのなら、この話はなかったことに・・・」
「わかった。俺も男だ。8、9、10。5千円まからないか。5千円て、半端だろう」
白神は、しつこく値切ろうとした。だが、彼女は、承諾しなかった。
「5千円は、消費税です。」
「く、渋い女だな。ほい、5千円」
白神は、しぶしぶ一万円10枚と5千円札1枚を彼女の手に乗せた。
「これでどうだ」
「はい、契約完了です。ここではなんですから、こちらへどうぞ」
「逃げないだろうな。金だけ持って、トンづらなんかさせないぞ」
「脱げたりしません。今日から、わたしは、あなたのものですから」
そういうと、彼女は、金を、マントの内ポケットになおし、白神の手を取ると、トイレのある店の奥へと連れて行った。そして、彼女が、何か唱えている声が聞こえてきたかと思うと、奥から閃光が走った。光が収まると、二人が行った奥のほうから、ひとりの男が出てきた。彼は、かなりの美形だった。どことなく先ほどの女性に似ているような気がした。ふと、俺を見て、微笑みかけると、さっさと、店を出て行った。残された少女は、まだ、あの光に目がくらんだのか、ぼんやりとしながら、奥から出てきた。外では、いつの間にか吹雪は止んでいた。開いたままのドアから見えるのは、降り積もった雪に残ったあの男の足跡だけだった。
「あいつはどこに行きやがった。なんだったんだ、あの光は・・・」
彼女は、そうつぶやきながら、顔を上げた。すると、彼女の顔は、まったくの別人になっていた。その顔は、あの白神に似ていた。
「な、な、なんだ。何で、お前たちが、俺より背が高いんだ。それに、この赤いマントは・・・ム、胸がある。あ、俺の大事なものがない〜〜」
彼女は、そう叫ぶと、自分の身体を触りまくりだした。そして、あきれたことに、悶えだした。
「ンン~~~ン、あ、あは~~~ン、女の身体もええもんだなぁ」
聞いているこっちのほうが、顔が赤くなってきた。だが、女は、ふと、自分に戻ると、俺の胸倉を掴んで叫んだ。
「おい、佐伯。あいつはどこに行った。教えろ」
「君は、人に物を聞くときに、人の胸倉を掴むのかい。失礼だろう」
「うるさい。俺を女に変えたあいつはどこに行ったんだ。金も持って行っちまいやがった。残ったのは、さっき払った10万5千だけだ」
「女に変えた?」
「俺は、白神だ」
俺は自分の耳を疑った。本人の言うことを信じると、白神本人ということになるが、確かに、あの彼女とは、容姿が違いすぎていた。あの彼女が、月とするなら、今の彼女は、そこらの石ころにも劣る感じがした。とにかく、俺は、新しい彼女をなだめると、マスターに彼女の事を任せ、あの男を追った。だが、落ち着かせるのに時間がかかりすぎたのか、あの男の姿はどこにも見当たらなかった。
あの日以来、俺は、白神には、会っていない。そして、あの男にも会うことはなかった。
だが、ある日、俺宛に、差出人不明の手紙が届いた。
『佐伯、元気そうだな。安心したよ。お前にはわからなかったようだが、俺にはすぐにわかった。10年振りとはいえ、俺がわからないなんて、冷たい奴だなぁ、お前は・・・
10年前の、あのことが、俺を変えてしまったのだから、仕方がないか。
白神の奴に、横領に罪を負わされ、会社を去ることになった俺に、声をかけてくれたのはお前だけだったな。俺は、あの時なにも言わなかったが、うれしかったよ。俺を誘ったが、あの時、お前と一緒に飲んでいたら、お前まで辞めさせられていただろう。気にもかけていなかったお前の優しさ、本当にうれしかった。
あの日、俺は、赤いマントの女に会った。そして、女は。こう言った。
『わたしを買いませんか?10万で』
自棄になっていた俺は、おかしな女だとは思ったが、有り金をはたいて、その女を買った。だが、俺が買ったのは、女ではなくて、女が羽織っていたあの赤いマントだったのだ。女は、俺から金を受け取ると、俺にマントを羽織らせた。すると、どうだろう。さっきまで目の前にいた女は消え、見知らぬ男が立っていたのだ。
『ありかとうよ。おかげで、元に戻ることが出来た。これからあんたは、女として生きていくことになる。あんたほど器量がよければ、すぐに買い手がつくよ。だが、俺が言った値段より、高くないと戻れないぞ。一円でもいいから、高く売るんだ。そうしないと、このマントは、脱ぐことは出来ないし、元に戻ることも出来ない。だが、このマントを羽織っている間は、あんたは、女でいられる。
まあ、それまで、女を楽しむんだな。それに、あんたに貰った金は、これからのあんたの生活費だ。大事に使いな。じゃあな」
そう言うと、男はどこかに行ってしまった。それから、俺は、女として暮らしてきた。いいこともあったが、辛いこともあった。男の汚い面もいやというほど見てきた。そして、久しぶりにこの町に帰ってきて、あのバーに顔を出したって訳だ。後はお前が、知っている通りだ。俺は、また旅に出る。今度は、俺として、お前の前に現れるよ。その時には、一緒に飲もう。じゃあな』
その手紙は、間違いなく、あいつからのものだった。10年前、白神の横領の罪を負わされ、会社を首になり、警察に追われる身になったあいつの筆跡だった。
自分の部屋に戻り、窓がら外を眺めると、また雪が降り出していた。窓の下では、赤い影が、通りがかった人影に、寄り添い、突き飛ばされ続けるのが見えたような気がした。ふと、友との再会を祈って、ロックのグラスを窓ガラスにあてた。
「カチン」
あとがき
10万ヒット記念と言うことで、「マント」と言うお題を貰ったのですが、いかがでしょう。まだまだ、消化不良かな。
う〜ん、Satoさん。ごめん。