小さなお守り

第一章 幼き日の想い出は・・・

 

「すっかり町も変わってしまったなぁ」

数十年ぶりに降り立った町は、昔の華やかさはなく。くすんで古びた町になっていた。

「そうね、あの頃の面影はすこし残っているけど、ほとんどなくなってしまったわね」

昔を懐かしむように初老の夫婦は、目を細め、昔の情景と重ね合わせるかのように辺りを見回した。

駅前のT字の道を眺める二人の目には、当時の町並みが映っていた。

「ほら、そこの銀行。あそこには本屋さんがあって、よく立ち読みしたわね。そして本屋のおじさんに・・・」

「たらした鼻を拭いた袖が本に付くって、よく怒られたなぁ」

「あら、あそこの文房具店。壊されて駐車場になっているわ」

「古くてがっしりとした家だったがなぁ。白熱灯がぶら下がっているだけだったから薄暗くて」

「あなた。あそこの中に入るのを怖がっていましたものね」

「おいおい、そんなことをここで言わなくても・・・まったく」

幼馴染と結婚するものじゃないなぁと、夫は、ふと思った。

「幼馴染と結婚するものじゃないわね。昔の恥ずかしい出来事もすべて知っていますからね」

妻が、老いたとは言え、まだまだ美しい顔に笑みを浮かべて、イジワルく夫の顔を見た。

「後悔されています?わたしみたいなのと夫婦になったことを」

「後悔なぞするものか。お前と一緒になれて、わたしは幸せだよ」

照れくさそうに言う夫の言葉に、妻は、純真な乙女のように頬を赤く染めて、顔を両手で隠して恥ずかしそうに身を捩じらせた。そんな、妻の姿を見ながら、夫は妻を一層いとおしく思った。

「昔、わたしたちが住んでいたところに行ってみない?」

「ああ、行って見ようか」

夫婦は、仲良く肩を並べながら歩き出した。

「変わらないなぁ。この町並みは・・・」

二人は、駅前の商店街を歩いていた。

「あら、変わったわよ。水富湖(みふこ)市富等津(ふらつ)町よ」

「ああ、そうだったな。三つの町が合併して市が出来た。水月(みつき)町、富等津町、そして、湖有(こう)町」

「ふふふ、そう。でも、それも昔」

「そうだなぁ。お互いに・・・」

「わかっているわよ。ウフフフ・・・・」

意味ありげに笑う妻を見ながら、そういうことをなにげなく言う、妻のセンスにいまさらながら敬服した。

「あら、ここにあった電力会社のサービス店、美容室になっているわ。まあ、原田洋品店ですって。原田さん、お元気かしら?」

「あの人のことだ。バリバリに元気だろうな」

ふと夫は、二人の共通の知人でがっしりした体格なのに、笑うと、とても可愛い童顔の彼のことを思い出した。

二人は、駅から200メートルほど歩くと、花屋の角を右へと曲がった。幅6メートルほどの道が、600メートルほど奥に向かって続いていた。

「お魚屋さん。まだやっていたのね。」

「うん、なつかしいなぁ。ここの店のガラスケースに入れてあったクジラのベーコンが、まだ目に浮かぶよ」

「あら、あなたはお魚嫌いなくせに、変なことを覚えているのね」

「ああ、白い塊の周りに、真っ赤な皮があったのが綺麗だったからな」

「そうね。クジラは、よく食べていましたものね」

「筋が固くて、噛み切れなくて」

「いつまでも、くちゃくちゃと噛んでいましたわね。ガムみたいに。あなたには、もう無理ですわね。筋が硬くて」

「お前もな」

「あら、わたしはまだ自分の歯ですわ」

「おいおい、わたしもだぞ」

「ふふふ」

「ははは」

二人は、顔を見合わせ。ふと当時のことを思い出しながら笑い出してしまった。焼くとぱさぱさで、アブラっ気がなかったクジラの肉。当時では、肉と言うとクジラだった。豚や牛は、高級品だったのだ。時々口に入るとしたら、後は鶏肉ぐらいだった。

「この道をまっすぐ行って一番奥の家だったわね」

「ああ、お前の家は、奥から三番目だったなぁ」

「あまり変わってないわね。この辺りは・・・」

「なつかしいなぁ。お、お前の家も昔のままだ」

「あら、あなたの家もよ。まだあったのね」

「ああ、すこし、補修の後はあるがな」

夫婦は、懐かしそうに、木造二階建ての古ぼけた家を眺めていた。トタンで壁を補修してはあるが、がっしりとした木材で建てられた家は、昔ながらのどっしりとしたおもむきでしっかりと建っていた。

「なつかしいなぁ」

「なつかしいわねぇ。あの頃を思い出すわ」

二人が懐かしそうにその家の前で、立っていると、すこし目が出た分厚いメガネの老人が、犬を散歩させながら通りかかった。ふと、その老人の顔を見ていた妻が、懐かしそうに、その老人に声をかけた。

「キクさんじゃありませんか?」

「ん?」

老人は、不思議そうな顔をして、妻のほうを見た。

「どなたでしたっけ?」

「吉村啓作の妻の武子です。江藤菊次郎さんでしょ。江藤布団の」

「そうですが・・・・お、旦那さんのほうは、見覚えがあるが、奥さんのほうは・・・申し訳ない。見覚えがございません」

「おい、お前。突然なにを言い出すのだ。戸惑っておられるじゃないか」

「もう、キクさんたらぼけちゃって」

夫に言われて、妻は、ぷっとふくれた。

「おいおい、こら。なんてことを・・・申し訳ありません。失礼なことを申しまして・・・ご無沙汰しています」

「おうおう、確かに啓ちゃんだ。懐かしいなぁ。こちらは奥さんかい」

「はい、妻の武子です。旧姓は、花園と申します」

「花園?なつかしいなぁ、花園・・・ま、まさか、あのジャジャ馬武子?」

「そうよ。思い出した?」

武子はとぼけた口調で言った。

「わたしは、花園武子よ」

「ははは、武子だ。すっかり綺麗に成って、見違えたぞ。そうか、啓ちゃんと結婚したのか。啓ちゃんも大変だなぁ」

「もうキクさんたら。でも仕方ないわね、わたしあのころよりもい何倍も綺麗になりましたから」

「たしかにな。こんな美人を忘れるなんて、わしもぼけたかなぁ。あ、犬の散歩の途中ですので、これで失礼します。啓ちゃん、武ちゃん遊びに来てくれよ。それでは、また」

「はい、失礼します」

啓作は、青い顔をして、菊次郎に頭を下げた。妻の武子は、にこやかに菊次郎に手を振った。菊次郎の姿が見えなくなると、啓作は、武子に怒ったように言った。

「なんてことを言うのだ。はずかしいなぁ」

「大丈夫よ。今のわたしは女ですもの。あの頃のわたしじゃないもの・・・」

そうつぶやく妻の目には、涙が溢れていた。

「武子」

啓作は、妻を強く抱きしめた。40数年前に、あの事さえなければ、妻は、武子は・・・・

 

「啓ちゃん。あそぼ〜〜」

玄関で、元気のいい声がした。

「あら、タケボー。いらっしゃい。啓作ね。啓ちゃん、武彦君よ。けいちゃ〜〜〜ん」

玄関から啓作を呼ぶ母の声に、啓作は、見ていたテレビを消して、玄関へと歩いていった。ボシュっという音とともに消えるブラウン管の中で、画面がス〜と、画面の真ん中に吸い込まれるように消えていった。

「よ、啓ちゃん。あそぼ〜」

「う、うん」

啓作は、青いビニール地のズックを履くと、玄関から顔を出していた武彦の方に歩いていった。

武彦は、この辺りのガキ大将で体格もよく、きれいな顔立ちをしていた。彼の母も評判の美人だった。

「暗くなる前に帰ってくるのよ」

「は〜い」

「行こう」

「うん」

武彦と啓作は、連れ立って、表の通りへと出て行った。

昭和30年代当時は、家の中で遊ぶ子供は、ほとんどいなかった。室内玩具が高かったせいもあるが、遊び場に困らないからだ。川や池、土手や田んぼ、農業用水を引くための水路。それに、空き地など遊び場に困らなかったからだ。それに、国鉄(今はJR)富等津駅の横には、肥料や、農薬などを一時保管する倉庫があり、啓作の家の裏手には、レンガ工場があり、そこらも、啓作たち子供達の大事な遊び場だった。ただ、大人に見つかると、危ないからと、こっぴどく叱られたが、そんなことはかまわずに、遊んでいた。家の前の道路は、今のように裏路地まで舗装されていず、ほとんどが(いや、舗装されていることのほうが珍しかったが)土がむき出しだった。だから道路の上に、絵を描いたり、どろ遊びをしたり、雨の後など道路の水溜りで遊ぶ子供たちは珍しくはなかった。それと、今ほど車が、走っていなかったので、親達も、道路で遊んでいても、それほど注意はしなかった。

30年当時の子供達は、学校から帰ってくると日が暮れるまで遊んでいた。塾といっても、習字やそろばんぐらいで、今のような学習塾がなかったのもその理由だろう。(宿題はうるさく言われたが、親もあまり、勉強、勉強とは言わなかった)

痩せて身体の弱かった啓作は、気弱で運動音痴なので近所の子供達から仲間はずれにされたりしたので、家の中に閉じこもりがちになっていた。そんな啓作を、いつも呼びに来て遊びに連れて行っていたのは、近所に住む武彦だった。啓作の母に頼まれたというのもあったが、当時のガキ大将は、本当に弱いものをいじめるということはあまりしなかった。そして、誰もが仲良く遊べるように気を使うところがあった。そんな武彦だから、啓作を遊びに誘ったりしたのだ。

「さて、きょうは、なにをするかな?」

近所の同じくらいの子供たちが、啓作たちを入れて6人集まって、今日の遊びの計画を立てた。

「レンガ工場で、秘密基地ごっこは?」

「この間、工場のおっちゃんに見つかったからなぁ。今度見つかると、母ちゃんに言われるぞ」

「それじゃあ、空き地で野球は?」

「だめだめ、キクさんたちが空き地を占領しているもの。遊ばせてくれないよ」

ひとつ年上の菊次郎たち中学生のグループは、啓作たち小学生のメンバーを子ども扱いして、いっしょに遊んでくれなかった。この間まで、彼らと同じ小学生だったのだが、中学になったとたん、大人ぶり、小学生を小バカにしだした。中学になると大人になったような気分になるものだった。

「沖姫(おきひめ)神社で遊ばないか?」

「沖姫神社か。あそこの境内は広いからなぁ」

「陣取りしよう。陣取り」

「いいなぁ、サタンの爪対月光仮面と警察はどう?」

ふと出た意見にみんなは賛成した。今日は氏神様の沖姫神社の境内で、陣取りをすることになった。

沖姫神社は、町外れの田んぼの中にある鎮守の森の中にある神社で、神主はいず、その建立の理由も、誰も知らなかったが、秋には、水月(みつき)町、富等津町、そして、湖有(こう)町の人たちが集まって、にぎやかな祭りが行われていた。だが、普段は、静かな森だった。そこで子供達は、虫を採ったり、木の実を拾ったり遊んだりしていた。みんなは大人用の自転車に乗り、沖姫神社へと出発した。ぶきっちょでみんなのようにケンケン乗り(片足をペダルにかけてケンケンしながら自転車を走らせて飛び乗る方法)が出来ない啓作は、まだ、子供用の自転車に乗っていた。こども達は遅れがちな啓作を時々、立ち止まって待ちながらも何とか町外れの沖姫神社へとたどり着いた。

「それじゃあ、組みを分けるぞ。裏と表、ごじょ言いなし」

子供達は、表を向けたり裏にしたりして、手の平を差し出した。『ごじょ』と言うのは、この辺りの方言で、文句、もしくは、駄々という意味だった。

「じゃあ、表は月光仮面と警察で、裏はサタンの爪とその部下な」

武彦は、『裏と表』で決まったメンバーを分けると、左右に分かれて、森の、両奥の木に陣を取った。普通の陣取りと違うのは、宝となる空き缶を、両陣営の前に小さな円を書いてに置き、それを蹴られたら負けと言うことだ。あとは、普通の陣取りと同じだった。啓作は、武彦の陣営に入った。

「いいか。お前は正面からいけ。そして俺は、ぐるっと裏を回って後ろから忍び寄る。いいな」

「あのタケボー。僕は?」

「啓ちゃんは、ここに残ってこれを守れ。それじゃあ行くぞ!」

武彦たちは、啓作を残して、散っていった。そして、一人残された啓作は、することもなく、ぼんやりとしていた。境内は結構広く、敵が来るにもかなり時間がかかったからだ。武彦たちの奇襲が見つかったのか。あちらの陣営が騒がしくなった。一人残された啓作は、陣地に選んだ神木を見上げた。ふと、啓作は自分の頭の高さに洞があるのに気づいた。啓作は背を伸ばし、その洞の中に手を差し込んで、その中をまさぐった。すると、何かが手に当たった。それを、おそるおそる掴んで取り出してみると、それは薄汚れて古ぼけたお守り袋だった。お守り袋の左下の辺りに焦げた跡があった。

「お守り?何でこんなものが」

お守りを手にとってしげしげと見ていると、どこに隠れていたのか急に敵が現れた。啓作は、あわててそのお守りをポケットに突っ込み、その相手の動きを警戒した。だが相手が悪かった。すばしっこさでは一番の透だった。仲間の中では一番小柄だが、身軽さと気の強さは一番で、頭に来るとどんな相手にも引き下がることはなく中学生も手こずるほどだった。

「啓ちゃん。右、いや、左だ」

自分の陣営の危機に気づいた仲間が戻ってきていた。啓作は、右に左にと軽やかに動く透の動きを追うのに精一杯だった。

「おっとっと」

すこしバランスを崩した透にタッチしようとした啓作は、するりと身をかわされて、大事な缶を蹴り上げられてしまった。

「ぱこ〜〜〜〜ん」

缶は遠くに飛んでいった。

 

「クソ~、もう少しだったのに・・・お前のせいで負けたのだぞ」

「ご、ごめん」

「タケちゃん、何で、こんな奴を入れたのだよ。おかげで負けちゃったよ」

「もういいから、黙っていろよ」

啓作が、神木の洞に気を取られているうちに、敵のメンバーが忍び寄っていたのだ。そして、啓作が、気づいた時にはすでに遅く、啓作たちの缶は蹴られてしまった。啓作が、神木の洞に気をとられていなければ、状況は違っていたかもしれないのだ。啓作たちのチームだった子供たちは、啓作のぼんやりと洞に気をとられていたのが許せなかった。

「こいつが来なければ・・・」

「もういいから黙れよ。啓作を誘ったのは、俺だよ。俺が謝るから許してくれよ」

「タケちゃん・・・」

武彦のそこまで言われて、まだ愚痴る奴はいなくなり、誰もが黙って自転車をこいだ。重苦しい空気の中で、啓作はその場に居たたまれなくなった。啓作は、あふれ出る涙に前が見えなくなっていた。悔しいやら情けないやら、いろんな感情が溢れて、自転車を思いっきり漕ぎ出した。彼らが走っていたあぜ道に交差する少し大きな道をオート三輪が砂煙を上げながら走ってきた。オート三輪は、三輪のバイクに、車のボディをつけたようなもので、リヤカーや、馬車に変わる運搬車として、当時は、かなり使われていた。ハンドルも、バイクのような棒型のハンドルで、操作も簡単だったので、商店の配達や、農家の農耕具の運搬などに重宝されていた。

啓作は、涙で、前がよく見えずに、あぜ道から、その大きな道に曲がろうとした。だが運の悪いことに、涙で大きな道を走ってくるオート三輪が見えなかった。オート三輪の時速は、30キロ程度のものだが、やはりぶつかると、ただではすまない。啓作が、オート三輪が走ってきているのに気づいていないのに気づいた武彦は、自分の自転車を思いっきり漕ぎ出して泣きながら走っている啓作の自転車を追いかけた。そして何とか道路に出る寸前に啓作の自転車に追いつき、それを止めたのだが、勢いがついていた武彦の自転車は道路に飛び出してしまった。そして運悪く、舗装用に敷き詰められたばかりの砂利(当時はアスファルト舗装など高価でほとんどが、なにもしないか、砂利を道路に敷き詰めていた)に自転車の車輪を取られた武彦は、自転車を前の田んぼに落とし、道路の中央に立ちすくんでしまった。そこにオート三輪が走ってきた。

「ぎゃあ〜〜〜〜〜」

武彦の叫び声が、日の暮れかかった道に響き渡った。

「あわわわ・・・轢いてしまった。轢いてしまった」

オート三輪の運転者は、飛び出してきた武彦に気づいてブレーキをかけたが間に合わなかった。なんとかオート三輪を停止すると運転者は、おそるおそる運転席から出てきた。オート三輪の前には仰向けになって、オート三輪の前部に跳ねられて気絶している男の子が横たわっていた。

「た、た、たいへんだぁ」

運転者は、オート三輪を押し戻して、気絶している男の子を抱きかかえると、男の子を後ろの荷台に乗せ、運転席に戻ると、オート三輪を全速で走らせた。啓作と、彼らの後を追って、事故を目撃してしまった他の子供達は、走り去るオート三輪を、ただ呆然と見送るだけだった。

土煙を上げながら走っていたオート三輪は、一軒の家の前に止まった。そこは、ツタの絡む古ぼけた洋風の平屋だった。レンガでてきた門柱の間を通りすぎると、『藪医院』と金のペンキで書かれたすりガラスがはめ込んである木製のドアを開けて中に入ると、男は叫んだ。

「先生!急患だ」

「なんだ、騒々しい。お、呉作か。また、鍬で足でも叩き切ったか?」

そう言いながら、奥の部屋から、しわしわの白衣を来た、ぼさぼさの白髪をした、不精ヒゲの老人が、スリッパをぺたぺたいわせながら歩いてきた。

「違うよ、先生。急患はこの子だ。オート三輪にぶつかって、気を失ってしまったのだ」

「なに、この子?白目を向いて気を失っている。すぐに診察室に運ぶのだ」

呉作の抱きかかえて来た男の子の様子に、異常を感じた藪医師は、いそいで、診察室へと運び込ませた。診察室のベッドにそっと寝かせると、呉作に手伝わせて、男の子の服をすべて脱がせた。藪医師が、タイヤの跡がついたズボンを脱がせて、パンツをおろすと、その顔は、一瞬引きつり、絶句した。

「う、これは・・・・」

すぐに、気を取り直すと、診察室を出て、奥に声をかけた。

「おい!急いできてくれ、急患だ。すぐに手当てをしないといけないのだ」

「は〜い、ただいま」

その声とともに、奥から品のよさそうな着物姿の老婦人が出てきた。当時、まだ、女の人が、普段着代わりに着物を着ているのは、珍しいことではなかった。特に年配の女性には、そんな人が多かった。

「どうされましたの?」

「事故だ。それも男の子が・・・厄介なことにならなければいいのだが・・・」

「はい」

そう答えると、老婦人は、医師とともに診察室に入った。そこには、青い顔をした呉作が、そわそわとして診察台の横に立っていた。

「あら、呉作さん。あなたが運んできてくださったの?」

「こいつが事故ったんだ。診察台の上の子に、このタオルをかませて、お前は、手を、呉作、お前は足を掴め。暴れるかもしれないから、しっかり押さえておくのだぞ」

そう言うと、藪医師は、薬品棚の戸棚から消毒薬を取り出し、ハサミやピンセット、診察器具などが置かれた金属製の台車の上に置いた。

そして、ピンセットで脱脂綿を掴むと、消毒薬を染み込ませると診察台の男の子のそばに立った。

「こら、しっかり押さえていろ。これからだからな」

藪医師は、消毒液を染み込ませた脱脂綿で腹部を拭きだした。

「じゅわ〜〜〜〜」

消毒液が、白い泡を立てた。

「ぐぎゃ〜〜〜〜」

診察台に横たわっていた男の子が、叫び声をあげて、暴れだした。

「あわわわ・・・」

思いもよらぬ男の子の力強さに、呉作は、弾き飛ばされそうになった。

「呉作さん。しっかり抑えて。まだ、消毒が終わってないわよ」

看護婦をかねる医者の奥さんは、なれているのか。弾き飛ばされることもなくしっかりと腕を押さえていた。

医者は、周りの消毒が終わり、いよいよ、患部の消毒に取り掛かった。

「今まで以上にしみるが、男の子だろう。我慢しろよ」

そう言うと、医者は、新しい脱脂綿に、消毒薬を染み込ませると、患部をやさしく拭いた。

「ぐぎぐぎゃ〜〜〜〜」

悲壮な声を上げて、男の子は、痛がったが、今度は、しっかりと抑えた呉作と医者の奥さんによって、苦しさに身悶えることすらできなかった。やがて、消毒が終わると、薬をつけて患部をガーゼで覆い、股間に包帯を巻いた。

「叫びつかれたみたいだなぁ。眠ったみたいだ」

男の子は、やっと落着いたのか。すやすやと眠っていた。

「さて、これからどうするかだなぁ」

「わたしは警察に、行くので?」

「あたりまえだろう。おい、駐在を呼んでくれ。それとこの子の・・・この子は、どこの子だ?」

「さあ、ガキはあんまり知らないもので・・・」

「おまえは、相手も知らずに轢いたのか!」

「それは・・・先生あたりまえでは。知りあいをほいほい轢いたりしませんよ」

「おまえ〜〜これだけの事をしときながら、まだそんなことを・・・」

「あなた。何を馬鹿なことを言っているのよ。その子は、駅前の花園さん所の武彦ちゃんよ」

「たけひこ?ああ、あの健康優良児か。そうか、あいつか。それでは、こいつのうちのほうに」

「連絡しておきます。」

「たのむぞ。それにしても・・・」

医者は、そうつぶやくと、顔を下に向け、黙ってしまった。

「これからが大変だ」

「大丈夫よ。この子は、元気がいいから」

「そういうことだけじゃないからなぁ」

看護婦をかけた医者の妻は、武彦の傷がどんなものかわかっていたので、それ以上はなにも言わなかった。

「それでは、武ちゃんのおうちに連絡してきますわ」

「たのむ」

藪医師は、つらそうな顔をしてポツリとそう言った。妻は、黙ったまま電話をかけるために奥の部屋に行った。

「先生。この子の容態は・・・ひどいので?」

「ひどい?そんなものじゃないぞ。睾丸は消失している。これでは、この子は男として生きてはいけないのだぞ」

「あの~、睾丸てぇ・・・」

「金玉だ、金玉。金玉が消えているのだよ」

「エ~~~、じゃあ、どこかに落ちてしまったので・・・探してこなくちゃ」

「ちが〜〜う。お前がひき潰したのだ。だからこの子は・・・」

「どうなるので?」

「男じゃなくなる。かと言って、女の子でもない片輪になってしまったのだ」

「武ちゃんが片輪?」

突然、後ろから聞こえてきた幼い声に二人が振り返るとそこには、武彦が心配で一生懸命にオート三輪をつけてきた啓作が立っていた。

「そんな、いやだ〜〜」

そう叫ぶと啓作は外へ駆け出していった。それと入れ違いに、藪医師の妻が、武彦の家族への連絡を終えて戻ってきた。

「あら、さっきここに誰かいませんでした?」

「それよりも奥さん。この子の金玉は、つぶれてしまったのですか。この子はもう男の子としては・・・」

悲壮な顔をした呉作が縋り付くようにして藪の妻に聞いた。

「あなた、またそんな悪い冗談を呉作さんにいったのですか。もう、それを信じて呉作さん。死にそうな顔をしているじゃないの」

「いや、こいつの悲壮な顔を見ているとついイジワルしたくなってなぁ。すまん、すまん」

「呉作さん。この子は大丈夫ですよ。三輪にぶつかった衝撃で、タマタマが上がってしまっただけよ。もうあなたったら、変なこと言うから呉作さん、心配しているじゃないですか・・・でも、この子の命があとわずかだとは・・・」

「奥さん、奥さん。奥さんまでのらないでくださいよ」

「あら、わかりました。だめねぇ、わたしって。夫ほどうそつきじゃないから・・・オ~ホホホ」

「なにを言っておるか。わしは、坊主の頭とウソはいったことがないのじゃぞ」

「へいへい。髪結いじゃありませんからね。さ、それじゃあ、あたしはこの辺で・・・」

「待て呉作。この間の勝負がまだついておらん」

「この間の勝負って。あれは、あたしの王手で、終りじゃないですか」

「まだ金が残っておる。さあ、一勝負だ」

「一勝負って、先生の勝負は、終りがねえからなぁ。この間は三日三晩寝ずにつき合わされたのですよ。明日は早いのですからご勘弁を・・・」

「あ、おまえ。この子の股間を冷やしてやってくれ.すこし腫れているようだからな」

そう妻に言いつけると、藪医師は、呉作の悲壮な叫びも耳の入らないのか、呉作の作業着の襟を掴むと奥の部屋へと引きずっていった。

「マアマア、あれでは呉作さんは当分かえれそうにないわね。おうちに電話してあげなくっちゃ。それと氷嚢ね。すぐ冷やしてあげるわね」

藪医師の妻は、いそいそと奥へと引き返していった。一人診察台に残された武彦は、すやすやと眠っていた。

 

「武彦ちゃん。自動車事故で、入院したそうよ。けいちゃん、何か知らない?」

啓作は、好奇心丸出しに聞いてくる姉の声は耳に入ってこなかった。泣きながら走っていた自分を助けようとして、事故にあった武彦。武彦が、事故に遭ったのは、自分のせいだ。そして、武彦は・・・

啓作がそう考えていたとき、姉がしつこく聞いてきた。

「ねえ、啓作。今日は、武彦ちゃんとは、遊んでないの」

「遊んでいたけど、先に帰ったよ。だから知らない」

「なんで?」

「どうしてか知らないよ」

しつこく聞いてくる姉に、啓作は、腹が立ってきた。啓作は、その場を立つとぷいっとその場を立ち去った。

「どうしたらいいのだろう。武ちゃんは、武ちゃんは・・・」

啓作は、病院で聞いた医者の言葉が耳に鳴り響いていた。どうしたらいいのかわからずに外へと飛び出してしまった。そして、することもなくズボンに手を突っ込んで、暗くなった表の道をぶらぶらとした。

「たけちゃん、たけちゃん」

啓作は、武彦の名前をつぶやいた。ふと、ポケットの中に突っ込んでいた手が何かを掴んだ。

「え?」

啓作には、今日ポケットに何か入れた記憶はなかった。だが啓作の手は、何か掴んでいた。そっと、掴んだまま取り出して、恐る恐る手を広げてみると、そこには、薄汚れたお守りが現れた。それに見覚えがあった。それは、あの洞の中にあったお守りだった。

「こんなのもののために、武ちゃんは・・・」

啓作は、自分が洞から取り出したのも忘れて、そのお守りに八つ当たりをした。だが、お守りを無碍に捨てるのも、後の祟りが怖くて捨てることができなかった。あたりはすっかり暗くなっていた。啓作は、とぼとぼと自分の家に帰っていった。

 

「先生。武彦は、武彦は・・・」

「な~に大丈夫ですよ。ちょっと男の子の大事なところを打っただけですから。明日になれば腫れも引いているでしょう」

「ありがとうございます」

武彦の母親は、その美しい瞳に安堵の涙を浮かべて夫の胸に顔をうずめて泣きだした。連絡があったとはいえ息子の無事な姿を見て緊張の糸が切れたのだ。こうして藪医院の夜は更けていった。

 

その夜、父の帰りが遅く、いつもは、川の字になって眠る啓作親子は、啓作だけが先に床に入っていた。啓作の姉や兄は、二階に自分の部屋を持っていたので、そこで眠っていた。啓作の家は、借家だったが、がっしりと作られた木造二階建てだったので、年上の二人には、二階の二間で、身体の弱い啓作は、親と一緒に寝ていた。

布団の中で、啓作は、神木の洞の中から出てきたお守りを、両手でしっかりと掴んで、一心不乱に拝んでいた。

「神様、お願いです。武ちゃんを助けてください。神様、お願いです」

啓作は、布団の中にもぐりこんで、お守りをしっかり掴んで一心不乱に祈った。

「武ちゃんが元気に慣れるなら、お父さんや、おかあさんに叱られてもいいです。それに、いじめられても、我慢します。だから、武ちゃんを助けて・・・」

それは、他の人にとっては、たわいのない代償かもしれなかったが、啓作にとっては、一生に一度のお願いだった。

「神様、お願いです。神様、武ちゃんを・・・男の子じゃなくなるのなら方輪になってしまうのなら、いっそ女の子に・・・」

いつのまにか、啓作の祈りの声は、泣き声に変わっていた。両手で掴んでいたお守りは、いつのまにか汗で濡れてきていた。そして、啓作がもぐりこんだ布団の中も、涙でぐっしょりと濡れていた。

啓作は、どれだけの時間、お守りを握りしめていたのだろう。握り締めていたお守りが、熱くなってきた。でも、今放したら願いが、だめになるかも知れない。誰に言われたのでもなく、啓作は、そう思い、さらに強くお守りを握った。

「ボクがお守りを放したら、武ちゃんは・・・」

その時、啓作が握ったお守りが、手の中で光出した。光が強くなってくるに従って、お守りはさらに熱くなった。啓作がお守りの熱さを我慢できなくなってきたとき、啓作の手の中から強い光が飛び出した。しっかり手を合わせていたその手のひらをすり抜け、外に飛び出すと、その光の玉は、いずこかへと、飛び去っていった。

 

担ぎ込まれた病院の奥の客間に、武彦は、寝かされていた。静かに眠る武彦を起すこともないだろうと言う藪医者の好意に武彦の両親は甘えることにしたのだった。傷みも癒え、静かに寝ていた武彦の布団の上に、天井から静かに光の玉が降りてきた。そして、それは、武彦の眠っている布団の中に、静かに沈んでいった。

 

「ん、ん〜〜〜おはよう・・・?」

布団から身体を起こし背伸びをしたところで武彦の動きは止まった。見覚えのない部屋にいつの間にか自分は寝ていたのだ。

「あれ?ここは・・・」

「あら、起きたの?たけちゃん」

品のよい老婦人が、親しそうに武彦に声をかけた。

「は、はい。あの〜ここは・・・」

「藪医院よ。昨日事故にあって運び込まれたのよ。わすれた?」

「事故?」

武彦は、そう言われてきのうのことを思い出した。たしか自分はオート三輪に跳ねられた。そのことを武彦は思い出した。

「それじゃあ僕は、死んだの?」

自分の家とも、入院していたおじいさんを見舞いに行ったときの病院の病室とも違うこの部屋はどこなのか理解できなかった。病院に入院するなど、よほどのことがない限りありえなかったからだ。当時、普通、それほどひどくなければ自宅療養をしていた。

「死んでいたらおなかはすかないでしょう?」

老婦人の言葉に武彦は頷いた。さっき老婦人がこの部屋に入ってきたときに、武彦のおなかがなったからだ。

「さて、起きられる?」

「は、はい」

「それでは、こっちにいらして。食事の準備が出来ているわ」

武彦は、布団から起きだすと、老婦人の後を付いていった。ふと自分の着ているものを見ると、朝顔をあしらった女の子用の寝間着だった。老婦人の娘のだろう。彼女には男の子はいなかったのかもしれない。そんなことを思いながら老婦人に連れられるままに、武彦は、一つの部屋に入って行った。そこはテレビの置いてある居間で、テレビでは「狼少年ケン」をやっていた。狼に育てられた人間の少年が、狼達とジャングルの平和を守るお話で、相手役に、トラ、熊、ゴリラが出ていた。(て、何でトラや熊がジャングルになどとは聞かないで)

「あら、チャンネルを変えましょうね」

「いえ、あの、すみませんそのままでいいです。いつも見ているもので・・・」

「あらそうなの。それじゃあこのままで。座りにくいでしょうがガマンしてね。食事が済んだら先生の診察を受けてはずしてもらいますから」

「はい」

そういうと、老婦人は部屋を出て行った。一人残された武彦は食卓の前に座るとテレビを見入った。TV漫画を見ながら食事など、信じられないことだった。武彦の家では、食事の時には、TVは消されていたからだ。

しばらくすると老婦人は、朝の食事ののったお盆を持って、武彦のところに戻ってきた。そして、武彦の前には、温かくおいしそうな朝の食事が並んだ。夢のような心地でテレビを見ながら食事をした。

食事が終わると武彦は、診察室の診察台の上に横たわっていた。下半身裸になっての診察だから、恥ずかしいだろうということから武彦の顔にはタオルがかけられていた。

「うむ、もう腫れも引いたようだ。内出血もなさそうだし。大丈夫だ」

「よかったわね。男の子だったら大変だったわよ。女の子だと言ってもここは大事なところですからね。おてんばもほどほどにね」

「そうだぞ。気をつけるのだぞ」

『はい』と返事をしかかって、二人のことばが気になった。二人はまるで武彦が男ではないような言い方なのだ。自分は男なのに・・・

「あの〜、僕は・・・」

「もう、こんなに可愛い女の子なのにボクだなんて。男の子にもてないわよ」

「そうじゃ。大事なところにも傷ひとつないしな」

「あなた」

老婦人は、夫の藪医者を睨んだ。

「あの、ボクは男の・・・」

「心配か?ご覧、綺麗なものじゃろう」

武彦は、検査の為に診察台に寝かされて、顔にかぶされていたタオルを取られて起こされた。起こされて見せられた自分の股間は綺麗なものだった。そこには縦に切れ目の入った股間しかなかった。ちいさくてもちゃんとした男の証は無かった。

「え?え?え?え〜〜〜?」

「さ、検査も終わったし。着替えましょうね。着替えは、お母さんが昨日もって来てくださっているわ」

そう言って老婦人が持ってきたのは花柄のワンピースだった。

「そ、そんな、なんで〜〜」

 

月曜日の朝。啓作は、教室の引き戸を開けた。土曜日の日に起こったあの事故。そのあとのことが気になって、いつもより早く学校に来てしまった。まだ誰もいないはずの教室。窓際の一番後ろ。武彦の席にはいつもの武彦の姿はあるはずがなかった。そしてだれの姿も・・・

朝日の差し込む教室の窓際にある一番後ろの席に人影があった。その朝日に照りだされた姿は・・・

「武ちゃん?」

啓作は恐る恐る問い掛けるように声を上げた。その問いかけに答えるようにこちらを向いたのは、ショートカットの見知らぬ美少女だった。その美しい顔には悲しそうな憂いの影があった。

「けいちゃん・・・」

すがるような目で、彼女は、啓作を見つめた。啓作は、その少女に問いかけようとした。とそのとき、教室に入って来るものがいた。

「あ、おはよう。わたしが一番乗りと思ったのに・・・・花園さん早いわねぇ。あら、吉村君も。いつもはもっと遅いのに?どうしたの。花園さん。吉村君に意地悪されなかった?」

教室に入ってきたのは、学級委員の古河恵子だった。お互いに異性を意識し始める年頃の彼らの間には、いたずらという儀式があった。それは、異性を意識し始め、同性でつるむことを、仲間にしめす役割を果たしていた。もし、異性(この場合、女の子にだが)にいたずらしないと、同性の仲間から、仲間はずれされてしまうことがあった。いたずらにあっても、何もできない(当時の女の子の中には、そういう子がいたの)女の子たちの代わりに、男の子たちと対等に戦っていたのが、この恵子だった。そして、恵子に勘違いされると、後々大変な事になる。

「クスッ。吉村君か。あなたじゃ、心配はないわね」

恵子は、意地悪くおかしそうに笑った。

「花園さん、大丈夫?土曜の日に事故にあったって聞いたけど・・・・」

少女は、顔を伏せたまま、首を横にふった。と、少女の座る机の上に滴が落ちた。やがて、机の上に小さな溜りができた。

「花園さん?」

恵子が、その少女に声をかけて、肩に手を掛けた。少女は顔を臥せたまま、肩の手を払うと、はじかれるように立ち上がり教室を飛び出していった。

「たけちゃん」

啓作は、教室を飛び出していく少女の後を追った。残された恵子は、ただ唖然と二人を見つめているだけだった。

少女は、教室を飛び出すと廊下を走り向け、中庭へと出ると、中庭に植えられた木のふもとにしゃがみこみ、泣き出した。

「だれも・・・・だれも、わかってくれない。ぼくは、だれなの?ぼくは・・・・」

啓作は、かがんで、身体を小さく丸めて泣いている少女の後ろに立った。

「エッ、エッ、エッ・・・・」

啓作は、何もできず、しゃくりながら泣きつづける少女を見つめるだけだった。あの元気いっぱいで、しくしくと泣くなんてことのなかった武ちゃんが泣いている。そんな彼にしてしまったのは、自分のせい。

「たけちゃん」

少女は、泣き続けるだけだった。どうすることもできずに立ち尽くす自分。啓作は、少女の肩に手を掛けようと、右手をさし伸ばしたが、肩に触る前に引っ込めた。自分には何もできないと思ったからだ。啓作は、少女をそのままにして、教室に帰ろうとしたとき、数人の男の子がやってきた。

「ほうほうほう、ジャジャ馬武子が泣いているぜ。いつも、おれたちの邪魔をする奴がさ」

「ほんとうだ。泣いてやがる。ケケケ・・・・」

そいつらは、いつも下級生や女の子をいじめるので、武彦にケチョンケチョンにされていた連中だった。

「ジャジャ馬武子が、泣きべそ武子か?」

「アハハ、泣き虫武子。しくしく武子」

彼らは、少女の周りで囃し立て始めた。

「うるさい。ボクは、いや、俺は男だ!武子じゃない、武彦だ!」

少女は、涙の後を袖でぬぐいながら立ち上がると、囃し立てる奴らに殴りかかった。だが、体力の男女差が出始める小学高学年では、結果は見えていた。少女は、彼らに押さえ込まれてしまった。

「なんで?こいつらに負けたことないのに・・・・」

「なにを言ってやがる。女のお前なんかに喧嘩でまけるかよ。今までやられた分の仕返しをしてやるぞ。幸い誰もいないからな」

「ククク・・・・覚悟するのだな」

彼らは少女を木に押し付けて、殴ぐろうとした。その時、啓作は、校舎の影からそれを見ていた。腕力がなく、泣き虫の啓作には、物陰からその様子を見ているしかなかった。

「大丈夫。武ちゃんは強いから、あいつらなんかやっつけちゃうよ」

そう自分に言い聞かせながら、見ていたが、女の子になった武彦には、自分を押さえつける男の子達を振り払うどころか、身動きさえ出来なかった。彼らのリーダー格の男の子が、木に押さえつけた彼女を殴りかかった。

あの誰よりも強く、カッコよかった武彦の口から思いもよらない声が出た。

「いや〜〜〜」

まるで女の子のような(いや、今は女の子だから当たり前なのかもしれないが)悲鳴が上がった。

「たけちゃんが、たけちゃんが、たけちゃんが!」

啓作の頭の中で、何かが切れた。それは、女の子になった武彦の姿だったのか、女の子をいじめる奴らの姿だったのかはわからないが、啓作の身体の中で、何か抑え切れない衝動が膨らんで行った。

「こ、このぉ〜やめろ!!」

啓作は、そばにあった中庭の掃除用の松葉ほうきを掴むと、振り回しながら、かれらに駆け寄っていった。そして、彼らの一人を箒で叩いた。ふつう、人を叩く時には躊躇し、叩いた後に、その行為に恐れをなすものだが、このときの啓作は、頭に血が上っているというべきか、彼らを箒でぶん殴りだした。手加減をする様子もなく、力任せに叩きまわった。相手が躊躇する隙を見せるのなら、反撃のチャンスもあるのだが、容赦なく叩いてくるのでは、逃げるしかなかった。彼らは、女の子になった武彦を残して、泣きながら逃げ出してしまった。彼らがいなくなっても、啓作は箒を振り回していた。

「けいちゃん。やめて!」

武彦の声で、啓作の動きが止まった。

「たけちゃん・・・・ごめん」

啓作は、そういうと、涙がこぼれだした。そして、その場にいたたまれなくなり、駆け出してしまった。啓作は、泣きながら学校を飛び出すと、家へと泣きながら帰っていった。

息子が泣きながら、学校から帰ってきたのに、啓作の母親は驚いたが、なにも言わずに啓作を家に入れると、ひざの上に啓作の頭を置いた。啓作は、母のひざの上で泣いた。啓作の母は、息子が泣き止むまで。そのままの姿勢でじっとしていた。

泣き止むと啓作は、熱を出した。初めて人を容赦なく叩いたことでの興奮による熱なのか。啓作は、数日間、熱を出して学校を休んだ。その間、何人かの人が啓作の家に訪れたが、啓作は、熱にうなされて床に伏せったままだった。

やがて、熱が下がり、啓作が久しぶりに学校に行くと、教室内の啓作を見る雰囲気が換わっていた。いつもなら啓作をいじめる奴らが、妙に啓作を恐れていた。そして、窓際の一番後ろの席が、授業が始まっても埋まることがなかった。

啓作は、休み時間に恵子に聞いてみた。

「古河さん。あのたけちゃん。いえ、花園さんは?」

「彼女は、一昨日転校したわよ。おとうさんの仕事の関係だって」

「どこに?」

「K−市よ」

「K−市?」

それは、隣の県の町だった。幼い啓作にとっては、それは、永遠の別れを意味していた。

「たけちゃん」

武彦をか弱い女の子にしてしまった事を詫びることも出来ぬままに、彼女は、啓作の前から去っていった。啓作は、武彦の面影を思い浮かべた。

「たけちゃん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」

あふれ出る涙をぬぐうこともせずに、啓作は、いつまでも、武彦に詫び続けた。その声は、武彦に聞こえるはずもないのに・・・・

啓作。12歳の秋のことだった。