手は離さない

 

 リーズの聖堂には多数の参拝客が詰めかけていた。未だに残る地方領主たちのいざこざや、治安の悪さ、そして貧困などに苦しむ庶民たちが最後にすがるのが、クラッド地方のはずれにあるリーズの聖堂だった。

 

「おじいさん、大丈夫ですか」

 

 高くそびえる丘の頂に向かう列を外れて一人の老人が休んでいた。手には赤子が抱えられている。かなりの汗をかいており、顔色が悪い。それを見かねた若者が手を差し伸べた。

 

「あぁ、大丈夫・・・。構わずいって下さいや」

 

 弱々しく微笑んだ老人はそのまま全く動こうとしない。よく見ると杖を持つ手も震えている。すると若者が老人の前にしゃがみこんだ。

 

「な、なにを・・・しなさる」

「ちょっと鍛えるには物足りない階段だと思ったんでね。ちょうどいいから上までおぶっていきますよ。さあ、その子も私が」

 

 若者は少しやせ気味であったが、その服の下には発達した筋肉が波打っていた。

 

「ありがとよ・・・」

 

 老人は涙した。若者は赤子をしっかりと胸に固定し、老人の重みにきしむ体をゆっくりと動かした。

 

「おじいさんは、何をお願いに来られたんですか」

「わしか・・・」

 

 老人はぽつりぽつりと語った。娘夫婦が戦争で死んだ事。そして、孫娘が残されたが、体の悪い自分では世話が満足にしてやれず、飲ませてやれるミルクもないと。そして、さらに自分が死んでしまうと奴隷商人にでも売られでもしないかと心配しているのだ。

 

 そこまで語ると老人は弱々しく涙を流し始める。周りで話を聞いていたであろう人たちも、同じような目に遭ってここにいるのだ。同情の目で見てくる者もいない。

 

「あなたは、何か・・・」

 

 老人の問いかけに若者はやはりぽつりぽつりと話はじめる。

 

「逃げてきたんですよ、私は・・・」

 

 若者は暗殺者だった。地方領主に遣え、数々の暗殺を行ってきた。そして、殺す事がいやになったのだ。しかし、それで許される訳も無い。若者は追われる身となった。捕まるのも時間の問題だという。

 

「私はね・・・奴隷だったんですよ。早くに両親を亡くし、奴隷商人に拾われた」

 

 老人は若者の為に涙を流した。そして、自分の孫娘には同じ思いはさせたくないと考える。それは、若者も同じだったようで、目を覚まし若者に手を伸ばしてくる赤子に微笑みかけながら、つぶやいた。

 

「かわいい子だ・・・。この子には辛い思いはしてほしくないですね」

 

 それ以上は二人とも黙ってしまった。お互いに聞きたい事はあったが、それは聞く事ができなかった。

 

 そのうち、リーズの聖堂が見えてくる。聖堂には願いを叶える力があると言われている。しかし、何故か勢力下に置こうとする権力者はおらず、聖堂と呼ばれながらそこには聖堂跡と質素な祠があるだけだった。

 

「つきましたね」

「ありがとう。本当にありがとう」

 

 老人は若者の背から降りると赤子を受け取った。

 

 若者の願いは、逃げて家庭を持つという単純で難しい願い。願いが叶わなかった場合、それは死を意味する。すでに退路はないのだ。背後には追っ手が迫っていた。

 

「それじゃあ、行きますか」

 

 若者は老人とともに祠の前へとゆっくり歩んでいく。老人を抱えて登ったためか、頂の入り口には見知った顔が追いついてきた。抜けたメンバーを始末する男たちだ。しかし、こちらには気づいていないようで若者は老人とそのまま進む。

 

 祠の前にくると、多数の人と共にひざまずき、祈りを捧げる。しかし、何の変化も無い。隣で祈る老人も祈りを捧げる。それは、数瞬の間に終わり、互いの顔を見合わせる。

 

「おじいさん、これをどうぞ。どうせ私の願いは叶わないのは分かってたんですよ。その子に幸せを。さようなら」

 

 若者が老人の手に握らせた者は数枚の金貨だった。そして、若者は祠の背後にたててある手すりへと向かった。そこは断崖になっているため、地元の人々が手すりを付けたのだった。

 

「な、なにをするんじゃ」

 

 若者はその手すりを乗り越えた。老人が赤子を背にくくり付けたまま、危うい足取りでそれに近づく。若者は手を広げ、力を抜いた。

 

「だめじゃっ」

 

 手すりをくぐって、老人が若者の手をつかんだ。それは、本当に幸運でもあり、不運だった。老人が間に合った事は幸運だったが、老人の手には若者を引き上げる力も誰かが来るまで保つ力も無いのだ。

 

「は、はなしてください。あなたまで落ちてしまう」

 

 若者は老人まで落ちてしまうことになるかもしれず、強引に手を振りほどく事も出来ない。

 

「だめじゃ、しんじゃいかん」

 

 老人は手を離そうとしない。しかし、次第に老人の体が崖の端へと近づいていく。祠の裏のため、誰も気づいていないようだ。

 

 そして、互いに相手が助かる事を思った。その途端、老人の手に活力がよみがえってきた。かつて、木々を容易く加工し、タンスをも持ち上げた木工職人の腕に戻っていた。そして、若者の方は、細いと言っても背丈があった分重かった体重が減り始めた。

 

「もう少しじゃ」

 

 老人の手が、華奢で白い腕を握りしめ、崖の上へと持ち上げた。しかし、そこに若者の姿は無く、若い女がいるだけだった。長い髪としっとりとした肌に潤んだ瞳が印象的なおとなしそうな美人だった。一方、さっきまでの老人は、すでに老人ではなかった。筋骨隆々とし、活力にみなぎったその体は、木工職人となって日々、多くの家具を作っていた頃の物となっていた。

 

「これは、いったい」

 

 元老人がきれぎれの息を整えつつ、自分の体と元若者の体を見比べる。

 

「私は一体・・・」

 

 両手を地面に着き見合わせる二人。元老人の背中の赤子が目の前にいる若い女を見つめていった。

 

「まっまー」

 

 二人は笑った。

 

 その後、戦後の復興を目指すラースの街で廃業していた家具工房を若い夫婦が新しく始めたという。