鬼の塗りおしろい

らんおう(作家 3?歳)

 

それは、去年の暮れに、わたしの開催するHPに一通の投稿作品が寄せられた。それは、彼の曽祖父から聞いたという昔話だった。ただ、そのリアルさに、わたしはどこか惹かれるものがあった。その彼から小包が届いた。あの、作品とともに添えられていたメールの最後の言葉に、ありえないことなのだが、わたしは、わたしのひそかな望みをかなえる物がこの小包の中に入っていそうな気がした。

その日、わたしは、締め切りに追われていた。アイデアは煮詰まり、ワープロのキーを叩く指は、キーボードの中を舞うだけだった。ある雑誌の新人募集に応募して、入選はできなかったが、編集者の人に声をかけられ、うれしくて、その雑誌に他愛のない小説を書き出して早3年。何とか、売れてきたのでこの春に筆一本で食っていくことにした第一作目で、早くもスランプになっていた。嵐の夜の、雨音のように、途切れることもなく、かかってくる担当編集者からの催促の電話。文章がまとまらずキーボードの中を舞う指。わたしは、何とかしてこの場から逃げたかった。そんなときのこの小包。期待してなにが悪い。そんな、捨て鉢な気持ちで、わたしは、小包を開けた。そこには、小さなクリーム瓶が入っていた。その横には、手紙が入っていた。

『らんおうさん、先日送りました投稿の折、約束しました物を送ります。お試しください。』

とだけ書かれていた。これがあれなのか?わたしは、クリーム瓶を手に取り、しげしげと眺めた。そして、ふたを開けると、さらさらの、白い粉が入っていた。

「練りおしろいじゃないじゃないか。それとも、水を混ぜるのかな。」

 そんなことを考えながら瓶の中身を見つめていると、突然玄関のドアが開いた。どかどかと音を立てて、ひとりの女性が入って来た。ベージュのビジネススーツに、白のシャツ黒ぶちのメガネと、卵形の化粧気のない顔に、無造作に後で束ねた黒髪。それは、まさしく、わたしの担当編集者でした。

「らんおうさん、いやさ、らんおう。まさか、原稿落とす気じゃないでしょうね。そんなことすれば、どうなるかわかっているでしょうね。」

恐ろしい剣幕でがなりたてる彼女を、恐ろしくて見ることはできませんでした。

「どこまでできているの。見せなさい。」

わたしは、恐る恐る彼女にフロッピーを渡しました。彼女は、携帯していたノートパソコンにそのフロッピーを入れると、わたしの、作品を読み始めました。最初は、機嫌がよかったのですが、最後にくると般若よりも恐ろしい顔つきになっていました。

「なによこれ、これからと言うところで、止まっているじゃないの。枚数もぜんぜん足らないし。あなた、新人の癖にスランプだと言うのじゃないでしょうね。3000年は早いわよ。すぐに、続きを書きなさい。」

わたしを、デビューさせてくれた編集者なので、反論すらできませんでした。彼女の機嫌をとりつつ、わたしは、机の上のワープロに向かいました。だが、相変わらず、指先は、キーボードの上をあちらこちらと揺らいでいました。どうしたら、この場を逃れられるだろう。この場をしのいでも、終わりではないのに、そのことばかりを考えていました。と、その時、机の上のクリーム瓶に目が行きました。わたしは、ある考えが浮かび、それを実行すべく行動を開始しました。

「ちょっと、らんおうさん、どこ行くの。」

「いえ、口が渇いたので、お茶でも飲もうと思いまして。」

「そんなことわたしがするから座っていてよ。」

「そんな、貴女にそんなことはさせられませんよ。それに、気分転換もかねてね。コーヒーでいいですか。」

「そうね、それじゃいただくわ。砂糖とミルクを入れてね。」

「はいはい。」

そういってわたしは、キッチンに立った。インスタントのコーヒーを二つ入れると、ひとつには、ウイスキーをショットグラス半分入れて、砂糖とミルクでその香りと味を消した。彼女は、まったくアルコールを受け付けなくて、少しでも飲むと、眠ってしまった。わたしは、それを、利用することにしたのだ。彼女のまえに特製コーヒーを置くと、わたしは、ブラックを持って机に座った。あとは、彼女が、コーヒーを飲むのを待つだけだった。

 しばらくすると、寝息が聞こえてきた。あの態度からは想像もつかないほどかわいいものだった。わたしは、ソファーをベッドにして眠る彼女に近づいた。黒縁のメガネをとると、切れ長のまつげの長い二重瞼の綺麗な瞳が現れた。メガネは度のない伊達メガネだった。メガネをとった彼女の顔は、鼻筋の通った、整った綺麗な顔立ちをしていた。彼女の端正な顔立ちは,大人の女性と言うよりも,美少女と言う感じを与えていた。

 何か夢でも見ているのか手を振り回して叫んだ。

「マミィ、マミィ。」

わたしは、その手を取り、やさしく、両手で包んでやった。

「マミィ。」

そう呟くと、安心したのか、また、寝息を立てて安らかに眠った。そんな彼女の寝顔を見ていると、胸がきゅんと鳴って、わたしは、彼女の前髪をやさしく掻き揚げ、ひたいにキスをした。そして、立ち上がると、計画を実行することにした。キッチンに行き、お椀と、サラダ油を手にとると、机の前に戻った。そして、机の上に椀を置くとその中に、サラダ油を少し入れ、その中に、送られてきたクリーム瓶の蓋を開けて中の粉を椀の中に少しずつ入れながら練っていった。そうすれば、球なども出来ずに綺麗に練れるからだ。

 きれいに練れると、わたしは、その練りおしろいを左手につけてみた。伸びがよく左手は、練りおしろいで、白くなった。だが、何の変化もなかった。あの昔話のような変化は起こらなかった。やはりあれは、昔話の中だけだったのだろうか。

「なぜ、なぜなのだ。どうして、変化しないのだ。何か間違ったのだろうか。」

 水の弱い練りおしろいを、油で溶かしたのが悪かったのだろうか。わたしは、あのメールをもう一度読み直してみた。鬼は、奇妙な歌を歌いながら、奇妙な歌を歌いながら身体を変化させていたことに気がついた。

「試してみるか、ぬるぬるねったら、ぬるぬるねったら、指よ細くなれ。」

 そう歌いながら、指を摩ってみると指が細くなってきた。あの歌が、変身の呪文の様だった。わたしは、続けて、左手を変化させた。左手は、女性の手のように白く、細長くなったが何かが違っていた。なにがどう違うかはわからないが、何かが違っていた。やはり、記憶だけでは、完璧な物は無理なのか。わたしは、落胆した。現状逃避が出来て、禁断の未知なる世界への扉がすぐそこにあるのに触ることすら出来ないなんて、あきらめかけていたとき、わたしは、あることを思い出した。

 そう、絶好のモデルがいることを。わたしは、居間のソファーに眠っている彼女のそばに戻った。寝顔の彼女を見ていると、あることに気がついた。彼女が若い頃の黒木瞳に似ていることだ。あこがれの人に似ている。そのことで、わたしは俄然ハッスルした。彼女を、起こさないようにしながら、座らせると、洋服を脱がし始めた。もちろん、変なことをするためじゃなくて、よりリアルに変身するには、モデルをちゃんと見なくちゃ。そのための行為であり、けっしてスケベ心からなどではない。などと、自分に言い聞かせながら続けた。

 彼女は結構着やせするタイプらしく、胸や、お尻なんか結構ボリュームがあった。ブラジャーやパンスト、ガートル?などの下着を脱がせるのに結構手間がかかった。だけど、かなり泥酔しているらしく、目覚めることはなかった。少し時間がかかるので、彼女が風邪などを引かないように、クーラーを調節はしていたが、彼女を裸にし終えた時、わたしは、汗をぐっしょりとかいていた。このままでは、化粧のりが悪いので、シャワーで汗を流し、寝室の姿見を彼女の前に立て、机の上のクリーム瓶とサラダ油とお椀を前のテーブルに持ってくると、わたしも、全裸で彼女のそばに座った。鏡に映る彼女の姿は、美しく、それに引き換え、隣のわたしの姿は、醜悪な物に映った。美と汚物、ヴィーナスとショッカー怪人。大体、わたしの感じをわかってくれるでしょう。わたしは、一刻も早く、この姿とおさらばしたくなった。今度は、サラダ油を多めに入れ、クリーム瓶の中の粉で調整しながら練りおしろいを作っていった。わたしの思った通り、シャワーのお湯や、軽くこすったくらいでは、おしろいは落ちたりしなかった。練りおしろいが練りあがると、わたしは、はやる気持ちを抑えながら、右足から塗り始めた。

「ぬるぬるねったら、ぬるぬるねったら、足よ細く綺麗になれ。」

 そう言いながら、右足におしろいを塗っていきました。指先や、指の間、足の裏など塗りのこりがないように、丁寧に塗っていきました。10分もかかったでしょうか。右足は、彼女の足とそっくりに、すね毛もなく、細く白い足になりました。でも、ちょっとかかり過ぎです。わたしは、注意しながらも、左足を手早くすることにしました。足を終えると次は腕です。足で、要領を覚えたので、思ったよりはかかりませんでした。鏡には、眠れる美女と、白魚のような白く細く美しい腕と、カモシカのように引き締まった足を持つ、浅黒い男の姿が映っていました。そのアンバランスな姿に気持ち悪くなりながらも作業を続けました。次は、胸です。上半身に塗りつけると、肩幅を縮め、ウエストを揉みながら絞込み、贅肉を胸に集めました。平らだった胸は、餅のように膨れ上がりました。それを、彼女の胸と見比べながら、形を整えていきました。脂肪と贅肉の塊なのに、もみながら形を整えていると、今までに味わったことのない感触が湧き上がってきました。これが、胸をもまれるということなのでしょう。形を整え終わると、乳首が立ち、乳房は、触るだけで、感じました。今までになかった胸の重みと、乳房の感触に、わたしは、いってしまいそうになりました。ですが、まだまだこれからです。胸を持ち上げたり、触ったり、もう少しおもちゃにしたかったのですが、時間との戦いです。いつ彼女が、目を覚ますかわかりません。わたしは、下半身に取り掛かることにしました。臍を縦長にし、残りのおなかの脂肪を、お尻にまわし、キュッと引き締めて、形を整えました。最後に、息子を、娘にしなくてはなりません。これまでのことで元気いっぱいになった息子を、優しくなでながら、奥へと押し込んでいきました。これが、挿入感というものなのでしょう。今までに味わったことのない、身体の中に温かい棒状の物が入ってくる感覚は、言い表しにくいものでした。女性が、感じるものともちょっと違うでしょう。入ってくるのですが、そこの物と同化していくのがわかりました。棒が入りきると、そこには、二つの玉と、少し余った皮がだらんと下がっていました。このままではいけません。わたしは、玉を、棒のあとにねじ込見ながら、棒状の物を探しました。マジックでは細すぎますし、折りたたみ傘では大き過ぎます。そこで、机の近くにあった単1電池を二本入れる懐中電灯で、押し込めることにしました。出来るかどうかわかりませんが、とにかくやってみることにしました。ところが、意外にもうまく入っていきました。少し痛みを伴いましたが、我慢できない痛さではありません。我慢しながら、懐中電灯を差し込んでいき、三角錐の形のところまできたときわたしは、差し込むのをやめました。股の間に今まで感じたことのない新しい感覚を感じながら、わたしは、鏡を見ていました。鏡には、股を広げ、あそこに、懐中電灯を差し込んでいる女の身体をした浅黒い男の顔を持つ変な生き物が写っていました。羞恥心のかけらもないその姿に、何ともいいよいうのない恥ずかしさを感じました。わたしは、懐中電灯を抜くと、あそこの形を整えました。まったく、男には想像できない形です。最後に顔に取り掛かりました。

「うんとこぺちょんこ、うんとこぺちょんこ、べっぴんになれ、べっぴんにな〜れ。」

そう言いながら、わたしは、顔の形を変え、首ののど仏を押し込み、細くし、声のトーンを変えて、女性の、彼女の声に近づけました。幼い頃、脳に刺激を与えるからと言って粘土しか与えてくれなかった親にこのときばかりは感謝しました。完璧に彼女とそっくりの顔になると、わたしは、彼女を抱いて、寝室のベッドに運ぼうとしました。ところが、腕を細くしたからか、彼女を抱きかかえることが出来ませんでした。仕方なく、彼女を引きずるようにしてベッドに運ぶと、何とか、ベッドに寝かせ、風邪を引かないように厚手の布団をかぶせました。そして、リビングに戻ると、脱がせた彼女の服を着ました。ピチッ

とはけるパンティに感心し、昔読んだマンガを参考にブラジャーをつけました。ブラジャーをつけると今まで、ちぎれるかと言う感じがしていた胸の重みが、両肩にかかってきました。女性に肩こりが多いわけがよくわかりました。パンストをはき、服を着付けると、さっきまでの彼女と違ったボーイッシュな彼女が出来上がりました。姿身の中の彼女は、今までになく、活発そうで、輝いていました。わたしは、いよいよ、出かけることにしました。それは、今までにない大冒険。男としてではなく、完璧な女としてのデビューです。ファンデーションを薄く延ばし、リップをつけると、わたしは、興奮と不安を感じながらも、玄関のドアを開けました。

 わたしは、外に出て、このサイトでよく表現されていることに気づきました。それは、視線によって感じ方が違うと言うことです。今までよりも、十数センチの違いなのに、世界がまったく違うように見えました。そして、町に出ると、今までと全く違うものに気づきました。それは、すれ違う人の視線です。今までは、視線をまったく感じなかったのに、今は、すれ違う男の、いやらしい、なめまわすかのような視線と、女の値踏みするかのような視線を感じます。ウインドショッピングをしながらガラスに映る自分の姿と、後や店の中の女性達と比べたりして、いつのまにか、自然と女性として行動している自分に驚いたりもしました。

 せっかく女になったのです。男にとってのミステリアスゾーンのあそこに行ってみるしかありません。わたしは、デパートに入ると、下着売り場に行きました。男の時には近寄ることも出来なかった場所。いざ行ってみるとそれほどの興奮はありませんでした。それならば、禁断の密室へ、勇んでいってみると、そこは、後悔と猜疑心の坩堝でした。男の前ではけっして見せない赤裸々な女の姿があるのです。これ以上お話しないほうが、貴方の為でしょう。夢と現実のギャップに、浮かれた気分は打ち砕かれて、わたしの大冒険は、しぼんでしまいました。あといくつか残っているけど、思っているほどのことはないでしょう。さてどうしようかと思っていたとき、わたしは、最大の事が残っていたことを思い出しました。皆さんもこれを待ち望んでいたのでしょう。相手がちょっとと言う気はしますが、わたしは、最大のイベントに向けて、行動を開始することにしました。

 さて、どうしたらいいのでしょう。まずは、簡単にしかしていないお化粧でしょう。化粧品売り場に行き、あれこれ眺めていたのですが、店員からは、来店の挨拶を受けただけで、あまり相手にされません。メイクモデルと言うのは、化粧栄えする、平凡な人が選ばれるようで、もともとの美人(自分で言うのもなんですが、今のわたし)のようなものは、あまり代わり映えしないので、選ばれないようです。モデルに選ばれた女性に、美容部員がするメイクを見ながら覚えると、トイレに駆け込み、彼女のバッグの中の化粧道具で、みようみまねのメイクをしてみました。でも、やはり付け焼刃のメイクでは、うまくいきません。仕方ないので、さっきのような簡単なメイクでごまかすことにしました。服も変えたかったのですが、メイクも変える必要が出てきますので、このままで行くことにしました。

 ナンパされるのはどうしたらいいのでしょう。いつもはするほうなので、自然と体が動くのですが、されるほうとなると、ぴたっと思考が止まってしまいます。仕方ないので、待ち合わせで有名な広場で、ぶらぶらしてみることにしました。あまりきょろきょろしていると盛りのついた猫のようですし、じっと硬くなっているとだれも寄り付かないし、わたしは、どうしようもなく3時間ほどぶらぶらしていました。すると、どこからともなく、金髪にピアスをした若者が、3人ほどやってきて、わたしを取り囲みました。

「カノジョ〜、カレこないみたいジャン。オレタチといいことしようよ。」

「いいじゃんかよ。いこうよ。」

 彼らは、わたしをと襟囲んでそういいました。確かに、経験は出来るでしょうが、こんな彼らとはいやです。わたしは、助けを呼ぼうとしたとき、男性が、わたしの手をつかみました。

「遅くなってごめん。時間がないから急ごう。」

 彼は、わたしの手を掴んだまま走り出しました。わたしもつられて走り出してしまいました。なれないハイヒールで転びそうになりながらも、走りつづけました。若者達は、一瞬のことに呆然としていました。彼らが見えなくなると、男は、立ち止まり、わたしのほうを向きました。長身のたくましい体つきの好青年でした。

「どうしたんだいこんなところで。」

 わたしは、答えることが出来ませんでした。誰かわからないからです。でもよく見ると。以前何度かあったことのある彼女の同僚の編集員なのを思い出しました。

「いえ、なんとなくあそこにいたら、声をかけられて、それで。」

「それで、誘いに乗ろうとした。」

「違います。」

「まあ、それはいいけど、どこか、入ろう。奴らが、追いかけてくるといけないから。」

 わたしの返事も聞かずに、彼は、わたしの手を強く握ったまま引っ張って行った。

「いたい。」

「あ、ごめん。いたかった。ごめんごめん。」

 謝る彼の顔がかわいくて、ついわたしは、意地悪を言いたくなってしまいました。

「許さないから、おごってもらいますよ。」

「わかったよ。でも、あまり持ち合わせがないから、ここでいいかな。味は保証するよ。」

 彼が、連れて行った店は、小汚いラーメン屋でした。でもそれが、彼らしくて、わたしは、つい微笑んでしまいました。

「お給料日には、もっといいところに連れて行ってくださいよ。」

「わかった。でも、君も知ってるように薄給だから、あまり高いとこはだめだよ。」

 そういう彼と二人で、わたしは、店の中に入っていきました。店の中は、外見よりは、はるかにこぎれいにしてありました。わたし達は、テーブルに座ると、彼のお勧めの特製チャーシューメンを頼みました。彼の行き着けなのか、仏頂面の店主が、彼に、言いました。

「彼女をこんなとこに連れてくる奴があるか。もっと、ムードのあるとこに連れて行けよ。」

「彼女なんかじゃないよ。同僚だよ。それに、彼女には大事な人がいるのだから。」

 彼と店主の話を楽しく聞いていたわたしは、ふと、彼の言葉に引っかかりました。

『彼女には大切な人がいる。』そう、彼女には、恋人がいるのでしょう。彼女の寝顔を見て、彼女になって、彼女をいとおしく思うようになっていたわたしには、少しショックでした。彼女になれても、彼女は遠くに行ってしまう。あたりまえのことなのにものすごくさびしい気がしました。それならば、いっそ彼女として、この朴訥とした彼の抱かれようか、などと思いをめぐらせている時、彼が、わたしに話し掛けていました。

「それで、彼の作品は完成したの。」

「えっ。」

「だから、君の彼の作品は完成したの。締め切りは、明日だろう。君は、編集長と約束したのだろう。彼の作品を締め切りまでに完成させるって。出来なければ、会社を首になってもいいって。これで、彼もメジャーになれるって言ってたじゃないか。そのお手伝いが出来ればそれでいいって。彼には君の気持ちを伝えたの。」

 何の話だろう。彼ってだれだ。締め切り?メジャー?落ちたらクビ?彼女の気持ち?

「らんおう君は、いい物を持っているけど、それを出すのが下手だからなぁ。それを引き出すのは、君はうまいけど、自分の気持ちを相手に伝えるのは、君は、下手だからなぁ。まだ、らんおう君に君の気持ちを伝えてないのだろう。」

 らんおう?わたし?彼女がわたしを?原稿が落ちれば、彼女はクビ?

 原稿を書かなくちゃ。わたしのために彼女がクビ。そんなことはさせちゃだめ。

 「ラーメンがきたよ。さめないうちに食べなよ。」

彼の声は、わたしの耳には聞こえていなかった。わたしは立ち上がると、彼に謝り、店を出て行った。

「また振られたね。俺が、女ならおまえさんをほって置かないのだがな。」

「おやっさんが、女じゃなくてよかったよ。そんな顔の女は怖いもの。」

「ほざけ、料金倍だ。」

「えっ、かわいそうだからって、おごりじゃないの。」

「こんなことでおごってたら、店がつぶれてしまうよ。」

「まったくだ。」

 二人の楽しそうな笑い声が、店の外にまでも響いていた。

 わたしは、そんなことは知らず、タクシーをつかまえると、自分の部屋へと急いだ。時間がない。考えが煮詰まってどうしようもないなんていってられない。彼女のため、、いや、自分を信じてくれる彼女を不幸にする自分にならないためにも完成させなくては、という思いでいっぱいだった。今まで、どこかあった甘えが不思議と消え、ラストまでのシノプシスが出来上がっていた。わたしは、このときほど、ワープロの前に早く座り、キーボードを叩きたいと思ったことはなかった。

 タクシーを降り、お釣りをもらうのもそこそこに、自分の部屋へと急いだ。そして、ドアを、開けると、ワープロの前に座ると、キーボードを叩き始めた。変換作業ももどかしかった。そして、自己記録最速で原稿を仕上げた。何度も見直し、それを、フロッピーに保存すると、わたしは、椅子の背もたれに身を任せた。今までに味わったことのない満足感だった。ふと、部屋の壁にかけた時計を見ると、8時をさしていた。わたしは、フロッピーをプラスチックケースになおすと、ベッドにまだ眠っている彼女を起こした。まだ寝ぼけている彼女に、自分の着ていた服や下着に着替えさせると、会社へと送り出した.そのあと、わたしは、身体中のおしろいを洗い流した.それは、せっかく変身したのだから楽しみたかったが、彼女の姿では、どうしてもする気にはなれなかった.惜しい気はしたが、元の自分に戻った。

 それから、原稿は間に合い、彼女のクビはつながり、わたしの作品は、今までにない出来ということで、仕事も増えていった。その後、彼女との仲はどうなったかと言うと、彼女はあの仕事を最後に会社をやめ、田舎に帰ってしまった。『らんおうさんの最初のファンとして、ずっと見守っています。』という伝言を残して。

 それから、わたしがどうしたかは、ご想像にお任せします。あのときの変身を、彼女は夢うつつの中で気づいていたようです。そして、あの、クリーム瓶の中身の秘密も。まだ少し残っていたクリーム瓶の中身は、去年、結婚した妻が、どこかに隠してしまいました。また、悪さをするといけないからといって。

 妻が、横で、スクリーンを覗いています。仕事は終わっているので、鬼の編集者よりも怖い妻も、笑顔で見ています。今わたしは最高にしあわせです。