淫らな憑き物 2
紗枝はぼーっとしながら、駅のホームで電車を待っていた。地方とはいえ人口の多い地域だから、電車の本数は多く、どの時間であっても比較的待ち時間は少ない。紗枝の家は隣町にあり、ここから三駅先である。依頼者の家は隣の駅から近い住宅街にあるらしい。紗枝は、その場所を示す地図を手にもっていたが、視線はどこか遠くを見ており、決して地図には向けられていなかった。
「順子さん、どうしちゃったんだろう」
紗枝は、さきほどの順子の痴態を思い出していた。彼女の様子は、始めは普段通りどこも変わりない様子だった。しかし、急に震えだしたかと思うと、声も態度もがらっとかわっていた。そして、あの行動は・・・
「何であんなことを」
まるで順子の人格ががらりと変わってしまったかのようだった。そこまで考えて、紗枝はその順子の様子が、自分がこれから行くことになっている依頼者の姉に関する相談内容と、まったく一緒だということに気づいた。それはすなわち、あの噂も真実だ、ということなのだ。
「・・・嘘だったら良かったのに・・・」
まだショックの抜けきれていない紗枝が、呟くように声を出す。自分の近しい人にまで例の事件の被害者が出てしまったのだ。都市伝説のようなもので、実際に急に人が変わったように自慰行為をするなんてことありっこない、紗枝は、つい昨日までそう思っていた。依頼者の話を聞いても、実感が無かった。けれども、自分の目の前で、それ、を見てしまったから。紗枝はひどく悩んでいた。
「私に、こんな事件が解決できるかしら・・・」
電車が来た。随分待っていたように感じられるが、ほんの10分程度だ。
紗枝は、落ち込んでいるかのように下を向いていたが、到着した電車に顔を向けたとき、その表情には決意が漲っていた。
「私たちが。私たちだからこそ、解決するんだ。私が弱気になっちゃだめだ」
紗枝は、よーし、と気合を入れ、電車に乗り込んだ。
依頼者の名前は、伊勢と言った。事務所に来た妹のほうが真理絵、そして、被害にあったという姉が、咲子と言った。妹は同じ高校の1年生で、姉のほうは今年高校を卒業して地元の短大に進学していた。その自宅は、意外と簡単に見つかった。駅前の通りを、1度曲がると、もうそこは住宅街になっていた。住宅の真中を貫く道は、ところどころで屈折しながらも、ほとんど一直線に伸びており、最近に舗装されたばかりらしく、青っぽいアスファルトが錆びたマンホールの蓋を囲んでいた。道の南側は比較的旧い家並みだったが、北側は新しく建てられた家が多く、依頼者の伊勢家は、手前から2番目の角に建っていた。
「・・・どちら様でしょうか?」
インターホンを鳴らすと、陰鬱そうな声がスピーカー越しに聞こえてきた。声の表情が違っていたが、確かに先ほどの依頼者の声だった。あれから数時間経っていたせいか、事務所を出たときに見せた多少の明るさは、事務的な相手を探るような声質によって完全に消えていた。
「T高校のクラブのものですが・・・」
あらかじめ言っておいたように、単にクラブという呼称を用いた。高校生が探偵というのは大人から見ればばかげたことととられるし、例え信用に値する能力を持っていたとしても、探偵というのは好かれる職種ではない。特に、家族内の悩みについては。
「あ、いらしてくれたんですね。どうぞ入ってください」
しかし、その少女にとってみれば、実績のある探偵というだけでなく、頼れる先輩でもあり、家族に起きた不可解な事件を解いてくれるのだ。途端に明るい声になると、自ら紗枝を迎えに出てきた。
「このたびは、おかしなことを持ちかけてしまって申し訳ありません。笑っちゃうでしょ。バカバカしくって」
家に入って二階の部屋に案内された。すると、すぐに姉の咲子もやってきた。
今日は短大を休んで、ずっと家にいたのだという。冗談めかして話し掛けてきたが、やつれた顔に、それは無理やりに明るく振舞っていることが窺えた。その気持ちは、順子の様を見てしまった紗枝にとっては、痛いほど良くわかる。
「いえ、今回のことは、はっきりと事件だと認識しています。原因はまだわかっていませんが、お姉さんの話を聞かせていただいて、早急に本格的な捜査を開始したいと思います」
「ありがとう。そう言ってもらえると、もし、解決しなかったとしても、あなた方に話を聞いてもらえるだけで、随分と気持ちが楽になるわね」
咲子の表情がふっと和らいだ。薄幸の美女、という言葉があるが、この姉妹にもその言葉が良く似合っていた。苦しい中で時折見せる二人の表情が、とてもやさしいものに感じられるのだ。だからこそ、私たちは解決に向けて全力を尽くさなければならないのだと、紗枝は改めて決意を固めた。駅のホームでの打ちのめされたような気分は、ここで完全に吹き飛んでいた。
「話は、お茶を飲みながらどうぞ」
真理絵が用意してきたお茶と菓子を紗枝に勧めながら、咲子はゆっくりと話を始めた。
咲子の話を聞きながら、紗枝は所々で質問を挟んだ。もともと、時間としては短い内容だから、質問自体はあまり細かいものではなかったが。
咲子の話を要約すると、次のようになる。
「・・・あっ・・・」
咲子が短大の図書館で本を探していたとき、突然背中に寒気を感じたのだという。その感触は、冷やされた水滴が背中に落ちてきたかのように、はじめは一点だけに集中して寒さを感じた。しかし、すぐさま次の寒気が襲ってきて、そのまま倒れてしまったのだという。
「あああっ!?」
そして、倒れたのとは異なる何らかの衝撃によって、意識を失った。
「・・・」
次に目を覚ましたとき、彼女は図書館の床で、半裸になっていたという。意識が戻って見たのは、自分の着衣の乱れだけではなく、明らかに行為が行われたという証があったこと。それでも不幸中の幸いだったのは、誰かを相手にする行為ではなく、あくまで自分ひとりで完結する行為だったということだ。
「あ、いや・・・いやーーー!?」
けれども、自分が無意識のうちにそのようなことをしていたと気づいた咲子は、思わず大声で叫んでしまった。付近に人が居なかったのは、良かったのか悪かったのか。とにかく慌てて服を着込むと、図書館から逃げ出した。そのままバスに乗り込んで、自宅に帰ってくるまで、とても正気ではいられなかったという。自分の部屋に入ってからも、何か恐ろしい思いが込み上げてきて、家族が帰ってくるまでの間、ずっと布団の中で泣き続けていた。
「大体そんなところかしら」
他人に話を聞いてもらえたからだろう。先ほど咲子が自分で言っていたように、自身でも驚くほど随分落ち着いて語ることができた。
「意識を失ったとき、近くに誰も居なかったのは確かでしょうか」
紗枝は、咲子の話をほとんどそのままメモしていた。そして、最初のほうから順に隙間を埋めていくかのごとく、さらに書き込みを増やしていく。
「書架の間にいたので、誰かいたとしたらすぐにわかります」
「そうすると、薬をかがされるなどの直接的要因ではなさそうですね。遅効性の薬物という線もあるかもしれませんが」
咲子の返事に、うーんと考えこむ紗枝。
「クロロホルムを部屋にまいたとか」
何かの役に立ちたいのだろう。真理絵も一生懸命答えを探そうとする。
「ちょっと難しいと思うわ。狭い部屋ならばともかく、図書館のようなところではね」
紗枝は咲子が書いた見取り図を見ながら答える。図書が開架されている場所は、フロア全体が一つの大きな空間になっていた。
「薬物のことに関しては、もう少し検討したいと思います。今のところ、一番可能性があるものなので」
そう言って紗枝は、メモに薬物の疑い消えず、と書き加えた。
「それから、気を失っていた時間についてですが、どれくらいか覚えておられますか」
咲子はパニックを起こしていたのだから、気絶する前はともかく、気がついた時間については、あまり詳しい時間はわからないだろうと思われた。
「1時25分から10分程度だと思います」
しかし、咲子の答えは驚くべきものだった。
「え、それはどうしてわかったのですか」
「図書館から飛び出て、そのままバスに乗ったのですが、その時間って、30分に一本しかバスの来ない時間でした。それが午後1時45分です。バス停は校門前にあって、そこまで数分とかからないし、ちょうどバスが来ていたから。渋滞も無い時間だから、おそらく時間の遅れは5分と無いはずです。午後2時から講義があったから、1時半くらいに一度時計を確認したし、その時間で間違いないと思います」
そこまで言ってから、咲子は、ついさっき気づいたのですが、と付け加えた。