淫らな憑き物 5


「ハァ・・・ハァ・・・紗枝?」
しばらく肩で息をしていた片桐だったが、やがて呼吸を整えると、紗枝に声をかけた。
「片・・・桐さん? 大丈夫ですか?」
どうやら普段の彼女に戻ったようだった。それでも、紗枝は恐る恐る声をかけた。
「ふふふっ。あいつね、へたくそだったから、私がちょっと手伝ってあげたの。そうしたら出て行っちゃったみたいね」
紗枝はほっとすると、そのまま片桐にぎゅっと抱きついた。
「ちょ、ちょっと何よぉ」
二人ともまだ裸であった。火照った互いの体が、今の二人には心地良い。
「・・・紗枝。泣いてるの?」
「だって・・・だって・・・怖かったんです」
紗枝は片桐に抱きついたまま、涙を流していた。熱い背中を、ふたすじ伝わる。
「ごめんなさいね」
片桐は可愛い妹をあやすように、紗枝を慰める。そして、背中をそっとさするのだった。

・・・キーンコーン・・・

「あ、授業終わったみたい」
どれくらいの間、そうしていたのだろうか。授業時間の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。
「・・・ん?」
紗枝は泣きつかれて、うとうととしていた。すでに涙は乾いている。
「くちゅん!」
「あらあら。そろそろ服を着ましょうか。次の授業はどうするの?」
片桐は紗枝をほどくと、さっさと服を着始めた。紗枝も慌てて下着を身に着ける。
「片桐さん。さっきの事なんですけど・・・」
制服のリボンを整えながら、紗枝が聞く。
「さっきって?」
片桐は髪を梳かしていた。
「『あいつ』とか『出て行った』とかです。もし例の事件と同じならば、もしかして・・・ふひゃ!?」
片桐が、問い掛ける紗枝の両頬をつまんでいた。
「いひゃいひぇふ」
「あのねぇ。さっきまであんなに泣いていたのに、もう『調査』なの?」
「ほへんなひゃい・・・あうっ」
片桐が手を離したが、相当力が入っていたのだろう。紗枝の頬には赤く指の跡が残っていた。
「ううっ・・・だって・・・」
「まあいいわ。次の授業は何?」
片桐はすっかり身嗜みを整えると、鏡に向かってよしっと気合を入れていた。自身?に陵辱された雰囲気は、すでに微塵も感じられない。
「えっと、現国です」
なぜそんなことを聞くのかわからないが、紗枝は答えた。
「もう1限、授業休めるでしょ。何があったのか話してあげる。犯人の正体とか、といっても誰とかわかるわけではないけど、その目的とか」
片桐の言葉に、紗枝の瞳に強い輝きが宿る。それを見て、片桐はうらやましく思っていた。なんて強い子なのかしら、と。
自分は先程、精神も肉体も犯されていた。それは何か得体の知れないものであって、とても自分の力で太刀打ちできるものではないと痛感していた。窮地から抜け出すことができたのは、紗枝が来てくれたからだ。その後も、紗枝が泣かなければ、自分が泣いていた。今だって、目の前に紗枝がいなければ、とても正気ではいられないだろう。紗枝が自分を守ってくれていたのだ。そして、今度は自分が紗枝を守らなければならないのだ。
片桐は、砕けそうになる心を奮い立たせると、そう決意した。

数分後、二人はコーヒーを入れると、それを啜っていた。インスタントとはいえ、コーヒー独特の強烈な香りが、傷ついた精神を癒してくれる。
半分ほど飲んだところで、片桐が口を開いた。
「今回の事件ね。超常現象によるものと考えられるわ」
「超常現象・・・ですか?」
紗枝が良くわからないといった表情で、首をかしげる。
「そう。ちょっと私も自信が無いのだけど・・・いえ、逆ね。自ら事件の被害にあって、確信しているわ」
眉を顰めて、片桐が言った。
「事件の被害者は、病気になったわけでも、何か暗示を掛けられたわけでもないわ。憑かれたのよ、霊に」
「えっ? 霊ってまさか、そんなことって・・・」
紗枝は反論しようとしたが、片桐の真摯な目を見て、続きを言い出すことができない。
「そうね。確かに信じられないでしょうね。順を追って状況を説明するわね」
そういって、片桐は残りのコーヒーを飲み干した。

「昼休みの終わりに、みんなが教室へ向かった後、私は一番最後に出て行こうとしたの。そのとき、急に寒気を感じて、それからおそらく一瞬だと思うのだけど、五感がすべて消失したような感覚に襲われたわ。感覚が無くなる感覚っていうのは変だけど、立ちくらみとか眠る直前のような感じかしら。今から思うと、そのときに憑かれていたのね。で、真っ暗になった視覚が戻ってきたんだけど、体が勝手に動いてしまう。どんなに力を入れても、逆に抜いても、自分の意図したようには決して動かないの。そしてね、喋るのよ」
「喋るんですか?」
「そう。私は全然口を動かそうともしていないのに、『とうとうここまで来た』って・・・」
片桐は、そのときの様子を真似しようとしたのだろう。その部分だけ声色を使う。そして、自分の声であるにも関わらず、自分が喋ったわけではない声というのは、随分奇妙だったと思い出す。
「私はそのとき、驚いて『えっ、どうして』って声を出したの。てっきり声まで全部奪われていたと思っていたのに、声は出せたの。これには、私だけではなくて、そいつも驚いていたみたい。それで、面白いことがわかったわ。それは、今度は声に出していないのに『完全には支配できなくなったようだ・・・』っていう、声・・・いえ、意識の、心の声みたいなものが聞こえてきたこと。・・・それから、ベッドに連れて行かれたんだけれど、丁度誰かが入ってくるのが聞こえて、助けを求めて・・・ごめんなさいね」
片桐はそこで一旦話を止め、紗枝に向かって頭を下げた。
「えっ? な、何でですか?」
突然の謝罪に、慌てる紗枝。
「あのとき私が助けを求めなければ、怖い思いをさせなくても良かったのにね」
片桐の言葉に、ふと紗枝の脳裏をあのときの恐怖がよぎる。しかし、結果として助かったのだ。問題ない。
「それからは、そうね。紗枝も知っているように、まぁ、あんなことになってしまったけど、私はその間もずっと抵抗していたの。声だけでなく、手足も自由にならないかって。ようやく最後の最後で、ほんの少しだけどね、手が動くようになって。どうしてかわからないけど、そいつを攻め立てるように、自分を慰めて・・・結局それが功を奏して、そいつを追い出すことができたんだけれど。今考えると、事件の報告にあったことが頭の片隅にあったからかも知れないわね。ただ、そのときは無我夢中で、紗枝を守らなくちゃ・・・何てね」
「か、片桐さん・・・うぅ」
「ほらほら、もう泣かないの。はい」
片桐はそう言って、ハンカチを差し出す。紗枝の様子を微笑んで見守る片桐。しかし、その表情もすぐに厳しいものに変わる。
「・・・でもね、紗枝。これで終わりじゃないのよ。そいつが言っていたのを覚えている?『あなたを手に入れられそう』って。声に出しただけじゃなくて、意識でもそいつは同じようなことをずっと考えていたの」
「そ、それって・・・」
紗枝が驚きの声を上げる。
「そうよ。今回の一連の事件の犯人。その目的は紗枝、あなたなのよ」
「・・・」
片桐の言葉に、紗枝はしばらく何も言うことができなかった。