入れ物
ある晩の事、僕が眠っていると、枕元で誰かの泣く声が聞こえた。
「そこにいるのは、誰だい?」
僕は起きあがって、その泣いているモノに声をかけた。
僕が住んでいるマンションは、地形からか風向きからか、よくそう言ったモノが流れてくるのだ。
「・・・おじさん、ぼくが見えるの?」
「見えるとも。それに、お兄さんは、君に触ることもできる」
おじさんとはひどいが、彼は、僕が彼の事を知覚できると知って、ようやく泣きやんだ。
「何があったか話してくれるかい?」
僕は、彼の頭を優しくなでながら、耳元でささやくようにして聞いた。彼は、記憶を探るような仕草でゆっくりと口を開いた。
「ぼくね、体を探しているんだ。気づいたら無くなってて、パパもママも、ぼくが見えなくて、ぼくが一生懸命こっちだよって言っているのに、わからなくって、触っても通り抜けて、行っちゃうんだ。だから、ぼく泣いてたの」
彼はそう言うと、また少し涙ぐんだ。僕は彼を胸に抱きかかえて、
「じゃあ、お兄さんが体をあげるよ」
と、言った。都市構造的なものか環境的なものか知らないが、僕はそういったモノ達へ提供する体を持っていた。彼には、その中の一つを与えるのだ。
「さぁ、こっちへおいで」
僕は、彼をそっと隣の部屋へと導いた。
ぶ〜ん、と羽音をならして、一匹の蜂が宙を舞う。蜂は、ゆっくりとした動作で僕の肩にとまると、まるで子犬のように首を傾げて言った。
「何か変だよ、おじさん。目の前が青で黒くて紫なの。おうちに帰りたいのに、ぼくのおうちと違うの。ぶんぶん飛べるのはうれしいけど」
それは、少年の声だった。僕は、まず始めに、蜂の体を彼に与えたのだ。
「そうかい。じゃあ、次はこっちへ入ると良い」
蜂はちょんと頷くと、そのまま床へと落ちていった。入っていた魂が抜けて、その体は再び死へと舞い戻ったのだ。
淡い霧のような、透き通ったモノが、ゆっくりと虚空へと滲み出てくる。それも束の間に、今度はぺちゃんこになった猫へとじんわり染み込んでいった。
霧が晴れると、猫は唐突に飛び上がって部屋中を駆け回った。「すごいよ、おじさん。高い所もひとっ飛び!」
タンスの上から、猫になった彼がはしゃいだ声を上げてくる。僕は、おじさんを訂正するのも諦めて、彼にやさしく微笑みを向けた。
「猫、いいね。おうちに帰ったらパパとママは飼ってくれるかな。僕ってわかってくれるかな」
遊び疲れたのか、猫になった少年は、丸くなって眠ってしまった。
しかし、彼の望みは叶わないだろう。魂は、その体によって形を変えるし、魂の声は、例え、体を手に入れたとしても、やはり普通の人間には聞くことができないのだから・・・
「それにね、君は・・・」
僕は、そっと猫を抱きかかえた。
「ふわぁ・・・あ、おにいちゃん。おはよう」
みひちゃんが寝ぼけた目を擦りながら、ベッドから起きてくる。みひちゃんは、僕が昔住んでいたアパートの、隣の家にいた女の子で、いつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って言いながら僕の周りをついて回っていた子だった。あの日の朝、僕の手によって冷たくなるまでは・・・。
「おはよう、みひちゃん。今日の朝ご飯はたまごやきだよ」
「わぁい、みひちゃん、おにいちゃんのたまごやき大好き!」
みひちゃんになった少年は、記憶までもが、すっかり体に馴染んだようだ。うれしくてたまらないといった表情で、椅子に座る。
・・・これで、またしばらくの間、遊び道具に事欠かない・・・。
僕の瞳に、冷酷な光が宿った。