レジスタ
3月に雪が降ることも、最近では珍しい。ここ数年、暖冬になったせいだろうか、1月2月に大雪が降るが、それ以外ではめったに雪が降らなくなっていた。
しかし、今日は朝から粉雪が待っていって、昼前には、ボタン雪がまるで雨のように降り積もってきた。
「店長、あがりまーす」
「あがります」
咲子と、彼女の先輩にあたる由紀が、店長に声をかけて、退勤手続きをする。雪のせいか、客足はさっぱりだった。もっとも、雪が降っていなくても、そんなに忙しいということはない。もともと、客は少ないのだ。
二人は、昼から入っている別のバイトへ引継ぎしてから、ロッカールームとは名ばかりのスペースで着替えをする。
「あたし、名前は由紀だけど、雪って嫌いなのよね」
由紀がセーターを着込みながら、呟くように言う。
「私は、好きですよ」
「ふーん。どこが?」
「えーと、そうですね、ゆっくりと降り積もって、そして真っ白になるところかな」
咲子は窓から眺める雪景色が気に入っていることを思い出した。
「あれ? 雨が降ってきたときは、汚れるから嫌い、って言ってたじゃない。雪だって、そうじゃないの?」
由紀が疑問を口にする。
「うーん、雪は降っているときは白くなるだけで汚れないですよね。だから、好きなんだと思います」
「ははは。変なのー」
咲子がとってつけたようなことを言うので、由紀は笑い出してしまった。
「えーと、次に一緒になるのは土曜日だね。それじゃ、お疲れ様ー」
由紀は勤務表を確認して、さっさと帰ってしまった。咲子も、自分のシフト(勤務日時)を確認してコートを着込んだ。雪はもうずいぶんと積もっていて、気温もだいぶ下がっている。
「あ、これも好きかも」
咲子は、靴でさくさくと新雪を踏みしめていく感触を心地よく思いながら、先ほどの会話を思い出していた。
「そういえば、由紀さんが雪を嫌いな理由を聞いてなかったなぁ」
好きになるのには理由がない場合が多いだろうが、嫌いになるには、きっかけがあるに違いない。もちろん、なぜかわからないのに、嫌いになっているというパターンもあるが、由紀の様子から、どうも何かあったらしいことは察せられた。
次の土曜日になると、雪は融けて、道路はぐちゃぐちゃになっていた。咲子は、
「あーあ。やっぱり、雪は嫌いかも」
と言って、由紀を苦笑させた。
「結局どっちなのかしら?」
由紀は笑いながら、床掃除を続ける。
「ま、こんなに頻繁に掃除をすることを考えると、それもわかるけどね」
額の汗を拭いながら、一生懸命床を擦る。雨もそうだが、やっぱり雪が融けた時が、一番床が汚れる。せめてもの救いは、客が少ないことだろうか。こんなときはうれしく感じてしまう。店長は、売上が落ちるなぁ、と嘆いていたのが、ちょっと申し訳ない気分だが。
「これ、何かしら?」
掃除中の由紀が、何かを見つけたようだ。入り口ドアの近くでしゃがんで、何かを拾い上げる。それは、キーがたくさん繋がっている、緑色の奇妙な怪獣のキーホルダーだった。
「あらら、店長ったら、こんな大事なものを落とすなんて」
「店長のものですか?」
「そうよ。この店の全部のキーがついているの」
「えっ、それじゃ、大切なものですよね」
「まったく、どうしてこんなものを落として気づかないのかしら、あの店長は」
「連絡しましょうか?」
「え? ああ、いいって。金庫にでも入れて、メモを貼っておけば。・・・それよりさ、ちょっと遊んでみない?」
由紀が、咲子の目の前でキーホルダーをぶらつかせて、にやりとする。咲子には、キーを使って遊ぶ、ということが、どういうことだかわからない。
「このレジさ、最新型に変わったでしょ。いろいろ機能がついてるんだよね。あたしも店長にいくつかの機能を教えてもらったんだけど、商品説明とか、誰でも見られるやつね。でも、このキーがあると、売上とかもわかっちゃうのよ。興味ない?」
「え、えーと・・・」
由紀の問いかけに咲子は戸惑ってしまう。そういえば、この店にはあまり客が来ない。それなのに、何だか妙に設備の更新も早くて、店長の評価も高いらしい。咲子はそんな疑問を持っていた。
「そうですね。気になります」
「よっし。そうと決まれば、ちょっと使ってみるか。ちょうど客もいなくなったしね」
先ほど、店内にいた男性が、コーヒーと中華まんを買って帰っていたのだ。近くに住んでいるらしく、時々やってきてはおやつ程度のものを買っていく。
「んー、これね。あ、入ったよ」
由紀は早速、キーを入れていた。画面が、普段は見ることのできない状態に変わっている。売上日報とか、価格改定とか、咲子にもわかるメニューもあれば、Aとか、SSRとか、ETとか、記号で書かれているものもある。何のことだか、当然わからない。
「売上ってこれだと思うけど、こっちの記号のメニューは何かしらね?」
由紀も同じ疑問を持ったらしい、売上を見るはずが、そっちのけになっている。
「ね、ちょっと押してみようか」
「あまり変なことをしちゃうと、まずいんじゃないでしょうか」
「でも、もう押しちゃった・・・えへ」
由紀は、指で画面を探っているうちに、何かのボタンをすでに押してしまっていた(タッチパネル方式なのである)。画面が切り替わって、中央に「CBモード」という表記が出ている。
「えーと、これだけかしら?」
由紀は不思議そうに画面を見ている。別に何かが起きた様子もない。咲子にも、CBモードが何を意味しているのか全然わからない。そのとき、店の外に人影が現れた。
「お客さんだ。えーと、番号番号っと、あ、間違えちゃった。ま、いいか」
由紀が責任者番号(レジやレシートに記録される店員番号)を押す。咲子は、そのとき、由紀の姿を見て、硬直してしまった。しかし、由紀はそのことに気づいていないらしく、客の応対をする。
「えー、250円になります。・・・はい、ちょうどお預かりいたします。ありがとうございましたー!」
客はタバコを買って、すぐに帰ってしまった。咲子は、先ほど目の前で起きた事が、ようやく認識できた。
「も、森川君!?」
「え、何言ってるの? 今の人、森川君じゃないわよ?」
「ち、ちが、違う。由紀さんが森川君に・・・」
「は? んー、んんん。声がそういえば、変ね。風引いちゃったかしら」
「か、体。体が!」
「もう、何よ。さっきからおかしな子ね。体がどうしたって・・・きゃーーーー!?」
由紀は咲子が指差すように、自分の体を確認してみた。そして、次の瞬間、悲鳴を上げていた。慌てて、トイレに駆け込むと、鏡で自分の顔を確認して、また悲鳴を上げる。さらに、胸を触って悲鳴。最後に、あそこを触って悲鳴を上げていた。
「はははは、何、これ? いったいどうなってるの?」
トイレから戻ってきた由紀は、ぼうっとしたまま突っ立っていた咲子の肩を荒々しく揺さぶった。そして、なぜか咲子の頬を思いっきり抓る。
「あいひゃひゃひゃ、いひゃいですよ、森・・・由紀ひゃん」
「あ、ごめん」
「何だろうね、これ?」
「さっき由紀さんがレジを操作した直後に、森川君になっちゃったんです」
すでに由紀も咲子も落ち着きを取り戻し、原因がレジにあると考えていた。まぁ、当然の帰着であろう。
「そうね、番号を押し間違えて、表示が森川君になってるもん。おそらくこれが原因ね。・・・1、4、と。どう?」
「あ、元に戻りました」
由紀が再び番号を押すと、森川の姿が消え、元の姿に戻っていた。
「他の番号でもなるかな・・・2、8は?」
「あ、それ私の・・・あっ」
「へへへ。あたし咲子。ぴちぴちの20歳でーす」
咲子になった由紀が、両頬に指を当てて、ポーズをとる。
「やめてくださいよ。そんなこと、私はしません!」
由紀は再び自分の番号を押して、元に戻る。
「ごめんごめん。・・・で、どうするの、これ?」
「え? どうって、どういうことですか?」
「だから、変身しちゃうような機械って滅茶苦茶怪しいでしょ。どうしてコンビニのレジで、こんなことが起きるの? 普通じゃないでしょ?」
由紀の言葉に、咲子は黙ってうなずく。どう考えても普通のレジじゃない。
「とにかく、店長をとっちめてやらなくっちゃ。あたしを馬鹿にして!」
何だか別の方向に向いているようだが、由紀は単に怒っているだけだった。しかし、咲子はふと、去年、友人の彩美のことを思い出していた。そういえば、STにも変な表示が出ていた。そして、その後、彩美はいなくなった・・・。
「さて、とりあえずこの物騒なキーは抜いておきますか。よっ」
由紀がキーを抜くために、番号消去ボタンに手を伸ばす。咲子は奇妙なデジャビュを覚えて、とっさに叫んでいた。
「だめっ!」
「え?」
しかし、由紀の手は止まらない。レジから店員番号が消える。
・・・そして、由紀も消えた・・・。
「きゃーーーーーーー!!」
咲子は叫んでいた。ただ恐怖に怯え、本能の赴くまま叫んでいた。あまりの恐怖で、それが自分の声だとは気づかなかった。
それから、何が起こったのか咲子は覚えていない。叫び声を聞きつけたのか、誰かが店に入ってきたのは覚えているが、ふっと意識が遠のき、そのまま気絶してしまったのだ。
由紀は結局帰っては来なかった。病院で意識を取り戻した咲子が、どんなに由紀のことを、あのレジのことを、訴えても、誰もまともに取り合ってくれないのだ。
「由紀さんって、誰のこと? 初めて聞く名前だけど・・・」
「そんな夢みたいなことが起こるわけないだろ?」
そう。由紀はその存在自体が消えてしまっていた。
そして、それから二度と、咲子はそのコンビニに近づこうとはしなかった。私の知らないところで、何かが起こっている。そしてそれは、誰にも気づかれない。私なんかでは立ち向かうこともできないのだ。咲子は、見えない恐怖に怯えながら、せめて自分だけでも、犠牲者のことを忘れないでいようと誓った。
彩美、由紀さん、と、ただ呟くことだけが咲子にできるすべてだった。