うたたね


「次の・・・駅は・・・川・・・川駅〜・・・」
アナウンスが聞こえてきたので、はっとして顔をあげた。夜勤明けで疲れていたのか、寝てしまっていたようだ。開ききっていない目に、日差しが強い刺激を与える。通勤時間帯ではないので、電車は空いている。それでも、シートはほとんどうまっていて、出入り口脇には立っている人も何人かいる。
電車は段々と速度を落とし、停車駅が近いことを知らせている。アナウンスを聞き漏らしてしまったが、辺りの風景から、その駅が自分の降りる駅であることがわかった。

「あれ?」
降りる準備をしようとして、それに気がついた。
定期が財布に入っているので、財布を取ろうと思った。財布を尻のポケットに入れていたのだが、ふわふわした感触があるだけで、ポケットに手を入れることができない。不思議に思って、下を向くと、まず飛び込んできたのは真っ赤なコートの色。ポケットに手が届かなかったのは、コートを着ていたため。ふわふわというのは、手がコートの上地をすべる感触を感じていたのだった。

「なーんだ」
道理で財布が取り出せないわけだ。このコートはすそが床に届かんばかりのものだ。こんなコートを着ていたのでは、ズボンに直接手が届くわけが無い。

しかし、ふと、あることに気が付いた。
「コートなんか、着ていなかった」
寝ぼけて、コートを着たことを忘れてしまったのだろうか。そんなはずはない。こんな真っ赤で派手なコートを持っているわけがないじゃないか。では、寝ている間に、誰かに着せられたのか。
わけがわからない。真冬に肌着一枚でいるわけじゃない。さびしい身なりだが、何かを恵んでもらうほど貧しくはない。第一、40過ぎの冴えない中年に、誰がこんなコートをくれるっていうんだ。

気味が悪くなり、コートを脱ごうとした。けれども、その手は途中で止まってしまった。
反対側の席、そこに座って寝ている男性を見て、驚愕した。あれは紛れも無い、自分の姿。40年以上も生きてきた自分の顔だ。間違えるはずが無い。
コートを脱ごうとしたそのままの格好で、すとんと力なく席に座ってしまった。目の前には自分が居る。では、今こちら側で自分を見ているのは、一体誰なんだろう。

「女だ」
少し呆然としていたが、やがてこの赤いコートのことを思い出していた。確か、電車に乗るときに、見かけた。疲れていてぼーっとしていたため、顔も良く覚えていないのだが、その赤い色だけははっきりと思い出すことができた。
改めて自分の体を見回してみると、間違いなく自分の体ではないことが確認できた。手はすらっとしていて、すべての指先にはコートと同じく、真っ赤な色のマニキュアが塗られていてる。コートの肌蹴た胸元には、男にはあるまじき谷間が見え隠れしていた。頭に手をやれば、流れるようなストレートヘアの感触が背中まで続いている。

もはや疑いようが無かった。
自分は、何かしらの原因で、この女になってしまっているのだ。
とにかく、こうしていても仕方が無い。目の前にいる自分を起こしてみよう。
そう思って急に立ち上がったのがいけなかったのか、立ちくらみを起こして、強烈な眩暈とともに、再びシートに倒れこんでしまった。

「・・・ぃ・・・川駅ぃ・・・お出口は右側でございます」
どれくらいの間、そうしていたのかわからない。立ちくらみから来る頭痛にも似た症状で、しばらく目を開けることもできなかった。そのうちに電車は駅に到着してしまった。降りなくてはならない。しかし、今は見知らぬ女になってしまっている。
焦る気持ちから、何とか目を開けると、先ほどのことも忘れて、また勢い良く立ち上がっていた。今度は眩暈も起きなかった。

「あれ?」
再び自分を起こそうとして、気が付いた。目の前に居るのは自分ではなく、赤いコートを着た女性。反対側に座って寝ていた男が急に立ち上がったことに驚いたのか、こちらを見て驚いた顔をしている。
あれは夢だったのだ。
慌ててくるりと向きを変えると、そのまま電車から飛び降りた。仕事で疲れているのだ。早く帰って寝ることにしよう。
それから一切振り返ることなく、電車から走り去った。

・・・眩暈はまだ収まっていなかった。
頭痛がつらかったのだが、何とか目を開けた。電車は駅に着いており、何人かの人が降り始めているところだった。
そのとき、反対側のシートで寝ていた自分の体が、急に目を開けて立ち上がった。まさに飛び起きたといった感じだった。そして、こちらを一瞬見たと思うと、すぐに電車から飛び出していってしまった。
自分はここにいる。では、今降りていったのは、一体誰なのだろうか。
去っていく自分を追いかけることも忘れ、電車のドアが再び閉まるのを、ただじっと見ていることしかできなかった。