あるバーにて
夕方に店を開き、夜12時まで営業している一軒のバー。愛想のいいマスターが客相手。店は狭いが、雰囲気が良い。常連客が多く、時々は見かけぬ顔もあった。仕事帰りのサラリーマンやOLだけでなく、時には近所の主婦が来ることもある。
「いらっしゃいませ」
マスターが、新たにやってきた客に声をかける。客は、女性。連れは居ない。
「いつもの」
女性はカウンターに腰掛けると、メニューも見ずに注文する。
(・・・はて、おかしいこと。この方は、初めてのお客様・・・)
マスターは、困惑していた。マスターの特技は、一度見た客の顔を忘れないこと。今までこの特技のおかげで、店を繁盛させてきた。それだけに、絶対の自信がある。
「失礼ですが、どこか別のお店と間違えていらっしゃる様子。あなたのような美しい女性は、見たことがありません」
「あぁ・・・そうだった。・・・カクテルを。軽めのもので」
女性は、ふと辺りを見回すと、改めて注文をする。
「はい、かしこまりました」
「ありがとうございました」
午後11時。ほとんどの客は帰ってしまった。残っているのは、馴染みの男性と、先ほどの女性。普段なら、いつも閉店まで飲んでいる男性がいるが、今日は居ない。女性は、嫌なことがあったのか、ただ酒を注文しては、次々と飲むばかり。マスターが1度声をかけたが、あいまいな返事。嫌なことがあったのかもしれない。一人で飲んでいたいのだろう。マスターはそう考えて、それ以上声をかけなかった。しかし、そろそろ終電の時間。帰宅を促す必要がある。馴染みの男性も、帰っていった。店内にはマスターとその女性。
「もしもし、お客さま。そろそろ終電の時間です。ここらで切り上げてはいかがでしょうか」
しかし、女性は変な顔をする。
「うちはすぐ近く。ここから歩いて5分とかかりません」
マスターは、はてと首をかしげる。
「私はご近所の人の顔は全部覚えています。その中にあなたの顔はないようです。となると、自分の家を忘れるほど、酔ってしまいましたか」
しかし、女性はマスターの顔をじっと見つめる。
「マスター。本当に見覚えが無いのかい」
女性は顔をぐっと近づける。しかし、何度見ても、今日初めて見る顔。
「申し訳ありませんが。やはり見覚えがありません」
マスターの言葉に、がっくりとうなだれる女性。
「仕方ない。自分でもわからないのだから」
「お客さま。自分の顔が自分でわからないということはありますまい。からかっては困ります」
「私は昨日まで、いや、今朝まで男だったのだ」
「ご冗談を」
「これが冗談だったら良かったのだが。今朝、通勤途中に、ふと鏡を見たら、この顔が見えた。始めはガラスかと思ったが、向こうの動きがこちらと同じ。慌てて確かめてみた。自分が男だった頃の面影はひとつも無い。すっかり、この女性になっていた。体ばかりか持ち物までも」
女性の口調に、からかっている様子は無い。マスターは、ごくりとつばを飲み込んだ。女性の告白は続く。
「一応会社まで行ってみた。同僚に声をかけても、不思議な顔をされるばかり。仕事場まで着いていったが、どちら様ですか、と課長にまで言われる始末。しまいには、部外者立ち入り禁止と、追い出されてしまった。親兄弟は無く、天涯孤独。友人も居ない。頼る当てが無く、あっちへふらふら、こっちへふらふら。幸い、私のものではない財布があり、それで食事をとった。ところが、夜になって、困ってしまった。持ち物がすべて変わっていたので、アパートの鍵も無い。もしかしてと、行ってはみた。やはり誰もおらず、ドアは開かない。仕方無しに、普段馴染みのこの店に来た。しかし、マスターまで私を知らないという。ああ、一体これからどうしたらいいのだろう」
マスターは、女性の言葉に嘘は無いと思っていた。しかし、本当とも思えない。記憶が混乱しているのかもしれない。マスターは、ある提案をした。
「住所が書かれたものをお持ちでは。たとえば免許証など」
女性は、ごそごそと財布を取り出す。そしてはたして、一枚の運転免許証。
「あります。そしてこれは、この女性のもの。しかし、免許証をどうすればよいのでしょう」
「そこに書かれた住所。これはあなたの家でしょう。とりあえず、そこに行ってみてはいかがでしょうか。もしかすると、そこがあなたの本当の家かもしれません」
マスターの言葉に、なるほどとうなずく女性。
「わかりました。とりあえずここに行ってみます。幸い、一駅向こうの住宅街。今からでも電車があります」
マスターはほっとした。言動が奇妙なこの女性。好奇心はあるが、あまりかかわりをもたない方がよさそうだ。
「お勘定を」
そう言って、女性はグラスを摘むようにして持つ。そのままぐいと、最後の酒を飲み干した。
「あ、その仕草は」
毎日のように深夜までいる一人の男性。女性がしたのは、その男性の仕草。しかし、女性はマスターの言葉に気がついた様子は無い。そのまま料金を支払い、店を出て行った。ぼうっとして、見送っていたマスター。はっとして、その金額を見ると、なぜかぴたりと一致する。あの女性は確かに初めての客。なぜ飲み物の代金を知っていたのか。そして、先ほどのあの仕草。
「もしかして、本当だったのでは」
女性の会話を思い出す。今朝まで男だった。ふと気が付くと、女性に。マスターは慌てて店の外に出てみた。しかし、辺りには、すでに人影は無かった。