空蝉少女
私がその奇妙な屋敷を訪れたのは、昭和九年の蒸し暑い夏の頃のことだった。
当時、大学生だった私は海軍の予備学生制度を利用して電信隊に所属しており、いわゆる予備将校の養成を受けていた。来年には学校を卒業予定なのだが、この不景気の折に就職先はなさそうな気がしたので、それならいっそ軍人にでもなってやろうと思ったのだ。
海軍を選んだのは、先年より満州への進行で意気揚揚としている陸軍よりは軍務が楽ではないか、という幾分か自堕落気味な理由であり、それに加えて肩書に将校とついているほうが郷里の両親に伝えるとき聞いたところ良さそうな気がしたからだった。
※
ある日、珍しく教官から呼ばれたので小心者の私は少々不安に思いながらも駈けつけると、少々変わった命令を受けることになった。
「私がですか?」
「本来ならまだ学生である君にやってもらうようなことではないのだが」
という前置きをして話しはじめた。
簡単に言うと、教官はあの満州事変を指導した関東軍の石原莞爾の友人であり、今回は彼から秘密裏の相談を受けたので、私にある使いを頼まれてほしいというのであった。
関東軍は、より軍事力を強化するために新たな兵器を欲しており、その事についてある研究者から石原の元に連絡があったが、現在うかつな行動は避けねばならぬ時期と立場のため、本人も参謀も直接行動はしたくない。
そういうわけで友人である教官が代理を頼まれたというわけである。それに海軍の者を隠れ蓑に使うことで間諜から機密を盗まれないようにするという意味もあるようだ。
確かに満州国の発足に伴い、中国本土進出を目指し軍部の発言力を拡大しようという風潮が生まれつつあることは知っていたが、この昭和恐慌以降の財政難の中ではしばらく軍事進行はないと思っていただけに教官の発言は驚きだった。
「その研究がどのようなものか見てきてくれないか」
「了解しました」
元より命令を断ることなど出来やしない。
面倒なことになったなと思いつつ、私は敬礼と共に退室した。
※
私は青バスに揺られながら閑静な住宅地にやってきた。
それからしばらく道に迷いながら目指す屋敷に辿り着いた時は、焼けつくような夏の陽射しにやられて全身が汗でびっしょりになっていた。
見ればかなり大きな洋館風の建物であり、どことなく近年流行のエログロナンセンスを凝縮したような屋敷だと感じた。周りを鬱蒼とした樹々に囲まれているせいかもしれない。まるで今にも魍魎が湧いてきそうな雰囲気であった。
「ごめんください」
重々しく立ちはだかるドアを叩いていると、ややあってゆっくりと開きはじめ、中から顎に長い髭を伸ばした老人が現れた。着ている白衣にはあちこちに染みが模様をつけている。誰の目にも一見して科学者とわかる格好であった。
「あの、軍の者ですが」
「ああ、待っておったよ。ささ、中へ入りなさい」
この老人、本人の弁によると博士の後をついて、ゆらゆらとランプの灯かりが照らす廊下を進んでいく。板張りの床に靴の音が高く木霊する。
「ところで、君はホムンクルスなるものを知っているかね?」
「ほむんくるす?」
博士の説明によると、ホムンクルスあるいは無精人というものはヨーロッパ中世の医師パラケルススが錬金術によって生み出したという人造人間のことであり、その製造方法は、人間の精子を40日間蒸留して出来あがった精製物を馬の体温と同じ温度の血液に40日間漬けておく。すると驚くべきことにフラスコの中で精子が姿を変え人間として生まれてくるのだという。
確かに過去には錬金術という妖しげな学問があり、これが現在の化学の走りであったとどこかで聞いたことはあるが、人造人間のようなものまで範疇にあったとは知らなかった。だが、その話の意味するところは何なのであろうか?
「まさか・・・」
「そうだ。わしはホムンクルスを再現することに成功したのだよ」
階段をあがって案内された部屋の中には試験管のお化けのようなものが並んでいた。
先程の説明にあった血液なのだろうか、赤っぽい液体が充填されたその中には胎児が身体を丸めて浮かんでいる。
まさか本当に無から人間が作られるなんて・・・私は目の前の光景に信じられない思いだった。
※
「ただ、生命を生み出すことはできたが欠点があったのだ」
「欠点ですか?」
「そうだ。残念なことにホムンクルスには知性がなかったのだよ」
姿は立派な人間であるが、知性がない以上ただの生ける屍でしかない。そこで博士は改良を重ね、全く別の用途で役立つようにしたというのだ。
そして、今からその改良結果を見せてくれるというのだった。
「紹介しよう。わしの助手だよ」
博士に呼ばれて奥から現れ、ぺこりと可愛らしくお辞儀したのは見たところ十歳くらいの少女であった。白いブラウスに赤いスカートが目に鮮やかに映る。
「実はこの娘がホムンクルスなのだよ」
「えっ、ちゃんと生きて動いてるじゃないですか」
「ところが少し違うのだよ・・・おい、脱ぎなさい」
博士の言葉に従い少女は衣服を脱ぎ出した。
「ちょ、ちょっと、何を」
「黙って見てなさい。それとも君はこんな幼い少女にも性的興奮を覚えるというのかね?」
博士にからかわれるようにして笑われた。こうしている間にも少女の衣服は脱がれていく。
少女はとうとう下着まで脱ぎ捨て、まだ未熟な白い裸体を晒した。いくら博士の命令とはいえ恥ずかしいであろうと思うが、少し俯き加減な顔からは表情は読み取れなかった。
「さあ、あと一枚残っているぞ。それも脱ぎなさい」
「はい」
少女は顔をあげると唇の端を吊上げるように笑った。この場合はニヤリという表現が適当であろうか、いずれにしても少女の年齢に相応しくない表情であった。
「あと一枚って・・・もう全裸じゃないですか。可哀想ですよ博士」
私の狼狽など気にもかけず、少女は両手を首の後ろに回すと、普通に衣服を脱ぐような動作でなんと頭部を引き抜いた。
いや、そのように見えただけで、胸の前にうな垂れた頭部の後ろから、また別の顔が現れたのだった。
それはどう見ても中年の男性であった。薄くなりかけた頭髪が額に張りついている。
年端もいかない少女の身体に、目の落ち込んだような中年男性の頭部が乗っているのは非常に奇妙なものであった。
「こ、これは一体・・・」
私は眩暈がするような気分に襲われていた。
博士は私が呆然としているのを見て満足げに頷くと、
「客人が困っておる。早く全部脱いでしまいなさい」
先程まで確かに少女だった助手は、手早く少女の肉体を脱ぎ捨てた。
今、そこには少々緩んだ身体つきの中年男性が立っているだけである。
一体どういう仕組みなのか、小さな少女の身体の中に成人の肉体がすっぽり収まっていたのだ。これで驚かない方がどうかしている。
「驚かせてすみませんでした」
元少女だった彼の落ち着いた声を聞いて、私はようやく我にかえる。
「本当に申し訳なかったですね。うちの博士は人を驚かせるのが好きなものでして」
「何を人のせいにしておる。君だってずいぶん可笑しそうにしていたではないか」
ようやく私は基本的な疑問、というよりは本来この屋敷に来た目的である質問を口にした。
「あの、これが新兵器とはどういうことでしょうか?」
「おや、わからないかね?」
今回は少女の姿であったが、ホムンクルスの容姿を変えることでどんな人物にも変身できるというのだ。
この事から一番効果的な使用方法を取り上げていえば、敵国の要人近い者に成りすましての暗殺も可能だということである。
「つまり間諜にはもってこいだと思うがね」
「ははあ、なるほど」
「せっかくここまで足を運んでいただいたんだ。客人も誰かに変身してみないかね」
「え、いえいえとんでもない。結構ですよ」
「活動で人気の田中絹代にでもなってみればいいじゃないか。遠慮しなくてもいいぞ」
私も彼女のファンではあったが、自分が自分でなくなるということに言い知れぬ恐怖心を感じていた私は、軍に報告しに戻らなくてはなりませんので、と逃げ出すように退散した。
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なんだか毒気を抜かれたような気分で屋敷を出た私は、気を落ち着ける為に途中で見つけた真新しいカフェへ立ち寄った。どうやらこの店ではジャズを聴かせてくれるようだ。
注文してすぐ出された熱いコーヒーをゆっくり味わいつつ音楽に耳を傾けていると、ようやく心を癒されたような思いになることができた。
可愛らしい制服の女給さんが『メニューにライスカレーを入れたんですよ。とても美味しいのでいかがですか?』と薦めてきたが、さすがにまだ腹に何か入れたい気分ではなかった。
それどころか、もしかしたらこの女給さんの中身も本当は別人なのかもしれない。などという妄想がうっすらと浮かび上がってきたので、慌てて頭を振り払って妖しい思いを打ち消した。
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店を出たあと、学生の身分には少し贅沢かと思ったが円タクを拾って戻った。円タクといっても実際は50銭と半額であったが。それよりは早く用を済ませてしまいたいという気持ちの方が強かったのだ。
タクシーは程なく海軍学舎に到着した。
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そして、私は少々頭がおかしいと思われそうであったが、ありのままに報告した。
教官はなんだか珍妙な表情をして聞いていたが、話の内容に関しては何も言わず、最後にねぎらいの言葉をかけて私を開放してくれた。
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結局、あの奇妙な博士の提案は採用されなかったのであろう。
そのかわり関東軍は満州に防疫研究室を置くと聞いた。何やら細菌を使った実験をするらしいのだが・・・私はこの件に関して、詳しく聞いてはいけない不穏なものを感じ取ったので努めて忘れる事にした。
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卒業後、私は軍人になることをやめ、先輩の口添えを得て小さな新聞社に就職した。
ここ数年の不況時に就職先があったのは、まあ運がいい方だろう。
あるいは軍務経験者ということが決め手になったかもしれない。軍部を取材する際に都合がいいというわけである。
それもそのはず。数年前に日本が国連を脱退してからは国中に不穏な空気が流れているからだ。
軍にいた頃と同じように靴の底を減らして駆けずり回る日々。
街中へ取材に行けば、近々また戦争があるんじゃないかというきな臭い噂を囁かれるようになっていた。云われてみれば街中に少々軍人の姿が多くなってきたかもしれない。
つい先日も青年将校らが首相官邸一帯を占拠した二・二六事件と呼ばれる事件があったばかりである。その一方でベルリンオリンピックには日本人選手が179人も参加し、それが私には日本が他国へ進軍していく予兆のように思えてならなかった。
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私はいつぞやの屋敷の前にいた。
意識して思い出さないようにしていたのだが、戦争の噂が広がっていく現在となっては気になる存在であることは確かだったからだ。彼らが研究成果を他に売り込んでいないとは限らないではないか。それに、うまくいけば記事に出来るかもしれない。
「ごめんください」
屋敷には人の気配はなかった。
しかし、幸いな事に玄関に鍵は掛かっていなかったので勝手に上がらせてもらう事にした。
薄暗い部屋の中はじっとりと黴臭い空気がまとわりつく。住人がいなくなってからの時間を示すかのように、歩くたびに埃が舞い散る。
ギシギシと軋む階段をあがり、私にとって忘れがたい体験のあった部屋の前に立った。
多少のためらいはあったが、思いきってドアを開ける。
ところが拍子抜けすることに、部屋の中はがらんとしたものだった。あのホムンクルスを生み出した妖しい実験器具は綺麗に片付けられてしまっている。
『ははは、そうだよな。私は何を期待していたのだろう?』
軽く安堵の吐息をついて部屋の中を歩き回る。隅にひとつ机が残されていたが、抽斗の中は当然のように空であった。
他には特に何もないことを確認したので、もうこの屋敷から出ることにした。ここは単なる空家だということがわかっただけである。
出口へ戻ろうとしたとき何かを踏んだので足元に目を移すと、何やら古びた赤い布切れが落ちている。
顔を近づけてよく見れば、あの時に助手が身につけていた少女の衣服であることを思い出した。
それは薄汚く埃をかぶって、まるで何かの抜け殻のようであった。