TsトラQ

 

その日、万条目淳と江戸川由利子、戸川一平の三人は、由利子の取材に付き合って区公会堂の中ホールで行われている講演会の視聴席にいた。

「ゆりちゃ〜ん、もう出ようよ。退屈で退屈で」

一平はあくびをしながら彼の隣で真剣に講演の内容を筆記している由利子に言った。

「なに言ってるのよ一平君。これは大事なお仕事なの。勝手についてきたのはあなたでしょ?」

「だって、このあと銀座で食事だって言うからさ」

一平は餌を乞うおなかをすかした飼い犬のように由利子の顔を上目使いに見つめた。

「もう少しの辛抱よ。我慢なさい」

万条目はそんな二人の会話を笑いながら聞いていた。

「さあ、次の講演が始まるぞ」

万条目の言葉に二人は黙った。壇上には恰幅のいい中年女性が立っていた。

「皆さん、この世の中は男性社会です。男性は女性のことを知ろうとはせずに、自分たちの都合のいいように社会を運営しています」

今にも叩き割らんばかりの迫力で演台をこぶしで叩きながら今日の講演会のテーマ「女性の社会的地位の確立」について語りだした。

「女性は男性よりも劣っているものなのでしょうか。私はそうは思いません。男性は女性をもっとよく知るべきです。男性は女性になって、今の女性の地位を体験してみるべきです・・・」

「ふあぁ〜〜ぁ。男が女になれるはずがないじゃないか。馬鹿馬鹿しい」

あまりにもくだらない講演に一平は退屈していつの間にか眠ってしまった。

 

ナレーション「男性と女性。同じ種族であってもまったく違うこの二つの存在は、お互いを完全に理解することは本当に難しいのでしょうか。

これからしばらくの間、あなたの心はあなたの体を離れ、このトランスセクシャルゾーンの中に入っていくのです」

テーマ音楽

計画

「ふぁ〜〜あ、よく寝た。あれ?ゆりちゃん、先輩?どこに行ったんだよ」

目覚めると、さっきまで煌々と輝いていた照明は落ち、壇上も、会場内も薄暗く、人の気配まったくなかった。

「ふたりともひどいよ。俺を置いてけぼりにするなんて・・・」

一平は、立ち上がるとあわてて会場の出口へと駆けていった。講演の会場になっていたホールから外へ飛び出すと、まぶしい光が目に飛び込んできた。

「ま、まぶしい」

一平は思わず右手を目の前にかざした。陽の高さからすると、まだ昼を過ぎたくらいのようだ。一平は通りに出て二人を探した。いつになく人の出が多くて、一平は人の流れに呑まれてしまった。

「先輩、ゆりちゃん、いったいどこに行ったんだよ。もう今日は暑いなぁ」

強い日差しを受けながら一平は蒸せるような人ごみの中で、万条目と由利子の姿を探した。

「腹減ってきたなぁ・・・あ、あれはゆりちゃん?」

人ごみの中に一平は由利子らしい後姿を見つけた。だがそれははるか先のほうで、一平は人ごみを泳ぐようにして、由利子の後を追った。

「ゆりちゃん、ゆりちゃ〜ん」

一平は声をかけたが、由利子は気づく様子もなく進んでいった。人ごみのために、一平と由利子の距離は広がっていった。懸命に追いかける一平。だが由利子の姿が突然一平の目の前から消えた。由利子を見失った辺りを見回すと近くの建物の入り口に一枚の立て看板がしてあった。

『♂⇔♀計画受付会場』

「なんだこれは?」

一平は思わずその看板を見て大声を出してしまった。だが、こんな奇妙な看板を掲げた会場ならば好奇心の強い由利子は必ず居るだろう。一平は確信を持って会場の中に入った。一平は由利子のことを聞こうと思った受付の女性に一枚の用紙を渡された。

「こちらの用紙に必要事項の記入をお願いします」

一平はそれを無視して由利子の事を聞こうとしたが、彼の後ろにはいつの間にか長い列が出来ていた。一平は説明を続ける受付の女性を無視してその用紙を受け取ると、受付の横に設置された記入用のテーブルに座った。

「氏名、年齢、性別、住所と電話番号と・・・なになに、これはアンケートなのか?」

『あなたは女(男)性をどう思いますか?あなたは女(男)性を理解してますか?あなたは・・・』

その用紙にはそんな感じの質問が50問ほど続いていた。最後の質問は『あなたは異性のことをもっとよく知りたいですか?』というものだった。

「よく知りたいかって?知りたいよ。ハイっと」

用紙に記載された質問をすべて記入し終えると案内の女性に差し出した。

「はい、これでいいんだろ」

「はい、ありがとうございます。お呼びいたしますのでしばらくそちらでお待ちください」

案内の女性に示された待合用のソファーが数個置かれた場所の空いていたスペースに一平は座った。そこには彼以外にも十数人の人が座っていた。

生来の好奇心から一平は、由利子のことよりこの会場の方が気になりだしていた。

『いったいこの会場は何なのだろう?それにあのアンケートは何の意味があるんだ』

そんなことを思いながら一平は呼ばれるのをじっと待った。

20分ほど待っただろうか。一平はいつの間にか眠り始めていた。

「戸川様、戸川一平様。いらっしゃいませんか?」

自分を呼ぶ声に一平は目を覚ました。

「は、はい。ここに居ます」

一平は寝ぼけた顔をして手を上げて立ち上がった。その姿に待っていたほかの人たちが笑った。一平は白衣を着た痩せ型で少し目が垂れ下がった愛嬌のある笑顔の職員に連れられて、ある部屋に入った。そこには数名の白衣を着た人々が居て、ガラスの仕切りの向こうにはもうひとつ部屋があった。そこはまるでレコーディングとかするための部屋のようだった。

「イデ。その方を更衣室に案内してセッティングを整えろ」

イデと呼ばれた一平を案内してきた職員は更衣室に案内すると、一平に来ている服をすべて脱いで、頭からすっぽりと被るハワイのムームーのような一枚もののガウンに着替えるように言った。

「シャツやパンツもかよ」

「はい、すべて脱いでこれに着替えてください」

イデ職員は、下着姿の一平に平然と言った。止めると言いたくなったがここまできてはそうは言いにくく、一平は言われるままに着替えると、一平はイデ職員の後について行った。今度はさっきの部屋の隣にある部屋へと案内されて、イスに座るように言われた。その部屋は職員が居たさっきの部屋とは大きなガラスがはめ込まれた壁に隔てられて、そのガラス窓から一平を見ている職員たちはまるで実験動物を観察する研究者のようだった。一平は自分が恐ろしい実験の実験動物にされたような気がしてきた。

「では開始します」

ガラスの向こうからマイクを通して声がした。この部屋と向うの部屋はマイクを通して繫がっているようだ。ブゥ〜〜ンという音とともに天井に取り付けてあったミラーボールのような機械から電光が走り、一平の体を駆け巡った。一平は思わず身をすくめたが、その電光は彼の体に何もショックを与えなかった。彼の体を縦横無尽に走り回る電光。気味は悪かったが一平はただじっとしていた。

「はいおわりました。あなたは、もう完璧にお望みの身体に変わりましたよ」

職員の声が一平の居る部屋のスピーカーから流れてきた。

「ん?」

一平は職員の言葉に引っかかるものを感じた。完璧に変わった?いったい何が?何が変わったというのだ。一平はガラスの向うの職員に向かって言った。

「変わったって何が変わったんだい?」

声を出した時、一平は違和感を感じた。確かに自分の声なのだが何か違っていた。いつもより妙に甲高く優しい感じがした。まるで女性の声のような・・・

『あれ、声がおかしい』

一平がそんなことを思っていると職員が一平の質問に答えてくれた。

「はい、あなたは完璧な女性に変わったのです。戸籍の変更も行いますので職員の誘導に従って別室に行ってください」

「え?女性。何で俺が女性なんかに・・・え?何だこれは・・胸が膨らんでる。それに、あるべきものがない〜〜。なにをしたんだ。いったい俺に何を・・・」

一平は突然の自分の体の異変にあわてた。触ってみる限りでは、男の証は消え、女に変わっているのだ。

「だ、誰がこんなことを。元に戻せ!」

興奮して暴れる一平に、職員たちはあわてて数人がかりで一平を取り押さえて鎮静剤を注射した。やがて薬の効果で一平はその場に崩れるように倒れた。

「いっ・・ぺい。いっ・ぺい」

どこかで一平を呼ぶ声がした。

「せ・せんぱ・・・い」

「先生!戸川さんの意識が戻りました」

一平は、まだぼんやりとした意識の中で、部屋から駆け出していく看護婦の後姿を見送った。夢見心地の中で一平は辺りを見回した。

『さっき先輩の声が聞こえたのだけど・・・』

うつろな意識の中で万条目と由利子の姿を探していると、数人の人たちがさっきの看護婦とともに入ってきて、一平のベッドの周りに集まった。

「戸川さん?戸川さんわかりますか」

「う、うう〜ん」

まだぼんやりする目を声のするほうに向けた。

「せんぱい?」

目を細めてよく見るとそこには見知らぬ数名の男女が一平を覗き込むように立っていた。

「気がつかれました?」

「あんたたちはだれだ。ここはいったい・・・」

「戸川さん。いったいどうしてここに入られたのですか?」

「どうしてって、知り合いを見かけたから追いかけていたら、アンケートを書かされて。そして・・・あ!俺の体に何をしたんだ」

問われるままに素直に質問に答えていた一平は、突然大きな声を出して彼に質問していた人に掴みかかった。だが、周りに居たほかの人たちにベッドに押さえつけられてしまった。

「落ち着いてください戸川さん。これは手違いなのです」

「手違い?手違いで人を女なんかにするのか!元に戻せ」

「それがすぐには戻せないんです。強制的に身体を作り変えているので、少なくとも半年は元には戻せません」

「なんだって、そっちのミスなのに。それはひどい!」

「と言われても戸川さんは申請書に記入されていますので一概にこちらのミスともいえません」

そう言って差し出された用紙は、たしかに受付でもらって、一平が書き込んだ用紙だった。

「これはただのアンケート用紙だろう」

「ここをよくご覧下さい」

職員の指で示されたところを見るとそこにはこう書かれていた。

『異性体験申請書』

「いせいたいけんしんせいしょ?これはいったい」

「昨今問題視されている女性蔑視の実体を解消する為に、この計画に賛同していただいた男性の方々に性転換処理をして一年間女性として生活を実体験していただくというものです」

「じゃあ、これは・・・」

「はい、私たちの計画への賛同書であり、性転換への同意書です。もちろん、男性になってみたいという女性の方の参加も、私どもは歓迎しております」

「まさかあなたたちも・・・」

一平は自分を取り囲んでいる職員達を見回した。そこにいる人達はどう見ても見たままの性のように見えた。

「はい、私達もこの計画に参加しております。ちなみに私は女性でした」

どう見ても凛々しい男性にしか見えない職員がそう言って一枚の写真を差し出した。そこには清楚な若い女性が写っていた。

「五ヶ月前の私です。二週間ほどで完璧に性転換の効果が現れてきます」

誇らしげに微笑むその顔はどう見ても生まれながらの男性だった。

彼らは自分を騙そうとしているんだ。一平はそう思い込もうとした。だが、彼らがこれほど手の込んだことをして彼を騙す必要があるだろうか。その点を考えると、一平には彼らが嘘を言っているとは思えなかった。早くて半年、悪くすると一年。自分は女性のままなのだ。一平はこれからの女性としての生活が怖ろしくなってきた。

「異性としての生活に不安を感じるのはわかります。そういう方の為に異性として適応できるように訓練をする施設がありますので、戸川さんにはそちらに移動していただきます。大丈夫ですよ。一週間で完璧に女性として暮らせるようになりますから」

にこやかに微笑みながら言う職員の顔を見ながら一平の不安はさらに強くなってきた。

『その施設で教育を受けたら、俺は男に戻れなくなるんじゃないのか。男に戻っても、女らしさが残ったら・・・いやだぁ〜〜〜』

あまりの異常な体験とこれからの未知なる生活への不安から一平は、一瞬の隙をついて彼を取り巻く職員達を押し倒すと、その病室から逃げ出した。職員達はあまりにも突然の事に逃げ去る一平の後姿をただ呆然と見おくるだけだった。

「さてどうしよう」

勢いで会場を飛び出してきたが、今の一平はムームーに似たガウン一枚と下着をはいているだけで、免許証も金もすべてあそこで脱いだ服と一緒に置いて来てしまっていた。かといってあそこに戻るわけにも行かず一平は途方にくれた。これからどうするか、考えもまとまらずぶらぶらと通りを歩いていると、ビルのショーウインドウのガラスに白いムームー風の服を着た人物が写っていた。少し目が垂れて、すこし角ばった感じがする顔をして胸は少し膨らみ、肩が張った男ともつかず女ともつかない姿だった。

「二週間たつと俺は女になってしまうのか」

どっちつかずの今の姿を見ていると一平は言い知れぬ不安と寂しさに包まれて、いつの間にか目から涙がとめどなくこぼれてきた。男の俺がポロポロと泣くなんて、これは女性化の始まり?そう思うと一平は一層不安に駆られた。一平は通りに出てタクシーを止めると、有無を言わさずに後部座席に乗り込み星川航空に行くように告げた。

タクシーの運転手は怪訝そうな顔をしたが、一平の睨みつけるような視線に異様なものを感じて、黙って車を発進させた。運転手は、もし断ろうものなら殺されかねない殺気を後部座席の一平から感じた。一平は一刻も早く万条目に会いたかった。彼にあったら今の自分が置かれた状況が好転するような気がした。そして、万条目の顔を思い浮かべると胸が締め付けられ、さらに涙が溢れてきた。

「せんぱい」

一平は万条目の頼もしい顔を思い浮かべた。万条目は、今の彼が心から安心して身を任せられる存在だ。一刻も早く先輩に会いたい。一平の頭の中はそのことでいっぱいになった。だが一平は気づいてはいなかった。一平が万条目のことを思って星川航空に思いを馳せている間にも彼の身体は変化し続けていた。小さかった胸は膨らみ、細く角ばっていた顎は丸みを帯び、黒く日焼けして、最近のトラブル続きで荒れていた肌も白く細やかに変わっていった。そんな一平を乗せてタクシーは一路、星川航空へと砂利を引いた道を、砂煙を上げながら走っていった。

「ここでちょっと待ててね。お金取ってくるから」

タクシーの運転手にそう言うと、一平は車を降りて星川航空の事務所へのドアを開けた。一平の目の前に懐かしい光景が広がった。といっても今朝ここから出て行ったのだが、何年も帰っていなかったような気がした。一平は誰も居ない事務所の自分の机の引き出しの中身を机の上にバラけた。提出期限が過ぎた書類や経費で落とせそうもない領収書、一平さえもなんなのか忘れてしまったガラクタが机の上いっぱいに転がった。ごみやガラクタを掻き分けていくらかの小銭を見つけたとき、事務所の戸が開いた。

「一平君、置いてきちゃったけどよかったのかしら」

「うん、そうだな。一平のやつのことだから、『せんぱ〜い。起こしてくれないなんてひどいですよ』なんて言いながら帰ってくるんじゃないかな」

一平のいつものおどけた口調を真似ながら万条目は笑いながら由利子に言った。

「ガタン」

誰も居ないはずの事務所の中で物音がした。入りかけた万条目は、由利子にそこで待つように手振りで示すと、注意しながらひとりで事務所の中に入っていった。事務所の中には人気はなかった。

「一平のやつ。いつも片付けるように言っているのに散らかしたままじゃないか」

そうつぶやいて万条目が事務所を出ようとした時、物音がした。

「ガタン」

「だれだ!そこに居るのは」

音のしたほうを向いて万条目は身構えて怒鳴った。と、おずおずと身を隠していた一平は隠れていた物陰からおずおずとその姿を現した。

「しぇ、しぇんぱい」

一平は泣きそうになるのを抑えながら万条目を見つめた。

「淳ちゃん大丈夫?」

由利子がどこから見つけてきたのか角材を振り上げておっとり刀で事務所に入ってきた。万条目の後ろに隠れながらつぶやいた。

「あなたはだれ?淳ちゃん、この子を知ってるの?」

「いや会ったことはない。君は誰だい?」

「しぇんぱい」

一平は万条目たちに近寄ろうとした。いま自分の身に起こっている出来事が胸に込みあがってきて言葉が詰まった。

「しぇんぱい、おれは・・・」

一平は万条目や由利子に自分の事を話そうとして、あるものが目に入った。光の加減で鏡のようになった事務所のドアのガラスに映った自分の姿はどこから見ても今までの自分の姿ではなくて、少し目のタレた見知らぬ若い女の子だった。あの場所から逃げ出してからも一平の女性化は進んでいた。そして今の一平は若い女性にしか見えなかった。

「いったい君は・・・」

万条目は目の前の見知らぬ女の子が、ブルブルと身を震わせているのに気がついた。なにか深い事情があるのだろう。穴の中で狐におびえるウサギのように震える女の子にやさしく声をかけた。

「どうしたんだい?僕でよかったら何があったか話してくれないか?」

一平の瞳に涙があふれた。万条目には自分が誰なのかわからないのだ。この姿では彼らに自分の身に起こったことを話しても信じてはもらえないだろう。一平の中で何かが崩れていった。。

一平は、力なく首を小さく横に振ると、万条目を見て寂しく微笑んだ。

「君・・・」

万条目は、一平に声をかけたが、一平は力なくとぼとぼと歩き出した。一平は顔を上げることすら出来なかった。自分を認識してもらえない悲しさに涙がとめどなく溢れてきた。万条目は、事務所を出て行こうとする一平に声をかけようとしたが、そのあまりのも寂しそうな姿を黙ったまま見送るしか出来なかった。一平はもう二度と訪れることのない星川航空の事務所を出て行った。

不思議な女性が出て行った後、由利子は不可思議な表情をして万条目に聞いた。

「あの子はいったいなんだったの?」

「さぁ?」

万条目は由利子の問いに答えながら何か引っかかるものがあった。ただそれが何かはわからなかった。

事務所を出ると待たせたままのタクシーに乗り込んだ。待たせたままだった運転手は一平に文句を言ったが、一平は何も答えなかった。事務所でかき集めてきた小銭を渡して運賃を何とか払うと、自分を乗せた場所に戻ってくれるように言った。渡された小銭に文句を言いながらも、下りるように言っても降りそうもない一平の姿にため息を突きながら運転手は車を出した。車は砂利道に揺れながらその場を離れていった。

「先輩、由利ちゃん。さようなら」

離れていく星川航空を振り向いて一平は小さくつぶやいた。

 

「お水ください」

「は〜い」

そこには水の入ったポットを持ってテーブルに座る客のコップに減った水を足す完璧に女性になった一平の姿があった。

「ジュンちゃん。こっちにもお水」

「は〜い」

一平はポットを持って別の席へと飛んでいった。

「あれからもう一ヶ月かぁ・・・」

一平はため息混じりにつぶやいた。

一平が星川航空で、万条目と由利子に別れを告げてから一ヶ月が過ぎようとしていた。あの後彼はあの会場に戻り女性化講習を受けることにした。もう彼にはそれしか残されていなかった。半年我慢すれば元に戻れるのだが、このときの一平は万条目と由利子にわかってもらえない今の自分に絶望して、元に戻ることを諦めていた。それが一平の女性化の促進を促したといえた。普通だったら男の意識が邪魔をして、どうしても体得が難しい下着や服の着方、女らしい仕儀さ、言葉遣いやメイクの習得がほかの人よりも早く進んだ。自分を二人に認知してもらえなかったことが深い心の傷になり、一平の女性化を促進することになった。

「カチャン」

喫茶店のドアが開く音に反応して、一平は笑顔でドアのほうを向いた。

「は〜い、いらっしゃいま・・・せ」

入ってきた客を見て一平の笑顔は凍ってしまった。喫茶店の入り口に立っているのは万条目と由利子が立っていた。

「一平!」

「一平君」

「セ・センパイ」

「さあ、帰ろう」

「一平君、帰ろう」

万条目と由利子の誘いを一平は無視した。

「一平」

「一平君」

「どなたかとお間違いになっていませんか?私は戸塚一恵と申します。それに私は女性ですわ」

「僕たちはあの♂⇔♀計画委員会で聞いてきたんだ。女性になった一平がどこにいるか」

「ねえ、一平君。一緒に帰りましょう」

だが、一平は二人の言葉に反応を示そうとはしなかった。カウンターに向かい、二人に背を向けた。

「一平!」

「一平君」

「一平は、もう居ません。お帰りください」

「一平君」

由利子は一平の細く華奢になった肩にすがりついた。だが、一平は振り返ろうとはしなかった。由利子は一平の肩を強く掴み、何か言おうとしたが、万条目に止められた。

「ゆりちゃん帰ろう」

「でも、淳ちゃん」

「お騒がせしました」

万条目は、まだあきらめきれない由利子を促して喫茶店を出て行った。ドアが閉まり、二人の足音が遠ざかっていくのを聞きいていると一平は自分の周りが闇に閉ざされていくような気持ちになっていった。一平としての今までをすべて捨ててしまうつもりだった。だけど万条目と由利子に会って決意が揺らいだ。このまま二人と別れたら一平としての今までの自分は完全に消えてしまう。それでいいと思っていた。だが、二人に会った今はどうしてもそれが我慢できなかった。一平は二人の後を追って、入り口のドアに駆け寄った。と、そのとき客がドアを勢いよく開き、一平はドアに頭を打った。

「せんぱい・・・」

「一平」

「せ、せんぱい!」

一平の目覚めた視線の先に万条目のやさしい顔があった。一平は

「一平」

「一平君」

万条目と由利子が一平を覗き込んでいた。一平はいままで張り詰めていた気持ちが一気に解けて、身体の奥から熱いものが込みあがってきて涙があふれてきた。

「せ、せんぱい」

一平は思わず万条目に抱きついた。万条目は一平の突然の行動に戸惑ってしまった。

「せ、せんぱい。俺・・・いえ、私を離さないで!」

「一平何を・・」

そんな二人を見ていた由利子が怒鳴った。

「淳ちゃんと一平君は、そんな仲だったの?男同士でいやらしい。もう、あっちに行って!」

「誤解だよゆりちゃん。一平いい加減に離れろ。俺は男同士で抱き合う趣味なんてないぞ!」

「男同士?」

一平は万条目の一言に自分の体を触ってみた。

「ない?ない。ある?ある・・・センパイ、ある!」

歓喜の声を上げながら自分の体を触りまくる一平の頭を万条目は叩いた。

「お前は、講演中にいびきをかいて眠り、俺たちに迷惑をかけた上に寝ぼけて俺に抱きつくな!」

「え?あれは夢だったのか」

一平ははたかれた頭を掻きながらほっとした顔になった。

 

ナレーション「一平の人騒わがせな夢。でも、これは本当に一平が見た夢だったのでしょうか?あるいは、一平は本当に異性体験をしたのかもしれません。近い将来、性別が自由に選択できるようになった時、あなたはどちらを選びます。男?女?それとも・・・

それでは、またお会いしましょう。」