2008/12 ゲームに挑戦私は本来、ゲームには余り興味はなくPCにインストールされているゲームを殆どやったことはない。PCが普及した頃にトランプを数字順に並べるものを少しやったことがあったが興じるほどではなかった。娘達が育つ時にはファミコンはかなり普及していたが彼女らの要求もなかったので買わなかった。甥達の家には以前から当然ゲーム機があったが最近ではDS、Wiiなどがある。 私は最近特に脳軟化症が大分進んだと自覚している。例えば顔は浮かんでくるが名前が即座に出てこない症状、結局は”あの人”になってしまう。又、新聞、TV、雑誌などの新しい言葉、名称、名前などを覚えきれず似たような語句で記憶している為、正確に表現できずにいる。最終的には”あれ”、”それ”などの代名詞が多くなる。その対策の一つとして以前からできるだけ紙に書くことにしている。手で書くことで脳に刺激を与え正しく覚えられるように努めているが、ここでも漢字が出てこない悩みはある。「こんなはずではなかった」と否定しても現実はかなりひどい状態になってきた。 上記の理由からDSの教育ソフトを利用することにした。まずは「脳を鍛える大人のトレーニング」を購入、毎日のトレーニングを開始した。まだ全体像がどの位のレベル、ボリュームかは分からないがかなりのソフトと推測できる。 計算問題(計算20)などは簡単とたかをくくっていたが実際にやってみると正確に短時間にできないことが分かった。”計算100”はあせってしまい間違いが多かった。その他”文字数え”、”人数数え”も侮れない。日頃声を出して文章を読むことに馴染みがない者には”名作音読”は新鮮だが中々すらすら読めない。まだ始めたばかりであるが脳年齢が高いと表示されたことに愕然とした。同時に購入した眼力(メヂカラ)と合わせて毎日きちんとトレーニングに励まなければならないと自覚した。 先日訪ねた三島の家にはWiiがあり家族全員で楽しんでいた。私はその中でWii Fitに興味を持った。私はスポーツ好きであるが背骨、特に腰椎のできが悪く左右対称でないことを高校時代に知った。それが原因で腰痛では大部悩まされ続けてきた。今更体を鍛える積もりはないが今より悪くならないようなトレーニングは必要と思いWii Fitに挑戦することにした。 手始めにバランスゲーム、コロコロ玉入れを始めた。盤を足で左右上下に動かしてボールを穴に入れる非常に単純なもの。レベルが上がるとボール数が増えて時間内にクリアするのが中々難しくなってくる。苦労してやっと初級の全課題をクリア、上級への挑戦となったが侮れない。「たかがゲームされどゲーム」である。この他にヨガ、筋トレ、有酸素運動のジャンルがあり40種類以上のトレーニングが用意されているとのこと。体のバランスをキープするために毎日励む覚悟でいる。加齢に負けない様に。(2008/12/12) |
2008/11 三島旅行私の3番目の兄は横浜に住んでいたが2年前に静岡県三島市に転居した。「家から富士山が見えるよ、見に来たら」と誘いが掛かっていたが行く機会がなかった。妻は大阪の往復でも一度も綺麗な富士山を見られず残念がっていた。私の定年も無事に迎えられたこと、天候も安定したこと、先方の都合が良いことなど条件が整い、11月の連休を利用して出掛けることにした。又、以前から箱根の温泉に入りたいと思っていたので箱根に一泊して三島へ行くことにし連休の1日前に出掛けることにした。 三島市までは高速道路でも片道250kmを越える、電車での移動を考えたがこの先いつまで車で旅行できるか分からないと考え、体調が良い理由から車で行くことにした。妻にも運転を手伝って貰うように事前に高速道路の運転を2回ほど練習した。当日は自宅から常磐道の三郷SAまで妻が運転、問題なく到着できた。三郷SAからは私が運転、相変わらず東北道との合流地点、中心部の首都高速は渋滞していたがマイペースをキープ、左右からの合流、分散と注意を要するが何とか3号線を経由して東名道に無事に入れた。その後は早め早めにSA、PAに立ち寄り休憩を取ったことでさほど疲れを感じずに箱根入口に到着した。 箱根新道を通れば芦ノ湖畔のホテルへは近いが自転車で登った思い出がある国道1号線を選択した。湯本から先は道路幅が狭く曲がりくねって勾配もきつく文字通り”天下の険”、この道は箱根駅伝コースでもある。毎年TVを観戦しているが車で走ってみてもその厳しさが伝わってくる。真夏時、自転車をこいで登れず数時間押して歩いたことを思い出した。 この日は、彫刻の森美術館を見学、広い庭園には多くの彫刻・オブジェが展示されていた。大きな像が多く迫力満点だった。私は”ボクシングをする二匹のうさぎ”と”弓を引くヘラクレス”が特に印象に残った。初冬の季節は変化が激しい。空は青空だったが強風が吹き始め結構寒くなった。見学が早く終わったので一度乗りたかった箱根登山鉄道に乗って湯本まで下ったが急勾配を補助ギヤーもなく走行することには驚いた。この鉄道は3回ほどスイッチバックするが大平台では合わせて登り電車と交換、線路の構造を理解できた。スイッチバック時は運転手が駆け足で最後尾まで走る。実に人間味がある電車だ。沿線の紅葉は落葉樹が少なく期待外れだった ホテルは芦ノ湖畔のザ・プリンス箱根、通常はそれなりの料金であるが秋のプライス商品でリーズナブルなものだった。部屋は思った以上に広く十分にくつろげる雰囲気のもの、ただエレベーターホールと出入口付近で鼻につく臭いがあり不愉快であった。 朝食はバイキングのみだが夕食はバイキング、洋食、中華から選択ができ客には嬉しい企画だ。 温泉は箱根十七温泉の一つ、蛸川温泉と言うことだが場所は別館、本館からかなり遠く一度では必ず迷うくねくね道の先にあった。途中外気にあたる石道を渡り冬の寒さに堪えながらの歩行となる。温泉は無色透明、一度入浴すると暫くは温かさが保たれていた。浴室は内湯、露天とも広くなかなか綺麗で清潔感があり朝湯まで浴びてきた。 翌朝は雲ひとつない快晴。朝食後は廊下から裏庭へ下り湖畔を散歩した。紅葉は終わった感じだったが湖の向こう側の山は綺麗なグラデーション、奥には富士山の頭が見えた。帰り際に敷地内にあるロープウェーで駒ケ岳の山頂へ、眼下に芦ノ湖、遊覧船、元箱根町、ゴルフ場などが文字通り箱庭のよう、北西には富士山の全景が見え始めた。山頂は標高1,300mとさほど高くないが展望台からは富士山の裾野が綺麗に見え実に美しかった。又、左奥には雪をかぶった南アルプスがくっきりと見えた。 次に妻がまだ行ったことがない大涌谷(おおわくだに)に向かった。車でも登って行けるが渋滞と予想してロープウェーを選択、大涌谷駅付近では長い車列を眼下に観察、ロープウェーの選択は正解だった。大涌谷の広場には多くの人で溢れ、更に噴煙の高台までは隙間がないほどの人の列ができていた。折角来たのでその場所まで階段を上って行ったが硫黄の臭いがきつかった。黒い温泉たまごを頂き駒ケ岳よりは多少大きな富士山を鑑賞した。 いよいよ目的地の三島へ向かった。箱根町、箱根関所跡の付近は車が大渋滞、寄せ木細工の土産を買いたかったが駐車場は満車、次の機会と諦めた。三島までの下り坂はガラガラ、ナビの案内で無事に兄の住む団地に到着した。 出迎えてくれた兄は早速団地の奥の小高い場所、すなわち富士山がよく見えるビューポイントへ案内してくれた。前後に野菜畑が広がるがその場所からは障害物もなく綺麗に富士山が見えた。午後3時前でかなりの雲が出てしまったが頂上は雲の上に顔を出しそれなりの雰囲気をかもし出していた。まさしく撮影ポイントだった。 翌朝も晴れ、再度昨日の場所へ撮影に行った。丁度年配のカメラ愛好家が来ていてこの場所がいかに撮影ポイントかを解説してくれた。前部にある左右に傾いている畑と富士山、少し後になるが畑での大根干しと富士山、前方にある竹林に積もった雪と富士山などが良いアングルとのこと。頻繁に来られる人ならシャッターチャンスは多いがビジターには中々その機会は少なく残念であった。それでも駒ケ岳からとは違った感じの富士山を撮影できた。 兄の家の北面からは何処からでも富士山を見ることが出来た。見るまでは遠景のそれを想像していたがかなりの大きさで目に飛び込んできたのには驚き、地名の見晴台は納得できた。見慣れている人には珍しくもないが高い山がない場所に住んでいる者には富士山の雄大さが実感できた。 今回の2泊3日は天気に恵まれて快適な旅行であった。車での旅でも連休一日前に出発したことで多くの人とは逆方向の移動となり渋滞、トラブルもなく走りはスムーズ、疲労感は少なかった。初冬の富士山は期待以上のものであり良い思い出となった。(2008/11/23) →写真 |
2008/11 定年を迎えて(2)私の会社生活は、綾の小路きみまろの言葉「あれから40年」、まさにこの言葉が当てはまる。20才台の頃、60才などは遥かかなたの未来点、”老人”の年齢と思っていたが自分がその歳となってしまった。気持ちはまだ40才と思っているが外見は60才に見えるのだろう。体力はこの頃持久力が無くなったと実感している。 先日、TVでフラガールを放映していた。常磐炭鉱の住宅、ダンス教室、バスなどは多少誇張していたが昭和40年頃の情景が映し出されていた。その数年後、私は入社したがその頃を思い出して親近感を持って見入ってしまった。 私が配属された部署は大型コンピュータを導入し業務改善を推進する部門。丁度その導入準備の最中、プログラム、各種マスター、データなどを作る作業に日夜苦闘していた。当時は私が一番の年少者、雑用も含めてあらゆる作業を担当した。直ぐにコンピュータの勉強をさせて貰えると思ったが手配用のマスター作り、元になる図面の青焼き作業が夜勤で数ヶ月間続いたがコンピュータの技術を学べると思い苦労に耐えた。その後コンピュータを動かすプログラムを覚えその面白さに一時夢中になり各業務の効率化を図った。コンピュータの仕事はその当時としては先端の仕事、夜勤など苦にならなかった。 その数年後、結婚したが人生の大きなポイントとなった。最初は生活に戸惑いもあったが子供が生まれて仕事・生活に励みが出てきた。この頃は生産情報をコンピュータ端末に映し出すオンライン化の仕事と重なり毎日帰宅が遅くなった。当然、上の娘を風呂に入れる作業は困難、寝顔しか見られない時期が続いた。仕事も落ち着き子供達も少し大きくなった頃から休日は近くの公園、運動公園、動物園、遊園地などへお弁当持参で出かけた。二人の娘が小学校に入ってからは夏休みを利用して自家用車で千葉、福島、栃木などの観光地へ出かけた。上の娘が中学頃、「飛行機に乗せてやりたい」と思い函館、小樽、札幌を回る道南を旅行した。大沼公園小沼の外周を親子4人でサイクリングしたことをよく覚えている。目的は家族での”思い出作り”であった。 私は20数年後関連会社へ転属した。その会社が数年後別の会社と合併、同様な業務再編が繰り返され昨年の4月に親会社に吸収合併された。十数年後、私が転属前にいた部門へ戻ることとなった。定年まで1年と半年、早期退職を考えたがもう目の前にゴールのテープが見えているのでテープを切ることにした。その後、川崎での仕事が舞い込み5ヶ月間と短かったが川崎の生活を味わった。初の電車通勤は暑い時期と重なり大変であったが貴重な経験ができた。都会生活は田舎には無いものも多く結構楽しく面白かった。 その後、川崎の仕事は月1回の出張で対応してきたが今年の7月で完了した。他の仕事を手伝っていたら8月、9月はあっという間に過ぎた。8月に総務が定年を迎える社員を対象にライフプランセミナーを開催してくれた。”定年後どう生活するか”の内容、具体的には年金、経済プラン、健康、会社の再雇用制度などである。本来であれば50才の頃に受けるセミナーとのこと、私の場合は再編などで遅れた結果、定年近くの受講となった。それでも社会保険労務士から直接説明を受けたことは有意義であった。年金、特に公的年金の内容はかなり難しく貰った資料を何度となく読み返したが未だ完全に理解できていない。 しばらくして定年後の件について職場上長から打診があり、上長から「引き続き仕事と若手の育成を手伝って欲しい」との要望があった。うそでもそう言って貰えるのは有難いことである。公的年金は満額貰えないこと、毎日家にいることでの問題、仕事が突然ゼロとなること、健康のことなどを考えて暫くはシニア社員として雇用して貰うことになった。働く日も自由に決められるので週3日の勤務としスローライフを楽しむことにした。実際に働いてみないと分からないがソフトランディングは必要と感じた。 10月に入りいよいよ現役最後の月となり総務での定年退職の手続きがあった。シニア社員として再雇用となるため大部分の事柄は継続となった。只、勤務時間が短い理由で健康保険は脱退となり退職者用の方へ新規登録となる。まだ定期的に診察を受けているので健康保険の件が一番気になっていたがしっかりした制度があることが分かり一安心した。後日、住民票、銀行での口座確認印など必要な書類を整え早めに総務に提出、問題なく手続きは完了した。月末にピンクの真新しい健康保険証が無事自宅に届いた。 別の日、私が非常に心配していた公的年金の申請手続きを行うため近くの社会保険庁の事務所へ出向いた。妻の国民年金の切り替えの件もあるので妻も同行した。私の申請書は添付資料も含めて問題なく受理して貰った。妻の年金は8月のセミナー前に確認を会社から社会保険労務士に依頼していた。「年金番号の不統一があったが私が統一しておきました」と聞いていたがそれを確認することができた。妻の国民年金の切り替え方法、一部未納期間があるがその対応手順など懇切丁寧に教えてもらった。意外とてきぱきとして対応はよく約30分の窓口時間で完了、昼食は外食の予定だったが近くのデパ地下で華やかな弁当を購入し早々と帰宅した。 月末に”囲む会”を開いて貰ったが続いて事業所長との昼食会があった。その月に定年退職する人を幹部が一緒に昼食を取り慰労する会である。表彰状授与、記念写真撮影を行った後昼食となる。現事業所長とは一緒に仕事をした訳ではなかったが、私の過去の仕事、趣味の話しなどを話題にそれなりに会話は弾んだ。用意されていた昼食は近くのすし屋の”上にぎり”、慰労して頂く気持ちに素直に喜んだ。 ![]() いよいよ最終日、社内の知り合いは少なくなっていたが挨拶を済ませた。その後、再編前の元部下と川崎の人達にラストメッセージをメールした。 来月からはシニア社員として再雇用してもらうが現役最後の日はそれなりに「ここまで来た」との充実感と一抹の寂しさが混在、複雑な気持ちであった。見送りは遠慮したが慣例ということで部内での挨拶後見送りとなった。会社正面玄関ホールで花束を貰い最後の挨拶、用意してくれたタクシーで帰宅した。中々気恥ずかしいものであった。 情報システムの仕事一筋、40年間思えば長い会社生活だった。50才台になって思いもよらない病気で苦しい入院生活をした。その時、「定年まで生きられるか、仕事ができるか」と落ち込みながら真剣に考えたが何とか無事に定年というゴールテープを切ることができた。一度転属した元の組織、職場へ戻りここで定年を迎えられたことは不思議な縁である。 そして40年前に入ってきた玄関から40年後、定年で再び出て来られたことは幸運だったのかもしれない。今まで仕事をしてきた職場の先輩・後輩、命を助けてくれた医師・看護師、最後に一番世話になった妻に感謝、感謝である。(2008/11/2) |
2008/11 定年を迎えて(1)私は先月末で定年となった。定年を迎えるに当たり職場が中心となり”囲む会”を開催してくれた。内容はお祝いを兼ねたご苦労さん会である。少し前までは派手に開催していたが行き過ぎるとの批判がでて最近では本人をよく知る人達だけの内輪の会に変化した。それでも現在の部のメンバーを中心に約60名の人達が会場に集まり祝ってくれた。 花束贈呈、記念写真撮影に始まり発起人の挨拶、趣意書に賛同して頂いた人達からの記念品授与と続いた。私からは御礼と若い人の知らない当時の状況、仕事の苦労話しなどを少し紹介した。その後2〜3名の人より私の思い出話しをしてくれた。私がその人達に何を話したかは昔のことで殆ど覚えていないが、その人と私の思い出と私が言った言葉を紹介してくれた。 事前に幹事から当日会場でスクリーンに映すので会社行事で撮った写真を貸して欲しいとの打診があった。私が持っている部・課の親睦旅行、ソフトボール大会、研修会、ゴルフコンペなど、更に私の若い時の旅行、サイクリングなどの写真を渡しておいた。パソコンの専門者がそれをパソコンで年代順に編集、年月とタイトルを挿入した写真を会場の大画面に映し出してくれた。進行者と一緒にスクリーンに写りだされた昔のイベント写真を説明、コメントを追加した。最近の写真には現役の出席者の顔もあり映し出された自分達に話が咲いていた。その時々にはさほどの感想もなかったが、時間が経って見てみると色々なことが思い出されるから不思議であった。 宴の終わりに妻からの手紙が紹介された。幹事が私に内緒で妻にメッセージを依頼した様で会場で初めて聞かされた。年長者の女子が紹介してくれたが仕事で苦労したこと、病気のこと、家族のこと、そして感謝の言葉が書かれてあった。多分に気恥ずかしい気持ちで聞いていた。 最後に応援リーダから今後の励ましの意味も含めたエールを貰い、全員にお礼の握手をして宴会場を後にした。タクシーの中に傘を忘れたが幹事の凝った演出に感激、手に持てないほどの出席者の温かいな気持ちを土産に帰宅した。次の日は現役最後の部のゴルフコンペだったが感激して暫くは寝付けなかった。(2008/10/24) *頂いた花束のカサブランカは暫く芳醇な香りを周辺に撒き散らしていた。 |
2008/10 化粧品のポスター上の娘は高校生の時デザインの仕事に就きたいと意思表示した。十分に子供に残せる不動産、資産も無いので”教育が与えられる資産”と考え娘の希望通り美大に進ませた。下の娘と二人を同じ時期に大学へ通わせることは一時経済的に大変であった。私が発病した時は二人ともまだ在学中、「仕送りは良いから」と言っていたらしいが何とか二人を卒業させることができた。 その後上の娘は広告の会社に就職した。そこで経験を積み大手の広告会社の関連会社に転職、現在は化粧品関係の仕事をしている。 今年の夏は秋に発売する化粧品のポスター作りに忙しく帰宅がかなり遅くなっていた様だ。そのポスターが化粧品売り場に貼り出されていると連絡があったので休日にイオンに見に出掛けた。一人で化粧品の売り場には行ったことがなかったが各社とも綺麗な装飾が目を引いた。目的のポスターは花王ソフィーナの”Primavista”(プリマヴィスタ)とか、美しいモデル(井川遥)の顔が前面に表現されていた。この作業は娘と他の人の共同作業とか、娘の作業がどの部分かは分からなかったが化粧品のポスターは美しく華やかさをかもし出していた。 (写真はガラス面に写りだされたポスター、紙面ではなかった) 11月には娘が一人で作成した花王AUBE(オーブ)のポスター(モデル;梨花)が展示されるとのこと。又、見に行かねばならない。(2008/10/18) |
若い頃の熱は冷めたが運動の中でゴルフは面白い。止まっているボールを道具を使い決められた打数でピン(穴)に入れる競技だが単純さが魅力的である。この競技は原則4人でプレーするがそれぞれが同伴競技者、仲間であるが自分との競争相手であり常に3人と成績を争う。しかし本当の争いは自分自身、苦境に陥っても誰も助けてはくれない、自分の力で抜け出すしかない。つまり全て自己責任の競技である。(他のスポーツも同様であるが。) 苦しい一面はあるが青空に弧を描いて飛んでいく白いボールを打った時は気持ちがスカットし一時ストレスは解消する。 S医師の許可が出たので仲間を誘いプレーに出掛けた。当日は前日までの曇天がウソの様に快晴、青空が迎えてくれた。前々日までの雨の影響で山間部にあるゴルフ場はフェアウェー、グリーンとも水気が多く非常に打ちづらかった。秋の晴天が続き地面が乾いていれば私の打ち方でもダフルことは少なかったと思う。アマチュアは何かしらの外部要因を言い訳の材料にするのが常であるが。 1年ぶりのプレー、体重を落としたことで最後までプレーができるか少々心配していたが無事に終了できた。ドライバーショットはまだまだ以前の様に打てなかったが何ホールかはパー(規定打数)が取れた。全般的には自分の思う通りのプレーボールはできず成績は惨憺な結果だった。体は使っていなかった筋肉が痛くなり後半はうまく回らず疲労困憊した。足、腰、背中などは次の日まで筋肉痛が残ったが体を動かせたこと、ゴルフができったことは良かったと思う。 この体調が維持できれば今後もプレーできると思いながらゴルフ場を後にした。(2008/10/10) |
2008/9 妻の母妻の母親は今年で86才となる。右膝が痛く歩くのが苦痛らしいがそれでも何とか自分で歩くことは出来ている。若い頃は小学校の先生、親父さんの実家に入ってからは3人の子供を育てながら米作り、畑作業と慣れない農作業で苦労したようである。又、親父さんは長男ではないが事情があったらしく本家を継いだことで親族の主のサポート役、文字通りの女房役として色々な面で苦労したと聞いている。性格は人柄が良く世話好き、何にでも興味を示す若い気持ちの持ち主である。 親父さんが亡くなった後は妻の兄が後を継いだ。息子に家を任せた以上はそのやり方を受け入れれば良かったが、お袋さんは今まで自分がやってきたやり方を主張、兄より先に自分で動き回るのでぶつかることしきり。兄が定年になり家にいる時間が長くなるとその機会が多く、息子から意見されているらしい。昔から「老いては子に従え」と言われているがお袋さんはギヤーチエンジが出来なかったらしい。じっとしていられないことで小さなトラブルが絶えないようである。 そのような事情を知って以来、妻は昼食に誘うとか、お袋さんの用事に付き合うとかで実家から連れ出している。更に気分転換で1回/1ケ月のサイクルで私の家に泊まりに来させている。当初は4泊5日、家にじっとしていると退屈のようで妻は昼食、ショツピングモール、近くに数多く出来た温泉、スーパ銭湯に連れ出していた。最近は妻が「疲れる」と言って2泊3日に変更、このスタイルが周りの人に取って一番よい日程らしい。それでも本人は「畑が心配」と言って直ぐに「帰りたい」と言っていたが、この頃は相手にして貰えるので居心地が良くなってきたらしい。我が家は団地のメイン道路沿いで車の走る音が多少うるさいが「落ち着いてよく眠れる」と言っている。 先週、泊りに来た時に「その元気なら90才まで生きられますよ」と言ったら喜んでいた。ひ孫も2人になり集まれば賑やかである。優しいおおバァバァで長生きして貰いたいものである。(2008/9/23) |
sinは9月始めで2才となった。「誕生祝いは何が良いか」と娘に聞いたら「コントロールバー付きの三輪車と」の回答を貰った。馴染みのない「コントロールバー付き」をネットで検索、保護者が操作できるバーであると分かった。昔は乗って漕ぐだけの三輪車だったがコントロールバーの他、安全ガード、足を乗せるステップ、足を巻き込まれない機構など安全に重視が置かれている。メーカー責任を問われれば当然の設計かもしれない。 早速、信頼できそうな店にsinが喜びそうなミッキーマウスのキャラクターの三輪車を注文した。金額を指定口座に払い込み配達日を指定、後日きちんと指定日に「三輪車が届いた」と連絡が入った。次の日は外で元気に三輪車に乗っているsinの写真がメールで届いた。喜んでいる姿を見てジィジ、バァバは微笑んだ。 sinは窓サッシのキー、車のキー、キーホルダー、家のキーなどをいじるのが好きである。そこで色々な鍵を使わなくなった携帯用碁盤の板に貼り付けることにした。鍵と言っても玄関などのシリンダー型ではなく昔ながらの方式の鍵、左右に動かす、真上から被せる、半回転で受け側に差し込むなど金具類の鍵である。簡単な物だけでは面白みに欠けるので本物の小さな南京錠を引っ掛け金具に付けた。又、引き出し用の取手、蝶つがいも付けてみた。 更にsinは動くものが好きなので上下に動くレバー式のスイッチを取り付けた。このスイッチは組み立て式の昔のラジオ、ステレオなどに使われていたもので今では余り見かけない。動かすとカチカチと音がするので喜ぶと思い付けてみた。 出来上がった私の作品は「ガチャガチャ」と名づけて宅配で送った。sinがどれに関心を持ったか観察できないのが残念であった。喋れたら感想を聞きたいものである。遊びに来た同年輩の男の子に非常に人気があったと後日メールを貰った。(2008/9/7) |
2008/8 sinとの再会Uお盆休みを利用して大阪の娘が里帰りをした。sinとは3ケ月ぶりの再開、会社から帰宅した私の顔を暫くぶりに見てママの足にしがみ付いた。子供を手なずける早道は食べ物、私が冷蔵庫からケーキを出して食べていると遠くから様子を伺っていた。「sin」と呼ぶと食べたさに勝てず近づく。少し口に入れてやると美味しそうに食べる。これでジィジの距離は近くなった。 sinは常に興味しんしんの状態、自分の目の位置にある物で自分が関心ある物体は手で触ってみる。TV台のガラスを開け数十本あるゴルフスコア用鉛筆を全て取り出しTV台に移動、ビデオ、AVアンプ用リモコンは格好の遊び道具。本体の電源が入っていないが電源ボタンを知っている様子である。よく観察していると興味を示す物が見えてくる。対象は電話機、マッサージチェア、各種リモコンなど、操作できる物らしい。特に電話機は留守、子機切り替え、優先などのボタンを押して楽しんでいた。 又、私の持っている日曜大工用工具類は興味を示す。充電式電動ドライバーの箱を「開けろ」と要求する。中を見せると電動ドライバーを居間まで運びたいらしい。かなりの重量物、簡単には持ち上がらないので引っ張り始めた。更に別の部屋で5kgの鉄アレイを見つけて喜んだ。子供の力ではびくともしないが諦めず懸命に動かそうとする。足が挟まれるので取り上げたがこの意欲には感心するばかり。 車に乗ることも好きである。「ゴーゴー」と言うと車で外出するものと思い一人で玄関に行き自分の靴を履こうとする。チャイルドシートに座ると大人しくじっとしているが面白くなさそう。下りると運転席のドアを「開けろ」と要求する。運転席に座らせるとハンドルにしがみ付いて手当たり次第にワイパー、方向指示器などのレバー、スイッチ類をいじり出す。教えていないがハザードのボタンを押すから驚きである。ママのしぐさを覚えているのかもしれない。デパートの子供遊び場にあるレーシングゲーム機に一度乗せたら中々下りない。自分がドライバーになった気分?その様子は得意満面である。運転席からはガーンとして一向に降りる気配はなかった。 体調にもよると思うがsinの食欲は旺盛、食事はスプーン、フォーク、そして両手を使い自由自在。煮魚、シラス、野菜炒め、オクラ、納豆ご飯、味噌汁など何でも食べる。味付け海苔もバリバリ噛んで食べ上あごに張り付いてヘルプを出す。まだ十分に噛み砕いては無い様だが気持ちよいほどの食べっぷり。腹一杯になるとエプロンを取って「ゴッチ」となる。 デザートも目が無い。バナナ、桃、キイウイ、スイカ、ブドウなど殆ど食べる。私が食べていると近づいてくる。「欲しい人?」と問いかけると「ハイー」と手を上げる。後半は問いかける前に手を上げて口も開く。そのしぐさは実に可愛いものである。 まだ喋れないがこちらの言うことは100%理解しているようだ。自分の要求は「ママ」と発する。この「ママ」はパパ&ママではなく”それ”の意味に近い。「これか?」と問うと「うん」と返事をする。「もっと」は人差し指を数回下に向け合図をする。やっと2才になる子供が自分の意思をきちんと伝えることに驚きを感じた。 季節は真夏、庭先にビニール製プールを用意、昼下がりはプール遊びが日課となった。植木用散水シャワーで水を掛けられても嫌がらず「もっと掛けろ」と要求する。足元から段々と上に向かい肩、顔、頭に水が掛かっても泣かずに浴びている。頭のてっぺんからシャワーを浴びても顔を両手で拭きながら「もう一度」を催促する。水を怖がらない点は驚異だ。 前の家に老夫婦が住んでいる。息子から預かっているとのことだが非常に大きなセントバーナードを飼っている。散歩から帰ってきたこの犬を見にsinを連れ出した。sinは遠くから見ていたが段々と近づいて恐れもなく耳、足を触った。自分よりはるかに大きな犬を怖がらない点も珍しい。 お盆に娘の旦那が迎えに来た。sinはパパの顔を見るなりパパにべったり。日頃仕事が忙しく遊んで貰えないと聞いているがやはりパパがいいらしい。布団の上でレスリング、飛行機などをして貰いsinは楽しげな声を発していた。 変化の飛んだジィジ、バァバとの生活も終わり親子3人は元気に大阪へ帰って行った。それに付けてもsinの成長ぶりには驚かされた10日間であった。 私はsinをおんぶしたことで少し腰痛となったが忙しくも楽しい時間をsinと共有できた。退院した頃は”後5年位の命かな”と予想していたが最近では「もっとsinの成長を見てみたい」と思い始めた。今回の10日間で「もっと長生きしなければ」と思うようになった。この気持ちはsinからのプレゼントかもしれない。(2008/8/16) |
2008/8 後輩の死同じ職場ではなかったが仕事上で関係していた後輩が先月末に56才の若さで亡くなった。丁度、川崎への出張で訃報は週始めに知ったが休日に通夜、告別式が既に終了していて見送ることは出来なかった。暦の関係と思われるがすこぶる早い処置であった。病名は進行性筋ジストロフィーとのこと、筋肉の萎縮、脱力が起こる病気、病状が進むと死に至ると聞いていた。 勤務場所が離れていたので病気療養のことは昨年の春に知った。その職場の知人に話を聞きに行ったが職場でも管理者しか情報を持ってないとのことで正確には分からなかった。知人の話では一昨年頃に冷房が寒い、手・指が震えるなど本人が体の異常を訴えていた様である。その後治療のため入院したとのこと。 彼は物を作る職場の合理化を企画立案する仕事をしていた。先頭に立ってプランを立案、その実現に自ら実行していくタイプのエネルギッシュの人物であった。他だ、理想に走るところがあり現場重視の関係者とよくぶつかり合っていたと聞いている。それでも種々の改善を行い効果を出していた。彼が設計した部品を運ぶ無人搬送ロボットは現在も稼動している。予め廊下、エレベーターに敷かれた平板レールを低速で走行、時間は掛かるが確実に部品を入れたボックスを目的の場所まで運ぶシステム。交換できる場所もあり上下で衝突することはない優れものである。 発病後は進行が早かった様で体を動かすのも人の力を借りないと出来なかったらしい。彼はテニスを得意としたスポーツマン、後年はゴルフもたしなんでいたがそれを思うと不憫でならなかった。病気と知った時見舞いに行きたかったが「本人は既に喋れない」と聞いたので見合わせた。 自分より若い人が先に逝くのは好ましくない。元気な若い頃を知っているだけにやり切れない思いが残る。これも運命と言えばそれまでだが若すぎる死は非常に残念であり本人の無念さも感じる。心から哀悼の意を現すのみである。(2008/8/2) |
2008/7 川崎への出張昨年末に「リンパ腫が再発、即入院で治療します」とS医師から診断を受け慌しく川崎から茨城へ戻ってきた。その後飲む抗がん剤で治療する方法に変更となり入院は取り止め、勤めながらの治療となった。その後は1回/月の定期診察、検査でも特段の異常はなく通常の生活ができている。 川崎の会社から引き上げる時に先方から「体調が良ければぜひ会議に出席して欲しい」と要請があった。私は体調さえよければ協力は惜しまない積もりだったので様子を見ながらの対応となった。体調は悪化もなく気分も良かったので今年1月末の最初の出張を皮切りに1回/月のペースで出張し会議に顔を出している。2〜3時間の会議より移動時間の方が長く多少の疲労は感じるが何とか続けてきた。当初の出張は月曜日としたが翌日休めることで金曜日に変更した。出張することで出張日に支障が出ないように体調を整えることが新しい目標となった。更に会議の準備にも時間を費やすことになり結果的に良い気分転換ができたと思う。 この出張は仕事のメドが付き7月初旬分で終了することになった。定期的な出張は一応終わりになるので川崎に行く機会も無くなる。「今後の出張で最後、仕事が終わったらデートしよう」と妻に告げると賛成してくれた。 妻は上京途中に上の娘に連絡したらしく、娘から「夕食を一緒にしたい」とのメールを受け取っていた。夕刻、東京で待ち合い3人で夕食をとることにした。食べる店は東京駅地下街には沢山あったと記憶していたが居酒屋が多く静かな雰囲気の店はなかなか見つからなかった。結局、大丸のレストラン街の京都の漬物店の漬け物定食がディナーとなった。地下街を探し疲れたが漬け物の夕食はそれなりに美味であった。思いもよらず娘を入れてのディナーとなり遅くなったが無事に帰宅した。 先週、川崎の会社で追加の会議が開催され出席した。実質的にこれが最後の会議、終了後幹部へ挨拶して帰宅した。昨年7月から今回の仕事が始まり出張も含めて約1年間の付き合いだった。この間に多くの人と一緒に仕事ができたことは貴重な経験となった。 川崎駅の雑踏、鉄道での移動、大型ショッピングモールと圧倒的な商品量など川崎の生活はある意味新鮮で大変楽しく変化に飛んでいて面白かった。「再発」と告げられなければ川崎での生活はもっと深いものとなったがこれも運命、入院しなかったことは幸運なこと、この結果定期的な出張ができて良かった。出張を継続したことで更に川崎が身近な場所となった。(2008/7/27) |
2008/7 奥鬼怒(おくきぬ)旅行私は今秋に定年となるが繰越し分を入れた年休は定年までに消化できない位残っている。この年休を使い旅行に行くことにした。自宅から近い場所で未だ行っていない温泉地を検討、話に聞いていた奥鬼怒温泉郷の秘湯、加仁湯(かにゆ)温泉に行くことにした。 奥鬼怒温泉郷へは今市市から会津西街道を北上、川治温泉から西に入っていく。 鬼怒川温泉を通り過ぎた所に岩の回廊が有名な龍王峡(りゅおうきょう)があり、時間が早かったのでタ立ち寄った。売店のおばさんに「加仁湯は遠い、ここは早く切り上げ先を急いだ方が良い」とのアドバイスを貰い、入り口付近の虹見滝だけを見て龍王峡を後にした。 加仁湯には川治温泉手前から分かれ道へ入る。鬼怒川の上流に向かう道路は集落地以外は山道になっておりカーブ、トンネルなど多い。しかし栗山まで舗装がしっかり出来ていて平日の午後のドライブは行きかう車もなく快適であった。 栗山を過ぎると中央線が無くなり幅の狭いところが多くなってきた。川俣湖に近づくとくねくね道、見通しの悪い道が多く対向車は少なかったが十分に注意しなければならない。すれ違える広い場所もあるが幅の狭い所では互いに譲らないとこする危険が大となる。川俣大橋から川俣温泉の間も九十九折(つづらおり)が多く運転には神経を使った。更に川俣温泉から女夫淵(めおとぶち)温泉までの間も先が見えない場所、一台分の幅しかない場所も多く雨の中非常に疲れるドライブとなった。 それでもどうにか一般車の通行が許されている女夫淵(めおとぶち)の駐車場に着いた。この先の八丁(はつちょう)の湯、加仁湯へはホテルのマイクロバスに乗るか徒歩で向かうことになる。天気が良ければ自然研究路を約1時間40分掛けて歩こうと考えていたが小雨と妻が風邪気味だったので無理をせずマイクロバスに乗った。マイクロバスは未舗装の林道を約30分掛けてホテルまで山道を登って行った。石がごろごろの凸凹道をバスはエンジンを唸らせながら走るので体が跳ね上がることしきり。舗装道路に慣れた身体には堪える道のりだった。 やっと川沿いに建つホテルに到着した。 正面は木造風の建物だったが中身は鉄筋コンクリート製、山奥のしなびた木造小屋を想像していたが有名地のホテルと変わりはなかった。本館は20年位経っているとのことで設備はかなり古い。TVの映像は写りは悪いが関東のチャンネルは全て入る、自販機、カラオケも完備され普通の温泉地と同じ。四方が山で囲まれている、自家用車で入れない、携帯電話が圏外、部屋から渓流の音が聞こえてくることでここが山奥であることが実感できた。 雨が降っていたので露天風呂は止め内湯に入った。硫黄の臭いがする白濁したお湯はかなり熱く薄める必要があった。能書きにはなかったがガイドブックによれば5本の源泉から異なる泉質の温泉を引いているとのこと。私はこの頃は熱いお湯に入らないように注意しているので腰まで数分間浸りかけ湯で出てきた。それでもかなり長い時間、身体は温かった。 夕食は舞茸の天ぷら、山菜のグラタン、岩魚焼き、ゆば、豆腐料理、酢の物など山の素材を使った料理、品数と味つめもよく山奥のホテルとは思えなかった。前回の奥日光湯元のホテルに比べたらこちらの方が多少豪華で美味だった。別料金だが熊、鹿のステーキ、山椒魚、鮎の塩焼きなどが追加できる。 翌朝は天気も回復、青空となり晴れてきた。露天風呂は婦人専用、混浴、混浴貸切など種類が多かった。風呂場の撮影は盗撮犯と間違えられるので要注意、婦人専用と貸切以外を無事に撮影、トラブルはなかった。撮影後は小さな個室、露天ロマンの湯に入ろうとしたが非常に熱く水で薄めるのに時間が掛かったので途中で諦めた。次にガイドブックに写真が載っている大きな混浴の露天風呂に入った。ここも白濁の湯、誰も入っていないので結構熱く腰湯としたがぽかぽかして気持ち良かった。空を眺め渓流の音を聞きながらの入浴は短時間であったがよい思い出となった。 この場所は奥鬼怒自然研究路のコースになっている。八丁の湯はここから徒歩10分、しなびた宿と良質な温泉とのこと。ここから更に奥へ入ると日光沢温泉、鬼怒沼へ行ける。この辺は本格的なトレッキングコースとなっている。帰りのバスに乗らず数名の人達はホテルからトレッキングに出掛けた。バスを待つ間にも女夫淵から歩いてきたと思われるトレッキングの人達が通り抜けて行った。 下山するバスは午前中に2本しかないので殆どの人は9:00発の便に乗る。人数が多いことで来る時のバスより大きめな直ぐ解体場へ行くような年期の入ったバスだった。来る時の揺れを予想して前席に乗ったが下り坂が多いので慎重な運転、故障することなく無事に女夫淵の駐車場に着いた。 帰りは紅葉が素晴らしいという瀬戸合峡(せとあいきょう)を上部から眺め、その後霧降(きりふり)高原への道を選択した。この有料道路は今は無料、連絡道路もよく整備されていて運転はし易い。連休、天気も晴れと好条件、日光市内から登ってくる車、バイクが多く観光県が納得できた。途中キスゲ平へ立ち寄りリフトを乗り継ぎ小丸山まで上がった。山一面に咲く観光案内の写真には及ばないが数多くのニッコウキスゲが咲いていた。又、名前は分からない夏の花が日を浴びて咲いていた。リフト頂上からの眺めはそれなりに見晴らしがよく爽快だった。下山途中に霧降滝へ、木漏れ日の中を展望台まで約10分、整備された展望台でダイナミックな霧降滝を鑑賞した。距離は遠いが瀑水音と水しぶきが印象的だった。 私は自動車の運転は好きだったが最近は長距離を一人で運転すると非常に疲れる。事故は起こしていないが帰り道は集中力が薄れる時がある。そのこともあり今回から妻に運転を手伝ってもらうことにした。自分の軽自動車には乗っているが私のスポーツセダンはほとんど運転してしていないので数回事前にテストドライブした。セダンで違和感はないようだがアクセルとブレーキペダルが違うようだ。特にアクセルを強く踏む習慣があるのでスピードが出るのが心配である。 山岳道路、混雑した市街地は私が運転し郊外の一般道は妻に運転して貰った。自転車、バイクを追い越す時、大型トラックとのすれ違いなど助士席での同乗は神経が疲れる。追い越し禁止の一本道では後ろの車にあおられたが何とか無事に運転できた。自分で運転しないことで身体への負担が少なく大いに助かった。 今回は山奥の秘湯、白濁色の温泉に入ることができて満足した。”秘湯”がバスで行けばお手軽に入浴できることは老人、弱者に取っては貴重、ある意味観光化されているのはしかたのないことと感じた。妻は綺麗な部屋、美味しい料理が出てくるホテル、ペンションがよいらしいが、私は昔ながらの温泉はそれなりの趣と価値があると思っている。(2008/7/20) →写真 |
私は貧乏性であり何かをやっていないと落ち着かない。晴耕雨読は柄に合わなくこの頃は本を読んでいると直ぐ眠たくなる。暇ができると日曜大工(DIY;Do It Yourself)に励んでいる。 現在の家は築27年になる。台所の内壁は窓を除いて一応防火ボードが張られている。この防火ボードは新しい内は縞模様も綺麗に出ていたがこの頃は色が黒すみ部屋全体が暗い感じがしていた。少し迷ったが思い切ってペンキを塗ることにした。 以前、他の部屋の天井を真っ白に塗ったことがあったが今回は少し柔らかなベージュ色を塗ることにした。ペンキには油性と水性がある。出来上がりは油性の方が良いが塗るのに技術が必要で取り扱いづらい。水性は技術が無くても多少むらになっても仕上がりはまずまず、薄めるのに水でよいなど素人向きである。さほど広くないので全部をハケ塗りでもよかったが時間短縮の目的でローラーで塗ることにした。塗る作業はさほど時間は掛からないが邪魔な物をどかしたり新聞紙で養生したりけっこう前作業に時間が掛かる。 この頃は長時間の作業は疲れるので時間を掛けて細切れにして塗ることにした。一気に仕上げないことで色の濃さがはっきりと出てしまう。塗る作業は楽しく苦にならないが満足するまでに2度塗り、部分的には3度塗りとなってしまった。休日しか塗れないことで完成までに約1ケ月間掛かった。近くで見ると素人塗りが分かるが遠目には分からない。部屋全体が明るくなったことで食事もはずむ。 洋間には寒さ除けに以前からカーペットを敷いてある。真冬はそれでも寒いので真ん中にホットカーペットを敷いている。 このカーペットはかなり前に取り替えたきりでふわふわ感はなく汚くみすぼらしくなった状態となっていたのでホットカーペットを片付ける時に一緒に取ることにした。 部屋の家具類を全部移してからカーペットを外せば綺麗に取れるが重量物もあり容易ではない。このカーペットは処分する積もりなので要らない部分から小さく切断することにした。裁断には工作用の切り出しナイフを使ったが以外に力が必要と分かった。それでもPC机、AV機と一緒になったTVなどはスピーカー線を外さないで左右上下に動かしながらカーペットを切断、撤去した。重量物のカップボード、ステレオラック、マッサージチェアは少しずつずらしながらカーペットを外した。考えていた以上に結構大変な重労働となってしまった。 全てのカーペットを取った床は当初張られた状態の姿を現した。カーペットの裏地で全体的に白茶けていたが汚れもなく拭き掃除で元の素材が浮かんできた。この床は玄関、台所と同じ素材で作られている。正方形の模様、合板で高価な材料ではないが変化があり面白い。玄関、台所の床は病気を患うかなり前に床用ニスを塗っておいた。十数年経って表面の輝きはなくなったがこの効果で毎日使ってきた台所だが比較的汚れも少なく古びた感じはしていない。 洋間もこのニスを塗ることにしてDIYセンターに買いに行った。台所を塗った時は少し濃かったので塗った後がべたべたしたと記憶していたので今回はできるだけ薄く塗るように心がけた。このニスは油性、薄めるのは専用の薄め液を使い季節にもよるが乾くのに3時間以上掛かる。通常の生活しながら床を塗るには工夫がいる。塗るタイミングは寝る前がベストだが今回は動線の外から数日掛けて部分的に塗った。約27年前の床は1度塗りでは均一にならない、物を動かせる場所は2度塗りをした。 洋間の部分だけ光ってしまうので後日玄関、台所の床も塗った。まだべたべたは残っているが新しく塗ったニスで床は光輝いている。しばらくすると落ち着いてくるが。 この家は家の大きさに比べ窓が多く東西南北の窓を開放すると風通しがよい。窓が多いので網戸も多い。南側の網戸は日が当たることから他に比べて痛みが早く網が枠に沿って切れてくる。この網戸は病気をする数年前に自分で張り替えが2部屋、4本とも枠に沿って縦に切れた状態。去年から分かっていたが忙しかったのでそのままとしていた。余りにもひどいので今年は張り替えることにした。 しばらくDIYセンターの材料は見ていなかったが今は金属製の網があることも分かった。今回は普通の安い網としたが以前と比べて網目が小さくなっていることに気がついた。これなら小さな虫も入れないと納得した。 網は専用のゴムで窓枠の溝に押し込んでいけば張れるのでさほど難しくはない。市販されている網戸は機械で張っているので網目が上下左右にきれいに引っ張られている。素人は網一面を均一に引っ張りながら張れないので網目がゆがんでくる。専用の”へら”とカッターナイフだけで均等に張ることは至難の技である。何でもそうだが専用のツールとテクニックは必要となる。 それでも以前やったことを思い出しながらやっと張り替えた。出来栄えは70点、網目がゆがんでいるが破れていないので虫の侵入は防げる。これで安心して夏を迎えられる。 雨の日は一室が洗濯物で占領される。今の洗濯機は部屋干しのボタンがあり多めの脱水と風乾燥があるようだが最後は”干す”作業となる。一室に集められた洗濯物の足元に乾燥機が用意され乾燥機の出番となる。この乾燥機は暖かな空気を吹き出しながら部屋の湿った空気を機内に取り込み水分を取り除く機構のようだ。洗濯物の量にもよるが乾燥には結構時間が掛かる。 洗濯物を見ながら「物干しハンガーを回転させたら早く乾くのではないか」と考えた。回転させるにはベアリングがベストなので早速DIYセンターに買いに行った。レジの女の子に売り場を聞いたが「ベアリングは何ですか」と言う、馴染みがないのかもしれない。 小さなベアリングを入手したがこれをどう使うかが課題となった。金属を自由に加工できればよいが素人では難しい、小さな板にこのベアリングを埋め込み中の回転する部分に物干しハンガーを吊り下げる方法とした。板にはめ込む穴を綺麗に開けるのに苦労したが何とかはめ込み動かないように固定、次に回転する部分に丸棒を差し込んだ。この丸棒に紐を付けて一応回転機の試作品(写真)が完成した。 早速テスト。乾燥機の風を洗濯物の片方に当てると静かに回り始めた。「テストは成功」と 思っていたら中央部のハンガーを吊り下げている丸棒が洗濯物の重さに耐えかねて落下してしまった。色々試したが丸棒の上部に抜け防止ピンを差込み実用に耐えられる回転機ができた。妻より「前より早く乾く」と褒め言葉を貰い、回転させることで湿気が早く取れることを実証した。まだまだ改良点があり次期バージョンを作る積もりでいる。春先からやってきた一連の作業は一応終了、その結果部屋が綺麗に変化したことはそれなりに満足している。妻には「無理はできないですよ」と釘をさされているが色々なことに挑戦することは楽しく面白い。自分の体と相談しながらだが。(2008/7/12) |
2008/6 奥日光旅行数十年前に奥日光を通ったことはあったが立ち寄ったことはなかった。平日が休日となった連休を利用して日光湯元へ出掛けた。日光市内にある東照宮は道の途中にあるが、何度も見ているので通り過ぎても良かったが今回はデジカメ一眼レフの撮影トレーニングと考えて立ち寄った。 かなり昔、修復したばかりの陽明門を見た時があった。その黄金色は今でも脳裏に焼きついているが、現在は全体的に色がくすみその当時の色は失っている。あの輝きをデジカメで撮影できればと思うと残念である。それでも表門を入った正面にある三神庫(さんじこ;馬具、装束類の倉庫)は最近修復が終わったばかり、建物全体が日に照らされてあでやかに輝いていた。現在は本殿を囲む唐門、透塀が改修中である。 この東照宮は神社であるが本地堂(薬師堂)は寺院、天井一杯に書かれてある鳴き龍は絵柄もユニーク、龍の顔の真下で拍子木を打つとリンリンと鳴き音が響いてくる。誰が考えたか素晴らしい設計、ぜひ一度はこの音を聞いて欲しい。 今回は共通券を購入、今まで行ったことのない日光廟大猷院(だいゆういん)、二荒山神社を訪れた。大猷院は徳川家光の廟所、東照宮と比べると背面が崖、敷地も狭く暗いイメージであったが、それぞれの建物は造り色彩とも立派、東照宮のそれと比較しても引けを取らないもの、特に夜叉門、唐門は素晴らしい出来栄えと感じた。 足に疲労が溜まっていたところにあちこち歩く回ったので思うように歩けず十二分に撮影できなかった。結果はまだまだだが少しは撮影のトレーニングが出来た。 翌日は湯滝を見学した。岩盤を流れ落ちるさまは袋田の滝と似ているが水の落ち口が非常に高くその比ではなかった。雪どけ水と梅雨とで流れ落ちる水量が多く躍動感があった。下から見上げるとダイナミックな水しぶきが木々の新緑と青空に映えていた。滝つぼの手前に観覧席があり撮影会ツアーで来ていた多くのカメラマンが盛んにシャッターを切っていた。 今回の目的の一つは戦場ケ原を散策すること。天気は快晴、絶好の散策日となった。散策コースは幾つかあるが赤沼から湯滝へのコース(逆でも可)が一番ベーシックと思われる。赤沼茶屋に駐車、そこから戦場ケ原へ入っていければ良かったが既に満車状態、三本松に駐車して歩くことにした。初めて行ったので要領は分からなかったが多くの人達の行動パターンを真似することにした。 散策コースは尾瀬の様に二本の木道が綺麗に整備され非常に歩き易かった。 このコースは殆どを湿地帯の中を歩くと思っていたが川沿いの道、林の中、草原の中、小高い山道など結構変化にとんでいた。この湿地は尾瀬に比べ水が少なく全体的に乾いている印象を受けた。 多くの場所には”ズミ”の木(別名コリンゴ)があり丁度白い花が咲いていた。遠目には桜のように見えてとても美しかった。残念ながら湿地帯の花はほとんど咲いていなかった。又、小鳥のさえずりはセミ?の鳴き声にかき消されて聞こえなかった。 歩き始めた頃は多少雲があったがそれも消え文字通りの快晴、何処までも青く澄んだ空が広がり気持ちが良かった。周りの山々は新緑に衣替え、色カードにある緑系を全部使わなければ表現できない状態、そのグラデーションが見事であった。 新緑の中、木漏れ日の中を歩くことは清々しい。木々が途絶えると視界が開け綿帽子のような白い花が一面に咲いている草原、枯れ草が広がった原っぱなどすかっとした景色が目の前に現れる。時にはその中に幹と枝だけの立ち枯れた大きな木が特異な存在となる。それらを鑑賞していると高原の乾いた風が顔に当たり爽快な気持ちとなった。振り向けば男体山が見え隠れしながら追って来た。 ここは”日光てくてく道”、合わせて自然研究路となっている。途中ガイドに引率された多くの小学生の列に出会った。ガイドの説明など聞いていない学生が多かったが子供の頃からこの様な自然と付き合えるのは羨ましい。賑やかな列が通り過ぎると木道には静かさが戻ってきた。 後半は水も無くなり、足の疲労も増してきたので光徳入口から戻ってきた。帰りを急いだことで途中から落ちついで景色を見られなかったが、それでも十分に戦場ケ原の散策を楽しんだ。季節柄、雨を予想していたが幸い快晴、高原のからっとした空気が実に清々しく心地良かった。 多少風邪ぎみで心配したが疲れは残ったものの目的通り歩くことが出来た。「元気であればまた来られる」と感謝しながら帰宅した。次回は体調を整えじっくりと自然観察したい。(2008/6/14) →写真(@東照宮、A戦場ケ原) |
2008/6 家電品リプレース昨年、真冬の日曜日早朝に妻が冷蔵庫から異常音が出ていると気づいた。モータか冷却機の音らしい、そのうち止まると様子を見ていたが一向に小さくならない。寝る頃にその音は一層大きくなりとても寝られる状態ではなくコンセントを抜いて就寝した。翌朝コンセントを入れたら音が消えていたのでそのまま出社したが午前中に再度異常音がしたので使うのを止めたと妻から連絡が入った。 この冷蔵庫は21年が経過したもの、寿命とあきらめ団地内の日立家電店へ出向いた。真冬と言えども無いと困るので従来とほぼ同様の冷蔵庫を注文した。数日して真新しいグレーの冷蔵庫が古い台所に収まった。外観の大きさは従来とさほど変わらないが内部容積は大きく新しい機能も追加されていた。冷凍庫が中段にあるのは私に取っては変わった感じ、水を入れておくと氷が専用ボックスに一口サイズで出来ている点は新鮮であった。更にノンフロン、省エネなどこの21年間で著しく進化した冷蔵庫であった。 もっぱら妻の使用する機器だが、私は暫くしてペットボトルのお茶、紙パックの飲む酢などが前と比べ冷えていることに気がついた。これが通常状態、従来の冷蔵庫が冷えていなかったと推測できた。以前飲み残ったお茶が妙な味がしたことがあったがこれが原因らしい。日立製品は中々故障しないが時期をみて早めにリプレースしておかないと困ったことになると理解した。 エアコンは18年間使用、数年前からは冷えが弱いと感じていた。長い時間であれば外よりは確かに冷えていたが昨年は早くから「今年の夏は暑くなる」と言われていた。迷っていたが冷蔵庫の件もあったのでエアコンをリプレースすることにした。 従来機は洋間と台所の2部屋を冷やす能力大の冷房専用エアコンを使用していた。しかし妻は「これから先は年齢的に灯油の買出し、燃料タンクへの給油作業は大変になってくる。暖房は石油ストーブとエアコンの併用が良い」とリクエストした。今の機種はオールシーズンを考慮し当然暖房兼用である。 妻のリクエストの機種を選択することにしたが困った問題が発生した。能力の大きな機種はどれも単相200V用、我が家の電源100Vを200Vに変更、ブレーカも最低40Aに改造が必要と分かった。自宅前の電柱から直接単相200Vで電灯線を落す、家の配電盤を200V、ブレーカも40Aに交換する、エアコン専用に200Vコンセントを設けるなどの工事となる。100V用エアコンを2台設置とする手もあったがメンテを考えて200V用エアコンを設置することとした。電気店の息子からは「200Vにしておけば直ぐにIHが使えますから」と励まし?の言葉を貰った。中々商売熱心である。 後日、結構大変な工事だったらしいが無事に200V電灯線が新設された。そして真新しいスマートな形のエアコンが元の場所に納まった。音が静かな運転は良好、きちんと冷えるのが良い。内部がステンレス製、掃除が不要という点も魅力的だ。昨年の夏は当然ながら今年の春先は石油ストーブを片付けた後も大分お世話になった。 今年に入り上記の理由から12年間使用した洗濯機、14年間の電子レンジをリプレースした。洗濯機は乾いた衣類が液体洗剤や柔軟剤の香りがすることに気づいた。ビートウォッシュ、部屋干しモードも含めてかなり進歩した洗濯機になったようだ。電子レンジも同様と思うが温める以外、私はまだ使い方が分からない。 以前から古い家電品(TV、扇風機)から火災になることは聞いていた。私は今秋に定年となるがそれまでに長年間使用した大物家電品のリプレースを考えていた。冷蔵庫事件からTVを経て一通りは終了した。これで妻の心配事が一つ解消、私も一安心である。次回リプレース時、私は多分いないのでその仕事は妻に任せたい。(2008/6/5) |
2008/5 叔母の死妻の叔母が先月69歳で死去した。長く教職に従事し退職後は町の公の仕事を手がけていた。妻の実家でお盆、法事などで何度かお会いした。元々持病があったようだが昨年冬に体調を崩しその後合併症で一進一退を繰り返していた。お見舞いに行くタイミングを図っていた矢先に訃報の連絡を受けた。 私が悪性リンパ腫で入院、治療時は非常に心配してくれて手厚い見舞いを頂いた。無事に退院、職場復帰後も機会ある毎に言葉を頂いた。ある時、自宅にこの叔母が発送した小荷物が届いた。中を開けると健康食品と自筆のメッセージが添えてあった。 「お元気でお二人揃っての生活に戻られたとのこと何よりです。ほっとなさっておられることでしょう。今日近くの自然休暇村に行って自然食品をいくつか見つけてきました。お口に合うかどうか心配な物ばかりですがどうぞご賞味下さい。益々寒さ厳しくなる折くれぐれもお身体大切にお過ごし下さいね。」 思いもよらないプレゼントに感激したことを記憶している。叔母の住まいは筑波山の麓、柿岡というところにある。後日お宅にお礼に伺うと夫婦そろって温かく迎えてくれ、病気が治癒したことを喜んでくれた。夫婦とも長く小中学校の教員を勤め今は悠々自適の生活をしていた。少し長い時間お邪魔したが夫婦とも飾らず自然体の温かく穏やかな人の印象を改めて受けた。私のHPを作成中と紹介したら後日感想のメールを頂いた。 告別式には年休を取って出席した。町の教育関係者、教え子達など多くの人が式場に参列した中、後輩の女教師から弔辞があった。自分の言葉で仕事、出来事などを通して見た叔母の性格、人柄を紹介、感想を含めて早い死を惜しんでいた。全体を通して聞く者に取ってジーンとくるお別れの言葉であった。 私は叔母から見れば姪のつれあい、元からの親族でもないのに温情を持って接してくれたことがひどく嬉しく心に残った。良い人が早く逝ってしまい残念であった。(2008/5/30記) |
2008/5 デジカメ一眼レフを購入従来から使用しているデジカメ(PowerShot Pro1)はレンズが外せない一体型であるがスーパマクロから最大22倍のズームまで幅広く撮影できて使い勝手は良い。プリントした写真の出来栄えもシャープさがあり結構満足している。しかしフイルム時代から一眼レフを愛用し二人の娘の成長記録も写してきたことから「何時かはデジカメ一眼レフ」の気持ちは大きかった。 最近は各メーカーの競争が激化、高品質低価格のモデルが発売され品揃えが豊富となり手に入れ易くなってきた。丁度、年度が変わり加入していた団体保険の配当金が戻ってきた。更に欲しいと思っていた機種(EOS40D)がキャッシュバックキャンペーンが実施されていることを知りそろばん勘定で一眼レフの購入を決めた。 ネット販売店、地元量販店、川崎ラゾーナの電気店などで価格を調べた結果、ネット販売店が一番安いことが分かった。「お客様の声」を細かく調べ一番信頼がおけると思われる販売店を選び注文、数日後無事にカメラが届いた。電気店で実物は手にしていたが手元に届いたカメラは自分の物という実感がありそれなりにずっしりしていた。 最近は脳軟化が激しく新しいものを覚えるが少々苦痛となってきた。そのこともあり従来のデジカメと同じ設計思想を持っているメーカーの機種を選んだ。基本操作、ボタン、絵柄などは同じだったがやはり多機能カメラ、従来にない機能が多く使用説明書を何度も読み返すこととなった。私は「写したい物がすっきりと撮れれば良い」と考えているがその能書きはかなり複雑であった。 早々身近な物から撮影を開始、PCに取り込んで写真をチェックした。一眼レフ写真の出来栄えをかなり期待していたがそれとは少し違っていた。色の明るさ、色合いなどは申し分ないが従来機の写真よりはシャープさが弱く、全体的にパンチ力に欠け優しくまろやかな感じだった。 従来のデジカメについてネット関連記事を探し出しプロカメラマンの解説を読んでみた。これを入手した当時はさほど認識していなかったが中々性能がよい機種、特にセットされているLレンズは完成度の高いものであることが分かった。購入した一眼レフは本体に標準ズームレンズが付いたキット品、手振れ補正機構付の性能高い標準レンズということだが上記Lレンズとは明るさ、画質などで少し違うらしい。機種毎に設計思想が違いその結果として色合い、画質、精度などが違ってくると理解した。 購入したこの一眼レフは高精度、高速連写、ライブビューなど多くの機能を持っている。高速連写は以前SL撮影で戻りが遅く悔しい思いをしたがスピード、結果とも実力通りであった。そして上記の画質は撮影する状況、被写体により自分好みの味付けにできることも分かった。その他多くの機能があるが使いこなせないので当分は標準設定でいこうと思っている。 私の腕はまだまだこの一眼レフの性能を引き出すレベルに達していない。リーズナブルな望遠レンズも合わせて購入したので撮影範囲を広げながら用意された多機能をマスターしスキルアップを図らねばと考えている。”写真を撮ること、楽しむこと”が目的であるが「宝の持ち腐れ」とならない様にこの一眼レフに挑戦したい。(2008/5/18) |
2008/5 sinとの再会大阪の娘より「遊びに来たら」と言われていたのでGWを利用してsinに会いに行くことにした。連休の前半に出発、初めて乗るのぞみ700系は高速の割には揺れも少なく静かな車内、うとうとしていたら京都駅に着いた。 JR京都線に乗り換え茨木千里丘駅へ、改札を出たらsinが出迎えてくれた。昼寝をしていないので少し機嫌が悪かったがみやげの柔らかなボールで遊び始めたら元気になってきた。 昨年12月に別れた時はやっと立ち上がれる状態だったがずい分と歩けるようになっていた。足腰はまだふらふらしているが上半身、特に二本の腕でうまくバランスを取り転ぶこともなくバタバタ、よたよたと歩く姿は面白い。ボールを玄関の方へ投げてやると夢中で取りに行く。まだ上手く投げられない、蹴れないので私に手渡しで持ってくる。可愛いものである。 夕方、近くにある九州地方の牛肉を扱っている焼肉店へ出掛けた。オーソドックスな部分の肉は美味であった。sinは焼肉、ウインナーソーセージ、野菜など喜んで食べていた。中々の食欲である。 翌日は大阪道頓堀辺りまで出掛けた。 sinはおやつを食べた後でも昼食のお好み焼きをうまそうに食べていた。帰り際にトイザラスへ立ち寄った。それまではバァバに抱っこしていたが店内に入った瞬間に目の色が変わり自分で歩くと要求した。子供用の自転車を暫くいじった後はロゴのブロック置き場へ一直線、遊び場に広げてあるブロックで遊び始めた。ここへ来た目的がこのブロックを買うこと、易しい基本形を購入しsinの分と言って本人に本体を渡した。自分の物と分かったようで引きずりなから引っ張り回していた。自宅へ戻ったらさっそくブロックをばら撒き遊び始めた。手の力がなくパッチンとはめられないがその内に出来るだろう。 帰る日にバァバがsinの子供服を買うというので近くのスーパへ付いて行った。子供服の隣がおもちゃ 売り場、sinを連れて行くと蹴るボールを見つけた。早速柔らかなゴムボールを買って上げたら喜んで投げていた。その内電動で動く楽器のおもちゃを見つけ触り始めた。鍵盤の他にボタンが多数、それぞれにメロディーが割り当てている物。私は最初分からなかったがsinが左上の大きなボタンを押してからメロディーのボタンを押していることに気が付いた。そのボタンは今演奏しているメロディーを止めるSTOPボタン。なぜ知っているのは分からないが何処かで学習していたようである。感心するばかりである。 こちらの言うことは殆ど分かる様子、「sin君」と呼ぶと「ハイ」、「うん」とか返事はできるようになった。しかしまだ喋れない。文字では表現できないが意味不明な宇宙語を喋っている。現在頭の中で言葉の組み立てが進行中と思われる。あと少し経ったらうるさいほど喋るであろう。その時が楽しみである。 sinに会いに行く小旅行であったがその目的は達した。sinの成長ぶりには驚くばかりであったが次回会う時の姿を想像しながら帰途に着いた。動きが速いので良いスナップ写真はなかなか上手く撮れなかったがそれでも自然の表情の写真を帰宅後プリントして額に飾った。(2008/5/2) |
2008/4 三春の桜 日本三大桜の一つ福島県”三春の滝桜”は隣県で比較的近い場所にあるが今まで実物を見たことがなかった。今年はぜひ訪れたいと思いバスツアーに申し込んだが希望日は中止、止む無く開花日を狙って自力で行くことにした。「開花した」との情報を得て晴れの日を選んで訪れた。平日でも当然混雑が予想されたので早く自宅を出たが既に駐車場は多くの車で一杯だった。 目的の滝桜は広い斜面のほぼ中央部に鎮座していた。桜はエドヒガン系の紅枝垂れ桜、樹齢千年以上とのこと、満開時の花が滝の様に見えるので滝桜と言われているそうである。 幹は太かったが朽ちている部分も多くかなり空洞化していた。木の高さは思っていたより低くむしろ枝が横に広がりボリューム感があった。昔は中央部分に主木がありそれを中心に背の高い樹形を形成していたと推測される。根元の保護と思われるが近づける場所は一箇所のみ、他は柵で囲ってあった。更に木を囲む様に大きな遊歩道が用意されていた。 満開から少し時間が経ったせいか薄ピンク色に少し紫色が入り込みくすんで見えた。前週末の風雨のダメージも影響しているらしい。遊歩道を一周するとそれぞれの角度から色々な形の滝桜を眺められた。この枝垂れ桜は満開少し前が見頃と思えたが、それでも青空に薄ピンク色の花は十分に存在感があり美しかった。 十二分に滝桜を堪能した後に三春町内にある枝垂れ桜を見て回った。桜谷、福聚寺(ふくじゅうじ)、法華寺、龍穏院、お城坂などにも数多くの桜が咲いていた。特に福聚寺の枝垂れ桜は満開、薄ピンク色が山の緑に良く映えていた。お城坂の枝垂れ桜は滝桜の孫に当たると言っていたがこれも満開、見事な花が咲き誇っていた。 今まではソメイヨシノ、八重桜が中心であったが今回は見事な枝垂れ桜を見ることが出来て大いに満足であった。(2008/4/22) →写真 |
2008/3 TULIPラストラン (写真;朝日新聞番組欄、試写室より)先日NHKプレミアム10でTULIP(チューリップ)「青春のラストラン」が放映された。(2008/3/7) 結成35年のTULIPの解散全国ツアーを密着取材した内容。ツアーは全国18ケ所、29回のコンサート、延べ8500人を動員盛況の内に終了した。 1972年に財津和夫氏がTULIPを結成、フォーク全盛時代に他のグループとは一味違った歌を歌い続けてきた。私は熱狂的なファンではなかったが「心の旅」1973、「サボテンの花」1975などはストレートに心に入ってきた曲でよく知っている。特に「サボテンの花」は心が和み何度聞いても心地よい。その他「魔法の黄色い靴」1972、「青春の影」1974、「虹とスニーカーの頃」1979、「夢中さ君に」、「約束」、「二人で山に行こう」、「風のメロディー」、「I LOVE YOU」、「銀の指輪」など。 アナウンサーの言葉、「青春は永遠ではない様にバンドも決断をしなければならない時が来ます」は印象的だった。又、リーダの財津氏が解散を決断した心境を語っていた。「出来ることなら続けたい。(中略) バンドとしてプロとしてこれ以上のものを持っていなければならない。それが一つ二つ欠落しても許されるが自分で許されないところまで来ている」と。この言葉にプロとしての誇りと潔さを感じた。 物事を始める時は勢いがあり一つ上手くいけば更に大きなるがどの分野でも30年が経過すると必ず衰退する。何処で区切りを付けるか、何処が引き際かが重要となる。多分に財津氏も苦渋の決断をしたと思う。その想いの溢れるツアー内容であり私自身も多くの点で共感できた。 その当時は余り関心はなかったがツアーで歌っていた「青春の影」が心に残った。購入した若い時に録音したCD内にも入っていたが印象は弱かった。歌詞は単純であり純真さが溢れる内容。多くの経験と歳を重ねてきた今の財津氏の想いがその歌に滲み出ていたのかもしれない。良い物は何でも残したいが現実はなかなか難しい。しかし良い曲は何時までも心に残っていく。彼がしみじみと歌っていた「青春の影」は私の脳裏に長く残ると思う。(2008/3/23) 「青春の影」;作詞・作曲 財津和夫 君の心へと続く長い一本道は いつも僕を勇気づけた とてもとても険しく 細い道だったけど 今 君を迎えに行こう 自分の大きな夢を追うことが 今までの僕の仕事だったけれど 君を幸せにするそれこそが これからの僕の生きるしるし …… |
2008/2 ひな人形まつり茨城県北西の位置、筑波山の裏側に真壁(まかべ)町がある。ここは昔から農業と石加工が盛んな土地であり、合わせて多くの旧家、蔵がある。 定かでないが数年前から”和の風”と名前を付けて”ひなまつり”が開催されている。各家に保存されているひな人形を各店先、ショーウインドー、玄関先に展示してある。カタログによると約170軒の展示があるらしい。見せる芸術的な飾り、蔵を利用した飾りなどもあったがほとんどは生活の場所にひな壇、人形がさりげなく飾ってあった。年代別にきちんと整理されている物もあるが色々な時代の人形が混ざっていた混合雛も多かった。長い間人形を保管するのは至難の技であろう。当然お宝もあったが人形の価値を見せる場でなく台所を見せるような雰囲気のひな祭りと感じた。 何処の場所でも快くひな人形を見せてくれた。店先に場所がない家では奥座敷に飾ってあり、「身近に見て下さい」と座敷に上げてくれた。更にはお茶まで出してくれるから感謝である。一日で全展示場所を見ることは大変な作業でありほどほどのところで帰宅した。次回はターゲットを絞って来ようと思う。 又、この町は旧家、蔵、古い家が保存されていた。手が入らず壊れかけている建物、蔵もあったが使われている物も多かった。保存には多額の費用が掛かるがぜひ後世のために残して欲しいものである。(2008/2/21) →ひな人形の写真 →旧家、蔵の写真 |
2008/1 茨城の生活茨城に戻り約1ケ月が過ぎ生活は元のパターンに戻った。 川崎の朝は電車通勤で混雑の苦労があったが始業時間が遅いことで時間的には余裕があった。こちらでは車通勤、渋滞を避けるため早く自宅を出るがその忙しさが戻った。 今のところ精神的に落ち着いているので身体の方は特別な異常は現れずすこぶる元気である。抗がん剤の副作用は顎鬚のまだらさと時々下痢気味な位で覚悟していた程ではない。プレドニンのお陰で食欲があり食事も順調。その結果やせ細った身体でもなく顔色もさほど悪くはない。車の運転もスムーズ、歩くスピードも速く外見だけ見ると抗がん剤を服用しているとは全然見えないらしい。 散歩は相変わらず夕食後毎晩続けている。今年の冬は去年より寒くこちらに戻ったら更に寒くなった気がする。夜は空気が澄み切っているせいか月、オリオン座がくっきりと見える。休日は夕方散歩しているが団地を一歩出ると田んぼ、畑が当たり一面広がりそこだけ見ると純農村である。昼間、夜間とも散歩時に出会う人はほとんどなく川崎駅の雑踏とは雲泥の差がある。やはり田舎である。 今度のCT検査結果が出るまでは油断はできない。抗がん剤が効いているかは確信が持てないがリンパ腫を押さえ今の状態をキープできれば申し分はない。消滅しているのが一番だが。 昨日は久しぶりに真岡線(もうか)のSLを見た。イベント走行は以前聞いていたが調べたら毎週土日曜日に走っていることが分かり天気も良いので見に出掛けた。多少寒かったが殺風景な風景の中を白い煙を吐きながら力強く走っていった。子供の頃は珍しくもなかったし汽車の動きは遅いと記憶していたが昨日のC11は意外と速い。あっと言う間に目の前を通り過ぎていってしまった。 データに寄ると戦後直ぐの製造、メンテが良いと思うがその走りはすこぶる軽快。あの機関車に負けないように私も頑張りたい。少し暖かくなったらまた見に行こうと思っている。(2008/1/27) |