幸福のビオレッタ
高校に入る少し前ほどに、人から携帯電話を貰った。
ある朝に学校の校門を過ぎようとしたら、何の説明もなくぽいっと渡された。丁重にお断りして返そうとしたらトンファーを構えられたのを覚えている。
今となっては、子供のおもちゃにだってならないほど画素数もメモリも少ないけれど、当時としては最新機種。
お金の心配は要らないだの、無駄遣いは殺すだの、数点注意されて、初めての携帯電話を手にした。
アドレス帳は1200件入るらしかったが、そこには家と、携帯電話の契約主のデータしかない。それ以外は入れるなと厳命された。
それから10年。
自分でも仕事用とプライベート用と携帯電話も二つ持つようになったが、その人から貰った携帯電話のアドレスと番号は、機種変更を繰り返しても10年間変わることなく、今も使われている。
そして、幾度機種変更をしても、色だけは変わらない。
血のように。
薔薇のように。
もしくは愛のような、真紅。
メールも電話も、着信はいつも同じ人から。
綱吉はそのアドレスを見て、一瞬高鳴る胸を押さえ、ぎゅっと目を閉じた。ついでに赤い携帯電話もパチリと閉じる。
今まさに寝ようとしていたところだっただけに、綱吉としては大変に気分が良くない。
しかし、このメールを無視すれば、きっと自分だけではなくボンゴレ自体にも良くないことが降り注ぐのだろう、と思った。
何も、こんな時間でなくても、と思うくせに、きっと後回しにされたらされたで気分は良くないに違いない。
二ヵ月半ぶりのメールに、甘く胸が痛むのを感じる。同時に切なかった。
場所の指定だけされた、たった一行のメールが、世界一のマフィアを動かす綱吉を動かすのだ。最強のメールだ。
二ヵ月半ぶり―正確に言えば二ヶ月と18日と1時間3分ぶり―のメールは即ち、その人と会うのが二ヶ月と18日と1時間3分ぶりだということだ。
あのときも、月が綺麗な晩だった。遠くでミミズクが啼いていたのを覚えている。今も啼いている。
夜はもう充分に更けている。最後に日の光のもとであの人と会ったのはいつだろう、と考えてやめた。不毛なことだからだ。
綱吉は扉の外で護衛しているであろう右腕に気づかれないよう、窓からそっと飛び降りた。
ドン・ボンゴレ様のお部屋は三階だ。飛び降りるには一苦労だけれど、その部屋の真下には丁度いい具合に樫の木が立っている。
何か窓の外に見える植物が欲しいとわがままを言って、数年前に植えつけたものだ。もちろん、目的は足場にするため。
恐らく、恐ろしいまでに優秀な家庭教師様は気づいておられるのだろうが、黙認してくれているので気にしない。
とりあえず、色々とお節介で口やかましい右腕たちに気づかれなければいいのだ。
気づかれれば、嵐のように泣き付かれ、雨のような苦笑交じりの小言が降ってくるに違いないのだから。
ナポリに程近い、郊外の安っぽいホテルに着く。
基本的にこの国の建物は外観がよいのだけれど、それでもきっとベッドは安物のスプリングとごわごわしたシーツだろうから、多分機嫌悪いんだろうなぁと思った。苦笑しかけて、出来ないことに気づく。
内心は大変に面白くないのだ。
本当に、ローカルで小規模な田舎ホテルらしい。
ボンゴレの名前が通用しないホテルが、イタリアの国内に存在するとは思わなかった。お陰で、切れ長の目をした黒髪の日本人とイタリア系の男が入っていった部屋を訊ねるだけで、無駄なチップを払ってしまった。
部屋の戸は叩かない。
寝てるわけじゃないくせに、どうせ叩いても返事はしないだろうし、五月蠅いと文句を言われるに違いないからだ。
叩かなくても、文句を言われるんだけど。
「ヒバリさん」
開けると、ちょうどシャワーを浴びたばかりだったのだろう。
一糸纏わない姿を隠しもせず、タオルで濡れた黒髪をかき混ぜる女性が、物言わぬ視線で振り返った。手にはワインのボトル。
ドアの前で一瞬面食らう綱吉を見て、やがてゆるりと狐みたいに笑った雲雀は、部屋に備え付けの冷蔵庫の上に乗ったワインのグラスを二つ持って、奥へと入っていく。
「来たんだ。ノックもないなんて失礼だね」
「呼んだくせに」
「来なくても良かったのに」
「来なかったらどうしたんですか?」
「ボンゴレをつぶしてあげたよ」
「だから来ました」
「つまんないの」
やっぱり文句を言われた。最初は「ノックしても文句言うくせに」といったのだけれど、あれよあれよと揚げ足を取られて終わった。
来いと脅しをかけるくせに、来れば嫌味ばかり。昔から理不尽なことばかり言う女だった。
「今日は随分、安っぽいホテルですね。この間なんか三ツ星だったじゃないですか」
「ちっぽけなマフィアが相手だったからね。何だっけ、名前……オッタヴィオ…? ……だったかな」
「いいですよ、名前なんか。どうせ偽名でしょうから」
「ボンゴレくらいだよ。誰に対してもコードネームのひとつも使わない、馬鹿なファミリーは」
綱吉が立ち止まったままなのを感じて、入りなよ、と言う。振り返らない細い背中に促されて、綱吉は生ぬるい空気の漂う部屋へと足を踏みいれた。
かすかに匂う青臭さに眉を寄せる。多分換気はしてくれたのだろう。それでも残る、一時間ほど前に行なわれたであろう行為の名残。
肺に吸いこんでしまった不愉快なそれを重く吐き出して、何でもないような顔をする。
「別に使うなって言ってるわけじゃ、ないんですけどね、偽名」
「ボスが使わないからだろ?」
「そういうヒバリさんだって、使わないでしょう?」
「……」
暗喩を含んで綱吉が言うと、雲雀はムと顔を顰め、つまらなさそうに口元を小さく歪ませる。
綱吉が飲まないのを知っていて、二つのグラスにワインを並々と注いだ。差し出すと、綱吉は苦く笑って一応、受け取ったが、すぐにベッド横のチェストへ置かれる。
それを横目に見ながら、雲雀はタオルを肩に巻いて、ベッドへ腰掛けた。晒された長い足をゆるりと組む。隠すものは何もない。
その白い内腿に綱吉が一瞬目を奪われたのを目敏く見つけると、雲雀は誘うように綱吉の頬に手を伸ばした。
「さて、ビジネスの話をしようか、ボンゴレ10代目」
妖艶に笑った。
それはあたかも、官能の誘いかのように。
雲雀はボンゴレの10代目ボスの、雲の守護者だ。
ボンゴレの初代から10代目まで単純計算でもざっと60人はいる、数多い守護者の中でも、女性の守護者はほとんどいない。正確に言えば雲雀で二人目だ。初代の正妻であったと言う女がいた。奇しくも彼女も雲の守護者であったと言う。
雲雀はボンゴレの10代目ボスの雲の守護者でありながら、ボンゴレのファミリーではない。
綱吉が高校を卒業したその日、イタリアに一緒に来て欲しい、と涙混じりに遠慮がちに申し訳なさそうに、けれどもしっかりとした意志を込めて告げ、雲雀は頷かなかったけれどただ笑顔を返して、彼の手を取った。彼女なりの了承だ。
けれども、いざイタリアに来た雲雀の一言は「僕はボンゴレには加わらない」だった。
リボーンが銃を向けても、山本が刀を向けても、獄寺がダイナマイトを突きつけても、ディーノまで参戦して鞭を振っても、雲雀は首を盾に振らなかった。
女曰く。
「この牛ガキだってボヴィーノなんだし、守護者がボンゴレにいなきゃいけないなんて規則はないよね」
だそうだ。
ランボを見て哂う。
その言葉に、十の歳を過ぎたばかりのランボが、泣きながら怒った。
自分だってボンゴレにいたい、と。自分が望んでも手に入らなかったその場所を、当然のように斬り捨てる雲雀が信じられなかった。
殺気立たせて、怒って、苦笑があって、苦々しい顔があって、泣き顔があって、そんな中で、綱吉だけは「ヒバリさんらしいですね」と言った。
雲雀の仕事はフリーの情報屋。
正確に言えば、ボンゴレ専用の、もっと言ってしまえば綱吉専用の情報屋である。ボンゴレ内部の守護者でも、雲雀のこの職業を知るものはいないはずだ。
リボーンやディーノあたりの勘のいい連中は、薄々感づいてはいるようだけれど。
ボンゴレじゃなくても君の役には立つよ、と言った雲雀に嘘はなかった。綱吉が欲しいといった情報は、言わなくてもボンゴレや綱吉に関係する情報は、すぐに提供した。
どこぞのマフィアがクスリに手を出しただの、いつどこのファミリーがどこでボンゴレの暗殺を企てているだの、そんな事情から、ボンゴレ内部で誰が裏切り者だのといった話題まで、果てにはローマの市場で珍しい魚が上げられて明朝に競が行なわれるなんていう、役に立つんだか立たないんだか分からない情報まで、なんでも仕入れてきた。
ニュースソースは企業秘密だと言っているが、雲雀は実際隠すつもりなど毛頭ないのだろう。
ニュースソースと会い、情報と快楽を交換したばかりの青臭い部屋と身体で綱吉に会うことを、全く躊躇わない。
日毎夜毎に違う情報源たちは、どんなにコロンを纏おうが煙草を嗜もうが酒を呷ろうが、結局は皆同じ匂いを纏う。生臭い、人間の欲望の匂いだ。
「今度、パオロ・ファミリーと商談するんだろ? 気をつけな、あそこ、ヤクやってるよ」
「そんなのは有名な話ですよ」
雲雀の情報はいつだって些細なことから。
綱吉が揶揄するように言うと、雲雀はムと顔を顰めた。足を組みなおして、ひとつ息をつく。
内腿の深い部分に、赤い斑点を見つけて、綱吉は眉を寄せた。雲雀は意に介さない。
「それだけじゃない。あそこの7代目ボスは最高に変態。男色の上にネクロフィリアだってさ、しかも東洋人趣味だっていうからタチが悪い。ヤク売りつけられる前に、自分の屍骸を買われないよう注意するんだね」
「俺の貞操心配してくれてるんですか?」
「別に。君が死のうが誰に犯されようがどうでもいいけどね、一応忠告だけ。手にした情報は何でも教える、が条件だから」
「それはどうも」
「ていうか、ちっさいくせに面倒なファミリーだね、あそこ。幹部連中をちょっと探れば、耳クソみたいにボロボロボロボロ汚いもんが落ちてくる。そのくせ、大それた野心も無い小悪党。シロアリみたいで気色悪いね。放っておいたらそこら中ダメにするくせに、一匹ずつはセコイことこの上ないよ」
うんざり、というように首を振って大きく息をつく雲雀に、綱吉はクスクスと笑った。
「マフィアなんてみんな同じです」
「ボンゴレは違うだろ?」
「じゃあ、ボンゴレに戻ります? ヒバリさんなら歓迎ですよ」
おどけながらも、綱吉はどこか複雑な笑みを浮かべる。
少なくとも、ボンゴレはクスリの類は一切やらないし、殺人だって必要最低限だ。必要最低限の殺し、というのも不思議な話だが。
マフィアの中に於いては品行方正、といっても過言ではない。
住民には優しいし、同盟ファミリーでなくとも害のないマフィアならば誰にでも友好的だ。街の人々にとっては心強い用心棒に見えているらしい。
歓迎、と言われても、雲雀は「冗談」と言い捨てて、鼻で笑ってやるだけだった。
それから、いくつか雲雀は手に入れたばかりの新鮮な情報を、口に戸が立たない勢いで喋りつくした。
数え切れない逢瀬を重ねて、嘘の愛を並べ立てて、馬鹿な男どもの口から滑り落ちた全てを。
己の利になることのはずなのに、綱吉の顔は浮かない。
「いつまで、こんなこと…続けるつもりなんですか」
「説教かい? いいじゃない。減るもんじゃなし。君からお金は取れないし、生活の糧も兼ねてるんだよ」
「生活費その他諸々、必要経費は全部ボンゴレで出します、って言ってるでしょう」
「やだね。ボンゴレの金なんか、気持ち悪くて触りたくもない」
「俺のポケットマネーですってば」
「もっと気持ち悪いったらない」
呆れるように言う綱吉に、雲雀はグラスを持つ手をくるくる混ぜながら、心底いやそうにケッと吐き捨ててやった。べ、と苦いものを吐き出す仕種で舌を出して、顔を顰める。
雲雀は情報屋といいながら、実際綱吉からは一銭だって受け取らない。
時たま、ルームサービス程度の「奢り」や、綱吉の持ってきた「差し入れ」なる土産は受け取るくせに、実際に硬貨だとか紙幣だとかを受け取ることは、一度だってなかった。
その代わり、ニュースソースとなる男どもからは、思う存分―具体的に言うなら、小さな村くらいならひとつ買収できるくらい―容赦なくふんだくる。
しかも、一気に払わせるのではなく、最初に近づいてから核心に触れる情報を手に入れる段階に至るまでの間、じわじわと税の徴収のように搾り取っていく。
だから、気づけば財政が傾いてマフィアが潰れた、なんてことも珍しくはない。
ひとつファミリーが潰れて、そこに雲雀の翳を見つけるたび、綱吉は「傾国の美女」と雲雀を揶揄した。
尤も、ファミリーの財政を傾けるくらい、内部の金を自由に出来るような幹部を相手にすることは少なく、雲雀はその数少ない人間を「上客」と呼んでいる。まさしく娼婦のような言い方は、自分への嘲笑と皮肉だ。
しかし、「上客」を相手にしなければならないようなファミリーは概ね規模が大きく、比例するようにリスクも大きい。同時に、そんなファミリーはボンゴレの恐ろしさを身を持って知っている場合が多いので、ボンゴレにケンカを売るようなことはほとんどない。だからこそ、無益に身を売ることをしない雲雀は、滅多に「上客」を作らない。
綱吉もそれを知っているから、無闇に「やめろ」とは言えないのだが。実際、雲雀の仕入れる情報にはハズレがなく、大抵ボンゴレの、延いては綱吉の利になってしまうので、雲雀は「文句は言わせないよ」という雰囲気を常に見せている。
「だいたい、こんなことやってたら、いつか病気になりますよ」
雌猫みたいに誰にでも足開いて…。
綱吉が呆れ混じりに言う。言葉攻めのつもりかい、と雲雀は喉で笑って揶揄した。
「心配してるんです。病気ならまだしも、万が一にも妊娠なんて事態になったら、ブラックジョークにもなりゃしない」
「ゴムならだいたいはつけさせるし、中出しも基本的にはさせない。ピルも飲んでるし、危険日は一応避けるし、月に一度はシャマルの検査受けてるし、これで病気になったり孕んだりしたら、そういう運命に呪われてるんだと諦めるしかなくない?」
「シャマルにも足開くくせに」
ご心配には及びません、と面倒くさそうに言えば、間髪いれず冷ややかな声。言うようになったなぁ、と雲雀は内心で笑った。
表情には出さない、そんな些細な雲雀の機微にも勘付いたのだろう。綱吉が眉を寄せた。
それを見つけて、雲雀が瞳を眇めた。口元に笑みを浮かべる。獲物を見つけた、猛禽類の目。
「素直に言えば? 嫉妬してるんだろ?」
くつくつと今度は表情に出して笑って雲雀が言うと、綱吉が顔をカッと赤くした。図星を指されたからか、心外だと言う怒り心頭か。
それを雲雀に判断する材料はないが、久しぶりに見る綱吉の余裕のない表情に、面白くなった。
「何なら、避妊の手術でも受けてあげようか? そうすれば、少しは安心できる?」
「……最低な冗談ですね」
「清廉なボンゴレ10代目は、女の下ネタがお嫌いなのかな?」
くすくすと笑う。綱吉は普段は「愛らしい」と形容される顔を、思い切りぐにゃりと歪ませた。ピカソだって、この顔は絵に出来ない。失敗した粘土細工みたいな。
あーやだやだ。どっかの変態を髣髴させるような、嫌な笑み。根っこの部分は違うくせに、こういうとこだけ似てる。
人を追い詰めるときの目。あっちは纏わり付く爬虫類の笑み、こっちは小動物を狙う猛禽類の笑み。
どちらかと言えば、こっちのほうが好き。
どちらかなんて選ぶまでもなく、この人が好き。
綱吉がぎゅっと唇を引き結び眦を引き上げて、声に出そうになった本音を飲み込む。
雲雀がそれを見逃さない。
「僕も抱きたいですーって言えば? 君ならいいよ?」
「……、君ならいいよ、じゃないでしょう? 誰でもいいよ、でしょう…?」
この返しは雲雀にとって面白くない。
むす、と顔を顰めて、手元で弄んでいただけのワインを呷った。空気に触れ、すっかり酸化した味は、いくら高級なものでもあまりよろしくない。
雲雀は自嘲気味に薄く笑った。それは、苦味と甘味の下手くそなハーモニーを奏でる神の血のせいか、綱吉の皮肉混じりの言葉のせいか。
同時に、言ってやった綱吉の表情も、赤いそれのように酷く苦々しく決して良いものではなかった。
「俺は、その他大勢になるつもりは、ないですから…」
口に出た言葉に、綱吉自身が驚いた。
ハッとした表情で、綱吉の心に相反する神経を持った唇を手で押さえる。雲雀も驚いていて、しかしすぐに笑った。
一瞬だけ、それが花が咲くようにふわりと笑い、すぐに獣のそれに戻ってしまう。
「そうだね。僕がここまで尽くして、僕と同じベッドのある部屋にいながら、僕の裸を目にしても、僕に食らいつかない男は君だけだ」
数え切れないほどの、己を抱いた男たちの顔を思い出す。
覚えているつもりなどないのに、無意識に人の顔を記憶してしまう癖が、こんなところでも発揮されてしまうのが苦々しい。
雲雀が綱吉に情報を与えた夜の数と、雲雀を抱いた男の数と、雲雀の罪状の数は全て一致する。
「君は特殊」
雲雀は薄い唇を緩慢に動かして、綱吉を値踏みするような視線で嘗め回しながら呟いた。
綱吉がその視線から逃れるように、顔を逸らす。
「君は例外」
綱吉の視界から己が消えた。
その瞬間を見計らって、雲雀は眉を下げ、泣きそうな顔で笑った。
「君だけが、―――特別…」
最後は消え入りそうな声で、けれども綱吉に届くように願いの篭められた声で言った。
雲雀は、生まれて初めてこんな女々しい声を出した、と言ったあとから後悔したけれど、いくら雲雀でも一度出した声は引っ込められない。
綱吉が大きく目を見開いて、信じられないものを恐る恐る見るように顔をこちらに向けるものだから居た堪れなくなって、今度は雲雀が目を逸らす番だった。
ぷいっと顔を背けるが、眦が僅かに赤い。鋭い瞳が揺れている。
綱吉の手が、恐る恐る伸びてきて、壊れ物に触れるような手つきで雲雀の頬を包んだ。ビク、と雲雀の肩が跳ねる。
何で自分がこんなどぎまぎするのか分からない。分からないのに、冷静な心が消えていく。
柔らかな強制力を持って、雲雀は真っ直ぐに上向かされた。ベッドに腰掛ける雲雀を見下ろして、綱吉が花のように笑った。
どっちが女なんだか分かりやしない。
だんだんと顔が近づいてきて、雲雀は自然と瞳を閉じた。今まで、小動物にしか見えなかった子供が、初めて男に見えた。
愛しさは変わらない。頬を包み込む手の、細くも筋張った硬さに身体が熱くなる。
触れるだけの口付けの甘さなんて、知らなかった。ゆっくりと唇が離れて、お互いの顔がぼやける距離で視線を交わす。
甘い痛みと幸福の中にいて、しかしながら笑みは浮かばなかった。
「……嫉妬してますよ、悪いですか」
生温かい、けれども心地の良い沈黙を破ったのは、場にそぐわぬ拗ねたような綱吉の声。いつもより少し低い。
炎が見える。琥珀色の瞳の奥に、揺らめくもの。自分の瞳の奥にあるのと、きっと同じ温度で己を焦がす業火。
「この身体に、知らない男が触れるのなんて、嫌です。俺の知らないヒバリさんがそこにいるんでしょう? 凄く、凄く嫌です」
雲雀はもう視線を逸らさない。
「ヒバリさんは、ボンゴレの檻にいていい人じゃないと思う。でも、俺の目の届かないところに居るのは、嫌です…嫌なんです……」
泣いているのかと思うほど震える声で、けれども涙なんかひとつも浮かばない燃える目で雲雀を射る。
いつも泣きそうな顔で、あるいはへらへらとして、いつだって小動物でしかなかった彼に、こんな顔が出来るのかと思うと、雲雀は心が高揚するのを感じた。
「僕は、絶対にボンゴレにだけは入らない」
「知ってます」
「絶対にいや」
だって。
雲雀が子供の言い訳のように幼く続ける。
「2072人の中の一人なんて、絶対にいやだ」
今度は雲雀の番。
綱吉と同じ熱量を篭めて、綱吉を射る。煌々とした赤い瞳に突き刺されて、綱吉が息を飲むのが分かった。
「僕は君みたいに、生ぬるくないんだ」
嫉妬すればそれは雲雀の手の内で銃に託されるだろう。そして撃ち抜くのだ。仲間となったファミリーを。
殺して殺して殺して、それでも足りなければ最後には、綱吉自身を屍にまで落とすだろう。
そうして誰もいなくなった荒野で、己の心臓を短刀で突き刺す。
あたかも三流のオペラのように。
「それ、素敵ですね」
雲雀の艶のない漆黒の髪に顔を埋めて、うっとりと綱吉が呟く。
ぎゅっと頭を抱えられて、視界が暗くなる。
「ヒバリさんは特殊」
雲は空にありながら、空に染まらない。
雨のように人に恵みを与えることも略奪することもなく、嵐のように破壊するわけでもない。
雷の如く激しいわけでもなく、人の命の上に落ちることもない。霧のように人を惑わせることもしない。
晴天のように人に希望を与える温かさも、飢餓を与える禍々しさも存在しない
人には頓着しない。それなのに、空の中に存在し、瞬間ごとに表情を変える。時に重く、時に薄く、時に鮮やかに。
人は時に、大空を見上げれば雲を含めて「空」という。
空の中にありながら、空そのものに何より近い。
「ヒバリさんは異質」
人にあって人にない。
女にあって女にない。
何にも属さないのに、ただひとつ、大空の元に属する守護者。
雲雀の言葉をなぞる。
嫌味ったらしい。気障ったらしい。それは三流芝居の台詞のようだ。
クライマックスは近い。
「ヒバリさんだけが、特別です」
ボンゴレの10代目ボスにだって、この人はくれてやらない。
沢田綱吉という男、ただ一人のものだ。
そう言ったら、僕はモノじゃないと不機嫌そうな声に言われて、髪を引っ張られた。
「僕は綱吉のものじゃない。綱吉が、僕のものなの」
「見事なジャイアニズムですね」
仕方ないなぁ。ヒバリさんはワガママなんだから。
知ってたけど。
綱吉は苦笑して、またキスを落とした。
触れるだけのそれとは違う。今度は深く深く、魂の奥底まで舐るほどの深さと熱量と、激しさで。
きっと、オペラならここで拍手が起こるのだろう。無粋な拍手が。
けれどここには観客もスポットライトも演出家も脚本もない。いるのはただの役者だけ。
酷く身勝手な、用意されているかもしれないシナリオすら破り捨てる役者が二人。
こつん、と額をあわせて視線を交える。琥珀色と柘榴色が混ざって、頭の芯から酔っていきそう。
残念だったね、ペシミズムに酔う貴婦人どもよ。
きっと、これはハッピーエンドだ。
「僕はこれからも雌猫で娼婦で居続ける」
綱吉が顔を歪める。
雲雀が微笑む。
「でも、少なくとも一番好きな人の腕の中では、何も知らないお姫様にして欲しいな」
ダメかな。
雲雀が問う。雲雀がこんな風にお伺いを立てることなんて、滅多にない。綱吉の知る限りは一度たりとも。
首を傾げる仕種は、それこそ計算されていて、綱吉を緩やかに支配している。頷かないわけにはいかないだろう。
「お姫様じゃなくて、女王様の間違いじゃないですか?」
ため息混じりに、綱吉が苦笑する。
雲雀が声を立てて笑った。
「じゃあ、女王様から帝王に命令」
「何なりと」
もう面白くて仕方がないと言うように、笑いに乱れる声で雲雀が言う。
恭しい仕種で綱吉は膝を付いた。
女王だ、といったのは綱吉のくせに、その光景は姫と騎士のようだ。衣服すら捨て去った、生まればかりの姫と喪に服した黒い騎士。
「明日は、僕と一緒にヴァチカンへ行くこと」
綱吉が驚く。面食らってポカンとする表情に、雲雀が悪戯が成功したみたいな顔をした。
「いいね?」
女王様の表情で、雲雀が問う。それは問いかけではない。誓いを待つ言葉だ。
綱吉は瞳を細めて笑い、答える代わりにキスをした。
きっと誓いのキスを交わしたその夜に、神の前で永遠を誓った身体で、愛しいもののために、無機物に抱かれるのだろう。
それは二人が予感した。
今はただ幸せなのに、それに酔いきれない苦々しさ。こんなにも甘いのに、胸は痛い。
醜悪なまでに美しい、毒の蜜で出来たハッピーエンド。
幕は閉じない。
舞台は再び、序曲を奏で始める。
END
はっずかしい…!!!!!(だんだんだん!)(暴)
ボンゴレがキャバッローネより少ないのは、少数精鋭だからです。量より質なんです(というマイ設定)(8巻で、嘘とはいえ第6幹部に昇進した獄寺が、80人しか部下をもらえないって言うのが気になって…)。
ビオレッタ=ベルディ版「椿姫」(オペラ)のヒロインの名前。椿姫は娼婦の物語。
戻る