ヴァニラとミカン


 カチッと音を立てて火をつける。
 その、ライターを持つ指先が綺麗だ、と言ったら、ライターじゃなくてジッポだと笑われた。銀色の死角の表面はタトゥーと同じ跳ね馬の絵。
 何度も見ているはずの光景なのに、ツナは見とれてしまう。口元に寄せた炎のせいで、彼のふっくらとした唇が赤く揺らめく姿に思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。

「ディーノさんが煙草吸うのって、なんか意外だなぁ…」

 金色の髪の毛が、立ち上る紫煙の中に揺れる。
 すぅっと吸って細く吐き出されるのを、じっと見ながらツナが言った。
 今更だろ、と言ってディーノは苦笑した。

「最初吸ったときは、スッゲー噎せたけどな」

 初めて吸ったのは確か高校生の頃だっただろうか。
 ロマーリオが吸っているのを見て、一本だけコッソリと彼の煙草を拝借したことがある。元々ロマーリオは味のキツイものを好んでいたので、余計に噎せたのだ。

「あんときは、二度と吸うもんかって思った」
「なのに吸ってるんですね」

 うへぇ、と思い出して苦々しく舌を出すディーノの表情がおかしくて、ツナはクスクスと笑った。
 ディーノはツナが笑うのが好きだ。ツナが笑うから、ディーノは笑う。

「ツナは煙草が嫌いか?」
「いえ、嫌いじゃないですよ。獄寺君も吸ってますし」

 だからこそ、スモーキンボムの愛称を持っているのだが。
 ディーノはツナの口から零れた男の名に、軽く拗ねたように目元を眇めた。

「なーんか、その言い方、嫌だな」
「え? なんでですか?」

 煙草の灰を灰皿に落としながら、ディーノがちょっと冷たく言うと、ツナはきょとんと首を傾げた。
 そんな仕種がかわいいなと思った瞬間に、斜めになった機嫌が一気に立ち直ったのだけれど、あえてそれは顔に出さない。
 自分の何が悪かったのか、と不安そうに顔を歪ませるツナの表情をもっと見ていたい、という悪戯心だ。

「だってその言い方だと、ツナが獄寺のこと好きみたいじゃねーか」
「えぇえ!?」

 獄寺も吸ってるから煙草が嫌じゃない、なんて。
 とんでもない! ツナは驚いた。
 ツナは獄寺がすきなんだな、俺よりも好きなんだな、とわざと泣き真似なんかして、ツナをさらに困らせることに成功した。

「そんなこと言ってないじゃないですかっ!」
「じゃあ、獄寺のこと好きじゃないのか?」
「や、友達だし…好きか嫌いかで言われたら…」
「やっぱそうなんだ……」
「なんでそこで落ち込むんですか! 俺はディーノさんが、い…っ」

 一番。言いかけて、はたりと止まる。
 自分が言いかけたセリフの恥ずかしさに気づいたのと同時に、膝を抱えて顔を埋めたディーノの口元が、密やかに笑っていることに気づいたからだ。
 いや、ディーノが笑っていることに気づいたからこそ、恥ずかしさが湧いたのか。逆説。
 ツナはディーノがツナをからかっているのだと、いや、からかってなどいないのかもしれないが、実はちっとも落ち込んでなんかいやしないのだと理解して、顔を真っ赤にした。
 それは怒りであり、そんな大人の余裕を見せ付けられて悔しかったからでもあった。いや、大人の余裕を見つけられて悔しくて、腹が立ったのか。また、逆説。

「俺が、何?」

 ディーノが顔を上げて、ツナを見た。
 悪戯を仕掛けた子供の顔だ。端整な大人の眼差しに、悪意のない邪気が見え隠れする。
 にこにこと笑う嬉しそうな男に、ツナは一人息巻いている自分が恥ずかしくなって顔を真っ赤にした。
 うぅ、と口を尖らせて下を向いてしまう。
 ディーノは酷く幸せな気分だった。
 うな垂れて表情を隠す前髪を優しく掻き揚げて、顕になった額にちゅっとキスを落とす。
 思わず顔を上げたツナに、ディーノはにっこりと笑いかけて、今度は唇に。

「………ディーノさんはずるいです…」

 ツナはぼそりと呟いて、唇を尖らせる。
 ディーノのキスはいつも戯れのようで、慣れていて、自分が弄ばれているのではないかと思ってしまう。
 けれども彼の瞳は、愛しいのだと愛しているのだとひたすらに訴え続けるのがわかるから、疑うことすら許してくれないのだ。
 結局自分は、一人でドキドキして間抜けなことばっかりしてしまう。

「正々堂々と勝負して負ける気はねえからな」

 この可愛くて愛しい子を己のものにしておくためなら、いくらでも卑怯になるさ。
 小さく呟いた声は、ツナの耳には届かなかったようだ。それでいい。ツナにとっての自分は、あくまで大人で余裕で憧れるべき存在でなければならない。
 ツナの薔薇のように色づいた頬をそっと両手で包んで、そこに己の唇を寄せた。怯んだツナの腰を強く引き寄せて、己の膝に乗せてしまう。
 今度は、深くて蕩けそうなほど熱いキス。

「んぅ…っ」

 ツナはキスが下手だ。
 何度教えても、鼻で息が出来ないし、追いかければ追いかけるほど舌が逃げる。逃げられれば逃げられるほど、ディーノはそれを追いかけた。まるで、逃げるものは負わないと気がすまない、犬のように。
 ぺろぺろとツナのちっちゃな舌を嘗め尽くすのが好きだ。
 絡めるというよりも、飴玉のようにツナの口の中でツナの舌を舐める。

「ふぁ、う、んむ…ぅ」

 最初は戸惑って、だんだんと酔いしれて、最後には苦しくなったツナが、ディーノの肩口をどんどんと叩いた。
 ディーノは名残惜しそうにツナの咥内を啜ると、最後に彼の舌に歯を立てて、ゆっくりと唇を離した。銀色の糸が二人の間を繋いで、すぐに切れた。

「ぁ、は……っ」

 じんじんと舌が痺れる。痛いほどだ。熱のある荒い呼吸を繰り返しながら、とろんとした目でディーノを見上げると、ディーノが一瞬驚いた顔をしたのが分かった。
 僅かに目尻が赤くなるのをツナは見た気がしたが、朦朧とする頭のせいで視界がちかちかとするせいだろうか。
 ぬらぬらと光る唇に、噛み付くようにディーノが口付けて、零れて顎を伝う唾液をぺろりと舐めとった。

「ツナ、その顔反則」
「ふぇ…?」

 ツナは理解していない。
 上気して林檎のように真っ赤になって熱を宿した頬に、涙が浮かんでうっとりと蕩けた瞳の上目遣い。
 酸素を取り込もうと薄く開いた唇からは、頬以上に赤い小さな舌がちろりと見え隠れする。
 その唇の端から零れる唾液で、唇も顎もてらてらと光って、首筋まで濡らしていた。
 どれだけ、ディーノの欲を呷るのか。せっかく、保っていた余裕とか大人の笑顔とかツナの理想でいたいのに、それを凌駕しそうになる。
 もう一度唇を寄せて、ついばむキスをすると、ふわりと僅かな僅かな甘さを含む苦みが鼻腔を擽った。

「オレンジとメンソールの匂いがする」

 額をコツンとあわせて、クスッと笑う。
 嬉しそうに肩を揺らすディーノに、ツナは思わず見とれそうになったが、その瞬間にハッとして眉を吊り上げる。目尻はほんのりと赤いまま。

「ッ、ディーノさんのせいじゃないですかっ!」

 ツナが抗議すれば、ディーノはさらに嬉しそうに笑って「そうだな」と言った。
 何を言ってもさざ波のように流されてしまう。ツナは思わず脱力して、ディーノの膝の上に乗ったまま、ことんとディーノの胸に頭を垂らした。
 鼻の奥に届く、ふわりとした爽やかなオレンジと少しつんとした苦いメンソールの匂い。

 ディーノの煙草は、柑橘系の匂いがする。
 彼は最初、ヴァニラの甘さのある匂いの煙草を吸っていた。獄寺はもっと苦い匂いの煙草を吸っていて、煙草の匂いっていっぱいあるんだなぁと要らぬ知識を持ってしまった。
 あのヴァニラの甘い匂いを、ディーノの匂いだと認識するようになって、街中ですらあの匂いを感じると反応してしまう自分が恥ずかしかった。
 けれど、いつからだったか、その匂いが甘酸っぱい柑橘系に変わったのだ。
 後ろから抱きしめられて、その柑橘の漂う知らない匂いに、ビックリして振り返ったらディーノだった。

―――ツナが俺の髪、ミカンみたいだ、て言ったからさ。

 おいしそーだろ? なんて言ってキスをしてきたときの、なんとも言えない違和感を、ツナは今でも忘れられない。
 ディーノが二人居るみたいだ、とツナは思う。
 甘いヴァニラと、爽やかな柑橘の匂い。あの匂いも好きだったのにな、とちょっぴり思った。
 でも、お店の中であの匂いを嗅いでも噎せるだけだから、もしかしたらディーノ限定かもしれない。

 ちゅ、ちゅ、とツナの唇に甘えるみたいに何度もキスをした。
 まるでマーキングする猫みたいに、すりすりと頬を寄せて、項に髪を埋める。ディーノは甘える子供みたいな手で、確かな快感をツナに届ける。確信犯だ。
 ツナはきゅっと目を閉じて、身体に触れてくるディーノの手の熱に酔った。目を閉じると、敏感になった他の器官が、ディーノの感触をよりリアルに伝えた。
 柑橘の匂いがぶわっと一気に広がった。

「ツナの匂い、俺とおんなじなのな」

 ツナの首筋に唇と髪を埋めたまま、ディーノはうっとりと呟いた。
 喋った瞬間に、首筋に呼吸が当たってくすぐったさにツナは身を捩ったが、抱きしめてくるディーノの腕がそれを許さない。

  「すっげぇ嬉しい」

 ディーノが本当に、本当に嬉しそうに言う。
 真っ白いものを自分の色に染める喜びに似ている。
 キスをして、抱きしめた証。
 なおもすりすりと擦り寄るディーノに、ツナはその大きな背を抱きしめながら、諦めたように目を閉じた。

「煙草の匂い…先生に怒られたらどうするんですか…」

 赤くなった顔を悟らせまいと。
 彼のように余裕な態度はとれないけど、せめて強がってやろうと。
 わざと不満げに言った。

 本当は、あなたのにおい包まれて嬉しいなんて、言ってやらない。

 灰皿の上に置いて忘れられた煙草の先端が、ぽとりと灰を落とした。
 ほとんど吸っていないそれは、もう残り少ない。立ち上る煙は部屋を柑橘に染めていく。
 ベッドのシーツも、絨毯も、カーテンも。

 全部が全部、ディーノに染まっていくようだった。
 自分の心みたいに。

 いっそ、全部満たされてしまいたい。
 ツナは言わなかったけれど、ただ、抱きしめた腕に力を込めて、降りてきたキスを受け止めた。





END


白ディーノさんが書けたよ!(あくまで当サイト比)
甘くて、暗くない話が書きたいって言う割に、甘くて暗くない話を書いているほうが恥ずかしいのは何故でしょうね。

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