遺骨収集の関連報道
平成18年(2006年)
- 8月 08日(火) 読売新聞 【忘れない 戦後61年】 父の最後の地 見たい
- 2月 03日(金) 朝日新聞 元米兵、遺骨探し21年 -沖縄戦 日本人犠牲の壕-
- 2月 03日(金) 東京新聞 インドネシア遺骨 日本兵141体分を収集
平成17年(2005年)
- 11月 23日(水)『サピオ』 将兵たちの「慰霊碑」が汚ち果てようとしている
【忘れない 戦後61年】 父の最後の地 見たい
【読売新聞】平成18年8月08日
遺児60代 慰霊のガダルカナル
ヤシの葉が揺れていた。7月下旬、ソロモン諸島国ガダルカナル島。青柳毅一さん(66)(神奈川県横須賀市)は、黙々と海岸の石を拾っていた。
「骨も何もないけど、これでおやじを日本に連れて帰れるかと思って」。戦友会「全国ソロモン会」が企画した慰霊巡拝団に加わり、父親が死んだ場所を初めて訪れた。連合軍と戦った日本兵2万人余が悲惨な状況で命を落とした島だ。父親の顔は覚えていない。横浜のケーキ店に勤めていた父、三輪勇さんは、青柳さんが2歳だった1942年に出征した。
戦地へ赴く直前、勇さんは妻とともに面会に来た幼い青柳さんを抱き、別れを惜しんだ。翌43年、市役所から連絡が入った。「1月に南方で戦死」。白木の箱の中は砂だけだった。部隊はほぼ全滅と聞かされた。
日本軍は撤退間際で、多くの兵士が戦闘どころか飢餓状態でさまよっていた時期だった。戦後、青柳さんの母親は再婚。バラック小屋のような家で、養父は青柳さんを実の子のように育てた。
青柳さんは高校卒業後、通関業務代行会社に就職。高度成長期の激務に追われた。「実父を思い出す余裕はなかったし、養父の存在もあった」。かわいがってくれた養父の前で、実父の戦死に触れたことはない。自身も2子を育て上げ、6年前に定年を迎えてから考え出した。「おやじはどんな所で死んだんだろう」
ガダルカナル。実父が家族から離れたまま死んでいった遠い島。30年ほど前、祖母から「いつか訪ねてくれよ」と頼まれてもいた。晩年、寝たきりの養父を自ら介護した。昨年6月に最期をみとってから、全国ソロモン会と連絡を取った。一周忌から約1か月後、慰霊旅行に出発した。
島のジャングルにある慰霊碑の前で、青柳さんは若き実父の写真を見つめた。参加者で童謡「故郷(ふるさと)」を歌った。
「やっと来たよ」。歌いつつ、初めて実の父親のために涙を流した。◇
「父の最期の地を見たい」と望む戦中生まれの人が増えているという。
慰霊巡拝旅行を手がける旅行会社「タビックスジャパン」横浜支店によると、かつて旅行参加者のほとんどが戦争体験者だったが、ここ数年、遺児の申し込みが増え、今年は5年前の3倍の約30人が同社のツアーに参加している。今回の一行も、12人のうち5人が60歳代。「親を戦争で亡くし、苦労して定年の年まで働き上げた時、人生の原点を顧みるのでは」と同社は話す。
◇
「お父さーん、娘の悦子ですよー」
慰霊団に参加した桜井悦子さん(66)(東京都八王子市)は、島の川のほとりで何度も叫んだ。「お父さん」とは、実の父ではない。7年前に57歳で亡くなった夫、一夫さんの父親のことだ。
一夫さんの誕生の3か月前、父は戦地に旅立った。妻にあてた手紙には、腕に抱いたことのない長男への思いがつづられていた。戦後、母一人子一人の苦しい生活の後、一夫さんは悦子さんと結婚。悦子さんも東京大空襲で姉を失っていた。二人は60~70年代、ベトナム戦争に反対するデモに一緒に通った。
定年の5年前、夫婦は慰霊団の募集記事を見た。「ガダルカナルに行きたいね」と言う妻に、夫の顔が険しくなった。
「おれたちを残して死んじゃって」。2年後、夫は会社で倒れ、意識が戻らず亡くなった。「夫が恨んだのは父親ではなく、戦争です。お父さんを連れて帰り、夫の無念を晴らしたい」。悦子さんは旅行会社に手当たり次第に電話し、今回の旅を見つけた。
島で、一夫さんの父親らの戦死場所とされる川べりに簡素な祭壇が作られた。悦子さんは写真を立て、「お父さん、しっかり抱きしめて下さいね」と語りかけた。黄ばんだ写真には、生まれたばかりの一夫さんが写っていた。
◇
風化の波にさらされるのは、戦争の記憶でさえも例外ではない。しかし、歳月の流れにあらがうように、悲劇の刻印を消すまいと努める人たちがいる。
「死ぬまで語り継ぐ」 日本兵も島民も、老いる語り部
戦争の語り部たちは高齢化し、戦跡は風雨にさらされてその姿を消そうとしている。
全国ソロモン会も戦争体験者約2000人で発足したが、いま体験者は百数十人だけだ。今回のガダルカナル島慰霊団では、山口義正さん(88)(名古屋市)が島での戦いの唯一の生き残りだ。「あの丘だよ。陣地があったのは」。多くの仲間を失ったジャングルの向こうを見つめた。
山口さんが島に上陸したのは1942年10月4日。すでに補給路が断たれていた先着の日本兵に食糧を持ち去られた。地図もなく、ジャングルの中をロープで大砲を引っ張った。
撤退までの4か月間、山口さんはヤシの根を食べて命をつないだが、歩けない戦友は次々と自決した。中隊約110人のうち75人が死亡。ほとんどは飢えやマラリアなどの病気だった。ガ島訪問は13回目。昨年暮れ、自宅で転倒し、あばら骨を折る大けがをした。「自分の中隊で生きているのは3人だけになった。自分も、来年は来られるかどうか……」
戦争体験者の高齢化は現地でも進む。ガ島コカンボナ地区で7月27日に行われた合同慰霊祭で、花を手向けていた族長のブルーノ・ナナさんは84歳になった。
ナナさんは日本軍の情報を提供することで米軍に協力していた。日本軍に拘束されたこともある。いまは、家族が慰霊団をガイドするなどして村人ぐるみで日本人に協力している。自分の体験を子や孫たちに語るのもナナさんの役割だ。
「この土地で殺し合いは二度と起きてはならない。私は死ぬまで語り継ぐ責任がある」。当時を知る仲間で生存者は1人だけという。島の海岸に、さびて赤茶けた船の一部が突き出ていた。米軍の攻撃を逃れて乗り上げた日本の輸送船「鬼怒川丸」。当時は船体が海面上に出ていたが、波に運ばれる砂に埋もれ、今はほとんど沈んでいる。
「大事な戦跡が消えてしまう」。全国ソロモン会事務局長の菊本享さん(82)が嘆いた。
【ガダルカナル島】
日本から南に約5000キロ、東京都の約2.5倍の広さの島。1942年8月、日本軍は米国と豪州を分断する拠点として飛行場を建設。これを米軍が奪い、戦闘が始まった。
日本は部隊を逐次投入したが、圧倒的な物量と制空権を握る米軍の前に壊滅した。撤退は43年2月。多くの日本兵が飢えと病気に倒れ、上陸した約3万人のうち2万人以上が死んだ。
おびただしい餓死者のゆえに「餓島」とも呼ばれ、今も1万人近い兵士の骨が眠る。
「元米兵、遺骨探し21年」 -沖縄戦 日本人犠牲の壕-
【朝日新聞】平成18年2月03日
沖縄戦で亡くなった日本人の遺骨や遺品を21年間探し続けている米国人がいる。
沖縄県宜野湾市在住の米軍基地職員ロン・フーラさん(58)。ベトナム戦争で戦った元米軍兵士でもある。
「人間はみな同じ。国や政治は関係ない。遺骨や遺品を待つ家族がいるから私にできることを続けたい」。
人々が最後に何を見、何を考えたのか。当時に思いを馳せながら、旧日本兵や住民が逃げ込んだ壕(ガマ)に入って土をかきわけている。
(編集委員・大久保真紀、浜田哲二)
「これ、遺骨じゃないかな」
1月下旬、激戦地だった沖縄本島南部の南城市大里の壕。フーラさんの長男モーガンさん(26)が、約10センチ角の白い骨のようなものを持ってきた。「頭蓋骨みたいだが……」。ナイフで少し削ったフーラさんが「石だ」と答える。二人の作業が続く。
しばらくしてフーラさんが割れためがねのレンズを見つけた。
「これを通して、最後に何を見たのだろう」。レンズに目を当て、壕の前に広がる中城湾に視線を向けた。遺骨掘りを始めたのは、沖縄に住み始めた85年から。日本人の友人に誘われたのがきっかけだった。目の前にあった大きな石を動かすと、頭蓋骨がこちらを向いていた。「探してほしい」。骨がそう言っているように感じた。
翌年、壕で名前が書かれた小さな緑色のプラスチックのかけらを見つけた。家族がわかり、この日本兵の息子や兄弟が訪ねてきた。
兵士の妻は毎年、沖縄を訪ねて遺骨や遺品を探し続けていたが、願いを果たせず、その1年ほど前に亡くなったという。
案内した壕の中で静かに祈りをささげる弟らの姿に、家族の思いを見た。「遺骨や遺品が家族にとってどんなに重要かがわかった。生き残った家族は何らかの答えを探し続けている」
フーラさんはベトナム戦争で仲間を失った経験がある。自身も約2年間、密林で死と向き合っていた。
「兵士は任務で戦争に行く。しかし、兵士が何をしているか、生きているかもわからない家族は苦しむ。どんな戦争でも、戦争は政府が起こし、若者が亡くなり、家族が苦しむ」年に20回は山に入り、本島南部の壕を歩く。一人のこともあれば、日本人グループと一緒のこともある。
いつも遺骨が見つかるわけではないが、見つかると白い布に包み、ろうそくをともして、線香を供える。これまでに掘り起こした遺骨は約500体。遺品は地元の資料館などに寄贈してきた。
8歳から壕に連れ歩いている長男モーガンさんは「小さいころは機関銃とか軍隊とかを格好いいと思っていた。でも、父と一緒に歩くうちに、戦争に行ってほしくないという父の気持ちがわかった」。
モーガンさんはいま自動車修理工として働く。最近息子が生まれた。「8年もすれば、3世代で壕に行けるかな」。
フーラさんは体が動く限り、遺骨・遺品の収集を続けたいと思っている。
【キーワード 沖縄戦】
1945年3月、米軍が沖縄に空襲を開始、慶良間列島に上陸して地上戦が始まる。
本島上陸は4月1日。「鉄の暴風」といわれるほど激しい戦いが3ヶ月にわたって繰り広げられ、官民合わせて20万人余りが犠牲となった。
沖縄県によると、毎年国、県、ボランティアらの手によって100体ほどの遺骨が見つかり、年度末にまとめて納骨される。
「インドネシア遺骨 日本兵141体分を収集」
【東京新聞】平成18年2月03日
インドネシア・ニューギニア島などで太平洋戦争当時の旧日本軍兵士とみられる遺骨を収集していた厚生労働省の派遣団は、日本兵と特定された計141体分の遺骨を収集し帰国した。
厚生労働省派遣団 DNAで身元確認へ
うち散乱した遺骨が昨年、大量に見つかったパプア州ジャヤプラ(旧ホーランジア)では116体を収集、当初の見込みより倍近い遺骨が見つかった。
厚労省は現地で焼いた遺骨を省内の霊安室に保管。遺族らの申し出があれば、持ち帰った前歯などをもとにDNA鑑定して身元を確認する。
同省によると、116体の遺骨は、ジャヤプラ市カヨバト地区の海岸近くのジャングルで見つかった。
数メートル四方に集中し、遺骨が折り重なるなどして、予想以上に大量に発見された。現地の医師による鑑定で、116体は蒙古系で旧日本兵と判断された。
白人とみられる遺骨も少数あった。
いずれの遺骨にも遺品はなかった。派遣団長の山岸和司厚労省外事室専門官は「これほど狭いところに116人もの兵士がいるわけがない。遺体の置き場所のようになっていて、どこからか運んできて野積みしたのではないか」と推測している。
派遣団は、ニューギニア島西北部のビアク島でも収集し、現地の人が見つけた遺骨など25体を受領。
収集した遺骨は全部で141体に上った。すべてビアク島で焼骨し、追悼式を行った上で持ち帰った。派遣団は昨年、ジャヤプラで大量の遺骨が野ざらしで見つかったのを受けて結成された。
先月22日に同省職員二人と情報を提供した特定非営利活動法人(NPO法人)太平洋戦史館専務理事・岩淵宣輝さん(64/ 岩手県衣川村)ら民間人5人を現地に派遣していた。
「将兵たちの「慰霊碑」が汚ち果てようとしている」
【国際情報誌『サピオ』(小学館)】平成17年11月23日
風雨に曝され「反日落書」に汚されて…。
南方の激戦地に散った将兵たちの「慰霊碑」が汚ち果てようとしている。海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍……。
戦後60年、太平洋の島々に散っていった日本兵たちの戦いを記憶し、慰霊することは、戦後の日本人全員の責務だろう。
しかし今、あらゆる面で英霊たちが涙を流すような状況が起こっている。![]()
パプアニューギニアの首都ポートモレスビーの国際空港を出ると、通りの向かい側に鮮やかなピンク色の花の群れが目につく。
ブーゲンビリア。南国の植物だ。フランスの探検家、ルイ・A・ブーガンヴィルが発見し、その名にちなんで命名された。同じくパプアニューギニアの東方に、ブーガンヴィルが発見したことからその名を冠した島がある。
日本から約5200km、ソロモン諸島の最北端に位置するブーゲンビル島だ。今では、ほとんどの日本人に忘れられた島・ブーゲンビルだが、実は太平洋戦争中、この島は日本兵の累々たる死体で埋めつくされていた。
上陸した陸海軍将兵6万名のうち、半数以上が帰らぬ人となっている。
その最大の要因は戦闘ではなく、マラリヤなどの病や飢餓だった。昭和18年11月、ブ島の西岸中央部タロキナに米軍が上陸して以降、補給も途絶え、兵士たちはこの地で自給自足をしながら戦い続けた。
日を追う毎に死者の数は増えていく。生きている者は、やせ衰えた体にムチ打ち、戦友を埋めるための墓を掘り続けた。…そう、この島を知る日本人たちは、別の名前でこの島を呼んでいた。「墓島(ボ島)」。当時は、ブ島をドイツ語読みでボーゲンビル島と呼び、略してボ島が「墓島」と称された。
検問所で請求された法外な通過料金
今年9月末、この島に降り立った。遺族や戦友会など民間人が建立した慰霊碑の現状を調査するためである。
著者は、これまでガダルカナル島、フロリダ諸島ツラギ、ニュージョージア島ムンダといったソロモン諸島や、サイパン・テニアンなど北マリアナ諸島を訪れている。今、海外にある民間人建立汚ち果てつつある。新聞報道によると、厚生労働省が把握している慰霊碑は全部で587基。そのうち「管理不良」とされたものは46基、現状が「不明」とされたものは4割近い224基にのぼる。家族を思い、故郷の山河を守る一心で戦って散華した兵士たちの存在は、戦後60年経った今、人々の記憶から忘れ去られようとしている。
そしてなお、友や遺族たちが建立した慰霊碑すら、風化し、汚ち果てようとしているのだ。そんなことがあっていいはずがない。何としても慰霊碑の実態を自分の目で確かめなければ。非力ながら、南方を中心に慰霊碑について取材を重ねてきた。
今回も、戦友会のメンバーや遺族による慰霊巡拝団に同行し、ソロモン諸島のブカ島、ソハナ島、ブーゲンビル島を回った。その憂うべき状況を紹介していきたい。
ブ島東岸のキエタには、けもの道が続く海岸沿いとその背後にそびえる絶壁との合間に建立された慰霊碑がある。かつて歩兵四十五連隊が布陣していた地で、碑は鹿児島県ブーゲンビル島会と鹿児島県遺族会が1983年に建てたものだ。
しかし今、周囲は雑草で覆われ、慰霊碑の角は部分的に欠けている。島の北端から5kmほど離れた小島・ソハナ島には、ブカ水道を一望する形で慰霊碑が建立されている。
戦友会の全国ソロモン会が1984年に建てたものである。同会事務局長の菊本氏によれば、建立当初に現地住民と管理契約を結んだが、20年を経た現在、世代交代などで曖昧になったままだという。現地住民による落書きも目立つ。戦後60年経った今、関係者は高齢となり、体力的にも金銭的にも海外へ訪れることが難しくなってきている。そして訪れる人が少なくなった慰霊碑は、荒れ果てたまま、現地住民の好奇の的となり、いたずらされたり破壊されたりする。
もっと悪質なケースもある。サイパン北端のバンザイクリフにある慰霊碑がそれだ。先般、天皇、皇后陛下も慰霊に訪れられたこの場所は観光スポットになっているだけあって、碑も比較的整備された状態で維持されているものが多い。しかし、目立つがゆえに、いたずらどころか反日感情の捌け口となっていた。
慰霊碑の一つには、びっしりとガムがつけられた跡があった。ところどころ取りきれずにガムが残ってしまっている。
ツアーガイドの話によると、あるアジアの国からの団体客がクチャクチャとガムを噛みながら訪れ、 "集中攻撃" を行ったのだという。碑の表面には、うっすらではあるが「鬼子」と彫られた落書きが見てとれた。礼儀知らずの行為に哀れみすら感じる。
しかし、これらの慰霊碑は、私たち戦後の日本人が訪れることが出来ただけでもまだマシなのかもしれない。というのも、ブ島では主に全国ソロモン会の碑がタロキナ、東岸のヌマヌマ(ワクナイ)、南部のブインに計3基建立されているが、今回私たちがたどり着いたのはヌマヌマの慰霊碑だけだったからだ。
タロキナは現在、私たちが行けるような道は陸海空ともない。そのことは出発前から承知していたが、今回はブインも諦めざるを得なかった。山本五十六元帥が前線視察に訪れる途中で撃墜され、今も飛行機の残骸が当時と変わらぬままに残る場所である。
ブ島は、パプアニューギニアからの独立運動の末、今年6月には自治州となったが、7月に独立革命軍の首領が死亡、これによってブイン地区は治安が悪化し、この地区に入るには検問所を通過しなければならなくなった。その場所で、私たちは銃を構えた現地人に8000キナ(約32万円)という法外な通過料金を請求され、やむなく引き返したのである。
今回のツアーには、ブイン地区で父親を亡くした遺族が参加していた。「父の死んだ場所を何としても訪れたい」という積年の思いを果たせなかった彼らの無念は、到底はかり知れない。
「父が眠るこの場所に立つと鳥肌が立つ」
私たちは急遽、ブインの手前ルルアイ川で慰霊祭を行うこととなった。生後11ヶ月で父を亡くしたというある遺族は、ここで父に向かって声をかけた。
「この島を訪れると、心はワクワクするのに、足が震え、鳥肌が立つような緊張感を覚えます。それは、一緒に生活した記憶のないお父さんの近くにいるからでしょうか……。」彼は、「この島の人たちは皆、親戚みたいなもの」と語った。「父親がこの場所に眠っているでしょう。そこに木が育ち、実がなる。それをこの島の子供たちが食べて育つ。だから、他人のような気がしないんです」
慰霊祭の後、父の戒名を川に流した。下流に向かって見え隠れするそれをじっと見つめる背中は、今回のツアーをいつも明るく盛り上げていた普段の彼とは別人のようだった。
風化は着実に進んでいる。実際ガダルカナル島東岸のテテレ海岸では、現地住民から日本人の慰霊碑があるという情報を頼りに現場へ行ってみたが、すでに破壊され、石のカケラが残るのみだった。焼き畑農業の開墾のため、ブルトーザーによって破壊されてしまっていたのだ。
だが、慰霊碑の調査を行っている厚生労働省では、こうした慰霊碑の問題をどうするのか、明確な方向性を見いだしていない。
民間人が建立した慰霊碑を、税金を使って維持管理することはできないという考えからだ。しかし、それなら一体何のために彼らは戦って死んでいったのだろうか。慰霊碑が、民間人の手によるものだというだけで杓子定規に切り捨てられていいものなのか。
ブ島には、ちょうど遺骨収集団が派遣されており、ゴヒ村で略式の焼骨式に立ち会うことができた。
拝礼ののち、材木で囲まれた遺骨に火が放たれる。日本から遠く離れたこの南冥の地で眠っていた兵士たち。今となってはなもなき彼らの人生とは、どんなものだったのだろうか。
家族はどんな思いで彼らを待ち続けたのであろうか。戦後60年。この年月は長い。しかし彼らにとって、その長い「戦後」はまだ終わっていない。遺族の思いも、慰霊碑の存在も、風化させることだけがこの国の「戦後」であってはならない。
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