ワンポイント  2005年 第32回金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加
     ワンポイント  2004年 第31回金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加




  2005年

2月17日(木)  【慌ただしい出発でした(^^;)】

慌ただしい出発でした!。
仕事が忙しい時期に入っているという事もありますが、三日間仕事を離れるというような事態になると、その休みの前後はたいが い多忙を極めることになります。
早朝から仕事を開始して、午後2時まで全力疾走で仕事!!。2時30分には着替えをすませ事務所を後にしました。
羽田までは1時間はかからずに到着。3時55分羽田発沖縄行きの航空機に搭乗しました。

昨年は妻とともに仲良く沖縄に旅立ったが、今年は寂しく一人の旅となりました。
妻は法事のために不参加となりましたが、やはり一人旅というのはどこか寂しいものがありますよね(^^;)。

飛行機は羽田を定刻に出発できず……。沖縄那覇空港には予定よりも遅れて午後7時に到着しました。
事前の天気予報では曇りとなっていましたが、現地沖縄は雨あがりでした(^^;)。
20回近く沖縄に足を運んでいるが、到着時に雨だったというのは初めての経験だと思う。
前回まではすべて昼間到着でしたから、たとえ晴れてはいなくとも、沖縄特有の“白く眩しすぎる光”がいつも迎えてくれて いましたので、その点が沖縄に到着したというイメージが湧かず少し寂しかったですね。

空港で妻に無事に到着した旨のメールを発信した後、タクシーに飛び乗り予約しておいた『ホテルサン沖縄』に向かいました。
市街地の渋滞が激しい時間帯であったため、通常より大幅に時間を要しましたが40分ほどでホテルに到し、事前に発送して あった遺骨収集関連の大きな旅行カバンを受け取り部屋に入りました。

簡単に荷物の整理をしまして、食事のためにホテルを出たのが8時でした。
ホテルの周囲を情報収集を兼ねてブラブラしながら、近くのレストランでソーキそばとゴーヤチャンプルのセットを注文し、 久しぶりに沖縄料理を楽しみました(^o^)。

食事を終えて部屋に戻りましたが、興奮しているせいかすぐにベッドに入る気になれそうにないので、ノートパソコンを持参 してホテル内のレストランに入りました。
ジンジャエールを飲みながら(私はアルコールは飲めないので!)、早速遺骨収集参加記を書き始めました。

リラックスしながらキーボードを叩いていると、次第に眠気が強くなってきたので、頃合いを見計らって部屋に戻り床に入る 準備をして、日頃の就寝時刻と同じ11時過ぎにベッドに潜り込みました。



2月18日(金)  【終日慰霊碑・慰霊塔巡りを行いました】

今朝は少しゆっくりめに起床しようと、意図的に目覚ましコールの設定をせずに昨夜はベッドに入りましたが、今朝は6時30 分に目覚めました。
本日の予定は個人的に慰霊碑巡りを予定していましたので、準備でき次第出発というある程度ルーズな予定で行動しようと思っ ています。

7時に朝食のバイキングを食べにレストランに入りました。
バイキング形式の食事は嫌いではないので、起き抜けではありましたが驚くほどのなりのボリュームを食べましたよ(^o^)。

カメラ機材の準備をして、ホテルを8時半に出発しました。
沖縄には数年前から那覇空港と市街地を結ぶモノレールが運行しています。
沖縄にはどこにでもタクシーが走っていますので、ついついタクシーに乗ってしまっていましたが、この機会に乗ってみること にしました。初めての乗車でしたが、施設も新しく動線もスムーズでなかなか快適に移動する事が出来ました。

高い位置で運行されているので、見える景色もバッチリでした(^o^)。
ルートが一本しかないので乗る機会は少ないかもしれませんが、出来る限り乗ってみたいなと思いましたね。

ワンポイント

新聞記事の切り抜きに掲載日時を記載しておかなかったのは失敗でしたが(^^;)、たしか二年ほど前の記事だったと思います。
読売新聞の記事の中で、沖縄の慰霊塔が管理者の高齢化や戦争体験の風化などにより、管理が為されない慰霊塔が増えている という記事を目にしました。

そのコピーを掲載させていただきます。
読売新聞様、掲載日時は不明ですので表記することが出来ませんでした。ご免なさい(^^;)。


 ■読売新聞記事(日付不明)■
読売新聞の記事
 ボランティアの方々が熱心に慰霊塔などで清掃作業をしています

私も毎年毎年沖縄を訪れてはいますが、訪問した慰霊碑や慰霊塔はごくわずかな数でしかありません(^^;)。

その限られた数の慰霊塔なども、新聞記事に書いてある事柄は、言われてみれば確かに実感出来る事柄であり、残念ながら管理が行き 届いていないという雰囲気が年ごとに増しているのは否定出来ない事実であると感じています。

『ひめゆりの塔』などごく一部の有名な慰霊塔は相変わらずの賑わいを見せていますが、南部戦跡全体の中では少数派と いえるでしょう。

原因は色々と考えられます。思いつくまま少し列挙してみますと、
1,戦後60年という歳月の経過による社会全体における戦争体験の風化。
2,沖縄戦などの戦争体験者の高齢化。
3,義務教育課程での平和教育に割く時間の減少。


第二次世界大戦などの歴史を今に残そうとする施設や場所などは、世界的レベルで見学者が減少し、管理運営に困難が伴う ようになってきているという報道が為されています。
大戦後60年を経て、ドイツでもアウシュビッツ収容所の存在を知らないとする若者が大勢いることが解り、戦争体験の風化 への危機感が叫ばれていました。

ワンポイント

人類の長い歴史の中で、戦争は際限なく繰り返されてきました。
現在もイラク侵略戦争をはじめ世界各地で戦争や紛争が絶えません。

この参加記の中で、世界の戦争を防ぐ手だてを述べられるほど戦争を行う動機を簡単に説明出来るはずもありませんが、 例えばアメリカによるイラク侵略は“イラクの石油”が目当てであるのは周知の通りです。

大量破壊兵器をすぐにでも使いかねないなどと“危険性”を煽り、世界を不安に陥れ侵略を強引に正当化して、イラク戦争を国連や国際世論の 同意なしに開始しました。
大量破壊兵器が存在しないことが解ると、今度は“イラクに自由と民主主義をもたらす為”だとの主張を展開しだしました。
どのような理由付けをするにしても、目的とした“戦果”を放棄するつもりはないようです。

このように、いつの時代も大国は“やりたいようにやる”のが国際社会の現状なのです。

国家による戦争は、メディアを政治機関として最大限活用するのが通例です。
過去の開戦理由の全てが“正義の戦い”だとするプロパガンダをメディアを通じて浸透させようと試みていますが、どのような正義の 戦争であっても(もちろんそんな“正しい戦争”など存在しませんが……)、多くの人々が殺され悲惨な体験をする事にな る現実を、私達は直視しなければなりません。

このアメリカによるイラク侵略にしても、私達が目をそらすことの出来ない最大の理由は、侵略開始からすでに10万人以上 もの民間人が、無惨にも殺されたという現実です。

現在日本でも憲法改正や防衛大綱の指針などの検討が着々と進められていますが、基本的にアメリカと手を組み共同作戦を 展開する方向で対応が為されている事は疑いの余地がありません。

日本側の一部の政治家と官僚は、アメリカの策略に見事にはめられて「集団的自衛権」を盛り込んだ憲法改正を急ぎ、アメリ カの世界戦略に日本をしっかり組み入れようとする輩が、悲しいかな存在するようです。

アジア情勢も世界の趨勢と同様に激動の時代を迎えたようです。
3月14日中国の「全人代」では、反対票ゼロという中国共産党らしい裁決で『反国家分裂法』が成立をみました。

私たちがここで注目すべきは、アメリカと日本はすでに全力で台湾を守ると宣言しているのです。
すでに日本の防衛大綱で公式に中国への警戒感を表記していますし、今年二月に開催された日米安全保障協議委員会では、 「日米は協力して東アジア地域の脅威に立ち向かう」という姿勢をハッキリと打ち出しているからです。

これにより、中国対台湾・アメリカ・日本の三国連合の戦争が不可避の情勢となって参りました。
アメリカも近い将来訪れる大規模なこの世紀の決戦の為に着々と準備を進めており、戦場に近い日本にアメリカ軍司令部を 移転するのもその一環です。

“近い将来日本が中国と戦火を交える”というかなり確率の高い予測を、とても信じられないという方々も多いと思います が、地政学的観点からアメリカは中国を分断支配するという作戦計画をすでに持っており、中国の台湾攻撃というシナリオ を発火点とすべく、中国が台湾を攻撃しなければならないように、アメリカは仕込みを続けるでしょう。

もちろん、アメリカは世界で唯一の超大国ですから、大統領が中国の国内問題である人権問題や共産党独裁統治に対し“口先介入”して、国内を不安定に させ農民などの反乱を蜂起させる選択肢もありますが、この方式ではロシアを喜ばせるだけで、アメリカ軍需産業を戦時特需に持ち込むことは出来ません。

アメリカの対中国攻撃はアメリカの軍需産業を儲けさせる為に行われる戦争ですから、台湾や日本が国土防衛のため大量のミ サイルや軍備品を必用とする環境を創出し、かつ買わせなければなりません。

従って、アメリカはかつて日本の真珠湾攻撃の動向を逐一把握していたにも関わらず、知らないふりをして沈黙していたよう に、中国の台湾攻撃の第一撃に対し「信じられない出来事だ、心から驚いている!」といったコメントがアメリカの最初の 反応になるでしょうが、アメリカ軍部は実際のところ、その第一撃を予定しその後の展開も計画済みなのです。

“相手国が先制攻撃をせざるを得ないように仕込み、第一撃は不意をつかれたと驚きと怒りをあらわにし、結果として報復の 大義名分を得て相手国を一気に潰す”これがアメリカ流戦争創出と仕込み、そして戦勝国へと至るセオリーでしょうか。

私の述べたストーリーは平和な時代にはおかしな空想と思われかねませんが、遅くとも中国バブルが崩壊する2010年の上海万国博覧会以降数 年の間に現実のものとなって大騒ぎすることになるでしょう。
その時こそアメリカ軍の司令部が置かれる関東エリアを中心にチャイナミサイルが降り注ぐ事になるのです。

もちろん、沖縄も台湾に近いですしアメリカ軍基地のある嘉手納などを中心に、中国の激しい攻撃にさらされるでしょう。
悲しいことに“非武の島”沖縄は、再度鉄の雨が降り注ぐことになるのです。

アメリカの“軍需産業の為に戦争を立ち上げる”という非人間的で極悪犯罪的な行為を何とか止めなくてはならないと感じて いる一人ですが、ひとつだけハッキリしているのは、その頃には沖縄戦をはじめとする太平洋戦争の悲惨な体験者は一人も居ないという事です!。


……………………………………………………………

私たち一般市民に出来る事!。戦争を回避す手だてに少しでも貢献する可能性があるものとして、この“戦争には悲惨な殺戮が必ず伴うという現実を後 世に伝える”という事ではないでしょうか。

アメリカの覇権衰退の流れの中で、世界の多極化に伴い国際情勢が大きな曲がり角に来ている現在において、日本が今度はア メリカと手を組みアジアの同胞を傷つけるという事のないように、沖縄戦の悲惨な体験と戦跡をいつまでも後世の人々のために残していかなければならないと感じています。

その為のひとつの手段として、戦跡の中に点在する慰霊塔や慰霊碑を出来る限りしっかりと保存し、後世に沖縄戦のありよう を伝えていくというのが、今を生きる私達に要請されているのではないでしょうか……。

ちょっと硬い話になってしまいましたね(^^;)。
という訳で、現在沖縄南部の慰霊塔などはどのような状態にあるのか知りたく思い、一日かけて回れるだけ回ってみようと 考えました。

今回は、慰霊塔を訪れ手を合わせたり写真に納めたりするだけですが、出来れば“慰霊塔の清掃”も視野に入れて対応したいと 考えていますので、その観点での情報収集もしてきたいと考えています。

慰霊塔・慰霊碑巡り
朝の8時半には那覇空港近くのレンタカーショップに到着しました。
まずは『ひめゆりの塔』に向けて発進です。

道路が混んでいなければ南部戦跡までは30分程で到着します。
一番最初に何故『ひめゆりの塔』に向かうのかというと、御存知のように塔入り口には献花用の花が販売されているからです。 その献花用の花を持って各慰霊塔を巡りましょうという訳です(^o^)。
昔は線香とマッチも売っていましたが、やはり時代の流れと申しましょうか線香くさいのは嫌われるのかどうか……。現在は 販売していませんね。


     白梅の塔 

白梅の塔1
 『白梅の塔』の全景です

白梅の塔2
 『白梅の塔』の碑文

白梅の塔3
 戦没者の掲示

白梅の塔4
 壕入り口から底部を見下ろす 壕は横に長く伸長しています

最初に訪れたのは『白梅の塔』でした。
雨上がりということもありまして、小高い樹木に囲まれた慰霊塔はシットリとした雰囲気に包まれていました。
敷地に入りますと、正面が慰霊塔があり、左側に納骨堂そして右側に看護活動を続けた壕がありました。
壕は横に長く展開しているようです。上の敷地から所々壕内部が見えるようです。
現在壕の入り口横には、慰霊のためのお堂が建てられています。

『白梅の塔』は、沖縄戦で戦没した沖縄県立第二高等女学校の稲福全栄校長ほか職員・生徒など105人が祀られています。

この壕は、6月22日米軍に“馬乗り攻撃”をされ多くの若き尊い命が奪われました。
沖縄県立第二高等女学校の戦死者は、この壕を中心に近辺で多数亡くなられたといわれています。




     魂魄の塔 

魂魄の塔1

 『魂魄の塔』の全景です

魂魄の塔2
 『魂魄の塔』の碑文

魂魄の塔3
 『魂魄の塔』の碑文

『魂魄の塔』です。
『ひめゆりの塔』から5分ほどのところにある平和創造の森公園内の一角にありました。
ここは沖縄本島最南端に近いところでして、すぐ近くの海岸ではサーフィンなどを楽しむ人達で夏場は賑わうとの事でした。
公園内には複数の慰霊塔が散在していました。

35,000柱という沖縄にある慰霊塔では最大規模の戦没者が祀られているという事で、以前から関心がありました。
ここ現糸満市米須地区にはおびただしい数の屍が散乱していたそうです。
それらの御遺骨を地元住民が収骨し納骨堂を建立して祀ったのが『魂魄の塔』という事になります。



     沖縄陸軍病院之塔 

沖縄陸軍病院之塔1

 『沖縄陸軍病院之塔』の全景です

沖縄陸軍病院之塔2
 『沖縄陸軍病院之塔

沖縄陸軍病院之塔3
 『沖縄陸軍病院之塔』の碑文

沖縄陸軍病院之塔4
 壕内の様子 それ程広くないことが解ります

『沖縄陸軍病院之塔』です。
この塔に至る道も正確に記されていなさそうな地図だったので、発見出来るかどうか当初不安でしたが、多少道に迷いました が比較的早く塔に到達出来ました。

何しろ慰霊塔関係の資料にも掲載されていないのですから。
ただ、病院に絡む避難場所は傷病兵も多くて犠牲者も多かったと思われますので、ぜひ訪ねてみたいところだと思っていました。

農家の畑などに囲まれた閑静な場所に慰霊塔と壕がありました。
壕は深さ10メートル程度の縦穴でしたから、上部から爆撃を受けたらひとたまりもないと思われました。
また穴の直径も大きく、容易に米軍に発見され攻撃を受けたものと推測されます。



     開南健児の塔 

開南健児の塔1

 『開南健児の塔』の全景です

開南健児の塔2
 

開南健児の塔3
 戦没者の掲示

『開南健児の塔』です。
塔は、平和創造の森公園内の少しばかり小高い丘の上にひっそりとたたずんでいました。
沖縄戦で戦死した私立開南中学校の職員と生徒263人を祀っています。
開南中学では「開南中学鉄血勤皇隊」を組織して、日本軍と共に戦闘行為などを行ったため、多くの若き命を失う結果と なってしまいました。



     ずゐせんの塔 

ずゐせんの塔1

 『ずゐせんの塔』の全景です

ずゐせんの塔2
 『ずゐせんの塔』の碑文です

ずゐせんの塔3
 戦没者の掲示

『開南健児の塔』です。
塔は、平和創造の森公園内の少しばかり小高い丘の上にひっそりとたたずんでいました。
沖縄戦で戦死した私立開南中学校の職員と生徒263人を祀っています。
開南中学では「開南中学鉄血勤皇隊」を組織して、日本軍と共に戦闘行為などを行ったため、多くの若き命を失う結果と なってしまいました。



     南冥の塔 

南冥の塔1

 『南冥の塔』の全景です 左手奥に壕が見えます

南冥の塔2
 『南冥の塔』の碑文です

南冥の塔3
 塔の由来の解説

南冥の塔4
 塔横にある自然壕 中は意外と狭い空間でした

『南冥の塔』です。
摩文仁の丘西端から少し離れた場所にあります。
近くには健児の塔や平和の像などがあります。
この周辺は、摩文仁の司令部からも近くかなりの爆撃を受けたものと思われ、屍累々としていたと表記されています。

私達も摩文仁の海岸線は何度も遺骨収集をしています。
私も今から5年ぐらい前でしょうか。この周辺一帯で遺骨を捜しました時に、二カ所で御遺骨を発見しました。
この塔横の岩陰からも細かい御遺骨が出てきたことを覚えています。



     風部隊之碑 

風部隊之碑1

 『風部隊之碑』の全景です

風部隊之碑2
 『風部隊之碑』の碑文です

風部隊之碑3
 塔の由来の解説

風部隊之碑4
 戦没者の掲示

『風部隊之碑』です。
摩文仁の丘西端から少し離れた場所にあります。
健児の塔や平和の像などに至る道沿いにありますので、すぐに見つけることが出来ました。

日本陸軍の航空部隊のうち、中央航空路部沖縄航空路管区などの複数の部隊の軍人軍属480柱を祀ってあります。
那覇空襲以降は沖縄の主力部隊第32軍に編入されたことから南部での戦闘で多大な犠牲者を出しました。



     沖縄工業健児の塔 

沖縄工業健児の塔1

 『沖縄工業健児の塔』の全景です

沖縄工業健児の塔2
 戦没者の掲示です

『沖縄工業健児の塔』です。
平和祈念公園内に完成した沖縄県平和祈念資料館のすぐ横の海岸線に塔はありました。

戦死した沖縄県立工業学校の生徒124人を祀ってあります。
沖縄県立工業学校でも「工業鉄血勤皇隊」を組織して従軍したため、140人の動員中97人に及ぶ犠牲者を出しました。


曇り空からポツリポツリと雨が降り出し、雨の中で撮影と慰霊をしました。
強行軍の慰霊碑巡りでしたが、雨脚が強くなってきたのでやむを得ず『沖縄県平和祈念資料館』に立ちより、内部の展示を 見学して回りました。

以前の建物が現存した時に一度訪ねたことはありますが、新築なってからは初めての見学でした。
沖縄らしい雰囲気の立派な建物ですよ。
沖縄南部の観光をされる折りには、ぜひ皆さんが一度訪ねてみられることをお勧めしたいですね。

豊富な展示品や物証があり、かなり迫力のある展示が為されていることが解りました。
2階が展示場となっていますが、次のようなカテゴリーに別れていました。

プロローグ
第1展示室 沖縄戦への道
第2展示室 住民の見た沖縄戦 鉄の暴風
第3展示室 住民の見た沖縄戦 地獄の戦場
第4展示室 住民の見た沖縄戦 証言
第5展示室 太平洋の要石(かなめいし)



展示の結びの言葉は次のようなものでした。

沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです

このなまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を背定し美化することは できないはずです

戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか

戦後このかた 私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねば と思いつづけてきました

これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです




後に続く私達は、沖縄の人々が想像を絶する辛酸を舐めた、かの沖縄戦を出来る限り風化させず、次の世代に語り伝えなければならないと の思いを新たにし、私も施設をあとにしました。


雨も上がってきたので、『沖縄工業健児の塔』の真向かいにある『韓国人慰霊塔公園』を訪ねました。



     韓国人慰霊塔 

韓国人慰霊塔1

 『韓国人慰霊塔』の全景です
 半円型に組まれた石は韓国各地から持ち寄ったもののようです

韓国人慰霊塔2
 日本語で書かれた碑文です
 朝鮮文字、韓国文字、日本語、英語の四種類の掲示があります

『韓国人慰霊塔』です。
『沖縄工業健児の塔』の向かい、又は平和祈念公園内に完成した沖縄県平和祈念資料館のすぐ横に塔はありました。
韓国人慰霊塔公園という呼称がある通り、公園内に慰霊塔があるという雰囲気で、かなり広い敷地の中に慰霊塔はありました。

碑文の概要は、「太平洋戦争が勃発するや韓国青年達は日本各地に強制的徴募により日本軍に従軍し、ここ沖縄にも1万人あまり が動員され、戦死あるいは虐殺により命を落とした……。」
と書かれていました。

私達はうやむやにして逃げるのではなく、私達は私達の世代としてしっかりと歴史を見つめなければならないと感じました。



     群馬之塔 

群馬の塔1

 『群馬之塔』の全景です

群馬の塔2
 碑文です

群馬の塔3
 碑文の続きです

『群馬の塔』です。
摩文仁の丘には各県の慰霊塔がたくさん設置されていますが、その中のひとつに『群馬之塔』がありました。
私は群馬県出身なのでこの機会に訪ねてみました(^^;)。

群馬県出身で沖縄戦により亡くなられた八百余名と他の地域の戦線などで亡くなられた三万余名の戦没者が祀られています。



     南北の塔 

南北の塔1

 『南北の塔』の全景です

南北の塔2
 碑文です

南北の塔3
 『南北の塔』右手にある壕です
 米軍の攻撃を受けて地元の住民や兵隊さんが多数無くなりました

『南北の塔』です。
場所は、真栄平という地名のところにありました。
塔の右手奥には大きな壕があり、この中で多数の人々が殺されました。
壕内の一部は地元の人々が収集した遺骨安置所となっており、セメントにより固められ入れないようになっています。

実は、この『南北の塔』にはかなりの頻度で訪れています。

金光教の沖縄遺骨収集には、東京都にお住まいのMさんという方が毎年参加されていますが、遺族という立場の方です。

今から15年以上も前の遺骨収集で、この壕内から黄色い石鹸箱が発見されました。
その石鹸箱にはMさんのお父さんの名前が彫り込まれていましたので、息子さんであるMさんの元へ黄色い石鹸箱は帰って いきました。

Mさんにとりましては、お父さんの沖縄で戦死した場所が特定出来たことから、お墓参りをかねて以降毎年金光教の皆さんと 共に遺骨収集に参加されています。

このように金光教の遺骨収集奉仕により、見つけ出された遺品から彫り込まれた名前などを頼りに、ご遺族の元に帰っていった という例はかなりの数に上ります。



     八重瀬の塔 

八重瀬の塔1

 『八重瀬の塔』の全景です

『八重瀬の塔』です。
八重瀬岳は高地となっておりかなり激しい争奪戦が日米で展開されたようです。
その為この地域ではかなりの戦死者が出ました。
『八重瀬の塔』には、戦後富盛の住民が八重瀬岳一帯で泣くなられた将兵15,000余りの遺骨を集め祀りました。



     白梅学徒病院壕跡 

白梅学徒病院壕1

 『白梅学徒病院壕』の全景です
 私が手向けた献花が心なしか悲しそうです

白梅学徒病院壕2
 白梅学徒看護隊や壕について解説している案内板です

白梅学徒病院壕3
 壕近くの岩陰が火炎放射器により攻撃などで今でも黒ずんで見えます

白梅学徒病院壕4
 壕内の様子です 奥が深くかなりの人数を収容出来たようです
 米軍による攻撃によるものか壕内はススで黒ずんで見えます

『白梅学徒病院壕跡』です。
林先生に聞く



     富盛の石彫大獅子 

富盛の石彫大獅子1

 『富盛の石彫大獅子』の全景です

富盛の石彫大獅子2
 『富盛の石彫大獅子』の案内板です

『富盛の石彫大獅子』です。
『白梅学徒病院壕跡』とは谷を挟んだ向かいの小高い丘の上にありました。

この大獅子が設置されている高台は、首里を撤退し摩文仁一帯に陣をしいた守備軍の右翼を守る要衝だったので、米軍との あいだで激しい争奪戦が展開され、おびただしい数の戦死者がでました。

この大獅子は、その激しい戦闘のただ中にありましたが、幸い破壊されることなく現在に至っています。

この大獅子は、火除け(火返し)として琉球王朝時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものです(高さ141cm  長さ175cm)。
沖縄各地にある村落祭祀上の目的で作られた獅子の中でも最古のもので、民族資料としても貴重なものであるといわれていま す。
1974年には沖縄県指定有形文化財に指定され,今は町のシンボル的存在となっています。

ワンポイント

昼頃まとまった雨が降り、以降断続的に小雨交じりの天候の中、出来る限りの急ぎ足で各慰霊塔を巡って参りました。

八重瀬岳に到着した時点で5時をまわり、辺りも曇天という事もありかなり暗くなって参りました。
慰霊と撮影を終えた時点で5時50分となりましたので、慰霊塔巡りも打ち切りとしました。

かけ足ではありましたが、かなりの箇所を巡ることが出来ました。
雨の影響がなければ、あと二カ所ぐらいは回れたかもしれませんので、その点が残念でした。

雨が降って比較的気温も低いのですが、さすがに沖縄だけあって車での移動は常にクーラーを動かしながらの移動でした。

当初予想したように、各慰霊塔は管理が少しばかり行き届いてないという印象を受けました。
慰霊塔の損傷も熱帯性の気候や台風の度重なる襲来で、至るところで破損していたりしてダメージを受けていました。

これら慰霊塔は、悲惨な沖縄戦の貴重なモニュメントとして、長く大切にしていかなければならないという思いを強くした 慰霊碑巡りでした。



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  2005年
ワンポイント 第32回 金光教沖縄遺骨収集奉仕
  主  催 :金光教那覇教会(那覇市壺屋二丁目13番30号)
日  程 :平成17年2月19日(土曜日)、20日(日曜日)
場  所 :糸満市字摩文仁・具志頭村具志頭、情報提供に基づく地域及びお清め御用
参加者 : 78名(沖縄県:17名/沖縄県外:61名)

2月19日(土)  【深さ15メートルの縦穴壕内部を探索しました】

今朝は5時10分に起床しました(^o^)。
この時刻は毎日起床している時刻なので早起きという印象はありません。

いよいよ今日から待ちに待った遺骨収集が開始されますので、朝から気持ちも心なしか高ぶっていますね。
ただ残念なことに外は雨が降っていました(^^;)。

かつて朝から雨という体験はなかったような気がします。
もちろん雨が全く降らなかったという事ではなく、沖縄特有の熱帯性気象条件故かスコールのようにザーと強い雨が降り始め ても、しばらくすると雨も止み晴れ間がのぞいてくるという流れが多かったですね。

6時30分レンタカーでホテルを出発しました。
私の行動予定は、集合時刻8時30分前よりかなり前に現地に到着し、『ひめゆりの塔』をいろんなアングルから写真撮影を したいと思っていました。
なぜかというと『ひめゆりの塔』は、いつも見学者が大勢いて塔の撮影が思うようにできず、以前から人の写っていない塔な どを撮影したいと考えていたのです。

出発時の様子はかなりまとまった雨が降っているので、撮影は無理かなと思いつつも、とりあえず現地に行ってみようと思い、 予定通りホテルを出発したわけです。

朝食はホテルが準備してくれたサンドイッチとコンビニで買ったおにぎりなどを車中にて食べました。
ホテルから『ひめゆりの塔』へは、バイパスを利用すると概ね30分ちょっとで到着しました。それもそのはずです、あまり 他の車を見かけませんでした。

『ひめゆりの塔』は、雨に濡れかなり暗いイメージになっていました。
カメラ機材も濡れてしまうし、露出もアンダーに振れてしまいそうだったので、撮影は明朝に持ち越しと決めて、遺骨収集の 集合場所である摩文仁西端の駐車場へと車を走らせました。

集合時刻よりも1時間早く到着してしまいました(^^;)。
もちろんは誰よりも早く駐車場に到着です。

収集道具などの装着の準備をしたりしていると、やはり収集に熱心な方々ばかりのせいか、早めの時間にほとんどの方が集 まってきました。

今年の遺骨収集は78名が全国から参集しました。
初参加の方も毎年いらっしゃいますが、多くが経験を重ねているベテラン参加者です。
一年ぶりの懐かしい顔がほとんどですから、皆さんがスッとひとつの和の中に入ったような気持ちになります。
多くの方にご挨拶して再会を喜び合いました。

遺骨収集の道具や機材の準備を皆で進めながら班単位の整列したところで、金光教では朝の御祈念を行います。

御祈念が終わり、遺骨収集を主催している金光教那覇教会のH先生が、収集地域の説明と諸注意などを聞き終えると、いよい よ収集地域に向けて散っていくことになります。

摩文仁の丘に向かって御祈念
 朝の打ち合わせの最初に摩文仁の丘に向かって御祈念をします


私の所属する1班は、民間の情報提供に基づく場所で収集する事になりました。
場所は、ここから車で10分程度のところのようですので車三台に分乗し出発しました。

幹線道路から脇道に入り、少し進んだところで沖縄のお墓『亀甲墓』の脇にある駐車場に車を止めました。
駐車場からすぐ近くの畑の横に雑草地がありまして、そこが私たちの目指す場所でした。

所有する畑の一角に縦穴壕があるので、内部を一度チェックしてもらいたいとの話のようです。

この地域には自然壕が数多くあるそうです。
壕の長さもキロ単位になるものもあり、沖縄戦ではかなり陣地として利用されたようですが、爆撃などで破壊されたり崩壊し て出入り口が判らなくなってしまった壕もあるそうですから、生き埋めの兵隊さんや住民も多数居たかもしれませんね。

畑隅の雑草地の一角に、直径1メートルほどの穴が開いていました。
安全のために被せてあったフタを撤去し穴の底をのぞき見しますと、6メートルぐらいの深さで一端穴は小さくなっていますが、そこから更にもう一段穴が続いてい るようにも見えます。

亀甲墓
 山裾に設置される事が多い沖縄独特の亀甲墓です

壕の様子1
 目指す縦穴壕は草むらの一角にありました 穴の一部が見えています

壕の様子2
 フタを撤去して壕の中をのぞいた様子です 深さ6メートルぐらいです


最初の底までは比較的穴も大きく、降りていくための足がかりも何カ所かありそうなので、問題なく降りられそうです。
O先生が情報収集の為に、最初に降りていきました。

6メートル下の底に降りてからの観察では、そこからもう一段下に穴が続いているとの事です。
直径60センチ程度の大きな石が穴を塞いでいるために、その石を退けない限り下に降りる事はできないという状況です。

私もOさんの次に下に降りて、何とかその大きい石を破壊できないか、いろんな方法を試してみましたが、食い込んだ石はび くともしませんでした(^^;)。

いずれにしても、この石を破壊しないことには下には進めないので、本部からバールを持って来てもらう事にしました。

長さ1メートル以上の太いバールが到着し、私が石めがけてバールを叩きつけ破壊を試みました。
しかし、どんなに強く突いても白い粉が少し飛び散る程度で、岩はピクリとも動きませんでした。
改めて、鍾乳石の硬さを実感しましたね。見た目はそんなに硬そうでないのですが(^^;)……。

結局二人で一時間近く、その直径60センチちかい石と格闘したでしょうか。
あきらめかけていた頃、ついに光明が見えてきました!。
私が岩に向かってバールを何度も何度も突いていると、突然バーンと石が二つに割れたのです。
ついに破壊に成功しました。諦めなくて良かった〜〜(^o^)。
私たちは更に突きを継続し、石を下に落とすことが出来ました。

穴から見える一段下の広がりは、かなり広い空間となっており、ロープでは下りられないのでハシゴを準備する事にしました。
縦穴近くの樹木にしっかりとロープを縛り付け、その先にハシゴをくくりつけてまして、穴の底に到達するための準備が完了 したのです。

作業の様子1
 直径60センチの大きな石を除けないと壕の底には到達できません(^^;)

作業の様子2
 何とか石を破壊し笑顔がこぼれました(^o^)


私が一番最初に穴底に降りていく事になりました。
装備を点検し不足のないことを確認すると、ロウソクに火を点灯してハシゴから降り始めました。

地上から12メートル前後下降したところで、穴底到達が近い模様です。
穴底は暗くて何も見えないので下は見ずに、ロウソクが消えてしまうかどうかだけ気にしながら下降していきました。

何故ロウソクを灯しながら降りるかと言いますと、酸欠の可能性があるからです。
酸素が少なければロウソクの灯が消えますので、その時は速やかに退去しなければなりませんね。
従って酸欠事故などが起こらないように、穴の中で作業する場合は常にロウソクを灯しておくことになります。

結局15メートルぐらい下降したでしょうか。無事に穴の底に降り立つことが出来ました。
穴の上にいる人々に向かって「次の人が降りてきても大丈夫ですよ」と声をかけました。

ただ、穴は垂直に切り立っており非常に危険な行為でもありますし、降りたら再び上がって聞かなければならないので(^^;)、 誰でも降りてこられるという状況にありません。人選をして降りるようにするようです。

穴底に降りた私は岩の突き出たところに、ロウを垂らしロウソクを固定しました。
そして、私は壕内を懐中電灯で照らし、遺骨を探しにかかりました。

作業の様子3
 二段目の縦穴部を降りようとしているロンさんです

作業の様子4
 ロウソクを灯し酸欠などをチェックしながらの作業です


かなり広い空間です。斜め下に向かって長く伸びていますね。
穴は鍾乳洞のようになっており、大きな“つらら”などもたくさん垂れ下がっており独特の景観です。

私は早くも遺骨を探しながら少しずつ前進していきました。

最終的に、穴底に4人降りてきましたので、分散して遺骨を探すことになりました。

作業の様子5
 鍾乳洞と同じですから巨大な“つらら”がたくさん見られます

作業の様子6
 長さ15メートル程でこの壕は行き止まりである事が判りました


探し始めて20分ぐらい経過した頃でしょうか、私はついにご遺骨を発見しました(^o^)。

壕内には、明らかに人為的に為された石組みがこしらえてあったので、戦争中に何らかの理由で壕内に人が居住していたと感 じていました。

遺骨は鍾乳洞のかなり狭い空間の部分に見えました。
人間が隠れるほどの隙間ではないので、手榴弾などにより自決した際に、体の一部があちこちに飛び散った為に、狭い場所か ら遺骨が発見されたと考えるのが順当だと思います。

細かい骨しかありませんでしたが、かなり散らばった状況で発見されました。
4人でかなり時間をかけ探しましたが、遺留品らしきものは見あたりませんでした。

1時間以上捜索したでしょうか、更に見つかる可能性もないと判断し、捜索を終了する事にしました。

作業の様子7
 御遺骨を発見しました 爆風に飛ばされたのか狭いところに入り込んでいます

作業の様子8
 あちこちに四散しており慎重に探して集めました


降りる時とは逆の手順で、再び一人一人上っていきまして、全員事故もなく地上に戻ることが出来ました(^o^)。

昼食を挟み、ロープなどの作業用具を撤収して、最後には穴の前でミニ慰霊祭を行いました。

ミニ慰霊祭の後、この畑の持ち主である地主と話をする機会がありました。
いろんな話が出ましたが、穴の上にしっかりとフタをせずにおいたのは、完全に密封してしまうと、地の神様が地中と天空と を自由に行き来出来なくなるので、地の神様の怒りを買ってしまうという話は興味深かったですね。

地主は、今回の捜索でひとつの区切りがついたので、この縦穴の周囲には安全のためフェンスを設置すると話していました。

ミニ慰霊祭
 皆でミニ慰霊祭を執り行いました


私たちが次に向かったのは、地主の自宅の山裾に壕らしき穴があり、まだ一度も中を覗いて見てないので調査してほしいとい うので、探すことになりました。

基本的に沖縄の現地の方々は、地の神様との関係か積極的に壕に入り遺骨などを探すという事はしないようです。

写真を見ていただくとよく理解していただけますが、庭の一角に壕らしき穴が点在していました。
私たちは30分ほど山裾の遺骨が存在する可能性のある場所を捜索しました。
このような私有地と山野の“あいまいな境界線付近”というのは、意外と穴場的な捜索場所なのです。
過去にもこのような場所から多数御遺骨が発見されています。
また、自分の屋敷内や耕作する畑などで発見したご遺骨は、どのように処分してよいか判らないという理由で、畑などに隣接 する山裾や草原などに、ご遺骨を集積しておくという事例にも事欠きません。

壕の様子
 個人の庭の一角にこのような自然壕が多数存在します
 咲き誇る花はこぼれ種により増えたインパチェンスと思われます


今回は結果として山裾で御遺骨は発見されませんでしたが、地主にとりましても戦後ずっと懸案だった屋敷内に御遺骨が存在 するかどうかの決着をみたので、満足し納得したという表情をしていました。

私のような“やまとんちゅう”からすると、どうして自分で壕の中に入って探査してしまわないのか……、と不思議に思いま すが、こちらの“うちなんちゅう”の人々は、琉球と呼ばれた古の時代から、死後の世界に関する御霊のとらえ方は、本土と は大きく違っています。

それに、御霊が土や壕の中にも宿っていて天空と行き来しているという考え方ですから、壕などとの“日常のつきあい方”も 本土とは大きく異なっていて当然かもしれませんね。

私たちが沖縄で遺骨収集をさせていただくに際しては、収集場所に住まう近隣の方々の習慣や見解をしっかりと理解し、受け入れな がら目的を達成するという姿勢が大切です。

時刻も三時を回り、打ち切りの時が迫ってきているようです。
他の収集地域に移動するには、あまりにも残り時間が少ないので、これをもって収集作業は終了することとなりました。
作業道具を撤収し、駐車場で少しばかり皆で写真を写したりした後、帰路につきました。

ロンさん親子
 友達のように仲の良いロナルド・ロン・フーラさん親子です
 遺骨収集に対する真摯な行動には頭が下がります

集合写真
 「大変な作業だったね!」と皆で笑い合いました
 雨により雨合羽が真っ黒に汚れてしまいましたよ(^^;)


少し早めの撤収だったので、班長の判断で『白梅の塔』を見学していくことになりました。
初参加の方もいらっしゃるので、その方々に見てもらおうという訳です。

南部地域は、遺骨収集場所にほど近いところに慰霊塔が結構あるので、私たちも少しでも時間があったらこのように出来る限 り見学と慰霊を行うようにしています。

結局今日は終日雨が断続的に降り続きまして、皆が雨合羽を着ての収集作業でしたが、土などで雨合羽が真っ黒になってしま いました(^^;)。

明日もどうやら雨模様である事は天気予報で知っていますので、気持ちを落ち込ませることなく、引き締めて明日もがんばり たいと思います(^o^)。



2月20日(日)  【激戦が展開された具志頭の海岸線を探索しました】

今朝は5時に起床しました。
早めに起きて今日の天気を把握し、昨日撮影できなかったひめゆりの塔の撮影の可能性を探ることにしたのです。

雨が降っていないことを期待してホテルの外に出てみたのですが、昨日に続き雨が降っていました(^^;)。

そもそも朝から夕方まで終日雨が降っていたという状況は、20年来沖縄に通いつめて初めての経験でしたね。
今年になってから、関東平野はもちろん日本列島全体が例年以上の雨や雪が降っています。
ここ沖縄も同じ天候が続いています。沖縄の人が驚くほど今年は雨が多いと語っていましたね。

雨は降っているもののひどい雨ではないので、今朝もとりあえずひめゆりの塔に早めに到着し、到着した時点で撮影するかど うかの判断をすることにしました。

そして、今朝はホテルでの朝食を食べてから出発することにしました。時間的にはそのように行動しても十分に時間は確保さ れます。

昨日はホテル朝食を、サンドイッチに変えてもらいましたが、朝食バイキングとの落差があまりにも大きく(^^;)、遺骨収集 でしっかり行動するためにも、朝から栄養のある食事をしっかりやっておこうという気持ちに変わりました。

バイキング形式の食事は大好きなので、今朝もかなり豪華に食べましたよ(^o^)。
そして7時に摩文仁を目指してホテルを出発しました。

ワイパーの動きからも、今朝は比較的雨脚が弱いことがわかります。
短時間なら傘無しでも撮影できると確信し、ラストチャンスでもある今朝はひめゆりの塔で撮影をしてみることにしました。

なにしろ、日中のひめゆりの塔はかなりの人混みとなるのが通例で、とてもゆったりと撮影できる状況にありませんからね。
撮影と共に、ひとりだけで静かに壕の周辺などを散策し、当時学徒らが隠れていた時に思いを馳せてみたいと常々考えていま した。

雨で車の通行も少なめなのか、あっという間にひめゆりの塔前に到着しました。
撮影機材を準備して慰霊塔前に向かっていきました。

ひめゆり学徒隊などが看護業務を行っていたこの豪周辺は、比較的平地であり縦穴壕という事もあり、比較的早い時期に敵軍 の偵察機などに発見されてしまったのではないかと推測されます。

今は静かにたたずんでいる、この小さな縦穴壕も当時米軍のガス弾攻撃を受けたときには、壕内部では悲惨な叫び声とうめき 声などが悲しい響きとなって大地までこだましたに違いありません……。

沖縄で慰霊塔巡りをしていますと、多大な犠牲者を出した壕などのすぐ横に慰霊塔を建立するというパターンもよく見かけま す。
私はそのような場所では、慰霊の気持ちを捧げるとともに、心静かにして当時の悲惨な戦況に思いを馳せ、彼ら彼女らの悲惨 な結末を出来る限り共有するように努めています。

撮影も終了し、雨のなか傘を差して壕の周辺を散策したりしながら、静かなひとときを過ごしました……。

集合時刻も少しずつ迫ってきているので、後ろ髪を引かれつつもカメラを担いで駐車場に向かっていきますと、団体観光客と すれ違いました。
ラッキーでした(^o^)。
もう少し遅く到着していたら、静かな雰囲気の中での散策はできませんでしたね。

集合場所へはゆとりを持って到着しました。
今朝も昨日に続き雨模様ですが、集まっている人たちは一年ぶりに参集したという熱き思いが強いのか、雨の中テキパキとそ れぞれが準備を進めています。

いつも通り朝の御祈念を終えた後、那覇教会のH先生が班ごとの収集地域などの説明に入りました。

昨日の続きをする班もありますが、私たちの班も含め三つの班が具志頭(グシカミ・グシチャン)の海岸線を探索する事にな りました。

H先生の解説によりますと、沖縄戦の時の沖縄県知事は島田氏ですが、島田氏の御遺骨はいまだ発見されていないそうです。

沖縄戦生存者などの証言などから次のような経過までは判っているようです。

島田知事は6月19日に摩文仁の軍司令部の壕(現在の黎明の塔の建っているすぐ下のところにあります)に挨拶に訪れてい ます。
おそらくお別れの挨拶だと思われますが、現在それ以降の消息が解っていません。

ただ、それ以降島田知事と思われる人物を具志頭の海岸線で見つけ言葉を交わしたという日本兵で、沖縄戦を生き延びた方が います。

その日本兵の語るところによると、島田知事が具志頭の海岸線から数十メートル入ったところの岩陰で腰を下ろしているとこ ろに、偶然日本兵が遭遇したとの事です。

島田知事は日本兵に次のように語ったと言います。
「私は沖縄県知事の島田です。私は疲れ果て動けなくなりました。私が持っている黒砂糖は必要なくなったので、あなたにあ げます……。」などと語ったというのです

知事の横には短銃が置かれていたそうです。
日本兵は、黒砂糖を受け取りその場を離れたと言います。
それ以降島田知事の消息は一切不明のようです。

この話は、黒砂糖を受け取った日本兵が戦後、島田知事と遭遇した場所を探しに具志頭の海岸線を探し回ったそうですが、 激しい艦砲射撃などで地形がかなり変わっていて、結局その場所は探せなかったと言います。

H先生は、出来れば個人的にも島田知事の御遺骨を探し出したいとの思いが強いと語っていました……。


H先生の解説も終わり、私たちは乗用車に分乗して具志頭の海岸目指して車は発進しました。
20分も経ずに海岸の駐車場に到着しました。
海の方に目をやりますと、今は引き潮の時なのか、かなり沖合までゴツゴツした岩などが連なっていました。

海岸には砂浜がわずかな幅であり、すぐに断崖とよべるような岩肌の斜面が数十メートルかいや百メートル以上は急な岩肌が 続いているようです。
山肌は中低木の木々に覆われていますが、戦時中はどのような山肌だったのでしょうか。
ここ具志頭の海岸線も沖合からの艦船から激しい艦砲射撃が浴びせられたと言われています。

海岸線
 今は静かな遠浅の海岸線には巨岩がゴロゴロしており独特の景観です

朝の御祈念
 今日の探索地域の山肌に向かって朝の御祈念をしました

車から降りて身支度の最終チェックなどをしていると、すぐ横に地元の方2人が乗った乗用車が停車していましたが、私に声 をかけてきました。

「そのような格好で何を始めるんですか?」と質問してきました。
私は「これからこの山に入って遺骨収集をするんですよ」と答えました。
「ここいら一帯の山に何度も入っているが、遺骨がいっぱいあるよ」
「本当ですか?もっと詳しく教えていただけますでしょうか……。」

班長を呼んで詳しく状況を聞くことになりました。
そして色々と御遺骨のある場所などの情報を語ってくれました。

遺骨収集
 この海岸線で御遺骨を見たという地元の人の説明を聞いています

しかし、沖縄の言葉も含まれており、今ひとつコミュニケーションがとれません(^^;)。
現地の人はしばらく語り続けましたが、私たちが中々理解してくれないと悟ったのか、私が案内しましょうと語りました。
そして、とうとう彼を先頭に二百メートルほど道路を歩いて進み、この辺の崖下に御遺骨があるよと語りました。

私たちは、丁重に感謝の言葉を述べました。
彼らは、夜の仕事をしており仕事を終えて、海岸でしばし休憩をしていたとのことですから、貴重な時間を私たちに提供して くれたのですからね。

情報提供していただいた海岸縁を探索した結果は、彼らが見つけたという御遺骨は、沖縄では古くから行われていた風葬とい う儀式により葬られた、昔の御遺骨である事が判りました。
ここいら一帯に結構風葬として御遺骨を葬っている場所が結構目につきました。
戦時中は、風葬の壕などに日本兵や県民が隠れて避難していたという事もあり、米軍の攻撃対象となってほとんどが、何らか の攻撃を受け破壊されてしまいました。
風葬の御遺骨は、大きな瀬戸物で出来た容器に入れていたものですから、そのほとんどが破壊され砕かれた為に、御遺骨は四 散してしまったケースも多いです。

風葬の場所がたくさんあるこの地域を探索していると、一カ所の風葬の場所で、明らかに風葬の御遺骨とは別の、沖縄戦で亡 くなられたと思われる御遺骨が、ある事が判りました。

御遺骨は、風葬の御遺骨と混在している状況でした。
このパターンはよくあるケースです。
風葬の場所に逃げ込んで、攻撃を受けその場所で亡くなられた……。
一般的に風葬の御遺骨と沖縄戦で亡くなられた人々の御遺骨とは、ほとんど例外なく分別できます。
同じ人骨でも色や艶、肌触りに大きな違いが見られます。

その場所は数人で引き続き収骨することになり、私たちは思い思いにあちこちを探索して回りました。

遺骨収集
 白く見える御遺骨は今も残る『風葬』により埋葬されたものです
 瓶が 見えますが戦前のもので割れずに残っているのは非常に珍しいですね

この海岸沿いの岩場は大きな岩などが連なり複雑な隙間を作り出しており、人が隠れられる空間は無数にありました。
私たちはその隙間のひとつひとつライトを照らしながら、御遺骨を探し求め前進していきました。

私は目の前に大きな黒い固まりがあることに気づきました。
それは艦砲により発射されたと思われる巨大な弾丸の一部でした。
かなり錆びついていますが砲弾の形をとどめ、直径は15センチ以上はあったであろうと推測できるレベルです。

このような巨大な破壊力を持つ砲弾がこれでもかと言うほど、この海岸線の断崖に打ち込まれたと思うと……。そしておびた だしい人々がそれにより傷つき死んでいったと思うと……。

今日はすでに手榴弾も一個発見しました。
ここ具志頭では、この地で激戦が展開された事を明らかにする遺品は、今でも数多く目にすることができます。

遺骨収集
 海岸線には隠れるのにはもってこいの壕が無数にありました

遺骨収集
 艦船から発射された大きな砲弾の一部です (白いゴミ袋に広げています)

遺骨収集
 手榴弾も何個か見つかりました その他兵隊さんの遺品もありました

皆でかなり広範囲の探索を行いましたが、風葬の場所から発見された御遺骨以外は発見されなかったようです。
昼食をとる時刻となって参りましたので探索をやめ、駐車場横にあるテラスのような場所で食事をすることになりました。

食事をしていると野良猫が数匹よってきました。
朝の時点で気づいていましたが、かなりの数の野良猫がいるようです。
ガリガリにやせている風でもなく、海岸に遊びに来た人たちから餌などをある程度もらっているのだなと感じました。

いずれにしても、とても寒い思いをしながら昼食を食べ続けました(^^;)。
これほど寒い日中は初めての経験だと思います。
今年の冬は全国的にかつてない厳しい寒さが続いており、温暖な沖縄も例外ではありませんでした。

動いた方が暖かいのではないかという事で、早々と午後の探索を開始することにしました。
午前中とは反対側を探索することになりました。

海岸の砂地を歩いて進みました。
砂地のすぐ境目にある大きな岩陰に弾丸などがたくさん残っているのを、先頭を歩いていた人が発見しました。

砂地の一角に、爆弾の内部に詰め込まれている無数の鉄の玉が、不発だったようで砂地に固まって錆び付いていました。

おびただしい数の鉄玉ですが、おそらくひとつの砲弾に入っていたものでしょう。
これら鉄玉は着弾とともに四方八方に人を殺すべく飛んでいきます。

最初に落下した爆弾の直撃を避けられたとして、次にはこの無数の鉄玉がものすごいスピードで襲いかかってきます。
岩陰に隠れていても、鉄玉が岩から跳ね返って襲いかかってくる可能性も高いです。

実際にこの爆弾がたくさんの人々がいる所に着弾したなら、ことごとく人々を殺戮し地獄の世界へと瞬時に導くでしょう。
とても非人間的な殺戮爆弾だと感じました。
このような爆弾がおびただしい数の弾丸が、米艦船から発射されたのです。

どれぐらい凄い威力かを示す格好の展示物がすぐ近くにありました。
写真をご覧ください。個々の鉄玉が岩に食い込んでいます。
この鉄玉は、現在は錆びていますがこの岩陰に無数の箇所突き刺さっています。

遺骨収集
 不発弾のようです 爆発と同時に四散すべき小さい弾丸がたくさん見られます

遺骨収集
 弾丸が岩肌にめり込んでいます 凄い貫通能力を感じました

突き刺さった鉄玉を抜こうと試みましたが、錆びていることもあり容易に抜き取れるものではありませんでした。
このような鉄玉が散弾銃から発射される鉄玉のように、無数自分に向かって飛んでくることを想像すると……。
戦争とは非情な殺し合いなのだなと改めて認識させられます。

それにしても、この具志頭の海岸線は隠れるのに都合のよい壕が無数にありました。
私たちはそのほとんどをくまなく探索して進みました。

中にはロープを使わないと降りられないレベルの縦穴壕もありましたが、沖縄在住のアメリカ人であるロンさん親子が、率先 して捜索困難な壕に対しアプローチするので、私たちが出会った全ての壕を探索して進む事が出来ました。

遺骨収集
 明らかに日本軍の陣地を構築した形跡が残る岩陰です

話がそれますが、ロンさん親子の遺骨収集に対する真摯な行動力には心から感心します。
ロンさんのお父さんの方は、すでに15年以上にわたって翁を遺骨収集に参加しているはずです。
沖縄で会社を持っている実業家という話ですから、軍人軍属ではないようです。
彼らなりの思い入れがあって、この沖縄遺骨収集奉仕に参加されているのでしょうが、その思い入れの全てが行動に表れてい るので、私たちも彼らに心から敬意を払いたくなってしまいます。

話を戻しまして……。
本日の遺骨収集もまもなく終了するという頃に、わずかではありますが御遺骨が発見されました。
高さ60センチほどで広さは畳2畳程度の空間のある壕でしたが、明らかに過去遺骨収集が為され、その取りこぼしの御遺骨 と思われますが、金光教の遺骨収集はより細かい御遺骨を収集する方針ですから、ここでも再度徹底的に収集する事にしま した。

兵隊さんの軍靴などの一部もけっこう見受けられます。
明らかにここで亡くなられた兵隊さんがいた事は間違いありません。
細かい骨が少しずつ発見されます。

班長が、同じ班員として同行している小学生二人に、見せてやってほしいとの申し出があり、壕内で大人二人が作業していま したが、小学生二人を招き入れました。

軍靴などの遺留品を見せ、遺留品から導き出される推理などを交えて、考えられる当時の戦時状況などを話してやりました。

彼ら彼女らも一生懸命土砂をかき分け、何個かの脊髄の骨などを発見しました。

穴蔵に潜り込みながら、砂まみれになりながら……懐中電灯で遺骨を探す……。
教室で開く教科書では得られない貴重な体験に、彼らも戦争の本質を垣間見たと心に留めてもらったらすばらしい事ですね。

遺骨収集
 雨で泥んこになりながらの作業でした 全身泥だらけです(^^;)



各地に散って遺骨収集を二日間にわたって続けた各班員も、三々五々本部テント前にかえって参りました。

沖縄在住のご婦人方が湯茶の接待を毎年行ってくれています。
今年ほど寒い遺骨収集の時は無かったので、帰着してからの暖かいお茶やサーターアンダギー、黒砂糖などは心も体も温め てくれます(^o^)。

今年の遺骨収集を総括すれば、遺骨そのものは多く発見する事は出来ませんでした。
雨によりジャングルを歩き回る事の困難さが拍車をかけて、私たちの集中力を低下させた可能性もありますが、参加された 皆さんは本当に二日間寸暇を惜しんで奉仕活動に取り組みました。

私たちが手に持つクマデのひと掻きひと掻きが大地の清めにつながると思えてなりません。
私たちは遺骨を探すことを目的としていますが、沖縄戦で亡くなった御霊様と痛みを共有するという目的もまた併せ持つの です。
具志頭の無数にある壕に住まう御霊様も、私たちが探索に来てくれたことをきっと喜んでいてくれると確信し、また来年も 必ず参りますからねと沖縄の大地に向かって語りかけました……。



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