摩文仁海岸

2月13日(土) 初日に把握した海岸に至るまでのルートの両側を調査

10日間という長丁場、ジャングルに入り遺骨を探す調査活動を続けるというのは、この年ではかなりしんどいです (^^;)。

衰えたる筋肉を総動員してのジャングル山行と、遠近両用メガネのような、木を見、森を見ながらのジャングル行で生ずる、心身とも受ける耐え難い疲労とダメージを、よく癒し、翌日への活力を養うためには、宿泊する地域と良質の宿であるかどうかの選定は、何よりも重要な要因だと思えます。

摩文仁への近さなど交通の便を考慮して、昨年から糸満市内に宿泊拠点を設けることにしましたが、今年もそれに倣って糸満市大渡にある、落ち着きのあるペンションに宿泊させてもらう事にしました。
宿の女将さん、よろしくお願いしま~す (^^)/。

「ペンション喫茶 南の楽園」
http://www.minaminorakuen.com/index.html

お年寄りになればなるほど、規則正しい生活習慣が大切だと、耳にタコができるくらい聞いてますので (^^;)、

06:00 起床
06:20 散歩
06:50 朝食
08:00 ペンション出発
21:00 就寝
(このスケジュールならば、睡眠時間は9時間確保できますよ (^o^))

ユースホステルもびっくりな、このタイムスケジュールで過酷な10日間を乗り切ってやるぞ、イエ~~~ッ (^^)/。

まずは、宿から摩文仁までの道すがら見つけた、恒例の糸満市の田園風景をいくつかご紹介しますよ(^o^)。

南部地域は農業が盛んな場所ですから畑がたくさんあります。ただし南部では田んぼは見かけたことがないですね。中部には田んぼがあると聞いたような気がしますが、自分の目で確かめたことはなく、定かではありません(^^;)。

 

糸満市の田園風景
遺骨収集の様子1

ご存じトウモロコシですね(^o^)。もう雄・雌穂も出そろってますから、間もなく収穫開始すね。

遺骨収集の様子2

アララッ、強風でトウモロコシが倒れてしまったようです。でも大丈夫、これくらいなら自然に起き上がります。

遺骨収集の様子3

これは何だと思いますか? ニンジンなんですね~。 (^o^)

遺骨収集の様子4

電照菊ですね。 菊生産では沖縄は愛知に次ぎ生産量全国2位だそうですよ。

遺骨収集の様子5

結球レタスですね。 もう食べられそうですね。 ネットをしてあるのは鳥対策かな?。

遺骨収集の様子6

あまりにもすごいデベソなので撮影してみました(笑)。何という木なんでしょうね。

「ずゐせんの塔」 と 「ひむかいの塔」

この歳になると朝からすぐにジャングルに入り調査&遺骨収集という訳にはまいりません。
まず体がついて来ません (^^;)。

体を動かすには、まず暖機運転が必要な世代に入った事を認識していますから、毎年恒例となっていますが、まず朝の一時間ほど慰霊塔巡りをして心身の動きを活性化させます。

これは副次的に沖縄戦の見聞を深める事にもつながりますし、なにより慰霊塔は沖縄戦における戦後の視点から見た、その時々の私たちの思いを反映する鏡でもあります。

細かいことをいちいち上げませんが、慰霊塔はある意味、家々にあるお墓と同じです。
そのお墓がどのように変遷するのか……。そこから私たちの社会が持つ思潮と年代による変遷とを垣間見ることが出来るのです。

今朝は米須にある、数ある学徒隊のひとつであった、沖縄県立首里高等女学校の戦没職員・生徒・同窓生を祀る 「ずゐせんの塔」 と、沖縄をはじめ東南アジア地域で戦没した宮崎県出身者を祀る 「ひむかいの塔」 を慰霊訪問しました。
この二つの慰霊塔は、国道331号線沿いの交差点の横に並んでいました。

 

ずゐせんの塔
遺骨収集の様子7

「平和創造の森公園」 への入り口に当たる交差点横に 「ずゐせんの塔」 はありました。
この塔は那覇市首里桃原町にあった同校敷地跡に建立されましたが、後に生徒たちの最期の地となった米須・伊原地域に移すことが検討されまして、結果としてここ米須に移築されたものです。

遺骨収集の様子8

沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、生徒33名、同窓生56名が祀られています。
同校生徒は 「瑞泉(ずいせん)学徒隊」 と呼ばれましたが、「ずゐせん」 は同校同窓会名称 「瑞泉」 から命名されました。

遺骨収集の様子9

記された33名の氏名は、戦火に倒れた沖縄県立首里高等女学校生徒全員の氏名です。
戦況の悪化に伴い、浦添から首里、摩文仁へと看護を続けながらの移動で多くの生徒が犠牲となりました。

遺骨収集の様子10

「この道もこの岩肌も 乙女らが弾にたたかれ 踏み惑ひしところ  夕照」

ひむかいの塔
遺骨収集の様子11

宮崎県の旧国名は 「日向」 と呼びますが、その名前にちなんで 「ひむかいの塔」 と命名されたようです。
大東亜戦争中、沖縄や南方諸地域で戦没した宮崎県出身者31,237名を祀っています。

遺骨収集の様子12

碑文にもありますように、宮崎県出身者で沖縄戦における戦死者は1,800余名であると記されています。

遺骨収集の様子13

沖縄産の礎石の上に、宮崎県産の塔石が立てられています。
宮崎県の多くの市民が小さい石をここまでたくさん運んで慰霊塔が造営されたそうです。

初日に把握した海岸に至るまでのルートの両側を調査

昨日は半日ほどジャングルに入りました。斜面を緩やかに降りながら海岸近くへと至り、岩場が急斜面で、海岸にこそ降りられませんでしたが、海岸付近の風景をしっかりと脳裏に焼き付けましたから、後日違う方向からその場所に到達しても、かなりの確率でその場所が特定出来るものと思われます。

今日は、昨日なぞったルートの両側を調査しながら御遺骨を発見しようという訳です。
往路はルートの右側を調査しつつ前進しながら海岸に至り、復路はルートの左側を調査しつつ前進し続け、出発点に戻って来るという動線を予定しています。

単独行動でジャングルに入る場合に限定されると思いますが、長年遺骨収集を続けて来て感ずるのは、行き当たりばったりでジャングルに入り、やみくもに調査や探索を行う方式では、自分の立ち位置を見失い、迷ってしまうのではないかという不安感がついて回り、その不安感からダイナミックな動きが出来ず、調査区域は思いの外限られた狭い範囲を行き来するようになってしまいがちです。

そこでまず今回のように一本のルートを設定し、ルートの両側を大きく外れないように注意しながら調査すると、信じられないぐらいダイナミックに広い範囲を調査する事が可能となりますよ (^o^)。

そして迷わないという精神的な確信が、不安感を拭い去り、大いに気持ちを調査・収集に向かわせるという効果も大きいです。

これから皆さまに写真を見て頂きながら、単独行動における本日の調査の様子をご紹介しますが、ここで特筆したいのは、陣地を構えるならここしかないと言えるほどの、摩文仁で一二を争う素晴らしい壕を発見しました~ (^o^)。

出入りは二方向からできます。 10人から20人程度の軍の集団が寝起きできるレベルの広さがあり、巨大な岩盤の下に穴があるので、砲弾による直撃は絶対に避けられる素晴らしい壕でした。

ただ残念なことに、御遺骨の収集は終了している形跡がありました。
遺品がかなり残っており、多くの兵隊さんがそこで亡くなられた可能性があります。

すでに収骨されたというのは、それはそれで結構な事なのですが、これほど隠れるには絶好の素晴らしい壕で、なぜ多くの戦死者が出たのか……。

艦砲などの直撃弾でない事は明らかですから、他にナパーム弾攻撃か、空中からガソリンを放たれ火を付けられた為に火の海になり……。

「食料と水さえあれば絶対に生きながらえる事が可能だ!」 と思える、摩文仁でも数少ない絶好の隠れ場所に居ても死んでしまったというのは、ナパーム弾攻撃などの火炎攻撃では、2000度を超える灼熱地獄となり、酸素が無くなってしまうほどに、長時間にわたり広範囲が焼き払われてしまうのではないかと想像しましたが、実際はどうだったのでしょうか……。

本日入った地域は、壕もあちこち数え切れないほど散在し、また日本兵の遺品も数え切れないほど発見しました。

そして、金光教遺骨収集奉仕活動で調査・収集した後に 「この壕の収骨完了」 を表示するために残していく、水色のテープが岩場に数多く巻き付けられていたので、この地域は金光教でも調査・収集が完了している地域のようですが、日本軍将兵のあまりの遺品の多さから、昔は想像を超える数の戦没者の遺骨が散乱していた可能性があります。

という事で、改めて戦没者のご冥福を祈りながらの山行でした m(_ _)m。

 

摩文仁南斜面を単独で調査
遺骨収集の様子14

この付近は巨大な岩の壁があちこちにありますね。 調査では沖縄戦当時、樹木はすべて無かったものとして見ていきます。

遺骨収集の様子15

巨岩がバックリ割れたような場所に入ってみました。
懐中電灯とヘッドライトを併用しながら、クマデを多用し落ち葉を除け、慎重に遺骨や遺品を探していきます。

遺骨収集の様子16

遺品がありました。 革製品の一部と思われます。

遺骨収集の様子17

本日の調査で可能な限り西側に進んでみましたが、この岸壁によりこれ以上西に行けません。

遺骨収集の様子18

ソテツが付近にたくさん生えていました。 ソテツの実も熟れているようですよ。 (^o^)

遺骨収集の様子19

これ以上西側に行けないという場所の岩場に這い上がり、付近を展望してみました。
写真では見にくいのですが、左端の山並みに 「黎明の塔」 付近にある展望台が写し込まれています。

遺骨収集の様子20

ススが付着した岩陰に、真ん中あたりに見えますが、茶碗の欠片が落ちていました。

遺骨収集の様子21

兵隊さんが隠れていたと思われる吹き抜けの穴です。遺品が何点かあり収骨は済んでいる場所のようです。
この先はV字谷になっており、更に進むと海岸に出ると思われますが、少し難コースのようです。

遺骨収集の様子22

少しでも海岸に近づこうと努力しましたが、この場所はここまでが限界のようです。

摩文仁で一二を争う素晴らしい壕
遺骨収集の様子23

縦穴と言うよりもV字谷の下に人が行き来できる空間があるという状況です。絶対降りてみたいと思いました。
写真の下側にV字谷が伸びており、下の写真で解説しているようにずっと続いています。
高さは5メートル程度あり、傾斜が急で容易に降りられそうにありません。 結局断念。 (^^;)

遺骨収集の様子24

上の写真の続きですが、V字谷はそのまま伸びていき海岸に出られそうな雰囲気です。
現状では上の写真やこの写真のどの場所からも、傾斜が急でV字谷の下に降りることは不可能に見えます。

遺骨収集の様子25

V字谷に降りるのは諦めましたが、なんと付近の横穴から行けることが判明しました。 (^o^)
よくぞ発見したと、自分を褒めてやりたいです。 (^^ゞ
ここがそのV字谷に至る横穴です。この横穴空間だけでもかなりの人数を収容できそうです。

遺骨収集の様子26

15メートル程横穴を這って前進すると、この場所に出ました。写真右側には、更に横穴がありました。
その横穴も十人程度収容できる広い空間となっていました。↓ 下の写真参照。
写真前方には、爆風よけの岩が積み上がっていました。

遺骨収集の様子27

これがその横穴です。兵隊さん達が横になって隠れているには最高の場所だと見えました。 (^o^)

遺骨収集の様子28

この洞窟もすでに収骨は終了している状況でした。遺品はあちこち散乱していました。

遺骨収集の様子29

革製品のベルトもありました。多くの兵隊さんがこの穴の中で亡くなったようです。
それにしても、これほど絶好の隠れ場所に居ても死んでしまったのは、どのような攻撃だったのか……。

遺骨収集の様子30

爆風よけの石組みを乗り越えた所で撮影。この部分が7枚前の写真で上から見た部分と同じ所を見ています。
この広い空間はナパーム弾攻撃下では無力と思えますが、艦砲直撃弾は避けられると思われますね。

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遺骨収集の様子31

上から見た時のV字谷の底は、このようにあたかも通路のようになっていました。
ここを降っていくと、海岸に降りられることが判明。食料や水を調達するルートもあるという意味で、ここは素晴らしい隠れ家だと感じました。

遺骨収集の様子32

V字谷を前進しますと、ご覧のようにやはり容易に海岸に出ました。 (^o^)
海岸に容易に出られるということで、食料や水の調達も比較的容易ではなかったかと推測されます。

遺骨収集の様子33

これは兵隊さんの靴底の一部です。

遺骨収集の様子34

「このテープは見たくない!」
このグルグル巻きされた水色のビニールテープは何だと思いますか?。
この表示こそ、「金光教遺骨収集奉仕団の収骨作業が終了した場所ですよ」 という表示なのです。 つまり金光教で徹底的に収骨しましたから、この付近にはもう遺骨はありませんよというメッセージであり、だから「見たくない」のです。 (^^;)

遺骨収集の様子35

今でいうポシェットのようなもので、兵隊さんが携帯していた装備品のようです。

遺骨収集の様子36

かなりの数の靴底がありました。 この場所ででかなりの人数の将兵が亡くなったとみられます。

遺骨収集の様子37

壕の奥に錆びた空き缶が数個散乱していました。 ここにも一時的にしろ兵隊さんが居たのですね。

遺骨収集の様子38

外の風景を撮影してみました。 遠景の山並みに「黎明の塔」 付近にある展望台が写し込まれています。

遺骨収集の様子39

この壕もかなりの人数が収容できますし、巨岩の下ですから艦砲砲弾にもびくともしないでしょう。
白いツブツブが光って見えますが、これは水滴が光って見えています。

遺骨収集の様子40

蓄電池の部品とか、兵隊さんが持っていた幾種類かの装備品が見えます。

遺骨収集の様子41

壕内部から開口部を見たところです。 開口部は海岸方面を向いていました。

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