平成24年(2012年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月27日(金) 松永氏と摩文仁海岸線調査
- 1月28日(土) 遺骨収集事前調査・摩文仁清掃奉仕 (準備作業)
- 1月29日(日) 摩文仁清掃奉仕
- 2月11日(土) 故具志八重さんのお墓参り
- 2月12日(日) 「沖縄県遺族会」の沖縄遺骨収集奉仕活動に参加
- 2月13日(月) 松永光雄氏と摩文仁南斜面で調査
- 2月14日(火) 国吉氏に未調査現場を案内して頂く、午後現地調査
- 2月15日(水) 5人で摩文仁南斜面を調査
- 2月16日(木) 林先生他3人、与座岳斜面で予備調査
- 2月17日(金) 4人で摩文仁南斜面を調査、午後「平和学習」サポート
- 2月18日(土) 第39回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日) 第39回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月11日(土/祝) 故具志八重さんのお墓参り
金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に毎年のように参加されていた具志八重さんが、昨年の3月6日お亡くなりになりました。那覇市出身。大正6年生まれ、享年93歳でした。
具志八重さんは、沖縄戦では陸軍病院看護婦婦長として従軍し、また戦後は健康福祉活動に従事され、保健医療行政の基盤づくりに尽力されるなど、多方面でご活躍なさっていました。
改めてご冥福をお祈り申し上げます。m(_ _)m
私は那覇空港到着後すぐに、松永さんと共に具志八重さんが納骨されたお墓に向かいました。
松永さんは 「自分が平和学習ガイドや遺骨収集奉仕活動に参加するようになったのは、具志さんが誘ってくれたから」 とかねてから語っており、自身の人生に大きな影響を与えてくれた事にとても感謝していると何度も公言していました。それだけに移動する車中では、具志さんが亡くなってすでに一年近くになろうとしているにも関わらず、昨日の出来事のように具志さん喪失の無念さを語っていたのが印象的でした。
墓前では松永さんと私が共に 「具志さんの想い抱いた平和への願いと祈りを、私たち二人はしっかりと受け止め、次代へと必ずや引き継いでまいります。」 と声に出して私たちの思いを表出し具志さんへのお別れの言葉としました。
具志八重さんは、伊原にあった沖縄陸軍病院第3外科壕からの数少ない生存者でした。
沖縄戦南部での戦闘の渦中、6月18日、陸軍病院の解散命令が出ました。そして翌19日。米軍は伊原第3外科壕に毒ガス弾を投下し、陸軍病院関係者や学徒隊に多くの犠牲者を出してしまいましたが、当時の第三外科壕での壮絶な体験について、自らの著書「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」の中で次のように書かれています。
「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」
長田紀春・具志八重編著/ニライ社 平成4年初版
「ガス弾投下」
翌未明、壕入り口で男の声で「出て来なさい」と何度も呼びかけていた。皆黙って動かないでいたら、突然壕の中にガス弾が投げ込まれた。真白い煙が壕内一杯に立ちこめて息が苦しくなった。むせて咳が出てくるのを無理にこらえ、奥へ奥へと手探りで這って進んでいる間に意識を失ってしまった。気づいたのが何時間後か、何日たったのかわからなかった。あたりを見回すと今まで壕の入り口を被うていたソテツやツタ、アダン等は全部砲弾で焼き払われて禿げ、岩肌が大きな口を開け、風通しのよくなった岩の上に仰向けに倒れていた私の顔に明るい太陽がまぶしくそそいでいた。
左横を見ると、どこから入手されたのか、防毒マスクをした婦長が倒れていた。マスクの間や下腹部あたりから蛆がはいまわっているのを、ただボーッと見つめているだけだった。
沖縄の六月は小満芒種といって、無風の暑さはすさまじいほどきびしいものであるが、特に空気の全く動かない壕の中の高温多湿は想像以上で、戦死した者や生きていても負傷した傷口は腐るのが早く、死臭がわかるのか、どこから来るのか蛆がすぐはいまわってきた。
気がつくと私も左足首をねんざして立てなくなっていた。戦場での足の負傷は死を覚悟しなければいけない。皆に迷惑はかけられないと思い、婦長の傍に横になった。野原秀子看護婦が私の横で不安そうに見守ってくれていた。しばらく横になっていたが、ふと、母が疎開で別れる際に「お前一人残して行くのがつらい」と言った言葉を思い出し、「どうせ死ぬなら外の新しい空気を吸ってから死のう」と夜になるのを待ち、野原看護婦のすきをみて、重い足を引きずりながら梯子を昇り始めた。手摺は星明かりで雪のように白い。目の錯覚だと思い触ると、それは蛆であった。梯子の途中で戦死していた通信兵の屍体から湧き出たものとわかった。
その横を通り、出口に近づくと、そこには老婆の足が木の根から岩に引っかかり壕の中に逆さにつり下がっていた。死体の長い白髪より髪の毛か蛆かが落ちていくのを見ながら出口に出た。そのとたん待ち構えていたらしく機銃で右大腿部を撃たれたため、完全に歩けなくなってしまった。でも壕の後方の崖を這って降り、キビ畑の傍の溜水を腹一杯のんでキビ畑の中に隠れて、照明弾のあがるのをみながら散発的に聞こえる砲弾の音でうとうとし始めた。
捕虜となる
夜が明けた。いきなり初めて見る赤い顔の敵兵が目前に立っていた。敵兵は負傷していることを知って治療しようとしたが断って座り続けた。間もなくトラックに他の住民と共に乗せられ、名城ビーチか瀬長の砂浜かよくわからない所へ降ろされた。(以下省略)

故具志八重さんは、この墓所の一角に安置され永久の眠りにつきました。
具志さんは、かけ替えのない青春時代沖縄戦従軍という過酷な運命に直面しました。しかしながら、銃撃され負傷しながらも生き抜きまして、戦後は体験記の執筆、平和学習への関与、遺骨収集奉仕活動に精力的に参加されました。特に看護婦としての知識と経験を活かして、地元の健康福祉増進に尽力され関係者から高く評価されていると聞いております。
改めてご冥福を心よりお祈り申し上げます。 m(_ _)m

平成16年2月15日 第31回金光教沖縄遺骨収集奉仕参加時に、故具志八重さんと妻とで撮影。具志さんはこの時86歳でした。この頃はまだとてもお元気でしたね。
今でも憶えていますが、この時は思いの外、具志さんと妻との会話が弾み、二人で長く話をしていたのが印象的でした。私が毎年のように遺骨収集から帰っては具志さんの話を妻に語り聞かせていた事の影響もあり、今回妻は初めて遺骨収集奉仕活動に参加しましたが、具志さんとお会いするのを楽しみにしていた事は間違いありません。妻の具志さんに関わる知識的裏付けが会話を盛り上げた一因であると思います。
翌日具志さんにお目にかかった時には、具志さんの著書である「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」を、妻に署名入りでプレゼントして下さいました。
「具志八重さん死去 沖縄陸軍病院で看護婦長 93歳」
【琉球新報社】平成23年3月8日
沖縄戦当時、沖縄陸軍病院の第3外科で看護婦長として負傷者の治療に当たった具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市出身。
告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷字仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で執り行われる。喪主は甥・石川悟(いしかわ・さとる)氏。具志さんは戦前から保健師として活動。戦後も生き残った看護師、保健師、助産師の有資格者に登録を呼び掛けたり、結核患者の療養環境の整備や、母親学級の開始など焼け野原になった沖縄の保健医療行政の基盤づくりに尽力。退職後は「沖縄いのちの電話」のボランティアとしても活動した。保健師活動の一方で、戦跡の案内や自らの戦争体験を語るなど平和活動を積極的に行った。
沖縄陸軍病院第3外科で軍医として働き、戦後、具志さんと一緒に生存者の証言を集め出版した長田紀春さん(90)=那覇市=は「医療者としてたくさんの犠牲者を見てきたという戦争体験が、戦後の活動、平和運動につながっていた。長い間のご尽力に感謝したい」と話した。
県看護協会の奥平登美子会長は「看護職の育成に貢献し、離島などの駐在保健師の基礎づくりをした。温厚で誠実、統率力に優れた人で、一貫して住民の側に立ち健康福祉に尽力した人だと聞いている。ご冥福をお祈りしたい」と述べた。
「[訃報]具志八重さん死去 米軍のガス弾投下証言 93歳」
【沖縄タイムス】平成23年3月8日
沖縄戦で旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務め、戦後、戦争体験の証言などに尽力した具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市東町出身。
自宅は那覇市小禄4の7の20。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で。喪主はおい悟(さとる)氏。1933年に県立第二高等女学校を卒業。45年、沖縄戦に動員され、旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務めた。77年保健婦を退職。戦跡の案内や戦時中に第三外科壕(糸満市伊原)で米軍によるガス弾投下の被害に遭ったことなどを証言した。
82年、国連で開かれた軍縮特別総会に参加。92年には長田紀春さんと共に「閃光(せんこう)の中で―沖縄陸軍病院の証言」(ニライ社)を編集した。

【過去記事】
「沖縄戦の悲惨さを語り続ける 具志八重さん」
【朝日新聞】平成14年6月24日
初めて出会った人に必ず渡すものがある。デイゴの花のコサージュだ。沖縄の県花。赤紅色の小さな花に反戦の思いを込めて自分で作ったものだ。毎年、県内外の人がそれを胸に戦跡を訪れる。
ひめゆり学徒隊などがいた避難壕、沖縄陸軍病院第三外科壕からの生き残りである。看護婦長だった。45年6月19日。米軍は壕に毒ガス弾を投下。生き残ったのは看護婦25人のうち6人、学徒隊51人中5人だけ。自らも太ももを打ち抜かれた。戦後は保健婦を務めた。退職後の82年、国連で開かれた軍縮特別総会に参加し、転機を迎える。被爆地・広島、長崎は語られたが、沖縄のことは、知る人も話す人も少なかった。生き残った自分が語らなくては、との思いから戦跡の案内を始める。証言を集め、記録も出版した。いまも、痛む足を引きずりながら、反戦集会に出て、平和学習会で体験を語る。本土復帰30年。広大な米軍基地は依然残り、戦争は繰り返されている。唐突な有事法制論議にも心が痛む。「戦争を知らない人たちに、裸になってでも(傷を)見せてあげたい」
十数年前、同じ壕にいた女性に出会った。壕で三人の子を亡くした女性は毎年6月19日に壕に来ていた。「なぜ一緒に死ねなかったのか」。互いに自分を責めながら生きてきた。女性が亡くなる前、「命ある限り、あなたの代わりにお参りする」と誓った。
「慰霊の日」の23日、今年も無名戦没者をまつる「魂魄の塔」で静かに平和を祈った。(文・写真 大久保真紀)
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