星の声は聞こえなくても
じゅう、きゅう、はち、なな…。
テレビから楽しそうなカウントダウンが響く。
さん、にい、…、ハッピーニューイヤー!!
「………」
ルキアはこの年の始まりを黒崎家のリビングで一人迎えることになってしまったことに、大きな溜息をついて目をきつく閉じた。
胸に抱いていたクッションごと背を後ろに倒すと、ぼすんとソファが受け止める。いっそこのまま眠ってしまえたらと思うのに、こういう時に限って睡魔はどこか遠い星の彼方に旅立ってしまって見当たらない。
テレビには、アナウンサーとお笑い芸人たちが新年を迎えた喜びを満面の笑みと歓声で伝えている様が映し出されている。
テレビから聴こえる音が明るければ明るいほど、ルキアは自分が今一人であるのだということを思い知らされた。
どうしてルキアがよそ様の家で一人で正月を新年を迎えなければならなかったかというと、夏梨と遊子は年越しそばを食すときに麦茶と間違えて呑んでしまったビールのせいで十二時を待たずに眠り込んでしまい、一心は「先生の芸がないと始まらならないよ」との誘いを断れずに町内会の新年会に行ってしまって、そして一護はというと…。
ルキアはテーブルの上の二つ折りにされたルーズリーフを指先で挟み取った。かさり、と乾いた音を立ててルーズリーフを開く。そこに書かれたのは、見慣れすぎた文字。上手いとは言えなくても、どこか潔い右上がりの八つの文字。
「大嘘吐きめ」
ルーズリーフに書かれた”今年中には帰る。”に目を走らせて、ルキアはぽつりと悪声を零した。
一護が行方知れずになったのは、終業式の夜だった。
ルキアに宛がわれた部屋の机の上に例の走り書きだけを残して、忽然と消えてしまった。
書置きもあることだし、またチャドも長く家を空けると家人に伝えているらしいことから恐らくは二人で行動を共にしているだろうという推察から、捜索願いは出されなかった。
男はこんくらいやんちゃするもんさ、と一心は煙草を吸った。
男ってメンドい、と夏梨は一刀両断した。
遊子は「お兄ちゃんは嘘つかないもん」と少し不安そうに、それでも笑った。
ルキアはといえば、どうしようか、と途方に暮れた。
どうやって一護の帰りを待とうかと、途方に暮れたのだ。
当たり前ではあるけれど、一心のようにも、夏梨のようにも、遊子のようにも、ルキアは一護を待てない。
彼らの中にある一護への蓄積されてきた信用が(あるいは信頼が)ルキアには備わっていないのだ。
一護を信じていないわけではない。
むしろ信用と信頼にたる背中を、瞳を、ルキアは幾度となく見てきた。
それでも、走り書きを読んだ瞬間にルキアの中に浮かんだのは、もう二度と帰ってはこないのではないか、という何処か恐怖めいた感情だった。
もう二度と会えないのではないだろうかと、考えた。
クッションに顔を埋める。
部屋の明かりが、何故か今は辛かった。
ルキアと一護を別つものは、死だけではない。
互いに生きていようとも、世界が、そしてその理が、二人を別つ。
別つ日が、いつか必ずやって来る。
それは今日であるかもしれない。
けれど、今ここに、一護はいない。
それがとても…とても、悲しい。
一護と別たれなければいかないことは、とても悲しい。
見ない振りをし続けていた感情を真っ直ぐに見据えてしまえば、心臓がズキズキと悲鳴を上げた。
何時の間にこんな感情を抱くようになったのだろう。
不意に結ばれた視線に、偶然に重なった指先に、思いもかけずぶつかった肩に、心がざわりと騒ぐようになったのは、いつだった?
愚直な瞳に、陽に透けるとキラキラ光る髪に、美声とは言いがたいけれど良く通る声に、安堵するようになったのは?
その感情に名前を付けられぬことがもどかしく思うようになったのは、いつだったのだろう。
………落ち着こう、とルキアは深呼吸した。
(少し頭を冷やしたほうがいい)
考えても詮無いことを考えているという自覚が、ルキアには辛うじてあった。
考えても始まらないし、考えても考えても答えが見つかることは永遠にない問いだ。
そして答えを見つけてはいけない問いであると、ルキアは解っている。
(解っている)
自分に言い聞かせるように、それから三度繰り返した。
ルキアはクッションを手放すと、テレビは付けっぱなしのまま、マフラーもコートも手袋も身につけず、靴だけ履いて玄関を出た。
ドアを開けた瞬間に澄んで冷えた空気がぶわりと全身を包んだのに身震いする。これなら早く頭も冷えそうだと零した安堵の息は、白く染まって夜に溶けた。
空を見上げれば、星が点々と光っている。よくよく見れば、その点はひとつひとつ形が違っていて、明るさだってそれぞれであることが解る。
この世界の空は遠いと、ルキアは思う。尸魂界の星はもっと近くで輝いている。
今はもう何も考えまいとした矢先に考え事をしている自分に呆れて、散歩でもして来ようかと、往来に一歩を踏み出した。
「げ」
そこだけやけに濃い影を踏みしめた途端、うめき声が耳に飛び込んでルキアは驚いた。
しかしその声はルキアの真下からではなく左の方から聞こえたような気がして、ルキアは視線をそちらに向けた。
向けた先には、オレンジ色が見えた。
バツが悪そうにしかめっ面をした、いつしか見慣れた顔があった。
「………そんなところで、何をしておるのだ?」
やけにゆっくりと、ルキアは問いかけた。抑揚の無い声だった。突然の一護の発見に頭がついていかない。感情は、真っ白になっていた。
一護はアスファルトに座り門柱に寄りかかった格好でルキアを見上げている。その隣には黒の旅行鞄がでんと置いてあって、その上には紙袋が三つ乗せられていた。
そんな風に観察は出来るくせに、ルキアの心は未だに一ミリも動かない。胸の痛みは、どこかへ行ってしまっていた。
一護は沈黙を守っている。叱られた子どもみたいに引き結ばれた唇は、いつまでも解けそうに無い。
「そんなところで座っていないで、家に入れば良いではないか」
いつから此処に座っているのだろう。立てられた膝の上で組まれた手は、酷く冷たそうに見えた。
「………ここに着いたのが、十二時三分だったんだよ」
だから、とルキアは心の中でだけ続きを急かした。
「約束破っちまったから、どの面下げて帰ろうかと…」
言い訳を考え付くまでは悪さを黙っていようと浅はかに企む子どもが、そこに居た。
「………」
ルキアは無言で一護との一歩の距離を縮めた。
無防備に見上げる一護に向けてルキアが差し出したのは労わりの声でも華奢な手でもなく。
スニーカーの靴底だった。
「痛ぇ!」
靴跡がついた右肩を押さえる一護には構わずに、げしげしげし、とルキアは立て続けに一護を蹴った(正確には踏みつけた)。
「だっ、てめ、何すんだコラ!!」
巻き舌気味にキレながら攻撃を繰り返すルキアの足を一護は片手で捉えた。
足が使えなくなったと悟った途端、ルキアは体を不自然に折り曲げて拳を振り上げる。
一護は慌てて捉えた足首を離し、襲い来る拳を掌で包みこんだ。
「お前な!」
1週間しか離れていなかったとは言え久し振りに再会した人間に攻撃を仕掛けてくるとは何事だ、大体その風邪引きたがってるみてーな薄着は何だ、と説教をしようとした一護の唇は、しかしその役目を果たさずに閉じられた。
下から覗き込むようになった視線の先、ルキアの漆黒の瞳が、泣き出す寸前みたいにゆらゆら揺れていたからだ。
「どうした?」
捕まえていたルキアの手を引くようにすると、ルキアは素直に一護の隣に座り込んだ。
「貴様は!」
叫んだ瞬間に、ぼろり、とゆらめきが零れた。
「そんなたった三分きり約束を破ったくらいで…」
テレビの中でアナウンサーとお笑い芸人たちが騒いでいる間に、一護はここに居た。
その間、一護はここに居ないと、ルキアはクッションに顔を埋めていた。
わなわなと肩が震える。目の前が赤く染まる。
胸が痛い。
痛くて痛くて張り裂けそうだ。
「待っておったのだぞ!」
ルキアは叫んだ。ぼすん、と一護の左肩を叩いて。
「待っておったのだ!」
涙に濡れた頬は一月の風に晒されて急速に冷えていく。
「待って…」
待っていた。
もう会えないかもしれないと待っていた。
もう会えないかもしれないのに、待っていた。
会えないかも、しれないのに。
声が喉に蟠って言葉が失われる。ルキアに残された感情の出口は、あとはもう泣くことだけだった。いや、言葉が失われずとも、ルキアには泣くことしか出来なかった。
今のこの感情を表現する言葉を、ルキアは知らない。
知らないものは伝えられない。
一週間分の感情が溢れ出す。唇を噛んで意味を成さない言葉を殺すと、ますます涙が止まらなくなった。
「………わりぃ」
後頭部が柔らかく包まれて、その力に逆らうことなく額を一護の鎖骨の辺りにくっつける。一度頭突くように首を前後させたけれど、一護は怒らなかった。
「わるかった」
ルキアの肩に回された右腕が、ルキアを丁寧に引き寄せる。
「わるかった」
そのままぎゅうっと抱きしめられて、ルキアは一護のジャケットの胸の辺りを指先で掴んだ。
一護の温もりから、何かがじんわりと伝わってくる。伝わってくるけれど、ルキアには”何か”が解らない。
ルキアの指先の強さから、一護に向けて何かが伝えられている。しかしその何かを、一護は知らない。
それでも、伝えられる二つの感情は、確かに繋がっていた。
言葉は無く無知であっても。
その瞬間確かに、しっかりとした容でもって、一護とルキアの心は繋がっていたのだ。
お互いすっかり冷えてしまった体はゆるく固まっていて動かすのが億劫なくらいだった。ルキアにいたっては、目や喉も痛くて仕方が無い。
これはお前への土産、と紙袋の一つを渡された。中を覗き込むと、あんみつの文字が見えて、現金にもルキアのテンションは上がった。けれど表面上ではまだ怒っているポーズを崩したくなかったので「貰ってやろう」とふんぞり返って見せる。いつもなら「返せ」くらい言いそうな一護だけれど、今日ばかりは何も言わなかった。
この一週間あまり何処へ行っていたのか、何をしていたのかは、家の中で温まりながらじっくり聞くことにした。
夏梨と遊子を起こさないようにとそっと玄関を開けて中に入る。
「ただいま」
靴を脱ぐ前に、律儀に一護が挨拶をする。
「おか…」
対になる言葉を言いかけて、ルキアは口を噤んだ。
この言葉を自分が口にするのは、良く考えて見れば可笑しいような気がしたのだ。
此処は、一護の家ではあってもルキアの家ではない。
なのに「おかえり」という資格が、自分にあるのだろうか。
「お前、またしょうもねーこと考えてんだろ」
「ま、またとはなんだ」
「またで合ってんだろ。それとも”いつも”のほうが良かったか?」
さっきまでの殊勝な態度は何処へやら。急に復活を果たした一護に怒りを再燃させつつ、ルキアは今考えていたことを語る。
一護は一瞬ぽかんとした表情をしたあと、眉間に皺を寄せ、次には呆れた顔をし、最後に深い深い溜息をついた。
「ここはお前ん家だろ」
「だが…」
「今の聞いたら、遊子と夏梨と、ついでに親父も悲しむぞ」
ルキアの頭に手を置いて、軽くシェイクするように前後左右に揺さぶる一護の顔は、問題児を前にした教師のようだった。
「もう家族みてーなもんだろ」
ぼそりと、聞こえるか聞こえないかの声量で、一護は呟いた。
「………おかえり」
恐る恐る、ルキアは夜を揺らした。
怖いような気持ちと、申し訳ないような気持ちと。
それから、滲み出るような嬉しさを持って。
「ただいま」
ルキアの頭をくしゃりと撫でて、一護が煌々と明かりのついたソファに座る。テレビの中では、芸能人たちが楽しそうに騒いでいる。
冷えた体を温めるためにコーヒーでも入れようかと台所へ足を向けると、「あと」と一護が声を投げた。ルキアは振り返る。ソファから形のいい後頭部が覗いている。
「うん?」
「あけましておめでとう」
ルキアは同じ言葉を一護へ返した。
「今年もよろしく」
絡んだ視線を逸らさずに、あぁ、とルキアは頷いた。
目の淵が引きつって、それでようやくルキアは自分が笑っていることに気が付いた。
一週間ぶりの笑顔だった。
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<コメント>
偉大なる【空色郵便】様の2007年の年賀企画の一つです。イチルキ以外に日雛と恋次×乱菊がありました。日雛の方は例の『甘心こめて』です。もう一作は当サイトの推奨CPではないので、今回は遠慮させていただきました。というか、二つ持って帰っただけでも恐れ多いですよ、自分!
そんな訳でお話についての感想。零時に数分遅れた程度で意地を張って家に入れなかった一護が青くてお馬鹿で何か可愛いな〜と思います。でもルキアさんを不安にさせたのは駄目だぞ!(所詮水無月はルキアスキー)
因みに管理人の仁志さん曰く、この二人まだ付き合っていないらしいです。『無自覚両思い、無自覚バカップル万歳。というか、恋人すっ飛ばしてもう家族になってる』とのこと。まるで某漫画の将来の約束をすっ飛ばして生涯の約束をしてしまった某二人のようです。あの漫画も初めはコンビ要素が強かったんですよね〜(笑)
*なお後書き&DLFに関する記述は便宜上省略させていただきましたので悪しからず。
2007/07/15 UP(取得は2007/01/19)