「―――――キ様、ロキ様。起きてください。もう朝ですよ。」
誰かが優しく自分を揺り起こそうとしていた。ロキは己の名前を呼ぶ声に少しずつまどろみの中から
浮上をしていく。一体誰の声だろう。闇野の声にしては高く、まるで女性のようだ。ひょっとしたらま
ゆらがやってきたのだろうか。けれども彼女は己のことを様付けでは呼ばない。ぼんやりとそんなこと
をロキは考える。寝起きのせいか普段は明晰な頭脳も上手く働いていないようだ。
(誰だろう・・・でもどこかで聞いたことがある気がする・・・・・・。)
そしていつまでも聞いていたいような、そんな響を持つ声だった。
「ロキ様、今日はオーディン様とお約束があるとおっしゃっていませんでしたか?」
ロキを起こそうとしている人物がやんわりと告げる。
(へえ、今日は僕、オーディンと何か約束していたんだ・・・て、オーディン!?)
有り得ない名前を出されて、ロキはガバリと飛び起きた。
(人間界堕とされたはずなのに何でオーディンと約束なんてできるのさ!?)
そんな思考がロキの脳裏に浮かぶ。
「おはようございます、ロキ様。」
そして彼は先程から己に呼びかけていた人物に目を向けた。それは反射的なものだった。けれどもロキ
は視界に映った相手を認識した途端、息を呑むことになる。
「ごめんなさい。本当は休ませてあげたかったのですが、夕べロキ様自身が時間厳守だとおっしゃって
いましたので・・・。」
ロキの目の前の女性は申し訳なさそうにそう言った。俯いたことでサラリと伸びた銀色の髪が彼女の肩
から落ちる。髪に隠れて彼女の表情が見えなくなる。けれどもロキには彼女がどんな顔をしているのか
が分かった。かつて何度もこういったことがあったのだ。そしていつも瞳に優しい色を浮かべて困った
ような顔をする。
「何で・・・。」
続く言葉は声にならなかった。ロキは呆然と彼女を見つめる。信じられなかった。彼女がこの場にいる
ことが。自分の前に立っていることが。何故なら彼女は己が人間界へ堕とされるより大分前に彼の元か
ら姿を消していたのだから。自分達の子供を兄夫婦に預けて。
(これは夢なのか・・・?)
夢としか思えなかった。彼女がいて、オーディンの名前を口にする。きっとこれは自分が神界にいた
頃の夢なのだろう。ロキはそう思った。一体いつの頃の夢なのだろう。子供達はいるのだろうか。それ
とももっと前の夢なのだろうか。
「あの・・・ロキ、様?」
ロキが何も言わないことが気になったのか、恐る恐るという感じで彼女は視線を上げる。
「いや、何でもないよ。おはよう、シギュン。」
ベッドの脇に佇む彼女・・・即ちロキの妻であるシギュンに触れようとそっと手を伸ばす。するとロキ
の手が彼女の頬に触れるか触れないかと位置で、彼女の身体がビクンと震えた。まるで怯えているかの
ように。
「シギュン・・・?」
「い、いいえ!何でもありません。本当に・・・何も・・・・・・。」
いぶかしむように彼女の名を呼ぶロキ。シギュンは否定するが、彼から目を逸らしまた俯いてしまう。
気まずい空気が部屋を流れた。
(ああ、そうか・・・。この頃の僕らはまだ・・・・・・。)
シギュンの態度からロキはお互いのギクシャクした関係をおぼろげに悟る。苦い想いがロキの胸に込み
上げてきた。恐らく夢の中の自分達はまだ夫婦として心を通じ合わせていなかった頃のものだろう。所
詮は政略結婚だからとお互いの気持ちを考えようとしなかった時期だ。歩み寄ろうとすら思っていなか
ったかもしれない。
(いや、ほとんどの場合シギュンは僕を立てていたから彼女は僕に気を使ってくれていたはずだ。けれ
ど、心を開いてはくれなかった・・・。)
かつてのロキは彼女の気遣いにすら気づきもしなかった。彼女が与えてくれた慈愛に満ちた労わりも当
然のことの如く思っていた。さり気ない優しさでいつも支えてくれたのに、控えめな彼女は見返りを求
めることすらなかった。それは無償の愛といっても過言ではなかったのである。
(まあ、あの頃の君にした僕の仕打ちを思えば当然か・・・。むしろ気遣いを見せてくれることが有り
難いくらいだしね。見捨てられてもおかしくないはずだったよな。)
仲人がオーディンだっただけに離婚はできないが、仮面夫婦になってもおかしくない状況だったはずで
ある。それなのにシギュンはロキの傍にい続けた。穏やかな微笑みと共に傍にいた。彼に触れられるこ
とに抵抗感があるようだったが、ロキが気づかない控えめな気遣いを発揮し、彼の世話をこなしていた
ように思える。
(どうしてシギュンは僕を嫌わなかったんだろう・・・。)
結婚式が初対面で、評判は賛否両論の男に嫁がされて。夫はプレイボーイと噂される相手で。嫌がられ
たとしてもおかしくない。結婚してしばらくはオーディンの手前大人しくしていたけれど、やがて他の
女と浮気するようになった不誠実な相手である。彼女に恨まれても憎まれてもおかしくないはずなのに
それでも彼女は優しかった。
(トールは何か知ってる感じだったな・・・。)
記憶を辿るとそう考えられるような言動が確かにあった。初めは単なる政略結婚の相手で、容姿は美し
いから醜女と結婚するよりはマシだろうという程度の印象だった。そして仮にも主神の娘であるから、
オーディンの手前、彼にしては珍しく気を使った。夜の生活で無理強いはしなかったし、甘い言葉で口
説くこともあった。戯れにシギュンの心を落としてみるのも面白いと思っていた。その程度の感情でし
かなかったというのに・・・。
「・・・君は本当は僕をどう思っていたんだい?」
「え?」
「いや、何でもないさ。それよりオーディンとの約束だったね。すぐ起きて支度するよ。」
「はい。では私はこれで・・・。」
シギュンは綺麗に礼をしてロキの寝室を後にする。彼はそれをどこか切なげな瞳で見送った。いつか
らだろう、彼女に好意的な感情を抱くようになったのは。女として、妻としては面白くないけれど、彼
女は意外と読書家で努力家であることを知ってから少しずつ興味を持った。さらにルーンについての造
詣が思ったより深く、彼女の斬新な意見は新しい魔法の開発への参考となることさえあった。そのせい
か、学問や知識について話し合うことが楽しいと思うようになった。教師と生徒のような遣り取りもあ
り、男女として上手くいかなくとも友人のように親しくなれたらいいかもしれないと思ったこともあっ
たのだ。
「今の僕なら君をもっと大切にできる自信があるのに・・・。」
ポツリとロキが呟く。後悔しても遅いとは分かっていたが、胸に刺さる痛みは消えなかった。ロキの心
情を汲み取ることは上手かったのに彼の内面に決して踏み込んでこようとしないシギュン。その代わり
に彼女がロキに対して心を開くこともない。結婚させられたから仕方なく戯れの恋の相手として彼女を
仕立てようと思っていたのに、いつの間にか彼女の傍にいることが心地よくなっている自分がいた。や
がてロキは単なる勉強仲間ではなく友人以上にシギュンのことが好きになっていた。そして彼女の心を
自分に対して開かせたいと思うようになった。
(君にヤキモチを妬かせたくてわざと他の女性の元に通ったこともあったね・・・。)
けれども彼女の様子に変化がなくて、その内自棄になってますます遊び回るようになった。
「今考えると本当僕って馬鹿だったよね。」
挙句の果てにロキの正妻という立場であるシギュンに嫉妬した女神によって彼女は瀕死の重傷を負わさ
れてしまった。その時のロキは親友にして悪友でもあるトールに説得されてシギュンとの関係をやり直
そうと思い始めた矢先だけにショックは大きかった。
(僕は君に好きになって貰いたかっただけなのに・・・。)
あの頃のシギュンはロキに対して優しさと慈しみを向けてくれたけれど、恋情に基づく気持ちを持って
くれていたのかは分からなかった。何故なら彼女はロキに対して愛の言葉を与えてくれなかったし、そ
ういった態度も示してくれなかった。恐らく結婚式の誓いの言葉くらいではないだろうか。彼女の唇が
形だけでもロキに対しての愛の言葉を紡いだのは。
「だからこそあの頃の僕は、君の恋も愛も手に入れたかったんだ。感情のままに僕を求める君が見たか
った。僕も君を今度こそ愛していけると思っていたのに・・・。」
ロキはシギュンを大切にしたかった。与えれた優しさや慈しみに初めて誠実に応えたいと思った。けれ
ども、伝え方が分からなくて彼は方法を誤った。その結果、彼女を失いかけた。
「あはは・・・忘れてたよ。僕が初めて味わった喪失の痛みはヘルじゃなくてシギュンだったじゃない
か・・・・・・!」
正確には失いかけた痛みであったけれど。ロキは自嘲の笑みを浮べる。今のロキにとってシギュンは複
雑な感情を抱いていた相手だったから尚更に心が掻き乱された。
「あの頃の君のせいで・・・僕は今でもこんなに胸が痛いよ、シギュン。」
(例えこれが夢だと分かっていても・・・。)
今は遠い彼女と過ごした日々を想い、ロキは隠すこともできずに嘆息した。