02:胸が苦しい
〜die Liebelei・2〜






 家の中に差し込む日の光は優しく、窓の外には美しい緑。常春の気候は楽園の象徴。ここは北欧神話 の神々が住まう地、アースガルド。ロキは神界にいた頃の夢を見ていた。彼の視界に存在しているのは 一人の女性。彼女はロキの妻であるシギュン。女というよりは娘と呼んだ方が相応しい、華奢な身体と [かんばせ]の持ち主である。伸ばした銀の髪 は絹糸のように艶やかで美しかった。彼女は美しいと今なら素直に思う。澄んだ小さな泉とでもいうの だろうか。透明な美しさだ。けれども儚い印象も受ける。外から圧力が加われば泉自体が破壊されてし まうような・・・。
(さっきのシギュンの態度からして・・・大分昔なんだろうな。少なくとも子供達が産まれる前なのは 間違いなさそうだ。)
テーブルに準備された食器からもそれが窺える。本来ロキとシギュンの間には二人子供がいるのだが、 食器の数から推測するに朝食の量は二人分。つまり子供達の分はないということ。
(トールの所に泊まりに行った可能性もあるけど、子供ができた後はそれなりにシギュンとの関係は改 善されたはずだから、多分違うし。)
ロキは夢の中で目覚めた後、自分が置かれた状況を分析していた。恐らくはかなり昔の時期を舞台にし た夢を見ているのだろう。人間界に落とされるよりもずっと前。シギュンとの子供である二人の兄弟、 ナリとナルヴィも産まれていなかった頃だろう。
(あの頃は錯覚かもしれないけど、幸せだったな・・・。子育ては大変だったけど、シギュンと心が通 じ合ってると思ってたしね。)
主神であるオーディンの命令で結婚することになった時は相手の心など気に留めてもいなかったという のに。戯れに彼女を己に恋させて暇つぶしにしようとすら思ったこともあったのに。いつしかロキの方 が彼女に恋し、愛を求めるようになっていた。ある意味ミイラ取りがミイラになったとも言える。彼女 がロキの周囲にいた他の女性とちょっと違っていたこともあるのだろうけれど。
「あの・・・ロキ様?お支度ができましたので、こちらに・・・。」
 いつの間にかロキが寝室から出てきていたことに気づいたシギュンが彼にそっと話しかける。彼女は の声の響はどこまでも優しい。食事のメニューもお茶の温かさも、彼女の控えめな優しさに満ちていた のに、当時のロキはそのことに気づかなかった。今思えば己の傲慢さを呪いたくなるくらいである。そ うだというのにあの頃のシギュンは微笑を絶やさなかった。
「ありがとう、シギュン。」
「いえ・・・。」
ロキが礼を述べて微笑めば、シギュンの瞳の光が少しだけ輝きを増す。それにこっそり彼は安堵した。 今の彼なら彼女のこうした些細な変化に多少なりとも気づくことができる。本当は花のようにふんわり とした笑みを浮かべる彼女が見たかったが、この時期の自分達では無理だろうということもロキには分 かっていた。
(確かこの頃の僕達だと・・・二人とも黙って食べているか僕の話をシギュンが聞く形が食事の席では 大抵だったよね。)
恐らく傍目には静かで地味な食事模様だっただろう。話題を振るのはほとんどロキでシギュンは滅多に 自分から口を挟むような真似をしなかった。彼女と他愛の無い会話ができるようになったのはもっとず っと後のことになる。
(さて、どうやって話を展開させていくべきか・・・。)
ロキは密かに考える。起こしに来たシギュンの言葉によれば、今日はオーディンと会う約束があるらし い。シギュンはオーディンの娘だった。実の娘なのかはロキは知らない。単なる養子という噂もあるし 隠し子という説もあった。けれども彼女は確かにオーディンの“娘”なのだろうと思う。オーディンは 彼女に目をかけていた。オーディンの息子で、ロキの悪友であるトールとも仲が良い。事実トールは彼 女を妹として扱っていた。ロキの目から見てもあの二人は兄と妹であると感じる。こうした接点もある ので、シギュンとの話題に上がるのは昔からオーディンやトールに関することが多かった。
(むしろこの頃はそれくらいしかまともに話せる話題がなかったというか・・・。)
いろいろな意味で反省点の多い当時のロキである。夢の中とはいえ、思い返した己の過去につい遠い目 をしてしまいたくなった。
「ロキ様?」
「いや、何でもないよ。」
不思議そうにしているシギュンにまた微笑んで、ロキは己の前に広がる食卓へと視線を落とす。テーブ ルの上の料理は食欲をそそる香を漂わせていた。随分と過去の記憶で形成された夢であろうに、どうし て妙にリアルな感覚を伴っているのだろう。そんな思考がロキの脳裏を掠める。
(まずは彼女からどうにか今日の予定と世の中の近況を聞き出さないと身動きが取れなくなりそうだし ね・・・いや、夢の中なんだけどさ。)
自分で自分についツッコミを入れてしまうロキ。夢とはいえ、厄介事には巻き込まれたくなかった。い や、神界ではどちらかといえば自分から騒動を起こしていたような気もするけれど。
(どうせ夢に出てくるならもっと後の時期にしてくれればいいのに・・・そうすればシギュンだっても っと僕に打ち解けてくれてさ、いろいろと楽しいこともできたのに。)
あくまでロキの認識になるが、子供ができる前後辺りの時期の彼女はそれはもう可愛らしい反応を示し てくれたものである。ロキの口説き文句に頬を染めて照れていた様子はその気がなくともいろいろイタ したくなる威力があった。まさに蜜月。ある意味幸せの絶頂であったと言えよう。
(それともずっと後・・・彼女が姿を消す前だったら、どうして彼女がいなくなってしまったのか分か ったかな?)
自分は散々今まで好き勝手に過ごし、彼女に迷惑をかけてきたというのに、彼女が何も言わずに姿を消 したことが酷くショックだった。当時はしばらく家に帰っていなかったし、いろいろあって他に女神と 噂になったことも確かだったが、まさか失踪するとは思ってもみなかった。息子達はトールの家に預け られ、ナリからはお前のせいだと罵られた。
(というか、どうもナリだけはシギュンがいなくなった理由聞いているみたいだったんだよね・・・。 梃子でも教えてくれなかったけど。)
ただ、ナリとトールからは、シギュンがけしてロキを嫌って家を出た訳ではないと言っていた。けれど も神界のプレイボーイとまで言われた邪神ロキともあろう者が妻に逃げられたなんていう事実が彼のプ ライドを傷つけ、その言葉に素直に頷くことができなかった。彼自身が元々天邪鬼な性質を持ち合わせ ていることもあるだろう。ついでに彼女が何もかも事情を隠して姿を消したショックもあった。
(この僕が女に振られるなんてね・・・。)
しかも遊びのつもりが遊びじゃなくなって本気になってしまった相手だけにショックは倍増だ。また今 でこそ落ち着いて回想しているが、当時のロキはかなり大荒れだったことはここに記しておく。
(あの後、必死に探したけど結局シギュンは見つからなかった。オーディンやヘイムダルにまで捜索を 頼んだって言うのに・・・。)
結果として分かったのは、彼女がアースガルドにはすでにいないだろうということだけだった。
(シギュンとオーディン達がグルになってたら違うかもしれないけど・・・。)
何せシギュンはオーディンの愛娘。ロキと結婚してからも時折父と食事をする仲。後で知ったが、ロキ が家を明けている際には、結構頻繁に宮殿へと招いていたらしい。やましい想いがないとは思っていて も勘繰ってしまいたくなるのは神話世界の倫理観。父と娘の倒錯入った妄想はさておき、シギュンが何 か理由があってロキの前から姿を消し、それにオーディンが一枚噛んでいる可能性はなきにしもあらず ということだ。最高神の援助を受けての逃亡生活ならさぞかし成功間違いなしだろう。
「オーディンが僕を疎む理由にシギュンとのことがあったらちょっと嫌だな・・・。」
 妄想ついでに変な思考が働いてしまい、ちょっと黄昏てしまいたくなるロキ。すぐさま時間の経過の 関係で矛盾が生じるとその考えは否定したが。シギュンが失踪したのが原因ならオーディンももっと早 くアクションを起こしてくるに決まっている。
「・・・阿呆らし。」
「ロキ様・・・私がどうかなさいまいしたか?」
「うわ!?え、えと、何でもない!何でもないから。君は心配しないで、シギュン!」
「はぁ・・・ロキ様がそうおっしゃるのでしたら・・・・・・。」
いつの間にか思考している内容を無意識に口にしていたらしい。怪訝そうに尋ねるシギュンにロキは慌 てて何もないと否定した。夢だから未来のことを知っても問題ないかもしれないが、だからと言って、 将来十歳児レベルの身体で人間界で探偵やってますとは言えないだろう。
(だって、みっともないじゃないか。)
シギュンの性格上馬鹿にされることはないと思うが、知られたくないものは知られたくない。
(それに万が一知られたら見せてくれとか言い出しそうだし・・・後学のためにどんなルーンが使われ ているか知りたいとか言ってさ・・・・・・。)
この時期のシギュンならロキに遠慮して何も言わないかもしれないが、一緒にルーン談義した後の記憶 があるロキとしては危ない橋を渡りたくないという本音がある。ロキが自力で呪いを解除できていない ことを知ったら、ますます興味を持って研究したがるかもしれない。もちろんロキが本気で嫌がれば話 は別だが、彼女の勢いに押されて万が一承諾してしまったら目も当てられないだろう。しかも子供の姿 を見て可愛いとか言われでもしたら経込みかねない。一応まだ彼にも男としての見栄とかそういったも のが残っているのだ。そんなもん今更だよとか突っ込んではいけない。
「ねえ、シギュン。僕が僕じゃなくなったら、君はどうする?」
それでも試すように尋ねてみたくなるのが男心か。半ば無意識にそう口にする。深い意味はなく、ただ 何とはなしに口に出た言葉だった。神界を追放されて、子供の姿にさせられて、魔力も制限された現在 の自分。髪や瞳の色すら変化し、パッと見ただけでは己と気づかない相手もいるだろう。もし人間界で シギュンと再会するようなことがあっても、彼女はロキだと気づかないかもしれない。
(何か・・・痛いな。)
ロキはそう感じる。知りたい、知りたくない、矛盾した想い。果たして彼女は本当にロキのことを愛し てくれたのだろうか。子供達のことは愛していたと思う。ロキ自身に対して嫌悪するような態度も取っ ていなかった。けれどもそれは彼女の優しさで、他人を傷つけたくなかっただけで、本当は違った感情 を持ち合わせていたのかもしれない。
(君の真実が見えないんだ、シギュン・・・。)
どうして酷い目に合わせられた相手を許せるのだろう。何故不実を働いてばかりのロキを責めなかった のだろう。見返りを求めず誰かに尽くし、けれどもそれを明かそうとしない。彼女の控えめすぎる慈愛 の表し方は今の彼には切なさを伴い思い出される。
(どうして君は僕の前からいなくなった?僕達は愛し合っていたはずだよね・・・?)
胸の内に問いかけても、きっと目の前のシギュンに尋ねても分からない答え。彼女を失ったことが辛く て、ロキは結局彼女のことを忘れることでどうにか心を落ち着かせる道を選んだ。各地で騒動を起こし て、女神達の間を渡り歩いて、彼女への想いを封印した。シギュンが己を愛していなかったと思い、彼 女を憎むようになりたくなくて。
(今でもこんなに胸が苦しいんだ・・・やっぱり相当引きずっていたみたいだね。)
けれどもこうして夢の中で会ったシギュンに憎しみや恨みの感情が芽生えてこないのだから、彼女を忘 れて正解だったかもしれない。それはある意味ではとても哀しく空しいことなのだろうけれど・・・。 ただ、今のロキにはそう自分を言い聞かせるしかなかった。
(感情まで夢に引きずられてるのかもしれないな・・・。)
ふとロキはそう思う。忘れたはずのシギュンへの思慕。憎しみや恨みとは違うけれど、胸を焦がすよう に恋うた記憶まで蘇って、複雑な思いが心に宿る。彼女との思い出には哀しいことがないわけではない から。
(それに後悔するようなことも多かったし・・・。)
中でも大きいのが彼女に瀕死の重傷を負わせてしまったことと、彼女がいなくなってしまったことだろ う。本当に最初から愛し合い、夫婦として共にあり、互いを理解しあっていれば、あんなことは起きな かったかもしれない。
(今更言っても仕方ないんだけどさ・・・。)
胸の苦しみは消えないけれど、過去の恋の痛みはどうしようもなくて。
(もし、この気持ちをもったまま、本当にシギュンと再会したら・・・僕はどうするんだろう。)
ただの友人として親愛の情を示すことができるだろうか。彼女に恨み言や憎悪をぶつけてしまったりし ないだろうか。ロキには分からなかった。
(大丈夫・・・きっと目覚めたら、こんな気持ち、すぐ消えて忘れるさ。)
そしてシギュンと会うこともないだろう。そう、信じた――――――――――。



to be continued・・・






<後書き>
 実はロキとシギュンの子供については名前から数まで諸説あります。控えている設定の都合によりナ リ(兄)とナルヴィ(弟)にさせていただきましたが、魔ロキの単行本カバー下に載っていた家系図だ とヴァリとナルヴィだったりするんですよね。ただヴァリだとオーディンの息子に同じ名前があるらし く、個人的にややこしくなりそうだったのでナリ・ナルヴィでお願いします。
 そんなわけでリーベライ(片仮名発音)第二話ですが、ロキが絶好調後ろ向き。グダグダ悩んで思考 は堂々巡りというか袋小路に嵌っているというか・・・。本来書きたかった話のネタの都合もあるから 果たしてどこまで設定を暴露していいものやら・・・書いている本人も悩み所ですね。

2008/08/24 UP