03:時折見せるその顔が
〜die Liebelei・3〜






「美味しかったよ、ありがとう。」
「どういたしまして。」
 食事が終わって微笑めば、穏やかな微笑みが返ってくる。それを懐かしさが伴う胸の痛みと共にロキ は受け入れた。思い出した痛みは消えない。かつて彼女自身を忘れるまでに時を要したように。もっと も、こうして反応するくらいだから、完全に彼女への想いがなくなった訳ではないだろうけれど。ロキ は食器を片付けるシギュンの様子を何となく見つめていた。彼女との会話で大体だが今自分がいる時代 設定は理解できた。やはりシギュンと結婚してそれ程時間が経過していない時のようだ。まだ彼女との 心の距離が離れていた時代。彼女の存在をロキが軽んじていた頃のことである。
「・・・ねえ、シギュン。」
「何ですか、ロキ様。」
ロキが話しかけるとシギュンは食器を片付ける手を休めてこちらを向く。真っ直ぐにロキを見つめる彼 女に彼は胸が温かくなるのを覚えた。こうした些細なことにおいても彼女の態度はロキに対して誠実な のだ。声をかければ真摯な態度で応対してくれる。決していい加減な反応はしない。本当に律儀といっ て良いほどに。当時のロキの不誠実さからすれば、こうしたシギュンの対応は決して割に合うものでは なかっただろう。見返りを求めないその優しさは、まるで人々が信仰の対象に選ぶような聖女の如き慈 愛である。
(ああ、シギュンのこういう所、僕も好きだったなあ・・・。)
今だからこそロキには分かる気がした。彼女の兄であるトールがシギュンをとても可愛がる気持ちを。 彼女の父であるオーディンがよくシギュンを気にかける気持ちを。彼女は知れば知るほど、不思議と彼 女のことを大切にしたいと思わせられる娘だった。何故か惹きつけられて止まない。そんな魅力が彼女 にはある。だからこそロキはミイラ取りがミイラになるかのようにシギュンを自分に惚れさせようとし て自分が彼女のことを好きになってしまったのだ。けれども当時のロキはそのことに気づいていなかっ た。今更ながら己の愚かしさを苦々しく思う。
「今日、オーディンとの用が済んだら、二人でどこかにでかけないかい?」
「え・・・?」
複雑な想いを胸に抱えながら、ロキはシギュンに話しかけた。表面上は何でもない振りをして。当時の ロキならば、まず有り得ない提案だろう。余程の気まぐれか、あるいはトールやオーディンに諭されて 仕方なく誘うことがない訳ではなかったが、それですら珍しいくらいなのだ。当然受ける側は正直意外 もいい所だろう。実際声をかけられたシギュンは目を丸くしてキョトンとした顔をしている。けれども ロキはどうせこれが夢の中の出来事であるなら、少しくらい当時の自分と違う行動を取っても良いので はないかと考えていた。
(どうせ夢なんだしさ、何もかも昔の通りにしなくたっていいよね。)
どこか矛盾しているような気もするが、それに違和感を覚えないのもまた『夢』らしい所だろう。ロキ は己の思考のおかしさに気づくことなく、シギュンの様子を窺っていた。もしあの頃の彼女にロキが好 意的な言動を向けていたら、シギュンはどのような反応を示したのだろう。今のロキにシギュンに対す る悪意はない。彼女の心を弄ぼうとも思わないし、暇つぶしの相手にしようとも思っていない。どちら かと言えば彼女への善意に近かった。また、当時の己のあり方への反省もあるかもしれない。あの頃の ロキはシギュンに対して親切ではなかったという自覚があるのだ。客観的に見れば恩を仇で返すような 不誠実さだろう。彼女はずっとロキに対して誠実で優しかったというのに。後にお互い想い合うように なってからはロキも彼女を大切にしていたが、向こうに積み重ねがある分、シギュンに借りがあるよう な釣り合い状況だったのではないだろうか。
(過去の罪滅ぼしってわけでもないけどさ・・・できれば喜ばせたいじゃないか。)
シギュンがロキの前から姿を消す前、彼にとって彼女は本当に大切な存在だった。己がいて、彼女がい て、二人の間の子供であるナリとナルヴィがいて。時々トールとその家族が訪ねてきて、穏やかな時間 と過ごす。今思えばあれは一つの幸せの形だったのだろう。初めはぎこちなくて、時折しか見ることの できなかった花のような笑顔が、清らかさと慈愛に溢れるその顔が、次第に己へ多く向けられるように なって。彼女のことがとても好きだった。愛しいと思った。思い返すと胸が痛くなるほどに。少なくと もあの時、確かにロキは彼女に恋していたのだ。
(これは所詮夢だし、彼女の反応が現実にその通りとは限らないし、償ったことにならないかもしれな いけれど・・・。)
今、彼女を大切にしたいという気持ちは偽りではない。以前彼女から受けた優しさを少しでも返したい と思っていた。確かに当時のシギュンに今のロキが接することで彼女がどんな反応をするか見てみたい という悪戯心もあるのは事実だ。だが、それ以上に彼女が心から笑っている姿が見てみたいと思ってい た。例えば、当時のロキにはできなかった、彼女がしてくれる気遣いへの感謝の気持ちを少しでも示す ことによって。もしかしたら心のどこかで、彼女に優しくすることでシギュンに抱いていた罪悪感が和 らぐのではないかと判断したのかもしれない。そうすることで未だに引きずっている彼女への未練のよ うな感情を何とかできると思ったからかもしれない。だが、それでもロキは―――――――。
「ロキ・・・様?」
 一方、ロキの名を呼ぶシギュンの様子はただ純粋に不思議そうだった。まるで無邪気な子供が浮かべ る表情のように。不覚にもロキはそんな彼女を可愛いと思ってしまう。夢の時代設定はともかく、すで に娘や息子のいる親という立場に実際あるせいか、はたまた探偵社に頻繁に訪れている実年齢が遥かに 年下な女子校生との交流の影響か、シギュンの子供のような様子が何だか微笑ましかったのだ。つい頭 を撫でたくなるとまではいかなくとも、目線を合わせて微笑みたくなるような気持ちにさせられる。先 程まで覚えていた胸の痛みを掻き消すように、暖かで柔らかな感情が湧きあがった。
(まゆらとかもそうだけど、こういう無邪気な仕草って可愛いよね〜。僕が捻くれてるからかもしれな いけどさ・・・。)
クスリと笑うロキは彼の暖かな感情を象徴しているかのように穏やかな表情をしている。それを見たシ ギュンは目を何度か瞬かせた。まるで意外なものを見たかのように。まあ、当時のシギュンが知るロキ がこんな顔をしてみせれば、これくらいの反応をされてもおかしくないということはある。けれども程 なくして、シギュンは淡く柔らかな微笑みを浮かべる。例えるならば聖母のように、見ているだけで心 が休まるような微笑を。ロキが嬉しいのならば自分も嬉しいのだというように・・・。
「・・・!」
そんな彼女の微笑みにロキは思わず息を呑んだ。一瞬、だが確実に、彼は彼女に見惚れていた。何故な らそれは彼がかつて惹かれた彼女の微笑みととても似ていたから。大輪の華ではなく、小さくても清楚 可憐な花を思わせる笑い方だ。本来ならまず見れないはずの彼女の笑顔。夢と記憶の中で、時折見せる その顔が、どうしようもなくロキを惹きつけ、苦しくさせる。
(ああ、駄目だ・・・。)
彼は心の中で自嘲した。夢だと分かっているのに、あるいは夢の世界だからこそか、ロキは胸が高鳴る のを覚える。そんな自分にますます複雑な胸中となるロキ。グルグルと思考が回り、悩みばかりが頭を 支配した。このままではいけないとロキ自身も思っているのだが、珍しく機転が回らず打開策を思いつ けないでいる。果たしてこれも夢の世界の為せる業なのか。状況に流されるようで、歯止めが効かない のだ。もちろん頭の中では冷静な部分というか、理性のようなものが己のヘタレ具合を嘆いていたりす る。まあ、嘆いた所でどうにかなる訳でもないが。
(何か・・・最近の僕っていろいろな人に振り回されている気がするよ〜。)
神界にいた頃は自分で言うのも難だが、ロキは他人を振り回す側にいたと思っている。ところがどうだ ろう。オーディンに力の多くを封印されて、人間社会に紛れ込むようになってからは、元客・現自称助 手の女子高生やら、赤貧学生の姿が板についてきた一応神様なはずの親友やら、自称ライバルの塾通い 小学生(?)やら、自称天才発明家の変態怪盗やらのせいで、結構振り回されているのは事実である。 ロキは現状を思い返し、しみじみとそう思った。一体いつの間にこんな風になってしまったのか。神界 時代とのギャップにちょっと切なくなってくる。
(僕って他人を振り回すことは得意でも振り回されるのって昔はあまりなかったもんな〜。)
特におしかけ助手や飯タカリ常連の親友は頻繁にロキの前に現れてロキを振り回していた。まあ、赤貧 学生の自称鉄腕アルバイターに振り回されているのは、ロキよりむしろ家事を担当している闇野なのか もしれないが。そう考えるとロキを現在一番振り回しているのは自称ロキの助手である大導寺まゆらの 可能性が高い。まゆらはロキにとってある意味意外性の塊だった。別の意味ではトールや仲が良いとは 言えないが同じ北欧の神であるフレイなんかも予測不能な面を持っているので意外性があると言えるの だが、彼らのそれはまゆらのそれとは質が違う。トールやフレイが何かやらかした場合、それがロキの 気に入らないことであれば、彼は文句の一つや二つ言うし、ムカつき具合によってはやり返しもする。 けれどもまゆらに対してそのようなことにはまずならない。男女の違いとか、立場が神様と人間という 違いもあるだろうが、ロキの個人の気持ちに拠る所が大きい。
(でも、振り回されたりしても、最終的には何だかんだで許容できちゃうんだよね、まゆらの場合。本 当、何でか・・・。う〜ん、むしろあの天然ボケがあってこそ、まゆら・・・みたいな?)
ロキは今ではすっかり御馴染みになってしまった人間の少女の存在をふと思い出す。一見すると可愛い らしい娘さんなのに、事あるごとにグルグル眼鏡を取り出してミステリーと叫ぶその思考回路は、ある 意味神様よりも謎の存在だ。神社の娘であるが父と違って霊感は皆無に等しい。しかも探偵大好き・ミ ステリーマニアを気取っている割に推理力は今一つ。時に呆れることもあるけれど、それでもロキはま ゆらに対して好意的なカテゴリーへと割り振っていた。これはひとえに彼女の人柄によるものが大きい だろう。お人よしで一所懸命な彼女は皆から愛されている。それはロキとて例外ではない。だからだろ うか。まゆらに振り回されてもあまり不快に感じることがないのは。
(ヤミノ君ともしっかり仲良しだし、トール・・・というか、ナルカミ君とはクラスメイトだし?ヘイ ムダルとも何だかんだで馴染んじゃってるし、フレイなんてしっかりストーカーしてるもんな〜。本当 まゆらって変・・・もとい、面白い子だよ。)
ツラツラと考えを巡らせれば、思考が明後日の方向に飛んでいく。ロキを振り回す言動をとっても最終 的には許容されていること、思考回路がロキの予想を軽く上回ることをやってのける意外性。そういう 面を持ち合わせているという意味ではまゆらはシギュンと共通点があると言えた。興味のある分野に対 して熱心だという姿勢も共通しているかもしれない。まゆらはミステリーでシギュンはルーン魔法とい うジャンルの違いはあるが。
(あれ?こうして考えてみるとシギュンとまゆらって似てる・・・?いやいやいや、シギュンはあそこ まで天然じゃないし。というか、大人しいタイプでまゆらみたいにハイテンションじゃないし・・・。 でも、僕が珍しく気を許した相手という意味では同じなのか?だからって・・・。)
今度はいきなり悶々と悩み始めるロキ。けれどもこうして改めて観察してみれば、シギュンはロキにと って意外性の塊のようなものかもしれないと思えてくるのだ。言葉にするのは難しいが、シギュンのそ れは、敢えて言うならば、何故かこちらがつい反応して一喜一憂してしまうような意外性。だからこそ 振り回されて、それでいて不快にならない存在。これはロキが彼女への好意を持っている証拠だろう。 もちろんそれが恋愛感情であるとは限らない。元妻(離婚はしていないが)であるが、憎めない相手へ の親愛の情なのかもしれないし、友情に近い気持ちなのかもしれない。もしかしたらこの気持ちは夢か ら覚めた後も続くのだろうか。仮に現実の世界でシギュンと再会し、もし彼女が厄介事を持ち込んだと しても、案外普通に手を貸してやるのかもしれない。
(嫌い・・・じゃないんだよな。憎みたくは・・・ないんだ。)
夢の中でいくら考えても、仮定してみても、現実でどのような言動を取ってしまうかは、正直今のロキ には分からない。けれども今も彼女に惹かれている事実は痛いほどに分かる。だからこそ彼の苦悩は治 まらないのだ。
(僕は・・・何故こんな夢を見てしまっているのだろう。)
答えの出ない疑問が、彼の胸に浮かんで消えた――――――――――。



to be continued・・・






<後書き>
 実は二話目を書き終わってから三話目を書き始めるまでかなり時間を置いてあります。オフが忙しか ったり、別ジャンルに熱を上げていたせいで脳ミソの魔ロキモードスイッチが一向に入らなかったもの でして・・・。しかしある時、思い立って書いてみたら、何とかエンジンが起動してノロノロ速度で チマチマ書き進めることができるようになりました(笑) というか、書いている本人もしみじみ久し 振りだと思います。そもそも、前提となる基本設定を作ったのは何年も前ですから(爆)
 まあ、何度も書き直して、どうにか形になりました。・・・ぶっちゃけ、まだ続いていますが。それ にしても、この話のロキさん、シギュンさんに未練タラタラですね〜。いや、こんなグネグネ思考迷宮 しちゃう展開になるとは、恐らく第一話を書いた頃には露程に思っていなかったはず!そんなこんなで もうちょっとお付き合いいただけましたら幸いです。

2008/08/17 UP