ラインハルト=ハイドリヒ略伝


1.青年時代

 ラインハルト=トリスタン=オイゲン=ハイドリヒはザーレ河畔のハレで1904年3月7日に誕生した。文化的にも経済的にも恵まれた中流家庭の生まれである。父ブルーノはオペラ歌手であり、ハレ音楽学院の創設者でもあった。そして母エリーザベトはプロのピアノ奏者であり、少年時代のハイドリヒにとって音楽は日常生活の一部だった。彼はとりわけバイオリンを愛し、成人してからもバイオリンの演奏を趣味とした。彼は卓越した技量の持ち主であり、その甘美で繊細な奏法は聴くものに感銘を与えたという。ハイドリヒが特に好んだのはハイドンとモーツァルトの曲だった。

 彼は勉強とスポーツの双方で優秀な成績を収め、陸上競技・水泳・フェンシングが得意だったが、にもかかわらず彼の少年時代は幸福なものではなかった。ハイドリヒはおどおどした内気な少年で、厳格な親から頻繁にむち打たれた。学校では友達ができなかったばかりか執拗にいじめられた。ハイドリヒがいじめの標的にされた理由は主に三つあった。まずハイドリヒの声は並はずれて甲高く、そのことが揶揄の種にされた。ハレはプロテスタントの町だったので、ハイドリヒがカトリックだったことも彼にとって災いした。またハイドリヒの先祖にはユダヤ人がいるという噂があったため、ユダヤ民族に対する差別感情がハイドリヒへのいじめを助長したが、この第三の理由は事実無根である。ハイドリヒの母方の祖父ラインホルト=ハイドリヒが死んだあと、彼の妻エルネスティーネ=ウィルヘルミネ=ハイドリヒが再婚したことが噂の原因となった。ハイドリヒの祖母の再婚相手はグスタフ=ロベルト=シュスという名前だった。ユダヤ人にありがちな名前である。シュスは実際にはユダヤ人でなかったし、ラインハルト=ハイドリヒと血のつながりがあるわけでもなかったが、ハイドリヒがユダヤ系であるという噂は彼に生涯つきまとうことになる。

 第一次世界大戦が始まったときハイドリヒは10歳に過ぎず、もちろん幼すぎて従軍できなかったが、16歳のとき右翼義勇軍に協力するようになった。金髪碧眼の美少年である自分のことを賞賛し、自分が重要人物であるという気分にさせてくれる集団に彼は初めて巡り会ったわけである。暴力的な反ユダヤ主義運動にハイドリヒは積極的に参加し、自分の先祖にユダヤ人がいるという噂を打ち消そうとした。

 一方、第一次世界大戦に敗北したことでドイツには社会的混乱がもたらされていた。ドイツの経済は壊滅的打撃を受け、ハイドリヒの家庭もそれに巻き込まれた。ハイドリヒは自分の進路として海軍を選んだ。士官学校なら学費を払わなくて済んだし、若きハイドリヒは冒険と栄光を求めていた。1922年、ハイドリヒは海軍見習生としてキールに出頭した。1923年7月には練習艦「ベルリン」の乗組員となり、のちにヒトラー暗殺未遂事件に連座して処刑されるウィルヘルム=カナリスと知り合った。当時カナリスは「ベルリン」の先任将校だったのである。ハイドリヒの数学と航海術の才能は驚嘆すべきものだったという。

 海軍でも彼はいじめられた。ひょろ長く神経質なハイドリヒは他の幹部候補生たちから声の甲高さをからかわれて「牝山羊」と呼ばれた。彼がクラシック音楽の愛好家であることも物笑いの種になったし、先祖にユダヤ人がいるという噂も依然つきまとった。しかし、ずば抜けて優秀だという決定的な強みがハイドリヒにはあった。1926年の初めに彼は見習士官となり、その年の末には少尉に任官した。彼は通信将校として旗艦シュレースヴィヒ=ホルシュタインに乗りこみ、バルト海の海軍基地で通信部に勤務した。1928年には中尉に昇進した。彼はロシア語にも堪能で、出世街道を着実に歩み続けていた。

 しかしハイドリヒは女癖が悪く、不特定多数の女性とつきあっては浮き名を流した。そして1931年、ハイドリヒが弄んで棄てた一人の少女が彼に結婚を迫ったが、ハイドリヒはそれを邪険に拒絶した。のちにナチ党内で流布することになった噂によると、婚前交渉をするような女とは結婚できないとハイドリヒは彼女にいったらしい。しかしハイドリヒは報いを受けることになった。その少女の父親はIGファルベンの重役であり、ベルリンの海軍司令部に有力なコネを持っていたのである。かくしてハイドリヒは軍法会議にかけられることになったが、持ち前の傲慢な態度を変えようとはしなかったので、情状を酌量してもらえなかった。そして海軍最高司令官エーリヒ=レーダーは彼に免官を言い渡した。「将校として、また紳士として不適切な行為をした」というのがその理由だった。自分を首にしたことでハイドリヒはずっとレーダーを恨むことになる。のちにレーダー元帥が和解を申し入れても、彼はそれに応じようとしなかったという。

 ともあれ、このようにして海軍中尉ラインハルト=ハイドリヒは提督への道を断たれてしまい、そればかりか海軍を追われてしまったのである。のちにドイツ史上空前の恐怖組織の総帥となる人物は、このとき破滅寸前の無職の青年に過ぎなかった。


2.SSへの入隊

 海軍での地位を棒に振ったハイドリヒは婚約者リナ=フォン=オステンの勧めでナチスに入党した。彼の党員番号は544916である。ハイドリヒはSS(ナチス親衛隊)に入隊し、隊員番号10120を与えられた。

 SS長官ハインリヒ=ヒムラーはSSに諜報部門を創設したばかりで、その長となる人物を探しているところだった。ハイドリヒの名付親の息子であるエーベルシュタイン男爵がハイドリヒをヒムラーに引き合わせた。ハイドリヒは元通信将校であり、ヒムラーが探していたのは諜報活動の人材だったが、男爵には情報将校と通信将校の区別がついていなかったらしい。

 身長が180センチを超え、金髪碧眼の端正な容貌をしたハイドリヒは、SS長官ヒムラーの狂信するナチスのイデオロギーにおいては理想の人間だった。また、あらゆる私情を職務から切り離す能力と、ひたすら冷静に能率のみを追求する精神と、必要とあれば汚い手でも平気で使える神経をハイドリヒが兼ね備えていることも、ヒムラーの気に入った。20分で諜報機関の青写真を描くという試験をヒムラーはハイドリヒに課し、その試験に合格したハイドリヒは諜報部門の責任者に任命された。彼の月給は180マルク(当時の為替相場で40ドル)だった。高給とはいいがたい。

 ハイドリヒが着任したとき、彼の執務室の備品はキッチンテーブルと椅子とタイプライタだけだった。しかしハイドリヒは粗末な執務室や薄給にめげず、ドイツ全土で情報収集を行える巨大な機関をたちまち造りあげた。ナチスにとって好ましくない存在を弾圧するのが彼の機関の主要な任務だったが、ヒムラーやハイドリヒの政敵に関する個人的な情報を収集するという作業にも彼は携わっており、このためハイドリヒはのちにナチスの最高幹部たちからさえ怖れられるようになる。der Chefの頭文字である「C」をハイドリヒは自分のコードネームとして用いた。愛読していたミステリ小説に影響されたのだが、部下の前になかなか姿を見せようとしないSD長官の神秘性を印象づけることになった。

 ハイドリヒは急速に出世していった。1931年に入隊した当時はSS中尉(1)に過ぎなかったが、同じ年の暮れには早くも少佐となった。SSの諜報部門がSD(SS保安諜報部)と正式に命名された翌年7月には大佐となり、SD長官に就任した。そして1933年には29歳の若さで准将となった。1934年には少将に昇進し、ゲシュタポの担当責任者を兼任するに至った。

 ハイドリヒの唯一の弱点は、彼の先祖にユダヤ人がいるという噂だった。前述したように、この噂は事実ではなかったが、ハイドリヒの敵対者たちはせっせと噂を広めて回ったので、ヒトラーやヒムラーも放っておけなくなってしまった。海軍ではモーセという綽名をつけられた程度で済んだが、SSでは致命的な結果を招きかねず、現にヒムラーはハイドリヒ少佐の除隊を主張している。しかしヒトラーはヒムラーよりも現実主義的だった。ハイドリヒは追放してしまうには惜しい人材だとヒトラーは述べ、ハイドリヒの家系を不問にすることを決定したのである。こうしてハイドリヒの最大の危機は過ぎ去ったが、この事件は彼に深刻な影響を及ぼした。ハイドリヒは前にもましてユダヤ民族を憎悪するようになり、また自己嫌悪に襲われるようになった。ある日、深夜に帰宅したハイドリヒは独りで寝酒を飲んでいたが、いきなり目の前の鏡に向けて拳銃を連射し、「薄汚いユダヤ人め!」と叫んだ──という逸話が残されている。


  1. 原語ではObersturmfuehrerである。SSの階級は独特のものであり、適切な訳語は英語にも日本語にも存在しない。Obersturmfuehrerを上級中隊指揮官と訳すこともあるが、ここでは便宜的に本邦の旧軍の階級を対応させる。以後すべて同様とするが、いちいち断らない。

3.金髪の野獣

 1933年1月、シュライヒャー内閣の総辞職に伴ってヒトラーは首相に就任し、第三帝国が成立した。ヒムラーはミュンヘンの警視総監に就任し、ハイドリヒも准将に昇進してミュンヘンの刑事警察政治部局長に任命された。ナチスの政権掌握後に彼らがまず行ったことの一つは強制収容所の設置である。ミュンヘン近郊のダッハウにあった軍需工場跡に、共産主義者や労働組合員を収容したのである。その中には多くのユダヤ人がいた。収容されたものたちに対して強制されたのは、看守に対して敬意を示すことである。このことによって、看守であるSSのエリートとしてのイメージが高まるからだった。看守に対する被収容者の挨拶の仕方についての厳重な規則をヒムラーは念入りに定め、また支配者と被支配者をはっきりと区別する手段として残虐な行為を奨励した。挨拶の仕方を間違えると50回の鞭打ちが課せられ、食事はパンと水だけに制限された。違反リストは詳細なものであり、死刑を伴う違反には不服従と口答えがあった。「労働は自由への道」という皮肉なスローガンがダッハウ収容所の門には掲げてあり、被収容者は1日に11時間の労働を強いられた。

 SSがドイツ全土の警察権を掌握し、ナチスの全面的な支配を保証する監視網になるというのがハイドリヒの構想だった。彼の率いる政治警察は従来のものとは違う。抵抗運動が起きてから行動するのではなく、抵抗運動が生じる可能性そのものをなくしてしまうのだ。すなわち国民を洗脳し、管理するための全能の機関である。ヒムラーとハイドリヒは行動を開始し、バイエルンを皮切りとして勢力を急伸させた。ドイツに17ある州のうち16までが彼らの支配下に入ったとき、ひとつだけ残ったのはヘルマン=ゲーリングのお膝元プロイセンだった。ゲーリングはヒムラーとハイドリヒのことを好いても信頼してもいなかったが、エルンスト=レームの率いるSA(突撃隊)に対抗する必要があったので彼らと結託した。かくして1934年4月20日、ゲシュタポの支配権はゲーリングからヒムラーの手に移り、ハイドリヒがその長官に就任した。

 その2ヶ月後、SSによるSAの粛清が行われた。いわゆる「長いナイフの夜」である。この粛清を立案したのはゲーリングとヒムラー・ハイドリヒの3人だった。上司ヒムラーの命令を受けたハイドリヒは、粛清の対象となるべき人物の名簿を持ち前の几帳面さで作成した。「望ましくない人物に関する全国リスト」と名づけられたこの名簿の筆頭に挙げられたのはエルンスト=レームとグレゴール=シュトラッサーだった。レームはヒトラーの長年の盟友にしてヒムラーの抜擢者、シュトラッサーはヒムラーのかつての師だったが、彼らは今や切り捨てられようとしていた。独裁者の地位をめざすヒトラーにとって、国防軍とSAの間の軋轢は解消しなければならない問題だったし、ましてハイドリヒにとってはヒトラーとレームの友情など問題にならなかった。こうして粛清が実行され、レームとシュトラッサーをはじめとする200名以上の人間が殺害された。これ以後、SSがSAに取って代わり、急速に勢力を増大させていくことになる。

 1936年6月17日、ヒムラーはドイツ警察長官に就任した。ゲシュタポと刑事警察は統合されて保安警察となり、ハイドリヒ中将がその長官に就任した。内相ウィルヘルム=フリックはヒムラーに対抗しようとしてSS大将クルト=ダリューゲを警察長官に推したが、この試みは失敗に終わった。警察はヒムラーとハイドリヒが牛耳り、秩序警察長官ダリューゲはナンバー3の地位に甘んじなければならなかった。やがて秩序警察の権限は大部分がハイドリヒのもとに移されることになる。その後ダリューゲは上級大将に昇進したが、すっかり窓際に追いやられてしまった。

 SD長官と保安警察長官を兼ねるハイドリヒの権力は今や絶大だった。内務省も法務省も彼には手出しができなかった。ナチスの最高幹部たちですらハイドリヒのことを恐れ、もっとも冷酷なSS隊員ですら彼に睨まれると震え上がった。ハイドリヒの前で嘘をつくことのできるものはいなかったとヒムラーは語っている。SS隊員たちはハイドリヒのことを「金髪の野獣」と呼んだ。対外情報部長官のワルター=シェレンベルクは、機敏で冷酷な肉食獣を自分の上司ハイドリヒから感じとったという。

 一個人としてのヒムラーは思いやりのある好人物だったと伝えられるが、ハイドリヒは彼の上司とは違った。彼はめったに笑わず、人前に出ることを好まなかった。ハイドリヒはフェンシング・乗馬・飛行機・スキー・近代五種競技の選手であり、SSの体育監察官を務めるほどだったが、友人はほとんどいなかった。SSの高級幹部たちと遊興に耽ることはあったが、冷たい美貌の持ち主だったのに、娼婦たちの間でも不人気だった。写真を撮影されるとき、彼は狼のような目つきでカメラを凝視するのが常だった。ヒムラーにとって総統への服従は絶対的なものだったが、そのような忠誠心はハイドリヒとは無縁のものだった。ハイドリヒはあらゆるイデオロギーを軽蔑しており、国家社会主義を信奉しようとしなかった。ヒトラー暗殺未遂事件のあった1944年7月20日までハイドリヒが生きていたら、たぶん彼はシュタウフェンベルク大佐に味方しただろうと推測するものさえ、ハイドリヒの知人だった人々の中にはいるほどである。

 ヒムラーはヒトラーの命令にのみ服従すればよく、ほとんど無限の権力を有していたが、その力を彼が活用できたのはハイドリヒのおかげだった(2)。SS長官の地位の威力をヒムラーが知れたのはハイドリヒのおかげだった 。SSを強大な弾圧機関たらしめたのはハイドリヒであり、人々はハイドリヒのことを「四つのH」で表現するほどだった。「ヒムラーの脳髄、その名はハイドリヒ」(Himmlers Hirn heist Heydrich)の略である。いつまでもヒムラーの下にとどまっている気はハイドリヒにはなかったのだろうが、ハイドリヒはヒムラーの命令には必ず服従した。ヒムラーはハイドリヒの容姿と知性に嫉妬していたし、彼の増大する権力を怖れてもいたが、自分が他のナチ党領袖たちと張り合うにはハイドリヒの協力が不可欠だと心得ていた。ハイドリヒの方でも事情は同様だった。彼はヒムラーのことを間抜けだと見なしていたが、ヒムラーを権力への切符と見なして忠実に仕え、彼のことを「長官閣下」と呼ぶのが常だった。そんなわけで、ヒムラーとハイドリヒの物騒な二重奏はハイドリヒの短い生涯の終わりまで続いた。


  1. 対外情報部の副長官を務めたSS中佐ウィルヘルム=ヘットルによる。

4.国際諜報活動

 スターリンを武力で追放しようとするグループがソビエト連邦に存在することをハイドリヒは1936年の暮れに知った。ソ連邦国防委員会の副委員長であるミハイル=ニコライェヴィチ=トハチェフスキー元帥がそのグループの首謀者であるらしい。この情報をスターリンに伝え、彼に赤軍首脳を粛清させて赤軍の機能を麻痺させるという奸計をハイドリヒは考えついた。

 ハイドリヒの命令により、赤軍の将軍たちが謀反をたくらんでいることを証明する偽造文書が4日間で作り上げられた。ハイドリヒはヒトラーの許可を得て、部下のヘルマン=ベーレンツ大佐をプラハに派遣した。ベーレンツはチェコスロヴァキア大統領ベネシュを動かし、謀反の証拠の存在をスターリンに伝えさせた。かくしてクレムリンからの特使がベルリンに到着し、偽造文書をハイドリヒから買い取った。1937年6月10日、トハチェフスキー元帥ら7名の赤軍首脳が反逆罪で銃殺刑となった。これを皮切りとして、全赤軍将校のほぼ半数に当たる3万5000人が1年間で処分された。将官の90%と大佐の80%が処刑または追放された。

 実のところ、ハイドリヒが偽造文書工作を始める前からスターリンはトハチェフスキー元帥の粛清を計画していたらしい。だが、大がかりな謀略を実行に移すハイドリヒの能力に関係者たちは目を瞠った。SDがソビエト軍の首を討ちとった──この言葉はのちにチャーチルやフルシチョフも口にすることになる。

 ドイツにおいては、ヒトラーの意に従おうとしない二人の将軍の追い落としにハイドリヒは成功している。その二人とは、国防相のウェルナー=フォン=ブロンベルクと陸軍最高司令官のウェルナー=フォン=フリッチュだった。彼らはドイツの軍事的弱点を指摘し、ヒトラーの膨張政策に反対したのである。ハイドリヒはブロンベルクとフリッチュの排除を画策し、まずブロンベルク元帥が犠牲となった。かつて娼婦でヌード写真のモデルだった女性と再婚したという理由によって、ブロンベルクは国防軍を追われた。

 続いてフリッチュ上級大将に同性愛の嫌疑がかけられた。オットー=シュミットという男の微罪に関する情報をゲシュタポが1936年に得たのが事の発端だった。ある同性愛者の陸軍将校を自分はゆすったが、その将校の名前は確かフリッチュだったとシュミットは陳述したのである。当時ヒトラーはまだフリッチュ男爵と事を構えていなかったので、この情報を無視することにした。ヒトラーにとってフリッチュが目障りな存在になったとき、ハイドリヒは古い報告書を役立てることにし、部下のゲシュタポ部員にフリッチュを尾行させた。何も証拠が得られなかったにもかかわらず、以前の報告書がヒトラーのもとに送られた。総統に呼び出されたフリッチュは断固として自分の嫌疑を否認したが、ヒトラーは彼を辞任させた。フリッチュはあくまでも自分の潔白を訴え、法廷で争うことにした。そのときになって、シュミットの恐喝した相手がフリッシュという大尉であることがわかった。シュミットがフリッチュの潔白を法廷で証言し、フリッチュの濡衣は晴らされたが、しかし彼が元の地位に返り咲くことはなかった。第12砲兵連隊の連隊長に任命されたフリッチュは1939年9月22日にワルシャワ郊外で戦死した。

 ヒトラーが軍の統帥権を手にするという目的は果たされたが、手際がいいとはいえなかった。将領の一人に無実の罪を負わされた国防軍の憤激は覚悟しなければならなかった。一部の国防軍将校がゲシュタポ司令部を攻撃することをハイドリヒは想定し、部下のシェレンベルクと二人して彼らの襲撃を待ちかまえたほどである。しかし国防軍は弱腰だった。フリッチュはヒムラーに決闘を申し込もうとしたが、フリッチュから果たし状を託されたルントシュテット大将はそれをヒムラーに届けようとしなかった。かつてハイドリヒの上司だった防諜部長官のカナリス提督はヒムラーとハイドリヒの更迭の要請を計画したが、陸軍参謀総長のベック将軍はカナリスの草案を握りつぶしてしまった。やがてベック将軍は解任され、代わってハルダー将軍が陸軍参謀総長となった(3)。

 恐喝犯シュミットはヒムラーの命令によって射殺された。ハイドリヒの部下が何人か処分された。しかしヒムラーとハイドリヒは無傷のままだった。この事件によって、ハイドリヒは己の功名心に拍車をかけただけだった。

 ブロンベルクとフリッチュが失脚したものだから、自分が国防相になれるだろうと期待した男がいる。ヘルマン=ゲーリングであるが、事は彼の思惑通りには運ばなかった。ヒトラーは国防相という職を廃止してしまい、自ら軍の統帥権を掌握したのである。ゲーリングはヒトラーから元帥の位を与えられ、それで満足しなければならなかった。

 ヒトラーは国防軍統合司令部を創設し、従順なウィルヘルム=カイテルをその長官に据えた。さらに外相コンスタンティン=フォン=ノイラートも解職され(4)、ナチ党幹部のヨアヒム=フォン=リッベントロップがそのあとを引き継いだ。経済相ヒャルマール=シャハトはすでに辞任しており、経済的にはゲーリングが実権を掌握していた。こうして、第三帝国の版図を拡大する準備が整った。

 第三帝国の矛先はまずオーストリアに向けられた。大ドイツ主義を掲げるヒトラーはオーストリアの併合をドイツの当然の要求と見なしていた。オーストリアにおいてハイドリヒは活発に活動を開始し、オーストリア=ナチスを動かして様々な工作を行った。1938年1月には、失敗に終わったもののクーデター計画まで立てられている。

 オーストリアの独立維持を主張する民族派の筆頭ドルフス首相は早くも1934年に暗殺されていたが、その後継者シュシュニックはムッソリーニを後ろ盾として第三帝国に抵抗しつづけていた。しかし1937年9月以後、ムッソリーニはヒトラーに急接近する。そして1938年2月、ヒトラーに脅迫されたシュシュニックはオーストリア=ナチスの指導者アルトゥール=ザイス=インクワルトを内相に任命した。翌3月、シュシュニックの辞任に伴ってザイス=インクワルトは首相に就任し、オーストリアのドイツへの併合を宣言した。

 オーストリアが第三帝国の一部になると、SSがオーストリアになだれ込み、社会主義者や自由主義者・ユダヤ人の摘発や迫害を開始した。ハイドリヒはウィーンにユダヤ人国外移住中央本部を設置し、アドルフ=アイヒマンがその責任者に就任した。この中央本部の設置によって、ドイツで1万9000人のユダヤ人が国外に追放されている間にオーストリアでは5万人が追放された。

 オーストリアに続いて標的となったのはチェコスロヴァキアだった。ボヘミア北西部のズデーテン地方には多くのドイツ人が住んでいたため、ヒトラーはズデーテン地方の割譲をチェコスロヴァキアに要求した。ここでもハイドリヒが暗躍している。ズデーテン地方在住のドイツ人を基盤とするズデーテン=ドイツ人党を彼は動かした。そして1938年4月24日、ズデーテン=ドイツ人党の党首ヘンラインは党大会で「カルルスバート(5)綱領」を発表し、広範な自治権の賦与をチェコスロヴァキア政府に要求した。

 1938年9月29日、英仏独伊の元首がミュンヘンで会談を行い、翌日にはミュンヘン協定が締結された。ズデーテン地方は第三帝国に割譲されることが決定され、会談に列席することすら許されないままチェコスロヴァキアは1万8000平方キロの領土を失った。そして1938年10月15日、ドイツ軍はチェコ領内に進駐し、翌日チェコスロヴァキアの解体が行われた。チェコは第三帝国の保護領とされ、スロヴァキアは保護国となった。チェコスロヴァキアの元大統領ベネシュ(6)はロンドンに脱出し、亡命政権を樹立した。


  1. のちにベックもハルダーもヒトラー暗殺未遂事件に関与した。ベックは計画失敗の直後に自殺し、ハルダーは強制収容所に送られた。
  2. このことからもわかるように、ノイラートは必ずしもヒトラーに協力的だったわけではないが、ニュルンベルク裁判では禁固15年を宣告された。
  3. チェコ西部のクルシュネー山脈山麓にある温泉の町。チェコ語名のカルロヴィ=ヴァリは「王様の温泉」を意味し、設立者のカレル4世に因んだものである。したがって、14世紀から知られていたことになる。チェコのリキュールとして有名な〈ベヘロフカ〉はこの地の産である。
  4. チェコスロヴァキアがオーストリア=ハンガリー帝国の属領だった時代に独立運動を指導したベネシュは、外相を経て首相に就任し、初代大統領マサリクが1935年に引退するとその後継者となった。しかしミュンヘン協定の締結と同時に辞任し、以後はハーハが大統領を務めていた。第二次世界大戦後ベネシュは大統領として帰国し、共産党指導者ゴットワルトを首相とする連立政権を発足させる。しかし彼は1948年に辞任し、共産党による独裁が始まった。

5.水晶の夜

 1938年11月7日、ヘルシェル=グリューンシュパンという17歳のユダヤ系ポーランド人がパリのドイツ大使館に侵入し、公使館書記官エルンスト=フォム=ラートを拳銃で狙撃した。フォム=ラートは病院で公使館一等参事官に任命されたが、11月9日に死亡し、彼のためにデュッセルドルフで国葬が行われた。この葬儀にはヒトラーも臨席し、フォム=ラートはナチスの「政治的殉教者」に祭り上げられた。

 実はグリューンシュパンとフォム=ラートは同性愛関係にあった。ビザの期限が切れたグリューンシュパンはフォム=ラートをゆすり、自分がフランスにとどまれるようにしてもらおうとしたが、フォム=ラートが約束を違えたため発作的に彼を撃ってしまったというのが事件の真相らしい(7)。しかしナチスはこの事実を隠蔽し、反ユダヤ感情を煽るためのプロパガンダに事件を利用した。

 11月10日午前1時20分、第三帝国全土のSDと保安警察に対するポグロムの指令をハイドリヒ中将は電信で発した。そして、「卑劣な暗殺」に対する苛烈な報復が第三帝国全土で一斉に開始された。シナゴーグはほとんどすべて焼き払われ、ユダヤ人の商店や住居も破壊された。たとえば『わが闘争』を朗読させられるといった精神的な屈辱を受けさせられたユダヤ人も大勢いる。ただし、これらの破壊行為を行ったのは主にSAであり、SSと警察は傍観者として振る舞った。

 11月12日、ゲーリングは空軍省において「ユダヤ人問題会議」を主宰した。ゲッベルスとハイドリヒをはじめとして、内相フリック・法相ギュルトナー・蔵相シュヴェリン=フォン=クロージク・経済相フンク・秩序警察長官ダリューゲなど、あらゆる関係部局の最高幹部が出席した。101のシナゴーグが焼き払われ、7500の商店が破壊されたとハイドリヒは報告した。

 ユダヤ人を社会から排斥する方法についてゲッベルスとゲーリングが議論したあとで、保険経済局の代表であるヒルガルトが入室した。暴徒たちの割ったガラスの破片が路上に散乱し、街灯の光を浴びて輝いていたというのが「水晶の夜」という通称の由来だが、このガラスの代金がまず問題となった。ユダヤ人に損害を賠償させればいいとゲッベルスが発言したが、ガラスは外国製だから外貨が必要だとゲーリングに反論された。第三帝国はすでにチェコを併合していたが、割られたガラスはボヘミア製ではなくベルギー製であり、600万マルクの保険金を支払う必要が生じていた。略奪された商品の保険金もあり、これらが保険業界の頭を悩ませていたが、払わなければならないことはゲーリングも認めざるをえなかった。しかし「かまわず払えばいいのです。しかし支払う段階で押収する」というハイドリヒの一言が一切を解決した。

 さらに、ユダヤ人をドイツから追い出す方法についてハイドリヒは提案した。すべてのユダヤ人は目印をつけなければならないと彼は述べた。そうすれば、彼らを迫害する際に間違いが起きないからというわけだった。

 2万5000人のユダヤ人がハイドリヒの命令によって一夜のうちに強制収容所へ送られたといわれているが、「水晶の夜」におけるユダヤ人迫害を指揮したのはハイドリヒではなくゲッベルスだったらしい。ゲッベルス博士は女優との恋愛事件によって威信を失墜したばかりであり、名誉回復の好機とばかりにポグロムの陣頭に立ったのである。とはいうものの、「水晶の夜」によって最大の利益を得たのはハイドリヒだった。その後ゲーリングはハイドリヒにユダヤ人迫害の全権を委譲し、ハイドリヒの辣腕が本格的に発揮されることになる。


  1. 1942年7月に法務省がヒトラーに提出した文書によると、フォム=ラートと自分との間に同性愛関係があったとする当初の陳述をグリューンシュパンは後に撤回したらしい。しかし、フォム=ラートが同性愛者であったこと自体は事実であり、このことが露呈するのをナチスは何よりも怖れた。

6.帝国保安本部

 独ソ不可侵条約の締結によってポーランドを孤立させることに成功したヒトラーは、1939年8月26日の夜明けにポーランドを攻撃することを決定した。しかし25日、予想外の出来事が起きた。英国とポーランドの間で相互援助条約が正式に締結されたのである。さらに、軍需物資や原料がただちに供給されるのでなければ参戦はできないとイタリアが第三帝国に通知してきたため、ポーランド攻撃は延期を余儀なくされた。

 ヒトラーは英国との間に同盟条約を結ぼうとした。ポーランドと英国を分断するためであるが、代わりにドイツとポーランドの間で直接の交渉を行ってはどうかと英国は勧告した。戦争の責任をポーランド側に負わせることを狙ったヒトラーは、それに応じるふりをした。英国とフランスはポーランドに圧力をかけ、全権をドイツに送らせようとしたが、ポーランドはオーストリアとチェコの前例に従おうとはしなかった。1939年9月1日早朝、第三帝国軍はポーランドの各地に侵入を開始した。ポーランド軍から攻撃を受けたというのが口実だったが、それもまたハイドリヒの陰謀だった。自分の工作を真実らしく見せかけるため、ハイドリヒは部下に命じて強制収容所の囚人を毒殺させ、死体にポーランド兵の制服を着せて、ドイツとポーランドの国境に放置させた。

 9月3日、下院と閣僚から圧力をかけられた英国首相チェンバレンはドイツに宣戦を布告し、フランスも英国に追随した。かくして第二次世界大戦が始まったが、第三帝国は好調だった。ドイツの機械化部隊は空軍の援護を受け、各地でポーランド軍を圧迫した。退却して守備を固めようとせず、反撃を狙って国境沿いに細長く兵力を配置していたポーランド軍は急速に崩壊した。開戦から10日後、切れ切れに分断されたポーランド軍は組織的な抵抗を行う能力を喪失した。9月17日、ソビエト軍もポーランドに侵入し、東部を占領した。同日、ポーランド大統領モシツキーはルーマニアに亡命し、9月27日にはワルシャワが陥落した。

 第三帝国がワルシャワを占領したその日、帝国保安本部が設置された。SDと保安警察を統合した強大な機関であり、その長官に就任したのは当然ながらハイドリヒだった。帝国保安本部はSSの下部組織であると同時に内務省の一部門でもあったが、内相フリックはハイドリヒの仕事の中身を垣間見ることさえできなかった。

 ユダヤ人をポーランドから追い出す作業にハイドリヒはとりかかろうとしたが、そのような作業は当面は控えてほしいと国防軍から要請された。ゲッベルス博士は1939年10月14日の日記で軍部の弱腰を嘆き、ポーランドでは強権だけが効果をあげるとしているが、これにはハイドリヒも同感だったはずである。10月26日、ポーランドにおける軍政から民政への移行が正式に決定され、ポーランドでのSSの活動は格段に容易となった。ポーランドに住むユダヤ人にとっては凶報であった。

 国家としてのポーランドを消滅させるというヒトラーの計画をハイドリヒは実行に移しはじめた。それと同時に、ドイツ人の「生存圏」からユダヤ人を排除する作業も押し進められたが、帝国保安本部が設置される少し前からハイドリヒは方針を転換していた。ユダヤ人を国外に追放する代わりに、第三帝国の勢力範囲の縁辺への強制移住を行うことにしたのである。全財産を奪われ、奴隷として扱われながらもユダヤ人は第三帝国の干渉から逃れられないことになった。のちにアウシュヴィッツなどで行われた組織的な大虐殺とは根本的に異なるものの、数万の──のちには数十万の──ユダヤ人が強制移住によって殺された。医薬品の不足や飢餓や強制労働によって、無数のユダヤ人が移送中に命を落としていったのである。そして、そういう結果が強制移住によってもたらされるであろうことをハイドリヒは熟知しており、すでにそれを計画の一部と見なしていた。


 1939年、SS史上もっとも大がかりな誘拐事件をハイドリヒは計画し、英国の諜報機関とオランダで秘密裏に連絡をとるようゲシュタポのワルター=シェレンベルク少佐(8)に指令した。オランダは当時まだ中立国であり、ハイドリヒの誘拐計画は明白な国際法違反だった。そのことを外相リッベントロップはヒトラーに訴えたが、総統は聞く耳を持たなかった。ヒトラーは不機嫌な表情でハイドリヒを弁護し、リッベントロップはしどろもどろで言い訳しなければならなかった。

 英国情報部のオランダ支局長ともいうべきS=ペイン=ベスト大尉は、フランツ博士というオランダ在住のドイツ人亡命者と懇意だった。ドイツ軍の将領たちの間に広まっている反ヒトラー運動にベストは関心を持っており、フランツ博士はその情報収集をベストに約束した。しかしフランツは帝国保安本部の手先に他ならず、ハイドリヒは彼を通じてベストに偽の情報を流した。さらに10月21日、国防軍統合司令部のシェンメル大尉とシェレンベルクがフランツの斡旋でベストと会見した。英国のスティーヴンス少佐とオランダの将校クロップも会見に同席した。10月30人に次の会談を行うことを約束して、彼らは別れた。クロップはシェレンベルクを逮捕しようとしたが、スティーヴンスとベストはシェレンベルクを信用していた。彼らはシェレンベルクに緊急連絡用の無線機を与えたほどだった。

 一方、11月8日の夜にミュンヘンでヒトラー暗殺未遂事件が起きた。ヒトラーが毎年恒例の演説を行うビアホール「ビュルガーブロイケラー」に爆弾がしかけられていたのだ。ヒトラーとゲッベルスが会場を出た直後に爆発が起き、会場の屋根が落ちた。犯人はシュワーベンの勇敢な家具職人ゲオルク=エルザーだった。ファシズムと侵略戦争を忌み嫌うエルザーはたった一人で爆弾をつくり、9カ月前から準備をしていたのである。しかしスティーヴンスとベストが関与しているとヒトラーは考え、ヒムラーは大急ぎで帝国保安本部に電話した。

 11月9日午後3時、オランダの国境付近の町フェンローで英国の情報部員とシェレンベルクは会見した。ベストとスティーヴンスが約束の場所に到着したとき、SDが機関銃を撃ちながら彼らを逮捕した。クロップも重傷を負って身柄を拘束され、数分で拉致は完了した。総統の生命を狙った連中の黒幕が一網打尽にされたとドイツの宣伝機関は大げさに報道し、この功績によってシェレンベルクは第一級鉄十字勲章を受章した。

 11月9日の夜、ハイドリヒは刑事警察長官ネーベ准将(9)やゲシュタポ長官ミュラー准将らを引き連れてミュンヘンに急行した。エルザーは逮捕され、ヒムラーの立ち会いのもとでゲシュタポに尋問された。だがエルザーはどんなに拷問されても、自分が独りでやったのだと言い張り、他人を巻き添えにしようとはしなかった。エルザーの単独犯行であるとハイドリヒは結論し、ヒムラーだけが幻の黒幕を追い求め続けた。

 ベストとスティーヴンスは強制収容所に送られ、第三帝国が崩壊するまでそこで過ごさなければならなかった。この事件以後、英国がドイツ国防軍の反ナチ派と連帯しようとすることは決してなかった。ヒトラーの打倒を目指す勢力がドイツの将軍たちの間に存在することは明白だったにもかかわらず、彼らと接触しようとする一切の試みをチャーチルは中止させた。ハイドリヒの「功績」である。


  1. ニュルンベルク裁判におけるシェレンベルク自身の証言に基づく階級。ハインツ=ヘーネの『髑髏の結社』では当時シェレンベルクはすでに准将だったということになっている。
  2. 後にネーベは1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に連座して処刑された。

7.ソビエト侵略

 1941年6月22日、「バルバロッサ作戦」と名づけられた対ソ攻撃を第三帝国は開始した。攻撃開始が予定より5週間も遅れていた(10)にもかかわらず、ドイツ軍は各方面で快調に進撃した。ソビエト空軍は2000機の軍用機をたちまち破壊され、第三帝国は制空権を掌握した。この時、ハイドリヒは戦闘機の操縦士として前線での作戦に従事している。情報機関の長である彼がそんな真似をすることにヒトラーは難色を示したが、ハイドリヒは危険な任務をこなして第一級鉄十字章を受章した。

 ヒトラーは7月4日に「勝利」を演説し、ナチスや軍部の首脳も楽観的な見通しを持つようになったが、ソビエト側は反撃の体制を整えはじめていた。西部戦線軍と西北部戦線軍を編成し、長期抗戦に備えて工場をウラル以東に疎開させたのである。そして7月30日、ルーズヴェルトの特使ホプキンズはソビエトを訪れ、米国には援助の意志があるとスターリンに伝えた。

 ソビエトの抵抗が組織化・体系化されてくるにつれて、ドイツ軍の進撃のテンポは鈍った。8月11日、「ロシアの大きさを過小評価した」と参謀総長ハルダーは日記に書いた。進撃テンポの鈍化に焦燥を感じた軍部はヒトラーの作戦計画を批判し、ヒトラーの作戦計画も混乱したものになった。

 一方、ハイドリヒは新たな仕事にとりかかっていた。第三帝国の占領下に入ったソビエトの地域を完全に鎮定するために四つの特別行動部隊を設置したのである。1941年7月17日、捕虜の中から「政治的危険分子」を見つけ出して射殺せよという命令をハイドリヒは国防軍統合司令部との合意の上で麾下の特別行動部隊に下し、この命令によって翌年の春までに約40万人が殺害された。「政治的危険分子」とは共産党幹部と知識人のことであるが、ユダヤ人であれば即座に「政治的危険分子」と見なされた。ツィクロンBによる殺人をナチスが初めて行ったのは1941年夏のことであるが、「政治的危険分子」と見なされてアウシュヴィッツに送られたソビエト兵の捕虜がその犠牲者だった。

 このころヒトラーやハイドリヒはユダヤ人の「生物学的抹殺」を考えるようになっていた。労働能力のないものはゲットーに閉じ込めておけば餓死するだろう。労働に適しているものは東方へ強制移住させ、死ぬまで働かせればよいというのが彼らの考えだった。「自然現象によって(ユダヤ人の)大部分が消えていくだろう」とハイドリヒは述べている。「強制移住」の目的地ははっきりとは定められていなかったが、ソビエト領内であることは決まっており、候補としてはシベリアも挙げられていた。悪名高いヴァンゼー会議のころになってからのことであるが、シベリアは「ユダヤ人の将来の理想的な故郷」だとハイドリヒは語り、スターリンのこしらえた強制収容所をユダヤ人のために転用できるから便利だろうとも述べている。

 ハイドリヒが目指していたのはドイツ人の「生存圏」からのユダヤ人の排除であるが、この時期「排除」はすでに「殺戮」を意味するようになっていた。そこからガス室まではもはや一歩を残すだけだった。当初は「強制移住」を意味していた「最終解決」がなぜ「絶滅政策」を意味するようになったのかについては次項で述べる。


  1. ドイツ軍は東方へ移動するのにバルカン半島を通過したが、ユーゴスラヴィアとギリシアを制圧するのに意外と手間取ったため作戦に遅れをきたした。

8.ジェノサイドへの道

「我々は彼ら(ユダヤ人)を除去しなければならないが、生物学的に抹殺するのは文化国民としてのドイツ民族の品位に関わる」とハイドリヒは1940年の夏に述べている。〈最終解決〉という言葉は、この時点ではまだホロコーストを意味していなかった。

 ハイドリヒが帝国保安本部の長官に就任したころに計画されていたのは、ポーランド東部のルブリンに巨大なゲットーを作ってユダヤ人を閉じこめるというものだった。また、アフリカのマダガスカルにユダヤ人を強制移住させるという計画もあった。有名な〈マダガスカル計画〉であるが、これらの計画はいずれも実現しなかった。ヒトラーが予想していたよりもはるかに厳しい戦況が計画の実現を許さなかったのである。

 マダガスカルの宗主国であるフランスは1940年6月22日に降伏し、総統官邸では東アフリカ総督の人選が開始されたほどだったが、英国はなかなか屈服しなかった。かくしてマダガスカル計画は流産し、翌年になると〈東方への強制移住〉が検討されるようになる。短期間でソビエトを屈服させたのち、今度は軍を西方に移転させて英国を粉砕するというのがヒトラーの作戦だった。軍を東から西に動かすためには大量の鉄道車両が必要になる。機甲師団や歩兵を運ぶための列車をソビエトに送らなければならないが、行きの列車は空なのだから、それにユダヤ人を満載すればよいとハイドリヒたちは考えた。ヒトラー・ヒムラー・ハイドリヒはとうとう「生物学的抹殺」を考えるようになったわけだが、アウシュヴィッツをはじめとする各地の強制収容所でのちに実行されたことに比べると、この「強制移住」ですらまだしも穏やかな手段であるといわざるをえなかった。

 1941年7月31日、帝国元帥ゲーリングは〈ユダヤ人問題〉の〈最終解決〉をハイドリヒに書面で委任した。すでに口頭で受けていた任務だが、すべての官庁を意のままに動かすためにはゲーリングの書面が必要だった。ハイドリヒは名実共にホロコーストの総指揮者となったのである。

 ハイドリヒがゲーリングから書面を受け取った翌日、「ソビエトの戦闘力の評価を間違えていたことは誰もが認めざるをえなくなってきている」とゲッベルスは日記に書いた。同様の記述が11日のハルダー参謀総長の日記にも見られることは前述したとおりである。東方の第三帝国軍の前に赤軍が立ちはだかり、戦線が膠着状態に陥っていることはもはや明らかだった。物資の不足から電撃戦に賭けていた国防軍首脳にとっては大きな衝撃だったが、自分のもくろんでいた「東方への強制移住」が実現不可能な幻影であることがわかってしまったハイドリヒにとっても痛手は小さくなかった。

 己の権力を途方もなく膨張させつづけていたにもかかわらず、ハイドリヒは焦燥の念を強めていた。ユダヤ人を一時的に収容しておくための場所だったはずのゲットーや強制収容所はいつまでたっても空にならず、帝国保安本部の活動は遅々として進行しなかった。戦争計画の立案に際して第三帝国の首脳部はユダヤ人の「強制移住」を計算に入れてしまっていたので、どんなに非現実的な計画であっても実現したものと見なされた。ところが実際にはソビエトは降伏せず、ユダヤ人をシベリアに送り込むこともできなかったので、別の方法での〈最終解決〉が要求されるようになった。

 圧制と殺戮の化身として恐怖されたラインハルト=ハイドリヒだが、この時期の彼は袋小路に追い込まれていたといえるだろう。だが解決策はあった。毒ガスによる精神病患者の虐殺はすでに行われており、同様の手段をユダヤ人に対して用いないという手はなかった。


9.チェコ統治

 1941年9月17日、チェコの抵抗運動が活発化したという理由でハイドリヒは保護領副総督を兼任することになった。これは第三帝国のヒエラルキーにおけるハイドリヒの地位をさらに上昇させるものではなかったが、自分が行政官としても有能であることを証明して見せたいという動機から彼は任務を引き受けたのかもしれない。

 病床にある総督コンスタンティン=フォン=ノイラートの代理という身分で現地に赴任したハイドリヒはチェコの実質的な王であり、プラハのフラッチャニー城(11)に新しい司令部を設けてチェコの人々の弾圧に乗り出した。チェコ全土に戒厳令が敷かれ、あらゆる集会は禁止された。違反したものは処刑されると布告されたが、これは単なる威嚇ではなかった。ハイドリヒがプラハに乗り込んだその日のうちに142人が処刑され、584人が強制収容所に送られた。傀儡政権の首相エリアーシュでさえ、レジスタンスと内通していたという疑惑によって死刑判決を受けた。名目だけの総督であるノイラート男爵はエリアーシュを帝国保安本部から守ろうとしたが、ハイドリヒは民族裁判所長官のオットー=ティーラックを動かし、エリアーシュを死刑に追い込んだ。裁判は茶番劇でしかなく、わずか数時間を要したのみだった。この「功績」によってティーラック博士は法相に任命された。

 保護領における「ユダヤ人問題の解決」は最重要計画の一つであるとハイドリヒは宣言し、「保護領および旧帝国の一部におけるユダヤ人問題の解決」についての協議を10月10日に行った。チェコに住む約8万8000人のユダヤ人の「立ち退き」を10月15日に開始することと、プラハに住む5000人のユダヤ人の輸送を「11月15日までに順次行う」ことが最初に決定された。

 10月には284人が処刑され、953人が強制収容所に送られた。チェコにおいてハイドリヒは殺戮と絶望の象徴となった。プラハ市内でメルセデスのスポーツカーを乗り回すハイドリヒの姿は、自分の恐怖統治の成功に対する彼の自信のほどを物語るものだった。


  1. 現在のプラハ城。なお、現在ではチェコ共和国の大統領府として使用されている。

10.ヴァンゼー会議

 1942年1月20日、SS大将ハイドリヒの主宰のもとにヴァンゼー会議が開かれ、組織的殺害政策の調整のために責任者たちが集まって、「ユダヤ人問題の最終解決」が正式に宣言された。このヴァンゼー会議が、ユダヤ人に対する「戦争」の転換点となったのである。ベルリン郊外のヴァンゼーにある建物(12)にハイドリヒは高官たちを招き、「ユダヤ人問題の最終解決についての、国境の如何に拘束されない調整」をはかった。

 HSSPF(SSと警察の上級指導者)や人種植民本部の代表が会議出席者の中におり、さらにユダヤ人の財産を没収して分配する部署の責任者もいた。このほかに、ポーランド総督ハンス=フランクの代理として総督府次官のヨーゼフ=ビューラー博士が出席していた。ポーランドには200万人のユダヤ人がいたからである。ハイドリヒから「不潔な役者」と呼ばれた法務次官のローラント=フライスラー博士も参加していた。のちに民族裁判所長官となり、1200名の政治犯に死刑を宣告した人物である(13)。外務次官補であり、ナチスおよびSSと外務省の相互連絡を司るドイッチュラント課の課長を兼ねるSA少将マルティン=ルター博士もいた(14)。帝国保安本部のユダヤ人局の責任者はアドルフ=アイヒマン中佐であり、彼はすでに会議の議定書の草稿を用意していた。ゲシュタポ長官のミュラー中将(15)の姿も見えた。

 ドイツにとって最も好ましい方法を出席者たちは模索した。15名の出席者のうち8名は博士号を持っており、また5名はSSの将官だった。彼らはユダヤ人政策について充分な情報を与えられており、この大規模な政策の正否は自分たちの協力にかかっていると全員が考えていた。ハイドリヒは次のように述べている。

 (ユダヤ人)問題に関して、総統が適切な承認を事前に与えてくれた後で、出国に代わる新たな解決方法を採用する。ユダヤ人の東方への「強制疎開」である。ただし、これは暫定的な方法であり、ユダヤ人問題の将来的な最終解決をはかる方法はすでに実験段階に入っている。

 出席者たちには説明する必要もなかった。「東方への強制疎開」が収容所送りの遠回しの表現であり、「最終解決」が組織的殺戮であることを彼らは知っていたからである。

 そのための基本的な方法はすでに試験済みだった。数カ月前から特別行動部隊(アインザッツグルッペン)が東ヨーロッパで何十万人というユダヤ人を殺害していた。ガス自動車もヘウムノの絶滅収容所で40日も前から使われており、アウシュヴィッツやビルケナウでは農家がガス室に改造されていた。またベウジェツの絶滅収容所では、一酸化炭素の排気ガスを利用したガス室が建造中で、アウシュヴィッツでは青酸ガスを発生させるツィクロンBを使った実験が始まっていた。

 会議では問題が明確に語られた。アイヒマンはこう述べている。「会議では、殺害・根絶・絶滅の方法について話し合われた。話し合いの最中に執事がブランデーを持ってきた。方針は決められ、目標が宣言された。『最終解決』の実行は即座に行うとされたのである」

 出席者は反対もせず、良心の呵責も感じず、それどころか自分の任務を果たすことに熱意さえ感じていた。たとえば、ポーランドで最終解決が始まることをビューラー博士(16)は歓迎していた。議定書によればビューラーはこう述べている。

 ユダヤ人は片づけなければならない──できるだけ迅速に。なぜなら、ユダヤ人から伝染病が発生する危険があるからである。しかも、250万人のユダヤ人の大多数は労働不能である。

 始まってから87分後に会議は終了した。問題解決に関する任務の遂行に際し、諸君が適切な助力を提供してくれることを望むと述べてハイドリヒは会議を締めくくった。それから30年後、エルサレムで開かれた裁判でアイヒマン(17)はこう回想している。

「会議の後、部屋の隅にあるストーブにあたりながらハイドリヒは煙草をくゆらせ、ブランデーをすすっていた。われわれは友達のように一緒に座っていた──仕事の話をするためではなく、長い会議のあとでくつろぎの時間を過ごすために」


  1. この建物はかつてインターポールのドイツ司令部として使われていた。インターポールの本部がパリからウィーンに移った直後にドイツがオーストリアを併合したのでインターポールは第三帝国の支配下におかれ、1940年8月以降はハイドリヒがインターポールの長官を兼任していたのである。
  2. フライスラーは1945年に空襲で死亡した。
  3. のちにルターはSS少将シェレンベルクの和平交渉に協力し、リッベントロップの失脚を画策するが、反撃に転じたリッベントロップによって1943年2月10日に強制収容所へ送られた。彼は1945年4月に解放されたが、その1カ月後に心臓病で死亡した。
  4. 1945年4月29日に総統官邸の地下壕で目撃されたのを最後にミュラーは消息を絶った。ローマ経由で南米に逃亡したのではないかともいわれているが、定かではない。ヴァンゼー会議の出席者で末路が不明なのは彼だけである。
  5. 戦後ビューラーはポーランドで処刑された。
  6. アルゼンチンでアイヒマンが逮捕されたとき、彼の名前が彫られた金メッキの拳銃がアイヒマンの家から見つかった。ハイドリヒからアイヒマンへの誕生日の贈物であり、それをアイヒマンは後生大事に手放そうとしなかったのである。

11.ハイドリヒの最期

 保護領副総督としてチェコに乗り込んだハイドリヒは前述のように恐怖政治を開始したが、暴力のみの統治ではチェコ人を離反させるだけだということも充分に承知していた。彼はラジオや新聞を通じてプロパガンダを行い、チェコ国民に呼びかけた。

「道はふたつだ。生活を豊かにするか? いたずらな反抗によって地獄にいくか?」

 単純な問いである。しかしハイドリヒのプロパガンダは功を奏し、チェコの工場は能率を上げていった。そのまま「ドイツ化」が進めば、いつかチェコの民心はナチスになびいていくかもしれない──ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府はそのことを恐れた。そして、ハイドリヒの暗殺が決定された。ナチスの報復による多大な犠牲を覚悟した上での苦渋の決断だった。


 1941年の暮、ベネシュに率いられるチェコスロヴァキア亡命政府は二人の特殊工作員を英国の空軍機でチェコに送り込んだ。

 二人はチェコスロヴァキア出身の英国軍兵士で、名をヤン=クビシュそしてヨセフ=ガブチークといった。彼らに与えられた任務はハイドリヒの暗殺であり、そのコードネームはアンソロポイド(類人猿)作戦だった。彼らは深夜に落下傘でプラハ郊外に降下し、抵抗組織にかくまわれて時機をうかがった。報復のすさまじさを懸念した抵抗組織は暗殺の中止をロンドンに要請したが、ミュンヘン会談の恨みが骨髄に徹していた英国政府は耳を貸さなかったといわれている。

 やがて好機が訪れた。1942年5月23日、ハイドリヒの執務室の柱時計が故障したため、秘書が市内から修理人を呼んだ。修理工ヨセフ=ノボトニーは作業の合間にハイドリヒの机上の予定表を見た。5月27日にハイドリヒがベルリンのヒトラーを訪問すると書かれており、空港までの道順まで記されていた。彼はすばやくメモしたが、出入り口で身体検査があるので持ち出すことはできない。彼はメモを屑篭に捨て、あとでやってきた掃除婦メアリー=スネロバが屑篭の中身をゴミ捨て場にもっていった。数時間後メモは地下組織のもとに届いた。アンソロポイド作戦は決行と決まり、プラハ北西のカーブ地点でハイドリヒを襲撃することになった。この時点では二人の決死隊員に数名の補助要員がついていた。みな英国から空路で乗り込んできた工作員で、総指揮をとるのはアドルフ=オパールカ少尉だった。

 そして運命の日がやってきた。5月27日朝、ユダヤ人の素封家から取り上げた豪勢な別荘をハイドリヒは発ち、緑色のメルセデスのオープンカーを郊外から市内の空港へと走らせた。出発の時間にいくらか遅れていたため、いつもはつけている護衛車をつけなかったのは彼にとって不運だった。

 午前10時25分、クビシュとガブチークの待ち伏せている地点にメルセデスがさしかかった。そのときハイドリヒは後部座席で書類に眼を通していた。小高い丘で待機していたオパールカが手鏡でハイドリヒ接近の信号を送ったが、思いがけないアクシデントが起きた。ガブチークの機関銃(18)が故障したのである。しかしクビシュがメルセデスの後部座席に投げつけた手榴弾は正常に爆発し、メルセデスは大破した。ハイドリヒは左半身に重傷を負い、肋骨・横隔膜・脾臓・肺・胃を破壊された。それでも彼は愛車の残骸から這い出し、拳銃を立て続けに撃ちながらクビシュに追いすがったが、弾のなくなった拳銃を投げ捨てると同時に力尽きて倒れた。クビシュとガブチークは現場からの逃走に成功し、アジトに隠れた。

 ハイドリヒが重傷を負ったという報告を受けたヒトラーは顔色を変えて激怒した。ヒムラーは自分の侍医ゲープハルトをプラハに急行させ、さらに自らハイドリヒを見舞った。6月2日にヒムラーと面会したとき、「この世は主の自ら奏でる手回しオルガンに過ぎず、我らは定められた調べに合わせて踊るのみ」とハイドリヒは自分の父親のオペラから歌詞の一節を引用し、ハイドリヒの不運を嘆くヒムラーを逆に慰めたという。

 ハイドリヒは持ち直すかのように見えたが、彼の命運はもはや尽きていた。6月4日午前4時30分、「第三帝国の斬首官」と呼ばれた人物は死亡した。事件を調査するために派遣された刑事警察のベルンハルト=ウェーナー博士はハイドリヒのデスマスクを次のように形容している。「この世のものとは思えない神秘的な面影と、限りなく頽廃的な美しさを秘めている。ルネサンス時代の枢機卿のようだ」

 ハイドリヒの死因は敗血症である。だが、脾臓の切除手術後に血清の注射を打ちすぎたのが真の死因であるという説を唱えた医師も少数おり、ゲープハルト教授の邪悪な性格と相まって、ハイドリヒの権力が際限なく増大していくことに怖れをなしたヒムラーがゲープハルトに命じてハイドリヒを暗殺させたのだという噂が流布することになった。実際、ハイドリヒが死ぬとヒムラーの勢力は飛躍的に増大した。能力の不足しているカルテンブルンナー中将(19)をハイドリヒの後釜に据えることにより、ヒムラーはハイドリヒの実権を自分のものにできたからである。しかしハイドリヒの死と同時にSSは停滞に陥った。ハイドリヒの死後、ヒムラーは権力の中枢から遠ざかる一方だった。

 ベルリンでは6月4日のうちに500人のユダヤ人が報復として投獄され、152人が処刑された。ナチスはハイドリヒのために盛大な葬儀を行い、「鋼鉄の心臓を持った男」とヒトラーはハイドリヒのことを称えた。ヒトラーはハイドリヒの葬儀で次のように述べている。

 故人を悼む言葉を簡潔に述べさせていただく。彼は最高の国家社会主義者の一人であり、ドイツ帝国の思想の最大の守護者の一人であり、帝国のあらゆる敵にとっては最大の障碍のひとつであった。親愛なる同志ハイドリヒよ、党首およびドイツ帝国総統として、私は与えうる最高の栄誉を君に授けよう。最高位のドイツ勲章である。これを受章するのは、トート同志に次いで君が二人目だ。

 ヒトラーはこう述べているが、ドイツ勲章には等級がない。おそらく彼は鉄十字章か何かと混同したのだろう。


  1. 機関銃ではなく自動拳銃だったとする資料もある。
  2. 帝国保安本部長官に就任する前はオーストリアのSS上級指導者だった。のちに大将に昇進。ハイドリヒの後任としてICPC(国際刑事警察委員会。ICPOの前身)の総裁を務めたのも彼である。ニュルンベルク裁判で絞首刑を宣告された。なお、ハイドリヒが死亡してからカルテンブルンナーが帝国保安本部長官に任命されるまでの数カ月間はヒムラーが臨時に帝国保安本部長官を兼任した。

12.帝国の報復

 個人のレジスタンス行為に対する報復として、その人物が属する共同体全体を抹殺するという政策をナチスはとった。そういった集団殺戮は、抵抗運動を行おうとする国民の気運を押さえつけるのに効果的な戦略だったからである。チェコの村リディツェの絶滅は、ナチスの報復の中でも最も悪名高いものとして知られている。


 ハイドリヒが死亡するとナチスは報復を誓い、新たなチェコ総督としてクルト=ダリューゲを送りこんだ(20)。プラハでは夜間の外出が禁止され、違反者は処刑された。交通網と通信網は閉鎖され、暗殺者には1000万コルナの賞金がかけられた。SSは45万人を動員して捜索を行い、470万人のチェコ人が取り調べを受けた。1週間で1万3000人が逮捕され、1800人が処刑された。

 6月10日の明け方、プラハから10キロほど離れたリディツェでは村人全員が家から連れ出された。そして納屋の陰で一度に10人ずつが射殺された。夕方近くまでに192人の男性と71人の女性が殺され、残りの女性たちは強制収容所に入れられた。子供たちも強制収容所に入れられたが、外見が明らかにアーリア人の特徴を備えているとみなされた子供たちはドイツに送られた。それからSSは村を破壊し、村人の金を強奪して、リディツェの名前をすべての公式記録から抹殺したのだった(21)。

 6月18日早朝、暗殺者とチェコのレジスタンス組織のメンバーが隠れていたキリル=メトデゥース教会(22)は、360人のSS隊員を含む1000人の武装部隊に包囲された。降伏の勧告に応じるものはおらず、午前4時過ぎになって突入作戦が決行された。3時間後、オパールカなど3名のものが斃れた。続いて、地下室にいたガブチークら4人に対する攻撃が開始された。地下室にホースで水が注ぎ込まれる中、激しい銃撃戦が繰り広げられたが、やがてそれにも終わりが訪れた。4人の戦士たちは、最後に残った銃弾で各自の命を絶ったのである。午前11時のことだった。

 プラハの東にあるレザキ村では、暗殺者の無線機が発見されたことから、成人の村人全員が殺された。村の子供たちは「再教育」のために強制的にドイツに送られたが、この再教育で最後まで生き延びた子供はわずかに二人だけだった。

 ハイドリヒの暗殺に対する報復として5000人の人間が虐殺され、チェコの人々はナチスの暴虐に震え上がった。ナチスに対するレジスタンスを彼らも消極的ながら考えていたからである。だが、この国では暗殺という手段は好まれず、戦後になってからもチェコスロヴァキア亡命政府は暗殺に対する責任を一切否定した(23)。

 そして、ナチスがポーランド各地の絶滅収容所で行った「ユダヤ人問題最終解決」には「ラインハルト作戦」というコードネームがつけられた。死んだラインハルト=ハイドリヒへの「手向け」として。


  1. 戦後ダリューゲはチェコスロヴァキアの法廷で戦犯として裁かれ、1946年10月24日にプラハで処刑された。
  2. この虐殺を指揮したSS大将ヘルマン=フランクは戦後に逮捕され、当然ながら死刑を宣告された。連合国に逮捕されるまでの間、彼は農家に隠れ住んでいたが、馬と一緒に過ごしたその一時が自分の人生においてもっとも幸福だったと法廷で語ったということである。
  3. 資料によってはカール=ボローメウス教会となっている。もともとは聖カール=ボローメウスに捧げられた教会だったが、1930年代以降はキリルとメトデゥースの兄弟聖人を祝した教会となっていた。
  4. ハイドリヒ暗殺が英国の支援を受けて行われたという事実が共産主義政権下では好まれなかったということもある。