バーロウ事件

竹岡啓


1.発端

 H.P.ラヴクラフトが遺した原稿や蔵書を巡って彼の死後に起きた騒動について本稿では論じる。騒動の中心にいたのがロバート=バーロウであることから、この事件を仮に「バーロウ事件」と呼ぶことにしよう。バーロウ事件の概要をごく簡潔に説明するならば、ラヴクラフトの遺著管理者であるバーロウとドナルド=ワンドレイらの間で生じた諍いということになる。

 ロバート=バーロウがいかなる人物であるかについては、理力探求の会略伝を掲載してくださったので、それを併せて御覧いただきたい。バーロウは13歳の時にラヴクラフトと知り合い、晩年のラヴクラフトは彼ともっとも親密だった。なお、バーロウは14歳の時にオーガスト=ダーレスとも文通を始めている。ラヴクラフトがヘレン=V=サリーに宛てて書いた1934年5月26日付の手紙によると、バーロウは文才と画才を兼ね備えている以外にもチェス・射撃・テニス・ピアノなどが得意で、「これほどまでに才能豊かな子は未だかつて見たことがありません」とラヴクラフトは驚嘆している。"A Dim-Remembered Story"と題する短編小説をバーロウは18歳の時に書いているが、これはラヴクラフトからも「クラーク=アシュトン=スミスの最高傑作にすら匹敵する」と絶賛され、いわゆる宇宙的感覚においてバーロウが「ラヴクラフト・サークル」の他のメンバーの追随を許していなかったことの証左となっている。

 ラヴクラフトがバーロウを自分の遺著管理者に指名した経緯は定かでない。バーロウの回想記によると、ラヴクラフトの訃報を受け取ったバーロウがプロヴィデンスに駆けつけたとき一通の封書をラヴクラフトの叔母のアニー=ギャムウェルから渡され、バーロウを遺著管理者に指名する旨がそこにラヴクラフトの直筆でしたためてあったそうである。だが、ラヴクラフトが僕を遺著管理者にしてくれたとバーロウが吹聴するのをラヴクラフトの存命中に聞いたとハリー=ブロブストは回想している。いずれにせよ、バーロウが遺著管理者になるのがラヴクラフトその人の希望であったことは疑いない。当時バーロウはまだ未成年だったのだから遺著管理者の資格はなかったはずだという指摘もあるが、アニー=ギャムウェルは1937年3月26日にバーロウを遺著管理者として正式に承認した。これにより、バーロウがラヴクラフトの遺著管理者であることは法的にも正当なものとなったとS.T.ヨシは述べている。

 自分の蔵書の処理についてラヴクラフトは指示を遺していた。この本は親友のジェイムズ=F=モートンに渡してほしい、あの論文集はフィラデルフィアの図書館に送ってほしい──バーロウはその指示に従って行動を開始した。また、ラヴクラフトの遺した種々の原稿をブラウン大学のジョン=ヘイ図書館に保管させたのもバーロウである。これにより、後世のラヴクラフト研究家は多大な恩恵を被ることになった。


2.不和

 一方、オーガスト=ダーレスとドナルド=ワンドレイはラヴクラフトの作品集を出版するために行動を起こしていた。実のところ、この二人はラヴクラフトの生前から彼の作品を本にしようと計画していたようである。また、ギャムウェル夫人が貧しいことを知っていたダーレスとワンドレイは、自分たちがラヴクラフトの蔵書を買い取ることによって彼女の暮らしを助けることを思いついた。そこで蔵書の価格を見積もるために、本屋を本職としていたサミュエル=ラヴマンが呼ばれた。ラヴマンはラヴクラフトと親しかった詩人で、「ランドルフ=カーターの弁明」に登場するハーリイ=ウォーランは彼がモデルである。余談だが、ユダヤ系であるラヴマンは後に「金とおがくず」でラヴクラフトの反ユダヤ的な側面を厳しく批判した。しかしラヴクラフトがユダヤ人を好いていなかったことをラヴマンが知ったのはソニア=グリーンからの伝聞によるものであり、ラヴマン自身がラヴクラフトから差別的な仕打ちを受けたことはなかったとピーター=キャノンやスコット=コナーズは指摘している。

 ラヴクラフトの蔵書や原稿がバーロウによって持ち去られたことを知ったワンドレイは愕然とした。不幸にも、ラヴクラフトがバーロウを遺著管理者に指名したことは周知されていなかったようである。そしてバーロウがラヴクラフトの蔵書をあちこちの図書館や個人に送っていることを知ると、気の毒な老婦人からバーロウが貴重な財産を巻き上げようとしていると思ったワンドレイとラヴマンは激怒した。自分の行為はラヴクラフトの指示に従ったものであり、ラヴクラフトの遺した書き付けを公表すれば誤解も解けるのにとバーロウは回想記で嘆いている。なお、この回想記の初出は1944年にアーカムハウスから刊行された『マルジナリア』である。どうやらダーレスはバーロウに釈明の機会を与えようとしたらしい。

 ワンドレイはバーロウの「恐るべき狼藉」を止めさせるために行動を開始し、彼の弟であるハワード=ワンドレイとラヴマンがそれに加わった。ダーレスはより冷静だったが、バーロウの行動によってギャムウェル夫人の利益が損なわれることを憂慮し、ラヴクラフトの遺言執行人であるアルバート=ベーカーに調査を行わせることに同意した。ダーレスがバーロウに宛てて書いた1938年9月20日付の書簡を読むと、ダーレスは抑えた口調でバーロウの説得を試みており、彼の苦しい胸中が垣間見える。しかしバーロウは自分でラヴクラフトの作品を出版しようとしており、フュータイル=プレスを経営していたクレア=ベックにもう渡りをつけていた。

 ワンドレイは躍起になり、バーロウの「非道」を訴えて回った。激高したバーロウはワンドレイとラヴマンを訴えようとしたが、ドナルド=A=ウォルハイムとロバート=A=W=ローンダスに説得されて思いとどまったというから、ワンドレイらの行動は誹謗中傷の域に達するものだったらしい。しかしバーロウの高慢な性格が「ラヴクラフト・サークル」の他の面々から反感を買っていたこともあって、多くのものは彼に敵対するようになった。バーロウとの友誼を保ったものはホフマン=プライスやC.L.ムーアなど一握りに過ぎず、とうとうC.A.スミスまでもがバーロウの敵に回ってしまった。ワンドレイから直訴されて憤激したスミスは次のような手紙をバーロウに送りつけたのである。

 もう手紙をよこさないでください。どんな方法であろうと、僕と連絡をとろうとはしないでください。愛する親友の遺産のことで君があんな振舞をした後では、君の言葉なんて一言も聞きたくないんです。

 そして、ワンドレイに宛てて書いた1938年9月30日付の手紙でスミスは次のように述べている。

 長年にわたって君のことを知っている僕としては、君の言葉には確かな根拠があるのだと信じないわけには生きません。正直なところ、バーロウが泥棒猫であることが明らかになるのを僕は予期していなかったわけではないのです。

 散々な言われようである。バーロウはスミスに手紙を送って自分の真意を説明しようとしたが、スミスはその手紙を暖炉に放り込み、もしバーロウが訪ねてきたらフェンシング用の剣を振り回して追い払うとワンドレイ宛の手紙で宣言した。そのような武器をスミスは実際に所持していたのである。


3.結末

 1939年、アーカムハウスが誕生した。バーロウは一切をダーレスに任せ、自分はカリフォルニア大学バークレー校を出て文化人類学者となった。ラヴクラフトの初の作品集である『アウトサイダーその他の物語』がアーカムハウスから刊行されたが、その売り上げである1000ドル(現在の金額に換算して数万ドル)をダーレスとワンドレイはギャムウェル夫人にそっくり渡し、必要経費を差し引くことすらしなかったという。ギャムウェル夫人は1941年に亡くなったが、人生の最後に安楽な暮らしを送ることができたのである。第二次世界大戦が始まるとワンドレイは1942年に出征し、それ以降はダーレスが独りでアーカムハウスの経営を支えることになった。ワンドレイは第65歩兵師団で戦い、悪名高いフロッセンブルク強制収容所の解放戦に参加するなど勲功を立てて上級曹長まで昇進した。

 人類学者としてのバーロウは、アステカ文化の研究における先駆的な業績を上げたことで高く評価されている。バークレーを卒業すると彼はメキシコに行き、二十代の若さでメキシコ国立自治大学の教授となった。スミスに憎まれてしまったことはバーロウにとって痛手だったろうが、ホフマン=プライスの尽力によってスミスとバーロウは1941年に和解した。バーロウが1939年6月に書き上げた小説「黄昏に還る」はスミスの絵から着想を得たものであり、スミスから絶縁されていた時期もバーロウがスミスを慕い続けていたことが窺える。

 ラヴクラフトの遺産を巡る争いについて、バーロウは「はらわたを肉切り包丁で寸断されるような苦痛だった」と回想しているが、その言葉はワンドレイに向けられたものである。バーロウはダーレスを恨みはしなかった。ダーレスの方もバーロウの短い生涯の終わりまで彼と親しく文通し、ラヴクラフトの遺産をいかに守り伝えていくかについて彼に相談していた。そして最晩年に自らの事業を総括した『アーカムハウスの30年』ではバーロウをラヴクラフトの正当な遺著管理者として認めている。