まったくといっていいほど日本では知られていないが、ジョン=グラスビーというクトゥルー神話作家が英国にいる。1928年に生まれ、名門ノッティンガム大学の化学科を優等で卒業したグラスビーはインペリアル=ケミカル=インダストリーズ社に研究員として勤務する傍ら、おびただしい小説を筆名で発表していた。また自然科学の解説書の著者としても知られている。彼の最近のクトゥルー神話作品としては、2005年に刊行されたアンソロジー『続インスマス年代記』(1)に収録されている「イハ=ントレイを探して」があるが、これは1928年に連邦捜査局・海軍・海兵隊が合同で行ったインスマスの住民の一斉検挙とイハ=ントレイへの魚雷攻撃を描いた短編である(2)。
ロバート=プライスは『シュブ=ニグラス神話集』の解説でグラスビーのことを「『新ラヴクラフト・サークル』の失われたメンバー」と呼んでいる。「新ラヴクラフト・サークル」というのは耳慣れない言葉かもしれないが、ブライアン=ラムレイやラムジー=キャンベルなどオーガスト=ダーレスが育て上げた作家たちのことである。あるいは第二世代の神話作家たちと呼んでもよいだろう。以下にプライス博士の言葉を引用する。
ジェイムズ=ウェイド・ゲイリー=メイヤース・コリン=ウィルソン・ブライアン=ラムレイ・ラムジー=キャンベル・リン=カーターといった新進作家たちにオーガスト=ダーレスはクトゥルー神話の未来を託したのであるが、この「新ラヴクラフト・サークル」(3)の失われたメンバーと呼べるのがジョン=グラスビーである。1970年代初頭にダーレスはグラスビーの神話作品集を受理し、『悪夢の地平』と題して出版しようとしたが、ダーレスが痛ましくも世を去った後に原稿はグラスビーの手許へ戻ってきた。1989年にマイク=アシュリーが私の注意を喚起し、そして我々が『クトゥルーの窖』に掲載するまで、グラスビーの神話作品は眠り続けていた。
このような事情から、神話作家としてのグラスビーは比較的最近まで無名だったが、現在では彼の神話作品を様々なアンソロジーで手軽に読める。本稿で紹介したいのは、そのうち「黒い鏡」と題する短編である。この作品の初出はスーパーナチュラル=ストーリーズの109号(1967年夏季号)だが、そのときは編集者の判断によってクトゥルー神話関連の記述がすべて削除されていたという。一般の読者にわからないからという理由でクトゥルー神話が敬遠されていたことが窺えるが、それから29年後に刊行されたアンソロジー『新ラヴクラフト・サークル』にはオリジナルの「黒い鏡」が収録されている。
「黒い鏡」はクトゥグアを扱った神話作品である。この作品がやや特殊なのは、クトゥグアがフォマルハウトではなく、その近くにあるコルヴァズという星に封印されているとしている点だろう。あるいはフォマルハウトという有名すぎる星の陳腐さを嫌ったのかもしれないが、クトゥグアが恒星に幽閉されているという設定も注目に値する。すなわちクトゥグアの顕現は恒星のように巨大なのである。巨大な邪神といえば、ラムジー=キャンベルの創造したグロスが有名だが、そのグロスもせいぜい惑星程度の大きさである。「黒い鏡」のクトゥグアはその比ではない。アザトースやヨグ=ソトースを別にすれば、巨大さでクトゥグアを上回る神は今のところ存在しないように思われる。もちろんクトゥグアが真の力を発揮すれば地球を一瞬で灰にすることも可能であるが、これはクトゥグアと力が拮抗しているとされるクトゥルーやハスターの強大さをも暗示する設定である。さても大風呂敷を広げたものだといわれるかもしれないが、私個人はこの設定がたいへん気に入っている。
コルヴァズの周りを公転している惑星には、クトゥグアに仕える火鬼の都市があるとされるが、この火鬼というのは炎の精と同一の存在だろう。魔術師ニコラス=ゼグレンビ(4)は火鬼を招喚し、1666年のロンドン大火を引き起こした。ゼグレンビが火鬼を招喚するのに使った道具は、彼が異界から持ち帰った「黒鏡」であり、『ゼグレンビ手稿』に黒鏡の在処が記されているという。不幸にも黒鏡を見付けてしまった男の運命が「黒い鏡」では語られている。
話はこれだけでは終わらない。グラスビーが「黒い鏡」で作った設定は『デルタグリーン』のサプリメント『カウントダウン』に取り入れられているのである。ただし『カウントダウン』ではコルヴァズはフォマルハウトの別名であるということになっており、設定が従来のものに近づいている。またクトゥグアはコルヴァズの周りを回っているということになっており、大きさが恒星級から惑星級に引き下げられている。一方では新しい設定が付け加えられており、それが「コルヴァズの剣」なるアイテムである。
コルヴァズの剣は火鬼の炎で鍛え、刃の中に火鬼を封じ込めた片刃の剣である。象牙の柄がついているが、鍔はない。あらゆる可燃物に刀身で触れるだけで燃え上がらせることができ、また不燃物であっても焦げ付かせることができる。強大な破壊力を持つ武器だが、使用するたびに正気を蝕んでいく(5)。剣を使っているものが正気を完全に喪失すると、我が身を焼き滅ぼして新たな火鬼に生まれ変わる。そしてコルヴァズへと飛び去り、そこで未来永劫クトゥグアに仕えることになるのである。
コルヴァズの剣はピスケス(6)の工作員サラ=ムーアが所持しているということになっているが、他のNPCやPCに使わせることも可能である。剣を使い続けるうちに火鬼に近づいていくという設定は、人間から怪物への変貌というクトゥルー神話のモチーフのひとつを新しい角度から捉えたものといえるだろう。旧支配者を水風地火の四大に分けたのはいいが、火の神が欠けているではないかとフランシス=T=レイニーに指摘されたダーレスが穴埋めのために創造したのがクトゥグアだった。だが誕生から60年以上の時を経た今もクトゥグアは成長し続け、クトゥルー神話の世界を豊かなものにしてくれているのである。