「クトゥルーの呼び声」には次のような記述がある。
私は、エインジェル教授が「クトゥルー教団」と呼んだものを大々的に調査しており、ニュージャージー州パターソンに住む博学な友人を訪ねているところだった。地元の博物館の館長で、高名な鉱物学者でもある人物だ。
ラヴクラフトにはジェイムズ=ファーディナンド=モートンという友人がいた。彼はパターソン博物館の館長で、鉱物学に精通していた。「クトゥルーの呼び声」に登場する「パターソンの博学な友人」とはモートンのことなのだろう。クラーク=アシュトン=スミスへの言及があることと併せて「呼び声」における楽屋落ちであるように思われる。
またフランク=ベルナップ=ロングの「ティンダロスの猟犬」にもジェイムズ=モートン博士なる学者が登場し、ティンダロスの猟犬がハルピン=チャーマズの死体に残していった青い漿液を分析している。鉱物学者ではなく生物学者だが、この人物が実在のモートンに因んでいる可能性について『エンサイクロペディア・クトゥルフ』の著者ダニエル=ハームズに問い合わせたところ、ロングとモートンが友達だったことは少なくとも事実だという返信をいただいた。ハームズ氏の親切な御教示に御礼を申し上げる次第だ。
ロングの回想によると、ラヴクラフトは誰に向かっても「おじいちゃん」と自称する癖があったそうだ(1)。相手がモートンの時も例外ではなかったが、彼は1870年10月18日生まれなので実はラヴクラフトより20も年上だった。「ラヴクラフト・サークル」において最長老といってよいだろう。
モートンは1892年にハーバード大学を卒業したが、成績が非常に優秀だったため学士号と同時に修士号を授与されたという(2)。卒業後は定職に就かず、社会運動に取り組んでいた。思想的にはアナーキストであり、エマ=ゴールドマンが創刊した「母なる大地」(3)に寄稿したこともある。人種差別の撤廃や男女同権を世に訴え、志を同じくするマーガレット=サンガーとも親交があった。1914年にサンガーがコムストック法違反で逮捕されたときは助言を行っている。
ラヴクラフトとモートンの交流が始まったのは1915年のことで、チャールズ=D=アイザックソンという人が人種差別廃絶を主張したのがきっかけだった。保守主義者を自認するラヴクラフトは、自分が発行していたConservatismなる同人誌でアイザックソンに噛みつき、そのときモートンがアイザックソン側の援軍として現れたのだ。"Conservatism Gone Mad"と題する記事でモートンは次のように述べた。
真の保守主義者はいつでも尊敬に値するものだ。真の保守主義者は望ましく必要な社会的影響の代表者であり、それは世の中の不正をただそうとする急進派の動きが行き過ぎるのに歯止めをかけるものである。ラジカリズムの擁護者として、私は上記のことを認めるにやぶさかでないし、まともな保守主義者を根絶できるとしても、そのようなことはするまい。急進派は進歩を促進し停滞を避けるために必要だし、保守派は均衡を守り革新の最中に秩序を維持するために必要である。(中略)ラヴクラフト氏は、常識とか主流といったものを墨守しようとしているというよりは、過ぎ去った時代の偏見へと回帰しようとしている。それは保守ではなく反動というのである。(4)
ラヴクラフトの痛いところを突いている。モートンが張った論陣をS.T.ヨシは「すばらしい」「圧倒的」と称賛しているが(5)、少なくともラヴクラフトが言い返せなくなったことは確かで、モートンはハーバードで勉強しすぎたに違いないとぼやくラインハート=クライナー宛の手紙(1915年11月25日付)が残っている(6)。一方、モートンはラヴクラフトの人となりを次のように評した。
討論中の誌面に見られる例からも明らかなように、ラヴクラフト氏が達人の席に座して威風堂々と裁きの雷を放てるようになるには長く地道な修練が必要だ。氏の美点はその明白な誠実さである。同じように誠実な人々が共有している多くの観点を尊重することの価値をラヴクラフト氏がひとたび認め、特定の事柄をもっと学びさえすれば、その偏狭さと不寛容は消えていくだろう。氏の文章にみなぎる活力に、より幅広い理解に基づいた明瞭な着想が伴えば、すぐれた作家となるはずだ。
未熟ながら見所はあるというわけだ。その年ラヴクラフトは25歳、モートンは45歳だった。ラヴクラフトがモートンに一喝されて目を覚ましたというのであれば美談だが、そうではなかったらしい。「遺憾ながら、この出来事はラヴクラフトの人種観に何ら影響を及ぼさなかったようだ」とヨシは述べている。しかし、およそ友好的ではない状況のもとで始まった付き合いだったにもかかわらず、ラヴクラフトとモートンの友情は終生にわたって続くことになった。
ラヴクラフトに対するモートンの文学的影響としては、アルジャーノン=ブラックウッドの作品を読むよう薦めたことが有名だ。怪奇小説のアンソロジーがダーレスから6冊も送られてきたとラヴクラフトは1933年2月1日頃のモートン宛書簡で報告し、次のように述べている。
そのうちの一冊(ブーン=リンチの"The Best Ghost Stories"という本です)にはブラックウッドの「柳」が収録されておりましてね――まことに喜ばしい出来事でありました。ところで――そもそもアルジャーノンに私の注意を向けさせてくれたのはあなたでしたね。そのことでは未来永劫にわたって感謝する次第です。
人種主義者の若者をボコボコにした挙句「ブラックウッドはいいぞ」と薦めてくるおじさん。こう書くだけでも、なかなか濃いキャラだ。モートンと親交があった有名な作家はラヴクラフトだけではなく、ジャック=ロンドンも彼の親友だった。モートンをモデルにした人物がロンドンの『マーティン・イーデン』に登場するが、その箇所を訳出してみよう。
「ノートンがそこにいればいいんだが」しばらく後、デミジョン瓶2本を取り上げようとするマーティンの奮闘に抗いながらブリッセンデンは喘ぎ喘ぎ語った。「ノートンは理想主義者なんだ――ハーバード大学の出身でね。ものすごく記憶力が優れた男だよ。理想主義が高じてアナーキズムに傾倒し、家族から縁を切られてしまった。お父さんは鉄道会社の社長で億万長者なのに、その息子はサンフランシスコで食うや食わず、アナーキズムの新聞を編集しては毎月25ドルで生活している」(7)
ノートンと名前が変えてあるが、これはモートンのことだ。ただし父親が鉄道会社の社長だというのはロンドンの創作で、実際はフィリップス=エクセター=アカデミーの校長だったらしい。ロンドンからもらった服をモートンはずっと大切に着ていたという心温まる逸話をラヴクラフトは1933年1月21日付のロバート=E=ハワード宛書簡で紹介している(8)。
1924年にラヴクラフトはソニア=グリーンと結婚してブルックリンに引っ越した。ニューヨークで暮らしていた頃のラヴクラフトと友人たちの集まりをケイレム=クラブというが、その中心人物はラヴクラフトとモートンだった。「ラヴクラフトが王子ならば、モートンは王だった」とジョージ=カークは語っている(9)。
1926年に結婚生活が破綻したラヴクラフトがプロヴィデンスに帰ったことでケイレム=クラブは解散したとされるが、その前年にモートンもパターソン博物館の館長に就任し、ニューヨークを離れていた。この時ラヴクラフトを博物館の助手として採用する計画があり、彼自身も乗り気だったものの実現はしなかった。博物館の施設を拡張するための地所がなかなか確保されず、その問題を解決するまで追加の人員を雇用できなかったのが原因だとヨシのラヴクラフト伝にある(10)。もしもラヴクラフトが博物館の助手として働きながら小説を書いていれば生活も安定し、彼の人生はもっと違ったものになっていたのかもしれない。いささか惜しい話であるように思われる。
助手にはなれなかったが、ラヴクラフトはパターソン博物館に貢献している。モートンは鉱物標本の展示を充実させようとしていたが、米国東部でしか産出しない鉱物が欠けていた。彼が伝手をたどって手に入れようとしていたところ、プロヴィデンスの採石場で見つかることがわかり、その採石場の一角を偶然にもラヴクラフトが所有していたのだ。こうして集まった標本はしばらくラヴクラフトの部屋に置かれていたが、やがてモートンがやってきて回収したという。事実は小説より奇なりというが、こんなに都合がよすぎては小説の題材にもならないだろうとモートンから聞いたことがあるとW=ポール=クックは回想している(11)。
ラヴクラフトと「銀の鍵の門を超えて」を合作したホフマン=プライスも標本の調達に協力したことがある。プライス夫妻がクラーク=アシュトン=スミスを訪問したとき、母方のおじが所有している古い銅山にスミスが彼を連れて行ってくれたのだ。プライスは鉱石をいくらか拾い集め、モートンに渡すために持ち帰ったとスミスは1934年7月22日付のダーレス宛書簡で述べている(12)。
パターソン博物館の展示で鉱物標本以外に有名なものとしては、世界初の近代潜水艦として知られるフェニアン=ラムがある。フェニアン=ラムは1928年からパターソン博物館が所蔵しており、してみると同年モートンを訪問したラヴクラフトがその展示を見た可能性もあると思われるが、彼の書簡集には言及がない模様だ。
ラヴクラフトとモートンがニューヨークを去り、別々の街に住むようになってからも二人の交流は続いた。1927年にドナルド=ワンドレイがプロヴィデンスを訪れたとき、彼とラヴクラフト・モートンの3人でアイスクリームの有名店へ行って大食い競争をしたそうだ。自分は21種類まで食べたところで降参したが、1種類につき1パイントあるのを3人で分け合いながら食べていたので、7パイントすなわち3.3リットルを一気に平らげたことになるとワンドレイは回想している。ラヴクラフトとモートンはさらに食べ続けて26種類に達し、メニューにある32種類のうち売り切れていた6種類を除いて完全制覇を成し遂げた(13)。ワンドレイの脱落後は1種類あたり半パイントが1人分だったはずだから、ラヴクラフトもモートンも9.5パイントを食べたことになり、これは4.5リットルに相当する。すさまじい量だが、ありえないことではないらしい(14)。モートンが1933年に訪ねてきたときもラヴクラフトは彼と2人でアイスクリームを食し、1933年8月5日付のハワード書簡でそのことを報告している。
モートンが訪ねてきたので、手紙を書くのが遅れてしまいました。とはいうものの本当に楽しい一時でしたよ。和気藹々とした毎度の議論以外にも、私たちは田園を散策したり史跡を見て回ったりしておりました。ある時など、大きな釣瓶のある非常に古い井戸を見ました……そこで私たちは立ち止まり、昔日を偲びながら水を飲んだのです。散歩の終点はグリーンビルでした。1820年頃の雰囲気がよく残っている往事さながらの村です。別の折には、ウォーレンという植民地時代の港町に行きました。湾の東岸を下っていって――28種類のアイスクリームを売っているところ(我々一党にとっては馴染みのたまり場です)でたまたま立ち止まりました。私たちはそれぞれ6種類を食しました――私が選んだのはブドウ・チョコレートチップ・マカロン・サクランボ・バナナそしてオレンジ&パイナップル味です(15)。
モートンは1934年にもラヴクラフトを訪問し、二人は連れ立ってウォリックの海岸に出かけた。ラヴクラフトが現地からダーレスに送った葉書にはモートンも「暗黒にして未知のものより、拙く簡素ながらも挨拶の言葉を差し上げますじゃ」などと書き添えており、その飄然とした性格が垣間見える(16)。ラヴクラフトがモートンに送った手紙もおどけた調子になることがあり、中でもアザトースからヨグ=ソトースやクトゥルーを経て自分とスミスに至る旧支配者の系図が記された1933年4月27日付のものは有名だろう。余談だが、ヨグ=ソトースがあちこちで子供を作っていることについて、正妻であるシュブ=ニグラスの前で気まずい思いをしているに違いないとラヴクラフトは1936年9月23日付のウィリス=コノヴァー宛書簡で述べている(17)。すなわちラヴクラフトは友達との文通で旧支配者を擬人化しており、モートン宛の書簡にある神々の系図もそのような冗談の一環と見るべきだろう。
博物館長になって生活が安定したモートンは1934年にパール=K=メリットと結婚し、ラヴクラフトは1934年3月28日付のワンドレイ宛書簡で二人の結婚式を祝福している。ラヴクラフトによるとメリットは当時45歳くらいで「素朴で物静かながらもユーモラスな女性」だったそうだ(18)。「詩情」と題するラヴクラフトの論説文が1918年7月のトライアウト誌に掲載されているが、これは詩作の文学的地位を低く見るメリットに反駁したものだった(19)。その一方で、ラヴクラフトは1917年5月にはUAPA評論部門の長としてメリットの随筆を高く評価している(20)。
モートンがメリットと知り合ったのは1915年のことだった。アマチュアジャーナリズムが取り持った縁という点ではラヴクラフトとソニア=グリーンの関係に似ているが、ラヴクラフトの場合と違って破綻することはなくモートンの生涯の終わりまで仲のよい夫婦だったという。モートンが自宅に知人を招いて会合を開くときも、妻の手を煩わせようとはせず自分で料理の支度をしたとメリットは回想している(21)。
定職について身を固めた後も、モートンは様々な社会問題について積極的に発言していた。たとえば性別を特定しない場合に用いる三人称単数の代名詞としてheに代わる新しい言葉を作ろうという試みが古くからあったが、モートンは1934年に"heesh"を提案したことがある(22)。現在ではtheyを使うのが一般化しつつあるが(23)、男女同権を目指していたモートンらしい。彼はまたエスペランティストでもあった。
モートンは「福音主義的な無神論者」だったと『H・P・ラヴクラフト大事典』の日本語版にあるが、これは原文では"evangelical atheist"なので「無神論の伝道者」とでも訳したほうが妥当だろう。すなわち個人として神を信じないだけでなく、積極的に無神論を広めようとする立場のことだが、若い頃のモートンは宗教の廃絶をも主張していた。ラヴクラフトも無視論者だったが、モートンの極端さには引き気味で「教会は世の中の役に立っています」と1915年11月25日付のラインハート=クライナー宛書簡で擁護している(24)。だが後年のモートンはバハーイー教に帰依した。おそらく自分が戦うべき相手は宗教そのものではなく、偏狭なドグマだと認識したからだろう。一方、保守主義者を自認していたラヴクラフトも後年はリベラル化し、大統領選ではフランクリン=ルーズヴェルトに投票するようになった。
モートンは酒を一滴も飲まなかったが、個人の自由を尊重していたため禁酒法には賛成しなかった。また女性に化粧は不要だと考えていたが、他者に強いることはなかったとパール=K=メリットは証言している。晩年になっても矍鑠としており、ハイキングや山歩きを好んだが、メリットが高いところを苦手としていることを知ってからは登山の際に道を選ぶようにしていたという。
モートンはラヴクラフトよりもずっと年上だったが、先に世を去ったのはラヴクラフトのほうだった。1937年3月にラヴクラフトが不帰の客となったとき、彼の机の上にはモートンに宛てた書きかけの手紙が残されていた。非常に長く、前年の12月頃から書き続けていたものと思われるが、ラヴクラフトがその手紙を完成させることはなかった。
モートンは親友の死を深く悲しんだが、彼自身の時間もあまり残されていなかった。ラヴクラフトが他界してから4年後の1941年、モートンは地元の会合に向かう途中で自動車にはねられて致命傷を負ったのだ。長年にわたって勤めた博物館長の職を辞し、彼の故郷であるニューハンプシャーに引っ越して悠々自適の余生を送ろうとしていた矢先の出来事だった。病院に運ばれた彼は夫人と最後の言葉を交わして手術を受けたが、二度と目覚めることはなかった。モートンが息を引き取ったのは1941年10月7日の早朝、70年の生涯だった。
モートンとラヴクラフトは多くの点で異なっていたが、二人とも高い知性と温かな心を持ち、不変の友情で結ばれていた。若き日のラヴクラフトにとってモートンの言葉は何よりの贈物であり、同じものを今度はラヴクラフトが年少の友達に贈ったのだとS.T.ヨシは述べている。モートンを追悼するホフマン=プライスの言葉を引用して拙稿を締めくくりたい。
祖霊よ 神よ 山河よ
モートンという男を 彼の集めた贈物を
その熱き人生の物語を嘉したまえ(25)