今更ながら発音の話である。Cthulhuの発音がどうしたというのだ、どうせ人間には発音できないのだから各自が好きなようにすればいいではないか──といわれてしまうことだろうし、それには私も異存がない。ただ、Cthulhuの発音に関する記事はネット上にもたくさんあるが、充分な情報が盛り込まれているものは意外と見当たらないように思われる。たとえば、あるサイトではドナルド=ワンドレイの「ク・リトル・リトル」説を紹介しておきながら、ラヴクラフトがそれをワンドレイの創作として一蹴したことには触れていない。また別のサイトでは、ケイオシアムは"kuh-THOOL-hoo"を推奨していると述べられているが、現在のケイオシアムが採用しているのは"kuh-THOO-loo"である。それゆえ、私の個人的な覚書を兼ねて、Cthulhuの発音に関する情報をここにまとめておくことにする。
ラヴクラフト自身がどう発音していたのかという問題に取りかかる前に、Cthulhuを字面通りに読んだらどうなるかという問題を考える。幸いなことに、これに関しては小林泰三氏が考察してくれている(1)。またラヴクラフト文書館の管理人であるドノヴァン=ルークスもこの問題を検討している。ルークス氏による答は"ct-hoo-lhoo"であり、これは小林氏の出した結論と一致する。なおルークス氏自身は"K't'hoo-lhoo"と発音しているそうである。
ラヴクラフトその人の発音については、いくつかの矛盾する証言がある。まずドナルド=ワンドレイは「プロヴィデンスのラヴクラフト」で次のように述べている。
これらのうち別の夢を基にしてラヴクラフトは「ピックマンのモデル」を書いたが、さらに別の夢は「Cthulhuの呼び声」の原型となった。ある日この物語を話題にした私は、その奇妙な名前がK-Thool-Hooと綴られているかのように発音した。ラヴクラフトは一瞬ぽかんとした表情になったが、それから断固として私の誤りを正し、その発音をなるべく正確に表記するならK-Lütl-Lütlだと教えてくれた。私は仰天し、そういう発音であるなら、どうしてそう綴らないのですかと訊ねた。彼は真剣そのものの表情になり、その言葉は自分の小説の登場人物がこしらえたものであると返事をした。ラヴクラフトは彼らの綴り方を記録したに過ぎないのだそうだ。ラヴクラフト自身の創作であっても、彼の頭の中では現実のものと変わらなかった。
このワンドレイの証言に基づき、荒俣宏氏はCthulhuをク・リトル・リトルと表記した。国書刊行会の『ク・リトル・リトル神話集』や『真ク・リトル・リトル神話大系』ではこの表記が用いられている。またワンドレイにいわせると、クトゥルフ(K-Thool-Hoo)という発音は明白な間違いということになる。しかしながら、ドゥエイン=ライメルに宛てて書いた1934年7月23日付の書簡でラヴクラフトは次のように述べている。
ワンドレイの訪問記事にあるCthulhuの話は大半が虚構です。そんなことを喋った覚えはありませんが、その言葉はまったく人間のものではない言葉の発音を把握しようという人間の拙い試みを表すものだと私はワンドレイに説明したかもしれません。別の人たちにそう説明したことがあります……。本当の発音は──できるだけ正確に人間の器官で模倣したり、人間の文字で表記したりするのであれば──Khlul-hloo に似たものとなるかもしれません。第一音節は喉音にし、至極かすれさせて発音します。u はfull を発音するときのように発音します。そして第一音節のh は喉音のかすれを表現するものですから、第一音節はklul のように聞こえないこともありません。第二音節はあまりうまく表記できていません──l の音が示されていないのです。
一方、1936年8月29日付のウィリス=コノヴァー宛書簡では次のように述べられている(2)。
可能な限り最善の説明は、舌先を口蓋にぴったりと押しつけて、不完全に形成されたCluh-Luh という音節をうなったり、吠えたり、咳き込んだりするように発声するというものです。
この"Cluh-Luh"はS.T.ヨシやデイヴィッド=E=シュルツといった学者たちに支持されている発音であり、我が国の大瀧啓裕氏もこれに基づいてクルウルウを正統と見なしている。だが"Cluh-Luh"こそが正しいと認めるとしても、クルウルウと表記してしまっては正しいとはいえないだろう。"Cluh-Luh"は2音節であり、クルウルウでは5音節になってしまう(3)。
ラヴクラフトの遺著管理者に指名されたロバート=バーロウ(4)によると、ラヴクラフトはCthulhuを"Koot-u-lew"と発音していたそうである。証拠が残っているわけではないが、オーガスト=ダーレスはバーロウの証言を信じ、自らも"Koot-u-lew"を用いた。これをカタカナで表記すればクトゥルーとなる。青心社のハードカバー版『クトゥルー』の解説で大瀧啓裕氏が述べているところによると、同シリーズでCthulhuをクトゥルーと表記しているのはダーレスに敬意を表したものだそうである(5)。
TRPG『クトゥルフの呼び声』で知られるケイオシアムはかつて"kuh-THOOL-hoo"(第2音節にアクセントがある)を推奨した。カタカナで表記するとクトゥルフである。この発音はTRPGを通じて我が国に広まり、クトゥルーと並んで最も一般的に使われるようになった。試しにGoogleで検索してみたところ、ネット上ではクトゥルフの方がクトゥルーよりやや優勢なようである(2005年3月21日現在)。だが本稿の冒頭で述べたように、現在のケイオシアムが採用しているのは"kuh-THOO-loo"である。無理やりカタカナにすればクスルウーではないかという気がするが、"kuh-THOOL-hoo"がクトゥルフであることから演繹すれば"kuh-THOO-loo"はクトゥルーであろう(6)。だからといって我が国のCoC愛好家たちが発音をクトゥルフからクトゥルーに改めるというわけでもないが……。
Cthulhuの変わった発音として、平井呈一の「ズールー」がある。そのような発音を平井呈一が選んだ根拠を私は知らないが、英語にはchthonianという単語がある。ギリシア語を語源とする言葉で、「地底の神々の」という意味の形容詞であるが、その発音はゾーニアンである。思うに、平井呈一はそこから類推してCthulhuをズールーとしたのではないだろうか。なおchthonianをクトーニアンと読まれた方がいるかもしれないが、ブライアン=ラムレイの神話作品に登場するクトーニアンはCthonianで、微妙に綴りが異なる。
最後に、英語を母語とする人がCthulhuをどう発音するかという問題に触れておく。Cthulhuはルルイエ語の固有名詞だから、そんなことを気にしても始まらないというのは正論であるが、気になるものは気になる。ラヴクラフトやクトゥルー神話をまったく知らない米国人にCthulhuを読ませてみるという実験は坪根徹氏が行っており、その結果は「クトゥルフ」だったそうである。真偽の程が定かでないとはいえ、ワンドレイも最初はクトゥルフと発音したそうだし、それがもっとも自然な発音なのだろう。現在のケイオシアムが"kuh-THOO-loo"を採用しているのは「その発音がもっとも楽だから」という理由によるものである。