クトゥルー神話大系には様々な宝具が登場するが、そのひとつが「セトの指輪」だ。この宝具については『エンサイクロペディア・クトゥルフ』にも項目があるが、より詳細なことを拙稿で解説してみたい。
セトの指輪を創造したのはロバート=E=ハワードであり、その来歴は「不死鳥の剣」で語られている。指輪はスティギアの大魔道士トート=アモンの所有物であり、彼はそれを地底深くの墓所で発見したのだという。最初のヒトが軟泥の海から這い出てくる前から忘れ去られていた墓所だとトート=アモンが語っているので、指輪そのものの存在も人類誕生以前までさかのぼるのだろう。指輪を作ったのは蛇人間ではないかとダニエル=ハームズは推測している。
指輪の材質と外見については、銅に似た金属で作られており、三重にとぐろを巻いて尾を口にくわえた蛇の姿をかたどったものだと記述がある。トート=アモンは指輪の力を使って異界の妖魔を使役し、大いに畏怖される存在となった。いったんは指輪を失って奴隷の身分にまで零落するものの、最終的には指輪を取り戻している。その際にトート=アモンが招喚した魔物がコナンを襲ったが、コナンは不死鳥の剣を振るって魔物を斃した。
指輪は蛇神セトの名を冠しているが、これは本来エジプト神話の神だ。また蛇の姿で顕現するというのもハワードの独創ではないが、今日のクトゥルー神話でセトがもっぱら蛇神と見なされるのはハワードの影響によるところが大きいだろう。ハワードによると、ハイボリア時代の一時期にセト信仰が世界を席巻したが、賢者エペミトレウスがその勢力を南方へと追いやり、わずかにスティギアでのみセトが崇拝され続けたそうだ。余談だが、コナンに不死鳥の剣を与えたのもエペミトレウスである。
ハワードが最初に書いたコナンの物語として知られる「不死鳥の剣」だが、実は"By This Axe I Rule!"の没原稿の焼き直しでもある。"By This Axe I Rule!"の主役はヴァルーシアの大王カルであり、当然ながら「不死鳥の剣」のコナンはカルと性格が似通っている。二つの作品は他にも共通点が多いが、トート=アモンと蛇神セトは「不死鳥の剣」で追加された設定だ。「不死鳥の剣」はウィアードテイルズの1932年12月号に掲載されたが、"By This Axe I Rule!"はハワードの死後まで日の目を見ることがなかった。
リチャード=L=ティアニーの"The Ring of Set"はローマ時代を舞台とし、若き日のシモン=マグスを主役とするクトゥルー神話短編だが、題名から察しがつくようにセトの指輪が重要な役割を演じている。いうまでもなく、ハワードからの借用だ。
「不死鳥の剣」で語られている出来事から1万年の時が経ち、セトの指輪を君主が身につければ必ず命を落とすという呪いが発生していた。シモンにいわせると、トート=アモンの呪いのせいらしい。災いを怖れたエジプトの神官たちは指輪を隠したが、ディオメデスという富豪が見つけ出してローマに持ち帰った。しかしディオメデスが亡くなって彼の遺産は競売にかけられ、指輪は時のローマ皇帝ティベリウスの手に渡ることになった。
ティベリウス帝の命はもう旦夕に迫っていたが、彼の後継者と目されるカリギュラは指輪の真価を知っており、君主の命を奪うという呪いを解除する方法を探していた。奸智に長けたカリギュラがセトの指輪を手に入れてしまえば、その力を使って全世界に君臨しかねない。ローマ帝国に反逆するシモンは、その前にティベリウスから指輪を奪おうとする。
ティベリウスがローマからカプリ島に引き揚げていく途中でシモンは彼に追いついた。宵闇に紛れて皇帝の寝所に侵入したシモンは、床に伏せっているティベリウスの指から指輪を抜こうとする。だが指輪はぴったりとはまっていて抜けず、まるで皇帝の指に合わせてサイズを変えたかのようだった。シモンの見ている前で「指輪が余を放してくれぬ!」とティベリウスは悲鳴を上げ、冷徹な知性を双眸に湛えた黒い蛇が現れる。セト神の顕現だ。ティベリウスは絶命し、セトは姿を消した。
我に返ったシモンはティベリウスの亡骸から指輪をとろうとした。もう指輪はティベリウスへの興味を失ったらしく、今度はあっさりと抜ける。無事に脱出したシモンは、誰にも見つからない場所に指輪を隠したという。なおシモンとカリギュラの戦いの決着は"The Scroll of Thoth"という別の短編で語られているが、この作品におけるカリギュラはだいぶ狂気が進行しており、旧神とクトゥルーを同時に崇拝している。
ティアニーの解釈ではセトはハスターの化身なので、セトの指輪は実際には「ハスターの指輪」ということになる。だが、すべての神話作家がティアニーの説に与しているわけではなく、たとえばシャノン=アペルはセトをイグの別名としている(参照)。また『マレウス・モンストロルム』によると、セトはナイアーラトテップの化身である。エジプトといえばナイアーラトテップという連想から、星間宇宙の大帝ではなく無貌の神を選んだのだろう。悪いとはいわないが、ナイアーラトテップはあんなにたくさん化身を持っているのだから、ひとつくらいハスターに譲ってくれてもよかったのではないかと思わないでもない。またセトの正体について『マレウス・モンストロルム』の見解はティアニーとは異なるのだから、同書がセトの項目でティアニーの"The Worm of Urakhu"を引用しているのは文脈を無視したものといわざるをえない。
セトが旧支配者の化身であるという説を最初に唱えたのはティアニーだが、後続の作家はあまり彼の設定を尊重していないように思われる。身も蓋もないことをいってしまえば、ダーレスやリン=カーターほどの権威はティアニーにはない。だが、ただ一柱の旧支配者がセトの由来であると考えることが誤っているのかもしれない。複数の旧支配者が習合した結果、セトという神が生まれたのかもしれないのだ。
ちなみに、不死鳥の剣もティアニーの神話作品には出てくる。"The Soul of Kephri"でシモンが不死鳥の剣を見つけ出すのだが、すでに柄しか残っていない状態だった。だがシモンが握ったとたんに柄から光刃が伸び、それを振るって戦うシモンはまるでコナンの霊が乗り移ったかのようだったという。どう見てもライトセイバーだが、実際ティアニーは"The Soul of Kephri"をスターウォーズのパロディとして書いたらしく、悪役の見た目がダース=ヴェイダーそっくりである。
クトゥルー神話と直接の関連性がない「不死鳥の剣」と異なり、ティアニーのシモン・サーガには神話用語がふんだんに盛りこまれている。だが、セトの指輪をクトゥルー神話大系に導入したのがティアニーだとは必ずしも言い切れない。現代を舞台にした"The Haunter of the Ring"という怪奇短編をハワードは書いているが、この作品もセトの指輪が話の中心になっている。そして「われ埋葬にあたわず」で語り手を務めたジョン=キロワンが"The Haunter of the Ring"では活躍するので、セトの指輪はキロワン教授を介してクトゥルー神話と関連性を持つことになる。
キロワンの友人であるジェイムズ=ゴードンは恐ろしい悩みを抱えていた。新妻のイヴリンが繰り返し彼を殺そうとしているというのだ。キロワンがイヴリンに会ってみると、彼女が指にはめていたのは三重にとぐろを巻いた蛇の指輪――言わずと知れたセトの指輪だった。元恋人のジョゼフ=ローロックが結婚のお祝いとしてくれたものだとイヴリンはいう。
ジョゼフ=ローロックは本名をヨセフ=オルロックといい、かつてはキロワンとともに魔術を学んだ仲だった。だが、その邪悪な本性を見抜いたキロワンは彼と袂を分かったのだ。なおオルロックという名前が示すように、彼の正体は吸血鬼らしい。自分を袖にしたイヴリンをオルロックは逆恨みし、セトの指輪の力で招喚した妖魔に彼女の意識を操らせてゴードンに危害を加えようとしていた。トート=アモンは一方的に妖魔を使役していたようだが、オルロックは妖魔に報酬を約束しており、その報酬というのはゴードンもしくはイヴリンの魂だった。だが、心の清らかなものの魂に手出しをすることはできまいとキロワンは指摘し、代わりに妖魔がオルロックの魂を持ち去るよう仕向ける。我が身に術が返ってきた形でオルロックは破滅し、妖魔の餌食になってしまった。だが、これですら彼への報いとしては生易しいほどだとキロワンはいうのだった。かつてオルロックはキロワンの最愛の人を同様の手口で苦しめ、その人生をめちゃくちゃにしたことがあったのだ。
オルロックは指輪の妖魔を制御しきれなかったばかりか、指輪を使用した動機も小物臭い。一方「われ埋葬にあたわず」ではグリムランの恐ろしい運命を見届けるだけの役回りだったキロワンが華々しく活躍し、邪悪な魔術師を鮮やかな返し技で破滅に追いこんでいるのは注目に値するだろう。また、指輪の妖魔に知性らしきものがあるということになっている点も興味深い。説得することによって追い返すという展開はハワードにしては珍しく感じられるが、本来はそれが唯一の対抗策なのだろう。妖魔を自分の手で殺してしまったコナンがむしろ特殊すぎるのだ。