最強の魔道書

竹岡啓


 クトゥルー神話の世界において最強の魔道書は何かという質問に苦笑を禁じ得ない方もおられるだろう。この質問は確かに稚拙なものだが、宇宙戦艦ヤマトとUSSエンタープライズはどちらが強いのかといった議論をしたがる人は意外と多いのではないだろうか。

 ここでいう最強の定義を敢えて避け、直感のみで選ぶならば、暗黒の聖書と位置づけられる『ネクロノミコン』がまず候補に挙がるだろう。『ネクロノミコン』に匹敵する存在として思い出されるのは『エイボンの書』だが、人類以前の言語で書かれた『ルルイエ異本』や『ナコト写本』も有力そうだ。クトゥルー神話に詳しい方なら『アルソフォカスの書』や『イステの歌』を挙げるかもしれないし、私個人としては『黄衣の王』も捨てがたい。

 こういう問題の解答を得たかったら、リン=カーターの作品を読む必要がある。カーターはダーレス亡き後の中心的存在として1970〜80年代のクトゥルー界を支えた人物だが、その神話作品の多くは同人誌に発表されたきり埋もれていた。だが現在ではそのほとんどをケイオシアムのクトゥルー神話アンソロジーで読むことができる。アーカムハウスがラヴクラフトの遺産を後世に伝えたように、ケイオシアムはカーターの思い出を21世紀に蘇らせたといえるだろう。話を戻すと、クラーク=アシュトン=スミスの「ウボ=サスラ」に次のような記述がある。

 ウボ=サスラの周りの泥濘で倒れたり傾いだりしているのは、星より切り出された石の大いなる銘板であり、そこに刻まれているのは天地開闢前の神々の不可解なる智慧だった。

 カーターが大魔道士エイボンに仮託して書いた「暗黒なる智慧のパピルス」によると、この石板は『旧神の鍵』と呼ばれるものであるそうだ。旧支配者が旧神から奪い取った石板の大部分はセラエノの大図書館が所蔵しているが、『旧神の鍵』だけはウボ=サスラが守護している。その理由については、何者かがウボ=サスラに預けたという説と、ウボ=サスラ自身が旧神から奪ったのだという説がある。後者の場合は、その罰としてウボ=サスラは旧神に意志と知性を剥奪されたという物語が附随する。

 『旧神の鍵』こそは最古にして最強の魔道書であるとされている。そもそも地球はこの宇宙ではなく、旧神が治める高次の世界に属する天体だったが、旧支配者が『旧神の鍵』を用いて現在の場所に引きずり降ろしたのだという伝説をカーターは「暗黒なる智慧のパピルス」で紹介している。その真偽の程は定かでないが、いずれにせよ宇宙の構造をも容易に変えてしまえるほどの力が『旧神の鍵』にあることは間違いない。

 その『旧神の鍵』に記されていることを読んだものが一人だけいる。ハオン=ドルである。彼はスミスの「七つの呪い」では端役として登場するのみだったが、人類誕生以前から生き続けている大魔道士であり、かのエイボンをも遙かに凌駕する力の持主である。「七つの呪い」でツァトゥグアから貢物として送られてきたラリバール=ヴーズ卿をアトラク=ナクアがハオン=ドルへたらい回しにしたことを見ても、その大物ぶりが窺えるだろう。

 カーターの短編「深淵への降下」は、『旧神の鍵』に記されていることを学び取ろうとハオン=ドルがウボ=サスラの洞窟に降りていった顛末の物語である。長い旅の末にハオン=ドルは目的地「灰色に輝くイカー」へと辿りつき、『旧神の鍵』を抱えて盤踞しているウボ=サスラと対面した。その時ウボ=サスラは巨体を震わせ、石板の一枚を泥沼の中から浮かび上がらせた。石板が再び泥濘の中へと沈んでいくまでの一瞬に、そこに刻まれている神秘の象形文字をハオン=ドルは読み取り、測り知れざる知性と学識によって解読した。そしてハオン=ドルは悲鳴をあげて逃げ去ったという。

 なぜならハオン=ドルは知ったのだ。彼以前の魔道士が誰一人として知らず、彼以後の魔道士もまた決して知らぬであろうことを。それは巨大にして慄然たる、そして途方もなく不条理な戯れの本質であり、その戯れは嘲弄する神々の戯れであった。我ら死すべき定めのものたちが、「現実」という無意味な言辞の裏に隠し込んでいるものの本質を彼は知ったのだった。

 その後ハオン=ドルは決して地上に出ようとせず、ツァトゥグアやアトラク=ナクアと交際しながらヴーアミタドレス山の下で悠久の時を過ごすようになった。カーターの神話作品は物語のために設定があるのではなく、設定のために物語があると批判されがちだが、「深淵への降下」は悪くない出来映えではないだろうか。とりわけ、ウボ=サスラの守護している石板はそもそも旧神の作ったものだという設定にカーターの皮肉がこめられているように思われる。最古にして最強の魔道書『旧神の鍵』がなぜウボ=サスラのもとにあるのかという謎について、カーターは「深淵への降下」で次のようなヒントを与えているのだ。

 そこに石板は横たわり、空しく揺られていた。まるで成長した子供が捨てた玩具のように……。