暗黒魔術の島

ヒュー=B=ケイヴ


 ピーター=メイスをファイカナ島に連れてきたのはベラ=ゲイル号のブルック船長だった。若者が到着するまで私は彼に会っていないのだから、この物 語の冒 頭部はブルック船長の眼を通して語るべきだろう。そこで、私はしばし退場することにする。

 パペーテのジョーンセン交易商会がブルックにベラ=ゲイル号を提供したとき、彼は職にあぶれている最中だった。パペーテの大概の小さな会社と同じ よう に、ジョーンセン商会が使っている二級の不定期貨物船もスクーナー式に帆装してあり、帆に風を受けて走るのだった。名のある船長なら、その中で一番ましな 船でも引き受けようとはしなかっただろう。だがブルックは藁にもすがる思いだった。

 ファアイテに寄港し、北方のファカラヴァとタオウに向かってからラリオアで停泊して、スクーナーに積めるだけのコプラを取引するというのが彼の任 務だっ た。彼は可能なら1カ月以内にパペーテへ戻ってくることになっていた。それから彼は旅客をひとり預かっていた。その旅客は白人で、ラリオアまで連れて行っ てもらうことになっていた。

 その白人がピーター=メイスだった。もしも選べるものなら、ブルックはもっと頼もしい連れを選んだか、あるいは連れなど一人も選ばなかったことだ ろう。 ピーター=メイスは不安げな表情をした痩せぎすの青年で、その双眸は何も見逃さなかった。歳はまだ25を越えていなかった。自分で語ったところによると、 パペーテには3週間しか滞在していないとのことだった。

 スクーナーが出航する1時間前に彼は乗船したが、大きな木製の包装箱を持ちこんで、それを自分の客室に置くのだと言い張った。2日間というもの彼 は一人 きりで引きこもっており、誰にも一言たりとも説明しようとしなかった。

 しかし後ほどになると、彼は質問する時間と欲求が生じた。ベラ=ゲイル号がファアイテに到着する前に、パウモツにあるあらゆる環礁の名前を彼は問 いただ した。島民の習性について、彼らは白人をどう遇するのか、もっとも住人が少ないのはどの環礁か、スクーナー船の航路から外れていて一人きりになれそうな小 島をブルックは知っているかを彼はブルックに質問した。一千ものことを彼はしきりに知りたがったが、自分自身の身の上や職業やラリオア行きの理由について は一言も語らなかった。それに、自分の客室に置いてある包装箱の意味も教えようとはしなかった。

 ある日のことだった。出し抜けに彼はいった。

「船長さん、もしも僕が500ドル払ったら、寄り道して僕をファイカナで降ろしてくれますか?」

「500ドル!」ブルックは鸚鵡返しにいった。

「少なすぎますか?」

「一体全体」とブルックは問いただした。「ファイカナに何の用事ですか? あんなところで降りたら、タライみたいな船が拾いに来てくれるのにだって 一生の 半分は待たなきゃいけませんぜ!」

「もし500ドルでは少なすぎるというのであれば」とピーター=メイスは微笑した。「その倍お出しします」

 ブルックが彼から聞き出せたのは、それだけだった。500ドル、倍額、そしてファイカナ。ファイカナ、この世の果てのような場所だ。マルケサス諸 島の原 住民が一握りと、おかしな考えに取り憑かれた宣教師が一人住んでいるだけの島だ!

 かくしてピーター=メイスはファイカナにやってきた。そして「おかしな考えに取り憑かれた宣教師」であるジェイソン神父、つまり私は初めて彼に会 い、彼 が携えている奇妙な木製の包装箱について訝しく思ったのだった。


 1週間のうちに若者は身を落ち着けた。原住民が見捨てた掘っ立て小屋を彼はまず見つけ、そこに引っ越して荷物を運び込んだ。それから、慌てること なく念 入りに行動したが、その結果は驚くべきものだった。彼は原住民の協力を得て、私の家が中心にある小さな集落から3マイルも離れたところに家を建てはじめた のだ。何のために私たちの島へ来たにせよ、彼は一人きりでいたいらしかった。それでも彼は何度か私を訪問し、新居が完成したら最初の晩を自分と一緒に過ご してくださいと慇懃に招待してくれた。

 私は彼の招きに応じ、いささか驚いた。原住民から噂を聞いてはいたが、彼にそれとなく誘われるまでは施工の現場に行くのを遠慮していたのだ。ファ イカナ の北端を覆っている荒涼たる地帯のど真ん中に空地があり、彼の家はその空地にぽつんと建っていた。村から彼の家に行くには、鬱蒼とした密林の中の狭くて危 なっかしい道を通っていくしかなく、ひどく大変な思いをしながら1時間以上も歩かなければならなかった。確かにピーター=メイスはあまり客に来てほしくな いのだ!

 しかしながら家自体は隅々に至るまで完璧だった──手の込んだ二間の現地式の家で、加えて階段の上に小部屋があった。彼と私はその晩そこに座り、 地酒を 飲みながらチェスを指した。私たちの会話に個人的な事情のことは一度たりとも出てこなかった。彼も私も質問せず、上の部屋にあるものを彼が私に見せようと することもなかった。そして暇乞いをするべき時間になると、彼は私にお休みなさいと挨拶し、新しく雇った原住民の少年メネガイに私を村まで送らせてくれ た。そして私が彼に会ったのは、2週間でその時だけだったのだ!

 だが原住民たちは詮索好きだった。そして私はその2週間に変な話をたくさん聞くことになった。島民たちは若者のことを「ピーテメ」と呼んだが、彼 らにい わせるとピーテメは悪魔の化身だそうだった。日中は彼が二階の部屋で作業をしているのが聞こえたが、仕事をしていないとき彼は檻の中の獣のようにうろつき 回り、ぶつぶつと独り言をいっていた。何度か島民たちは一階の窓のそばに忍び寄って中を覗きこんだのだが、見えたものは彼がテーブルに向かって座っている 姿だった。彼は本の山の上に身をかがめ、その前にはウイスキーの瓶が積み上げられていた。彼は酔っぱらっていたそうである。彼の眼は大きく見開かれ、血 走っていた。そして本を持つ手は震えていた。だが二階の小部屋に何があるのかはわからなかった。窓の外からでは覗き込めなかったのだ。

 こういう話はすべて非常に誇張されたものだということを私は知っていた。私の教えている人々はせいぜい迷信深い子供のようなものなのだ。だが、そ ういう 話の中には幾らか真実があるに違いないということも私にはわかった。嘘をつくことによって物質的な利益が得られるのでない限り、原住民は故意に嘘をついた りはしないからだ。そこで、彼を我が家に招いて彼自身のことで話をしようと思い立つと、ある日の午後に私は彼の家へ行った。

 私が着いたとき、彼はそこにいなかった。ノックしても返事はなく、ドアを開けても中には誰もいなかった。彼がドアに特許品の錠前を取り付けたのを 私は見 ていたので、ドアを開けっ放しにして外出するとは変だと思った。私は大声で彼の名前を呼び、当惑して辺りを見回した。

 テーブルには本がうずたかく積み上げられており、厚紙の表紙をつけた原稿もあった。物好きにも私はこれらを見やり、それから熱心に調べてみた。そ して身 震いし、不浄な場所にいるかのような気分を唐突に覚えた。そこにあるのは一冊残らず禁断の書だったのだ。禁断の書といったのは私が神父だからではなく、真 実と科学によって等しく弾劾された書物だったからである。そのうち一冊はフォン=ヘラーの『黒の祭祀書』だった。原稿の体裁をとっており、ラテン語で書か れているものもあった。それは『不可視なる帳』の完全版だった。私が考えるに三冊目は──そして自分の考えが正しかったことが今ではわかっているのだが ──かの危険な論文『死神教典儀』の紛失した部分だった。わずかに4部が現存するのみだといわれているのに! 慈悲深き神よ、25歳の若者がこんな本のこ とを考えながら一人きりで暮らしているなど、あってはならないことなのです!

 すっかり困惑した私はテーブルから顔を背け、開きっぱなしのドアの近くにある椅子に座ってピーター=メイスの帰りを苛々と待った。彼が帰ってこな いもの だから私は立ち上がって床をせかせかと歩き回り、階上の部屋のことで原住民がささやいていたことを唐突に思い出した。私の傍らのテーブルに置いてある本 と、二階の部屋にあるものは何か関係があるのだろうか? ピーター=メイスは単に書物を精読するだけでなく、もっと深入りしてしまっているということなの だろうか?

 私は躊躇した。ここは私の家ではなかった。私が立っている部屋の薄暗い片隅では、細い梯子が誘うように立てかけられていたが、その梯子を登る権利 など私 にはなかった。だが私は聖職者であり、いかなる罪を若者が犯しているのか知って彼に適切な助言をする権利があった。そこで私はゆっくりと床を歩いていっ た。

 梯子は貧弱な代物だった。痩せた若者の体重を支えるには充分だったかもしれないが、私が安心して登れるほど頑丈ではなかった。私はゆっくりと用心 深く上 方を手探りし、どの格も確かめてから体重を預けた。そして私は階上に達し、天井の開き口を覆っているニッパヤシの敷物を脇にどけた。安堵の溜息をつきなが ら私は手をかけようとした。その時、二つのことが起きた。家のドアが勢いよく閉められ、私の背後や眼下で壁がガタガタ鳴った。そして私の目の前、私の目線 と同じ高さのところに何かが見えた。それは二階の床に結跏趺坐していた。

 私はそのものを一瞬しか見なかった。酔っぱらった若者の手が伸びてきて私の脚をわしづかみにし、私は下に引きずり降ろされてしまったのだ。しかも 薄暗が りだったので、誤った第一印象を受けることになった──その印象を私はその後何週間も抱き続け、真実であると信じていた。私が見たのは、私を見つめている 裸の女性だったのだ。若く美しい少女で、板切れで作られて布地で覆われた台の上に身じろぎもせずに座っていた。彼女の傍らには包装箱があった。彼女は箱の 中に入ってファイカナにやってきたのだ。彼女は私の方に手をさしのべており、その手には大きな金属の鉢があった。鉢の中では、何らかの化学薬品かその混合 物が、エーテルのように甘い匂いを放ちながら燃えていた。

 私が見たのはそれだけだった。ピーター=メイスが私に飛びかかり、私の足の下で梯子の格が折れた。私は横向きに倒れ、壁に体をぶつけた。倒れたせ いで頭 がぼうっとなった。次にわかったのは、ピーター=メイスが私の前に仁王立ちになっているということだった。私は背中をテーブルに押しつけていた。そして両 腕を突っ張り、若者が歪んだ顔を私の顔に突きつけようとするのを防いでいた。

 その瞬間ピーター=メイスには私がわかっていなかった。彼は憤激のあまり我を忘れていた。彼の顔は蒼白になっており、額には静脈が古傷のように浮 き出て いた。野獣のような怒りが眼に宿っていた。不浄で怖ろしい言葉が喉から発せられて唇から吐き出された。私がよろめきながら後退して手探りで戸口まで進まな ければ、彼は私を気絶するまで打ちのめしていたことだろう。もしかすると私は殴り殺されていたかもしれない。

 私は走った。これほどまでに怒り狂っている人間を説得するために踏みとどまったりしないだけの分別はあったからだ。彼と争う気はなかったし、あの 禁じら れた部屋を自分が詮索した理由を説明することも差し当たっては無理だった。私は全速力で走った。鬱蒼と生い茂ったチガヤの中を、小さな空地の縁まで骨折り ながら闇雲に進んで振り向くと、彼は体を強張らせて戸口のところに仁王立ちになり、両手でドアの枠を掴んでいた。

 その光景を脳裏に焼き付けて私は踵を返し、村へと続く小道の中に駆け込んでいったのだった。


 それが、私がいみじくも恐怖の猖獗と呼んだものの始まりだった──私にとってではなく、原住民にとっての恐怖である。その日からというもの、ピー ター= メイスの家に近寄るのは安全ではなくなった。そして、危険があるにもかかわらず、好奇心の強い原住民たちは相変わらず彼の家へ行ったのである。若者が怒り 狂っているという話が一度ならず私の耳に入ってきた──立ち入りを禁止されている区域の中で原住民が運悪く見つかってしまうと、彼は狂人のように走り出し てきて原住民を密林の中へと追い払うのだそうだ。なるほど、これらの噂話は私のもとに届くまでに尾鰭がついていたし、私が自分自身の経験のせいで大袈裟に 受け取っていたことも確かだが、にもかかわらず重要なものだった。私はピーター=メイスの地所に再び行こうとはしなかった。

 そして、ある日のことだった。彼が私のところに来たのだ! 一人きりで、昼日中の暑い盛りだというのに帽子をかぶらず、裸足だった。彼を見ても、 だらし がない身なりをしたこの堕落者が3週間足らず前には若く裕福な冒険家だったなどとは誰も思わなかったことだろう。彼は足取りをふらつかせながら私の方を向 いた。彼の眼は隈ができ、血走っていた。息は酒臭かった。それでも彼は意気揚々としていた。彼は私を睨みつけた! 彼はもう何日もひげを剃っていなかった が、唇の端を吊り上げ、にやにやと意地悪く私に笑いかけた。

「それで」と彼はせせら笑いながら言った。「まだ知りたいですか?」

 私は我が家のベランダに立って彼を見つめた。彼を半ば怖れ、半ば哀れむ気持ちだった。だが彼は哀れんでほしがってはいなかった。彼の汚れた手は欄 干を握 りしめ、彼の素足はしっかりと階段を踏みしめていた。彼は私を見つめ返した。

「あの、喋れないんですかね?」と彼はいった。「僕が酔っぱらいすぎてるもんだから、人の言葉がわからなくなってるのかな?」

「君は」と私は冷ややかに言った。「酔っぱらいすぎているものだから、自分のしていることがわからなくなっているんだよ」

「そういう風に考えるんだ」といって、彼は顔を前に突き出した。「でも僕は何もしてはいませんよね? もう済んだんです。あなたが御自分の糞ったれ な好奇 心を満足させたいんなら、僕と一緒においでなさい。満足させられますよ! 心配は御無用です。今度は蹴り出したりしませんから。そんな必要はないんだ!」

 あのような怒りの爆発があった後だというのに私が彼に同行した理由は自分でもよくわからない。好奇心のせいだろうか? ある程度までは確かにそう だ。だ が、好奇心だけが理由というわけではなかった。若者は病んでいた。彼は精神的に病んでおり、道徳的に病んでいた。助けが必要だった。彼に同行するのは私の 責務だったのだ。

 そして私は出かけていった。疑念に悩まされ、彼が肉体的な危害を私に加えるのではないかという懸念を少なからず覚えながら、彼の後についてジャン グルの 中に入っていった。もしも彼が私を安全かつ密かに殺す気なら、あの薄明の迷宮の中で易々とやってのけられたことだろう。夜通しの雨の後だったので足許の小 道はぬかるんでおり、不安定だった。歩けども歩けども頭上では枝が絡まり合い、蔦が雫を垂らし、枝と蔦の天井を通して陽が射すことは一度もなかった。私た ちがのろのろと歩いていくと、至る所から水がぽたぽたと果てしなく滴り落ちてきた。私たちは一言も言葉を交わさなかった。

 彼は私を殺せただろうと私は述べた。だが彼はロボットのようにとぼとぼと歩き、黒い泥の中をびしゃびしゃ歩きながら前方を見据えるだけで、他には 何もし なかった。あの不快な旅の骨折りは彼にはいささかこたえていた。彼の家がある空地に辿り着いたとき、彼は振り向いて私を見た。狼狽した目つきで、私が彼に ついてきた理由を忘れてしまっているかのようだった。そして、本当に彼は忘れていたのだ!

「何がお望みなんですか?」と彼は不機嫌そうに問いただした。

 私は躊躇した。彼の挑発的な凝視の後ろにあるものを読み取ろうと必至だった。彼の狼狽は本物だと私は自分に言い聞かせた。自分が乱酔している間に 何をし たのか彼は本当に知らないのだ。そこで私はきわめて静かに口を利いた。私たちは彼の家の上がり段に立っていた。

「助けてほしいと君が私に頼んだのです」

「助けてほしい?」彼は渋面を作った。「どうして?」

「私に打ち明けたいことが、見せたいものがあるそうですね。何か悩み事があって苦しんでいるのでしょう。君が私のところに来たのは、他の人の悩みを 聞くの が私の務めだからです。そして、できることなら悩みから抜け出す方法を示すことが」

 ずいぶん長い間、彼は私をまじまじと眺めていた。まるで本に印刷された問題を調べて、与えられた解は正しいものなのだろうかと訝っているかのよう だっ た。彼は片手を持ち上げ、ぼさぼさになった髪を眼から掻き上げた。そして拳骨を噛みながら私をずっと凝視していた。小さな子供が忘れたことを思い出そうと 一生懸命になっているみたいだった。ついに彼は微笑み、先頭に立って家の中に入っていった。

 その時から彼は態度を変えた。召使のメネガイが私たちの近くに立っていたが、彼はメネガイの方を向き、私たちを二人きりにしてくれといった。それ から彼 は静かに手振りをして、着席するよう私に促し、別の椅子を私の正面に引き寄せた。彼は前屈みになって私をしっかりと見据え、しまいに言った。

「僕が何者か御存じですか、神父さん?」

「正直にいうと」と私は返事をした。「わかりません」

「いや、そういう意味じゃありません。ピーター=メイスは僕の本名です。僕が言いたかったのは、僕がどんな人間かということですよ。僕の身分は何 か?」

「知りたいと思っています」と私は彼にいった。「そうすれば、君の力になってあげられるかもしれませんから」

「ああ、なってくださるかもしれませんね。でも僕は信心深くはありませんよ、神父さん。僕はそんな風には神を信じません。違うことを知りすぎている もんで すから」

「話してください」と私は穏やかに頼んだ。

 そして彼は話した。

 彼の名前はピーター=メイスだ。私がその名前を聞いたことはあっただろうか? ニューヨークやフィラデルフィアでは彼の名前にどんな意味があるの か知っ ているだろうか? 知らない? まあ、どっちにしろ南洋では名前など大した意味がないのだ──そういいながら彼は気怠げに微笑した。だからどうしたという のだ? 結局のところ彼の名前は重要な要素ではない。彼はニューヨークの有名な大学の医学生だったに過ぎない──4年目までは優等生だった。4年目に、詳 しくは語らない方がいい講義や実験を行ったかどで追放されたのだ。

 一人の少女がいた。愛らしい娘だったが、街角に立って身をひさいでいた。モーリーン=ケネディというのが彼女の名前だった。彼女は彼を愛してい た。

「彼女は清潔で、純粋でした」と彼は私にいった。「僕たちは互いに愛し合っていました。あなたの神様の御心に叶うやり方でね。考える値打ちのあるこ となん て世界には他になかった。そして、あなたの神様が僕から彼女を奪ってしまったんだ」

 当時ピーター=メイスはひっそりと暮らしていた。退学になってからは家族と顔を合わせたくなかったのだ。小さく慎ましやかな部屋をヴィレッジに 持ってい る好青年が彼と共同生活を送っていた。その青年はジーン=ラニアという名前で、美術を勉強していた。否! 芸術を創造していた!

「奴らは彼のことを笑いものにしていました、神父さん。自分たちに理解できないものは何でも笑いものにする連中ですからね」

 だが彼女は死んでしまった。影の立ちこめた部屋を死神が忍び歩いて嫌らしく睨め付け、けたたましく嘲笑った。そして?

「僕は狂いました、神父さん。今でも彼女を思うと、狂うことがあります。彼女は死んで、僕の腕の中にいました。街娼じゃないかと奴らはいいました よ。汚れ た女だと。違うんだ! 美しい人だった! 二日間、僕は彼女の亡骸の傍らにいました。彼女を愛撫し、彼女を見つめ、とうとう涙も声も枯れ果てて泣けなくな りました。ジーン=ラニアはずっと黙っていましたが、僕に食べ物と飲物を持ってきてくれました。僕の苦しみをわかってくれていたんです。一度も僕を咎めた りはしませんでした。そして、狂乱していた僕は、永遠に彼女と一緒にいることを思いついたんです!」

 永遠に? 私はピーター=メイスを見つめた。私の眼に浮かんだ恐怖の色を彼は読み取ったに違いない。彼は微笑し、身を乗り出して私の腕に優しく手 を置い た。

「そういう意味じゃありませんよ、神父さん」といって、彼は首を振った。「誤解です。ジーン=ラニアは芸術家でした。彫刻家だったんです。彼と僕は お金を 盗みました。そして1週間というもの彼は昼も夜も不眠不休で働き、僕が欲しがっているものを作ってくれました。それが済むと、僕らは彼女の亡骸に覆いをし て、都会から遠く離れたところに持っていきました。そこでは何もかも静かで、平和でした。そこで夜の間に僕らは彼女を埋葬しました。彼女に気づいた者は誰 もおらず、詮索するものもおりませんでした。彼女は街娼に過ぎなかったんです。街娼が失踪したところで、誰が気にかけるでしょう?」

 彼は私を見つめ、床を見つめた。そして長い間、再び口を開こうとしなかった。それから彼は物憂げにいった。

「あんなことはするべきじゃありませんでした、神父さん。ジーン=ラニアがしてくれたことを彼にやらせるべきじゃなかったんです。そのせいで僕は気 が変に なったんですから。僕の心は全能の神への憎しみで一杯になりました。そして、こういうことを研究していたものだから」──傍らのテーブルに山と積まれた禁 断の書を彼は苦々しげに指さした──「僕のとるべき道はひとつしかありませんでした。僕は学びに学びました。いいですか、学び取ったんですよ。ジーン=ラ ニアは僕を追い出し、もう僕とかかわりを持とうとはしませんでした。ジーンが僕のために作ってくれたものと一緒に行く先々で人々は声を潜め、僕のことを気 違い呼ばわりしました」

「それで」と私はいった。「このファイカナにやってこられたのですね」

 彼は頷いた。「それもまた狂気の一部です」と彼は認めた。「そこだけ別の理由でおかしくなったということはありません。全体の一部なんです。僕は あらゆ る生身の人間を避けて放浪しました。彼女と二人きりにならなければならなかったんです。わかりますか? ──彼女と二人きりですよ! やりはじめたことを 終わらせなければならなかった! そして僕は終わらせた! 終わらせたぞ!」

 彼は突然けたたましく笑いながら私の前に立ちはだかった。私は体をすくめて彼を避けた。彼の中で生じた変容の怖ろしさが理解できた。彼の精神状態 もわ かった。彼は私のところにやってきたとき、その中で燃えさかっている奇妙な征服感で精神が一杯になっており、少なくとも部分的には狂乱していた。それか ら、押し黙ってジャングルの道を延々と歩いているうちに彼の内部の火は勢いが衰え、彼は狂乱の理由すら忘れてしまった。今や彼は自分の身の上をゆっくりな がらも怖ろしく語り、たったひとつの考えに取り憑かれた野獣へと再び変容したのだ。私が縮み上がった相手は確かに正気の人間ではなかった。

「あんたに彼女を見せてあげよう!」と彼は大声で叫び、握りしめた拳で私の眼前の空気を打った。「一度あんたは二階を覗き見したことがあったな、こ ん畜 生。あんたが見たものは命のない大理石の塊だけだった! 僕と一緒に来るんです、さあ! 信仰心の詰まった脳味噌じゃ思いもよらないようなものを見せてあ げますよ!」

 彼は私の腕を掴んで私を椅子から強引に立ち上がらせた。大きく見開いた眼を私の顔に押しつけんばかりにした彼は、私の引きつった表情を見ては悪魔 じみた 満足を覚えていた。怯えた子供を大人が揺さぶるように、彼は私を揺さぶった。

「あんたの間抜けな信仰が人生のすべてに対する回答だと思ってるんでしょう?」といって、彼は両腕をぐっと伸ばした。「知るべきことを自分は何でも 知って いると思いこんでいるんだ! ああ見せてやるよ! あんたに教えてやれることがあるからな!」

 彼は私をぐいぐいと押し、忌まわしい書物が山積みになったテーブルを通り過ぎていった。彼は荒々しく私の腕を掴み、薄暗い二階の小部屋へと続く梯 子に私 を無理やり押し上げた。もしも彼の手を逃れてドアに辿り着けるのであれば、私は以前そうしたように、躊躇することなく逃げ出しただろう。だが逃げ出すのは 無理だった。彼は私の後を追いかけてくるだろう──私はそう確信していた──そして私を引きずってでも連れ戻すだろう。その時に何が起きるのかは神のみぞ 知ることだった。

 私が上っていくと、梯子は危なっかしく撓った。慎重に上っている余裕はなかった。もしも私が立ち止まろうものなら、彼は下から私を小突いて細い梯 子を無 理やり上らせようとしただろう。そんなことをすれば、二人とも下の床へ真っ逆さまに落ちてしまうかもしれない。私が身体的な危険を懸念しているのは、おか しな話だった。これから出くわすかもしれない精神的な恐怖の方を1000倍も強く怖れるべきなのに! だが天井の開き口をようやく通り抜け、その向こうに ある部屋の床を手探りしつつ踏みしめた後でも、私には最初その恐怖が見えなかった。ピーター=メイスが手を上げて出し抜けに擦ったマッチの炎も、私と対面 しているものを初めは明らかにしてくれなかった。

 そのとき私は見て、後ずさりした。あまりにも勢いよく動いたので、背後の壁に使われているニッパヤシの垂直材に体をぶつけてしまったほどだった。 ピー ター=メイスは前に進み出て小さなテーブルのところに行き、そこに立てられている蝋燭に火を灯した。その蝋燭は──自家製の粗末なもので、ぞっとするよう な輝きを放ちながら燃えていたが──ぱちぱち、しゅうしゅうという音を立てつつ室内に光を溢れさせた。

 その部屋は屋根裏部屋だった。小さくて家具もなく、居心地が悪かった。中背の男が直立して手を伸ばせば、易々と天井に触ることができた。壁と床は ひどく 粗末な作りだった。木で作った上に、粗雑に編んだニッパヤシのむしろが敷いてある。たったひとつの窓しか見えなかったが、それも汚い木綿の紐で塞いであっ た。そして向こう側の壁を背にして、私をまっすぐ見つめながら、私が前に覗き見ようとしたものが座していた。蝋燭の明かりに絶えず照らされながら、そのも のは私と向き合っていた──今度はその細部まではっきりと見て取ることができた。

 そのものは女性だと私は前に述べた。女性だった。今、ほとんど生きているかのような眼差しに魅せられながら、それの方に恐る恐る歩み寄って、私は その尋 常ならざる完璧さに驚嘆の念を禁じ得なかった。ジーン=ラニアがこれを作ったのだとすれば、ジーン=ラニアは真の芸術家だった! その女性は大理石の像 だったが、たいそう繊細かつ巧妙に彫刻されていたので、間近で見ても生身の人間と見まごうほどだった。彼女は裸で、瞑想の姿勢で座していた。両手を差し出 し、前にも見たことのある金属の大皿を捧げ持っていた。私は彼女の異様なまでの愛らしさに感嘆しながらも、彼女がそこに座っている姿には何か怖ろしいもの があるということを直観的に察知した。何かが間違っていた。

「これが」私はゆっくりとピーター=メイスにいった。「君の愛した女性なのですね? この娘がモーリーン=ケネディなのですか?」

 彼は笑った──凶暴でもなければ勝ち誇ってもおらず、たいそう穏やかな笑い方だったので、私は出し抜けに振り向いて彼を見つめた。私に向けられた 彼の微 笑は、己の犠牲者よりも多くを、ずっと多くのことを知っている人間の微笑だった。

「彼女は僕の愛する女性になることでしょう。僕がやり終えた暁には」と彼は返事をした。そして大理石の像へと歩み寄り、彼女の肩に手を置いて顔を覗 きこん だ。まるで彼女には彼が理解できているかのようだった。

 そのとき、私は勘違いをした。ついさっき私に梯子を無理やり上らせたときよりは彼の狂乱が治まっているものと思ってしまったのだ。私は彼の腕に手 を置い て静かに話しかけた。

「ねえ君、これは良くないことですよ。君の友人はこんな偶像を作って、君に崇めさせたりするべきではなかったんです。モーセの十戒は私たちに教えて くれて います。私の他に神があってはならないと」

 彼は私の手を振りほどくと、猛々しく私の方に向き直って私を睨みつけた。彼の握りしめた拳が私の顔をめがけて飛んでくるものと私は覚悟した。その とき彼 は後ずさりして微笑した。彼はゆっくりと歩いて、私のいるところを通り過ぎ、床の開口部へ行った。そして屈みこみ、どっしりとした四角い木の板を引きずっ て開口部にかぶせ、それについている革紐で正しい位置に固定した。同様に慎重な態度で彼は向こう側の壁に行き、そこに立てかけてあった椅子を掴んで部屋の 真ん中に据えた。その椅子の後ろに立って、彼は平静な口調で言った。

「ここに来て、お座りなさい」

「私はここにいたくはありません」と私は返事をした。

「ここに来て座るんです」

「なぜ?」

「なぜって、僕がそういっているからですよ! あんたの間抜けな神様がここにいるんなら、彼はあんたの隣に座るんです。あんたか神様がどっちかが拒 めば、 僕はあんた方を両方ともぶっ殺してやる」

 私は躊躇した。彼は身じろぎもせずに佇み、待っていた。私はのろのろと彼の命令に従った。私が椅子に腰を下ろしたとき、私の手は膝の上でぶるぶる と震え ていた。

「ここに座って、見ていなさい」と彼は命じた。「何も喋るんじゃありませんよ。僕にはしなきゃいけないことがある。邪魔されるわけにはいかないんで す。禁 じられたものを見たという理由で、あんたのバカな神様があんたを殴り倒したりしなければ、この女性を僕のために作ってほしいと僕がジーン=ラニアに頼んだ 理由がじきにわかることでしょう!」

 さて、語らずにおいた方がよさそうなことを私は詳しくお話ししなければならない。こんなことを書き記そうものなら、厳しく糾弾されることになるか もしれ ない。あるいは、糾弾されるだけでは済まないかもしれない──あなた方も、これを読んだ報いを受けなければならないかもしれないのだ。だが、それでも語ら ねばなるまい。狂気に駆られてピーター=メイスの志を継ごうとする者がいつの日か現れないとも限らないし、そういう人たちを救わなければならないから!

 ちらつく影で一杯の小部屋の中で、私はその場に腰を下ろした。私と向かい合って座っているのは、あまりにも愛らしい女性の大理石像だった。出入口 は閉ざ されており、ひとつしかない窓は塞がれていた。不吉な想念と邪悪な陰謀に充ち満ちている部屋の中で、ピーター=メイスとその女性と私は3人きりだった。そ して、私が居合わせているのを完全に無視して、若者は不浄な作業を続けた。

 壁に設けられた小さな区画のところに彼はまず行き、そこから何冊も書物を取り出すと、そのうちの一冊をテーブルに持ってきた。彼はその本を熟読し て慎重 にページをめくり、探し求めていたものを見つけ出すと静かに音読しはじめた。彼の唇が動いて言葉を発するのが見えた。瞬きもせずにページを見つめる彼の眼 に恐るべき熱心さが宿っているのがわかった。蝋燭の炎の輝きに照らし出されながら、彼は身じろぎもせずに佇んでいた。体を前のめりにして頭を垂れ、テーブ ルの上に置かれた手は関節が白くなるほど握りしめられていた。それから彼は背筋をまっすぐにし、ゆっくりと体の向きを変えて、あの女性の方へ歩み寄った。

 女性の足下に柔らかな革の小袋が置いてあった。そこから彼は小さな黒いものを取り出し、女性の大理石の唇にあてがった。はじめ私はそれを十字架だ と思っ たが、自分の誤りに気づいて震え上がった。それは逆十字で、そこに刻まれている顔はいやらしく睨みつける魔神の顔だった。生命を持たない女性の両手が彼に 向けて差し出している金属の皿に彼は注意深く逆十字を入れた。同様の慎重さで彼は小さなガラス瓶を手に持ち、粘性のある黒っぽい液体を皿に注ぎ込んだ。朧 気な光に照らされて、その液体は鈍く光った。それからマッチが擦られて明るく燃え上がるのが見え、出し抜けに皿から青白い炎が立ち上った。

 ゆっくりと彼は跪いた。私の方を見ようともしなかった。私がいることなど意識していなかったのかもしれない。彼は跪いて女人像の顔を見つめ、哀願 するか のように両腕を挙げた。ほとんど聞き取れないほど低く単調な声が彼の唇から発せられ、さながら彼は祈っているかのようだった。

 現に彼は祈っているのだろうと思って、私は彼への哀れみで心が満たされた。私は彼の苦しみを軽んじなかった。彼の孤独を理解した。その時、彼が呟 いてい る言葉が聞こえた──はっきりとわかったのだ──そして、私たち二人を許してくださるよう慈悲深き神に祈ったのは私の方だった!

 黒ミサについてお聞きになったことはあるだろうか? その忌まわしい意味に気付いておられるだろうか? ならば、ピーター=メイスの魂に潜んでい た狂気 の度合がおわかりいただけるはずだ。そして彼が呟いていた呪いが誰に向けられたものであったかもおわかりいただけるだろう。

 だが、それだけではなかった。私は彼の意図の非道さを朧気に理解した。そして耳を傾けるにつれて、ゆっくりながら確実に、この上ない恐怖の虜と なった。 彼を制止するだけの勇気を奮い起こせなかったことで、あの日から1000回も私は己を責めたものだ。私が椅子から飛び上がって彼につかみかかれば、彼は後 でそのことを私に感謝したかもしれない。自分の座っている椅子をひっつかんで彼に投げつけなければならなかったとしても、そのような暴力を働いたことで非 難されはしないだろう。なぜなら若者は狂っていたのだから。彼が請うていたのは破滅だった。

 だが私はそこに座ったまま彼を見つめるばかりだった。体は強張り、眼は大きく見開かれ、こめかみはずきずきと脈打っていた。私はおののきながらも 魅せら れていた。そして神よ救いたまえ、彼のしたいようにさせてしまったのだ。

 あの言葉は未だに聞こえる。薄暗い部屋に独りで座っていると、いつでも聞こえてくるのだ。同じ単調な詠唱となって私にささやきかけてくる。私の脳 髄に刻 み込まれているのだ。

「時は夜なり、ベツムーラよ。時は夜なり、我らが聖域の外は昼にて陽が照りたれど。黒きハリの湖畔を我が歩むとき、我が言葉を聞き入れたまえ、ナイ アーラ トテップよ。我の申すことを聞き届けたまえ……一語一語……地より生まれしものどもは、黒き王への拝謁を命じよといわざるを得ざれば。我が言葉を聞き入れ たまえ……天は芸術に……天は芸術に……黄の印は我が願いの祭壇にて燃え上がり、彼女は眼を開きて再び我がものとなるべし。我らを名づけしものよ、称えら れてあれ! 御身への言葉なり、おおユゴス、おおイアン、おおハスター、悪の貴公子よ! 彼女を我に与えたまえ。御身の犠牲を命じたまえ。名づけられざる 大いなるものの御名にかけて……這い寄るものどもが不可視に潜み、彼らを飛翔させる黒き翼を待つ夜の井戸を通じて……無限の奈落の赤き汚濁にて生まれし無 頭のものどもの名にかけて……生ける彼女を我に与えたまえ、ハスターよ。彼女を我が腕に抱かしめたまえ、ユゴスよ! 我が言葉を聞き入れたまえ。おお諸帝 の帝ナイアーラトテップよ!」

 これらの言葉は狂人の精神から生まれ、人類には禁じられた恐怖をおぞましくも暗示するものだった。それが、あの忌むべき部屋で私と共に座っていた 若者の 唇から転がり出てきたのだ! これらの他にも言葉があった。だが、他の言葉は私には聞こえなかった。なぜなら私は刺し貫かれた人間のようになっており、大 理石像のように硬直して真っ直ぐに座っていたのだから。否、否──大理石像のようにではない! あの像はもはや真っ直ぐでもなければ、硬直してもいなかっ た! 私たちのいる部屋に暗黒がやってきた──命ある邪悪な暗黒が蝋燭の黄土色の輝きを覆い消そうとした。そして私の眼前では青白い女人像がうごめいてい た。怖ろしくもゆっくりと左右に身を揺すり、その差し伸べられた両手は金属の皿を振り子の如くあちこちに動かしていた。そして皿の中の青い炎は生きている 火の舌となって揺れ動いた。

 ピーター=メイスは呟くのを止めた。別の声が聞こえた。低く震える声で、始まりも終わりもない言葉を話していた。長く奥深い管を通して発せられた かのよ うに、音節が単調に生じた。黒衣をまとった邪教の祭司によって唱えられたかのように、汚れた部屋の隅々まで詠唱が行き渡った。

 私たちはもはや二人きりではなかった。私たちを取り巻く暗闇には影が、無名のものどもが潜んでいた。それらは形状も実体もなく、それでいながらそ こにい た! 祈りを捧げて哀願するべき時だった。だが防御してくれるに足りるだけ強力な祈りを私は知らなかった。私たちは祈る権利を失ってしまっていたのだ!  ピーター=メイスは邪なことを企て、暗黒の奈落から四大霊を招喚していた。人間の口から発せられた祈りを聞き届けてくれる最強の存在との霊的な交わりが彼 の冒涜によって確立された。そして、こんなことを語る私はジェイソン神父、宣教師なのだ!

 私は跪いて両手を挙げたが、私の口からは何の言葉も出てこなかった。喋ろうとしたのだが、言葉は喉につかえたまま消えてしまった。私の周りでは地 獄の暗 黒がうごめき、魔霊の姿形が凝集しつつあった。私の眼前では若者がふらふらと立ち上がり、酔漢のように立っていた。まるで己の罪の非道さに打たれたかのよ うだった。だが私がとりわけ眼にし、その後幾晩も怖ろしいほど明瞭に思い出したものは、大理石の女に生じていた変化だった!

 神よ救いたまえ、あの顔にじっと見入ってしまうとは! ごく普通に見開かれていた双眸は苦痛のために瞠られていた。唇は形が崩れ、顔は見る影もな く歪ん だ灰白色の仮面となっていた。女人の全身がくまなくうごめき、おぞましいながらも痛ましくもがいては大理石の桎梏から自由になろうとしていた。彼女はもは や死んではいなかった! もはや石像ではなかった! 彼女の硬直した体には生命が注ぎ込まれていた。そして今や彼女は地獄じみた身体的苦痛の直中で闘い、 あの呪われた力を吸収して、完全に生きた存在になろうとしていた!

 てんかんの患者が発作を起こすところを御覧になったところがあるだろうか? 彼女の様子はそれに似ていた。彼女は立ち上がろうとあがいていた。 持ってい る金属の皿から両手を引きはがし、眼前に立っている若者を抱擁しようと苦闘していた。怖ろしくもゆっくりと、胸と腰を発作的によじりながら、彼女は彼の方 を向いた。苦悶しながら彼女は彼の顔を見つめ、助けを乞うていた。喋ろうとしたが、それは無理だった!

 そして若者は彼女を見つめ返した。彼は眠りながら直立している人間のようだった。彼女の苦悶を理解してもいなければ、経帷子のごとく自分にまとわ りつい ている忌むべき暗黒に気づいてもいないようだった。ゆっくりと機械的に、抗うことのできない命令に従うかのように、彼は彼女の方へと歩み寄った。押し黙っ て彼は彼女の顔を見つめた。その時、彼は静かに喋るのが聞こえた。何かを朗読しているかのように平静な声だった。

「まだです。まだ駄目なんです。これで5度目です、ハスターよ。まだ5度目に過ぎません、諸帝の帝よ。一回ごとに苦痛は大きくなっていきますが、命 も強ま ります。7度目になれば苦痛が死を破壊し、命は完璧なものになると約束してくださいましたね。僕は辛抱することにします。待たされても満足です。待てば海 路の日和ありと申しますから」

 彼は慎重に両腕を差し伸べた。彼の両手が合わさり、金属の皿に置かれた。青い炎が掌中に食い入ってきたとき、彼の両眼が閉じられて唇が蒼白になる のが見 えた。だが彼はその場に立ちつくしたまま、いかなる音も発しようとはしなかった。一瞬で彼は引き下がり、青い火はもはや生き物ではなくなっていた。儀式を 行うかのように彼はゆっくりと跪き、生きながら死んでいる眼前の女性の体に両手で触れた。彼女の顔からは苦悶の色が消え去っていた。彼女の苦闘は止んでい た。彼女は元通りの石像になっていた。動かず、命を持たない。彼は──彼は頭を垂れて彼の聖像の足許に跪いていた。跪いて祈っていたが、人類の神ではな く、彼の魂を支配している邪神たちに祈っているのだった。彼がそこに跪いて哀訴していると、部屋からは影と音が消えてなくなり、彼と私と女人は以前のよう に三人きりになった。自分は魂を恐怖で黒々と染め上げられ、禁断のものを目の当たりにしたせいで眼がくらんでいると知った私は床の開き口の方へ静かに這っ ていった。そして開き口を覆っていた正方形の木の板をどけ、ゆっくりと慎重に梯子を伝って1階に下りた。

 私が足音を忍ばせて戸口に向かうときも、頭上にある神秘の部屋からは何の音も聞こえてこなかった。私がピーター=メイスの家から出て行くときも音 は一切 しなかった。ジャングルの縁に辿りついて振り返ると、二階の部屋の塞がれた窓の後ろに黄色い灯火の輝きが見えただけだった。ピーター=メイスはまだそこに おり、卓上に置かれた粗末な蝋燭が部屋の不浄な内容に無垢な光を投げかけている間も相変わらず跪いて祈っているのだということがわかった。

 沈鬱な思いを抱いて、私はのろのろと立ち去った。


 その日から物語の大詰の日まで、私はピーター=メイスに会わなかった。実をいえば、会いたくなかったのだ。私の顔に血の気が戻り、私の手の震えが 止まる のには時間がかかった。その晩、我が家に辿りついた私はドアを閉めて閂をさすと、死人のように座り込んで床を見つめた。気分が悪く、ジャングルを通り抜け てきたせいで疲れ果てていた。自分が関わりを持った禍々しい出来事で頭の中がいっぱいだった。神罰が怖ろしかった。もっと悪いことに──恐怖はまだ終わっ たわけではないということがわかっていた。私の頭の中では若者の言葉が何遍も鳴り響いていた。

「7度目になれば苦痛が死を破壊し、命は完璧なものになるだろう。僕は辛抱することにします。待てば海路の日和ありと申しますから」

 否、ジャングルの中にあるピーター=メイスの家に私は戻らなかった。戻るのが怖ろしかった。彼が怖ろしかったし、あの恐怖の家に彼と一緒にいる暗 黒界の 住民たちも怖ろしかった。原住民たちが私のところにやってきて、あの若者は頭がおかしいという話をしたが、今度は私も事情に通じていたので彼らの話を誇張 と決めつけはしなかった。

 しまいにメネガイがやってきた。眼を大きく見開いて怯えきった彼は私の家の戸をどんどんと叩き、入れてほしいと頼んだ。9日目の夕方のことで、メ ネガイ の顔に浮かんでいる表情を見ると、私は鎮まっていた恐怖が表に浮かび上がってきた。私はドアを開け、彼を入れてやった。そして戸を閉め、ビンロウジで染 まった口で彼が喋る金切り声の言葉に耳を傾けた。

「神様!」と彼は泣き叫んだ。そして金切り声を上げたり口ごもったり囁き声になったりしながら、自分の母語で話をした。紛う方なき恐怖の色が彼の眼 には浮 かんでいたので、彼の言葉が真実であることがわかった。

 1時間足らず前のことだった。メネガイは主人の家におり、床に敷かれたニッパヤシの敷物に座っていた。ピーテメ(ピーター=メイス)はいつものよ うに本 を読んでおり、テーブルに肘をついて、字が印刷されたページの上に俯いていた。いきなり、一言も喋らずに、彼は椅子を後ろに押しやって立ち上がり、二階の 部屋へと続く梯子を登っていった。

 メネガイは怖くなった。主人が秘密の屋根裏部屋にいくといつも変なことが起きるのだった。二階の部屋から戻ってきたピーテメは様子がすっかり変 わってし まう。頭がおかしくなるのだ。トゥアックを飲んで酔っぱらった人か、愛の踊りを長く眺めすぎて色情狂になった人のようになるのだった。

 そして今回も例外ではなかった。やがて二階の部屋から意味不明な音が聞こえてきた。くぐもった声が聞こえ、詠唱じみた別の声がそれに唱和した。音 はます ます大きくなっていき、ずいぶん長い時間が経ってから女性の叫び声になった──少女が生きながら八つ裂きにされているかのような怖ろしい悲鳴だった。そし てピーテメの金切り声がした。勝ち誇った怒鳴り声で、次のように何度も叫んでいた。

「7度目は近い! 6度目の試練が終わった! おおハスターよ、我が言葉を聞き届けたまえ! 6度目の試練は終わった!」

 メネガイは怯えて震えながら、ドアの近くにうずくまった。主人が勝ち誇って大声で怒鳴ったことは今まで一度もなかった。あの怖ろしい部屋にいる女 人があ んなに苦しんで悲鳴を上げたこともなかった。彼女が叫んだこと自体が一度もなかったのだ。どうして叫んだりできよう? ある日の午後、メネガイは勇気を奮 い起こして主人の禁じられた秘密の部屋を覗きこみ、自分の眼で彼女を見たのだ。彼女は石の女だった。どうして石の女が悲鳴を上げられるだろうか?

 メネガイは恐れおののきながら、主人が梯子を下りてくるのを待った。しばらくしてピーテメは降りてきた。よろめきながら、ぶつぶつと独り言を呟い てい た。メネガイは後ずさりして彼から離れ、彼を見つめた。ピーテメは体を強張らせて突っ立ち、目を狂おしく血走らせて見つめ返した。そして、いきなり彼は悪 鬼のようになった──麻薬に酔って人を殺めようとする化物のようだった。怖ろしい唸り声を上げながら、彼は飛びかかってきた。

「こん畜生!」と彼は吠えた。「この忌々しい島の連中はみんな同じだ、貴様も同じだ! 僕が狂っていると思っているんだろう! 僕のことをこそこそ 探り回 り、笑いものにするために来たんだな! 神かけて、物見高い連中に何が起きるか見せてやるぞ! 何もかも見せてやるんだ!」

 メネガイが逃げおおせたのは奇跡としか言い様がない。ニッパヤシの敷物の縁がピーテメの足許でめくれ上がり、彼を躓かせたのだ。メネガイはドアを 開け放 ち、悲鳴を上げながら敷居を飛び越えた。ピーテメは彼の背後から掴みかかってきた。だがメネガイがジャングルに辿り着いたのが先だった。そしてジャングル の中で、ピーテメが追ってこない隠れ場所までメネガイは逃げていった。

 そして今やメネガイは私の家におり、庇ってほしいと乞うていた。もう24時間もしないうちに、ピーター=メイスと石の女人がかかわっている忌むべ き出来 事は怖ろしくも終局に達するだろうと私は察知した。私は正しかった──だが、その24時間が経つ前に別の出来事が起きた。

 私は自宅のベランダに佇んでいた。また朝になり、血のような緋色の球体となった太陽が礁湖の青い水から昇ってくるところだった。メネガイは、村に ある自 分の小屋へと引き上げていった。私は一人きりだった。

 初め、私が見たものは地平線の彼方にある灰色の点だった。あまりにも小さな点だったので、それは点などではなく私の想像に過ぎなかったのかもしれ ない。 私は両手を眼の上にかざして眺めたが、赤い太陽を見つめたせいで眼がくらんでおり、差し当たっては緋色の輝きしか見えなかった。それでも、その点は存在し ており、その正体がわかった──船だ。

 後ほど私はその点を再び見た。見つめながら立っていると、メネガイが道を走ってきた。興奮した面持ちで彼は指さし、盛んに身振りを使った。

「スクーナーです、神父様!」と彼は叫んだ。「スクーナーがこの島に来たんです!」

 その通り、スクーナーが来たのだった。だが、なぜ? ファイカナに何らかの用がある不定期商船などあるのだろうか? 最近4年間で私たちの孤島に 立ち 寄った船は一隻だけで、その船がピーター=メイスを連れてきたのだ。恐怖と不幸を、狂人と石の女を連れてきた船だった。今度の船も似たような荷を運んでき たのだろうか?

 私はメネガイの熱心な質問に何も返事をしなかった。外界からの使者が新たにやってきたことを心中では怖れていたのだ。メネガイは私の顔を覗きこん で考え を読み取り、お喋りを止めた。狼狽して彼は私のもとを辞去し、浜辺へと急ぎ足で降りていった。彼がいってしまった後も私は長々と立ち続けた。近づいてくる 船が最後の瞬間に進路を変更して再び立ち去り、私たちをそっとしておいてくれないものだろうかという見込みのない希望を抱きながら見つめていた。

 2時間後、スクーナーは礁の外に停泊した。そこから岸まではかなり近かったので、浜辺にいる私たちには船の名前が読み取れた。その船はベラ=ゲイ ル号 だった──ピーター=メイスをファイカナに連れてきたのと同じベラ=ゲイル号だった。私たちが凝視している最中に、小舟が礁の出入口を通り抜け、私たちの 方にゆっくりと近づいてきた。たちまち私はブルック船長のひげ面をじっと見つめながら、彼が私の方に突き出した汚い手を握っていた。そして、取り憑かれた ような自暴自棄の光がブルック船長の眼に宿っているのは、いかなる怖ろしい出来事があったせいなのだろうかと私はその時ですら不思議に思っていた。

 それはすぐにわかった。前置き抜きでブルックはぶっきらぼうにいった。「神父様とお話しがしたいんでさ。二人きりで」

 私たちは連れ立って私の家に入り、家の外に群がっている物見高い原住民たちの鼻先でドアを閉めた。私たちはテーブルを隔てて向き合い、ブルックは 話を始 めた。

「船に女をひとり乗せてあります、神父様」と彼は顔をしかめた。「どうぞ、わしのことを気違いだといっておくんなさい。あんたは気違いだと彼女に いって やっておくんなさい! ベラ=ゲイルみたいな油虫だらけのボロ船に乗り込んでくるほどバカな女は精神病院に放り込んでやらなきゃいけません。この女はどの みち病院行きでしょう。彼女はおかしいんでさ」

 彼はポケットから瓶を引っ張り出し、まず私に差し出してから瓶に口を付けて飲んだ。咽せながら彼はコルク栓を乱暴にねじ込み、前に乗り出してテー ブルに 両肘をついた。

「わしがあの若造をここに置いて戻ると、パペーテで彼女が待っておりました」彼はぶつぶつと言った。「わしらが碇を下ろすなり、ハーランの奴が── パペー テの支配人でさ──彼女を乗船させたんです。奴はわしを紹介し、念入りに点検をして、わしが素面であることを確かめました。それから言ったんです。『よ し、ブルック。おまえさんはラリオアに戻るんだ。おまえさんがそこで降ろしてきた青年を、この御婦人が探しておられるんでな』

「ええ、わしは彼女を連れてきましたよ。でも、天に誓っていいますがね、彼女はおかしいんでさ。わしが彼女を連れて戻ってくれば、御自分でもおわか りにな ることでしょう。服装と来たら喪服みたいで、一日中ずうっと真っ黒な衣装なんです。しかも爪先まで黒いベールをかぶってる。彼女がどんな風に見えるかっ て? わしに聞かないでくださいよ! わしは腐ったスクーナーでほとんど10日間も彼女と一緒にいたんですぜ。ここからパペーテに直行したんでさ。それ で、彼女がどんな顔をしてるか未だに知らないんです! 彼女は必要なとき以外は喋らないし、一度に三言より多くは喋りません。お助けを! それに彼女は変 なんだ。気味が悪いんですよ。お話ししたでしょう?」

 ブルックは私の腕に手をかけてテーブルの上にますます身を乗り出し、他の人間に聞かれるのを怖れてでもいるかのように声を潜めた。私は彼の眼を観 察し、 そこに恐怖の色を見て取った。真正の恐怖であり、彼の眼に宿って久しいものだった。

「それがこのラリオア行きの顛末なんで、神父様」船長はぼそぼそと言った。「わしがあの若造をラリオアに連れて行ったものとハーランは思ってました から、 女の方もそこに連れて行けといったんです。わしが若造をファイカナで降ろしたことは知らなかったんでさ。奴には知らせてなかったんです。そんなことをすれ ば、若造がわしに払ってくれた金を寄こせというに決まってますから。あの金はわしのものにしておきたかったんです。それで、わしはパペーテを出航するとラ リオアに向かいました。だって、ハーランから言いつけられたのはラリオア行きなんですぜ、そうでしょ? 彼女をラリオアに連れて行けといわれたんだ。とこ ろが3日もしないうちに彼女がやってきて言うんです。『私をピーターのところに連れて行ってくださる気はないのね』本当にそういったんですぜ、神父様!  一体全体どうやって彼女はピーターの居場所を知ったんですかね?」

 私は彼を見つめた。彼の眼に浮かんでいた恐怖の色がいくらか私の眼にも移ってきていたに違いない。彼は得意満面で私を見つめ返した。

「彼女は人間じゃないんです、本当ですぜ!」と彼は出し抜けに言い出した。「見るからに人間じゃねえや! 歩き方は眠っている最中みたいだし、喋り 方はま るっきり抑揚がなくて、疲れているみたいな感じなんです。天に誓って言いますがね、わしは金輪際あの女とはかかわりたくないんでさ、神父様! わしはあの 女をここに連れてきました。ここに置いていきますよ! これからは神父様にお任せします。この手のことはわしより神父様の方が扱い慣れておられるでしょう からな」

「あなたは彼女をここに連れてきた」私はゆっくりといった。「そうしないのが怖かったから?」

「怖かったからですと!」彼は怒鳴った。「言わせてもらいますがね、彼女があの眼でわしを見て『私をピーターのところに連れて行ってくださる気はな いの ね』といったとき、わしは彼女を裏切るような真似をしないだけの分別があったんでさ! わしは彼女をピーターのところに連れてきたんだ!」

 それで船長の話は終わりだった。ブルックは重そうに腰を上げ、ふらふらと立ちながら、再びウイスキーの瓶から飲んだ。彼は私を睨みつけ、ドアを開 けなが ら、酔っぱらった笑い声を上げた。

「彼女に会わせて進ぜましょう」と彼はいった。「わしは言いつけられたとおり彼女を連れてきたんだ。あの女をどうするかは神父様次第ですぜ」

 そして彼は出て行った。

 恐怖と懸念の入り混じった感情を覚えながら、私は彼の帰りを待ち受けた。どういうわけか、自分で浜辺まで降りていく気にはなれなかった。私は家の 中に閉 じこもったまま思いを巡らせる方を選んだ。だが、薄暗い部屋から出た方がよかったのかもしれない。陽光の降り注ぐ戸外では、私の夢想はもっと明るいものに なってくれたことだろう。

 この女性はいかなる人なのだろうか? ひょっとして、ジャングルの中に罪の家を建てて住み着いた若者の妹だろうか? 彼が後に残してきた死せる恋 人の縁 者だろうか? 私は訝った。そして訝りながら、気がつくと彼女の姿を想像していた。無意識のうちに、ブルックの描写がその想像図に影響を及ぼしていた。私 が思い浮かべた女性は無骨で無様な黒衣の尼僧で、言動の奇矯な人だった。10分後に私が対面した女性とは似ても似つかなかった。

 ブルックがしわがれ声で挨拶するのが聞こえたので、私は驚いて夢想を止め、神経質にぐいとドアを開けた。そこに彼女がいた──すらりとした優美 で、この 上なく愛らしく、私が思い描いていた姿の対極にあった。静かに彼女は船長の後について階段を上った。気後れすることなく彼女は私と向き合い、ブルックは ぶっきらぼうに言った。

「こちらはジェイソン神父です。この場所を切り盛りしておられる方です」

 その女性は頷いた。彼女の姿をすっかり覆い隠している不透明なベールの後ろで、双眸が私を見つめた。彼女は25歳くらいで、それより年上というこ とはな かった。慎重に彼女は室内を見回した。ほとんど機械的に私の傍らを通り過ぎ、椅子に身を沈めた。奇妙なほど単調な声で彼女はいった。

「疲れましたわ。長旅だったもので」

 彼女は疲れていた。彼女の顔は隠されていて見えなかったが、私は疲労困憊の色を感じ取った。突如として彼女は身動きする力をなくしてしまったかの よう だった──生命力そのものを失ってしまったかのように見えた。彼女は完璧なまでに静かに座り、まっすぐ前を見据えていた。おかしなことに、彼女は瀕死の状 態なのだと私は思った。

「あなたは──ピーターに会いに行こうとしておられるのですか?」私は優しく言った。

「ピーター?」と彼女は囁き声で言い、ゆっくりと頭を上げて私を見た。「ピーター? ええ。少し経ったら」

 私は彼女をしげしげと眺めた。間違いなく、この女性はピーター=メイスを愛しているのだった。さもなければ、これほどまでの苦難を乗り越えて彼を 探しに 来たりするはずがない。彼女がピーター=メイスを愛しているのであれば、彼の助けになってやれるだろう。彼には助けが必要だ。彼の近くにいてくれる人が、 彼にとって愛しく思える人が必要だった。彼に話しかけ、彼がしているのは怖ろしい邪悪なことだと納得させてくれる人が必要だった。彼女にそれができるので あれば、彼女がやってきたのは無駄ではなかったということだ。

「お休みになったら」と私は静かに言った。「彼のもとへお連れいたしましょう。まずは眠られることです。道は長いですから」

 彼女は微笑んだ。知るべきことを知らずにいる私を憐れんでいるかのようだった。

「ええ」と彼女はいった。「長い道のりですのね。ジャングルの中を歩くのでしょう。存じておりますわ」

 そして彼女は眠りについた。


 私たちがピーター=メイスの家を目指して出発したとき、すでに日が暮れていた。私たちは二人きりだった。ブルック船長は1時間以上も前に立ち去っ てお り、彼女とは二度と関わり合いになりたくないと言い捨てていった。そして、自分が「ファイカナの忌々しい浜を踏むことが二度となかったとしても」自分とし ては一向にかまわないとも言っていた。子供っぽい好奇心を満足させようと家の周りに群がっていた原住民たちは退屈してしまい、村へと引き上げていった。あ の怖ろしい結末を迎えることになった行路に私たちが取りかかったのを見た者は誰もいなかった。

 だが、私はその時点では結末のことなど夢想だにしていなかった。ジャングルの中の一軒家に一人きりで暮らしているピーター=メイスのことを私は考 え、彼 の助けとなってくれる女性を神が送ってくださったことに感謝した。確かに彼女は謎めいていた──それに一度も自分の名前を言おうとしていなかった──だが 私は希望に満ちており、彼女を案内してジャングルの小道を歩いていく間、奇妙な自信に支配されていた。ジャングルは死のように黒く、不吉な形や音で一杯 だったが、それでも私の胸の高鳴りは止まなかった。四方八方に危険があるかもしれないということは考えないようにした。私は怖れることを拒んでいたのだ。 慈悲深き神がこの女性をファイカナに送り届けてくださったのだし、同じ慈悲深き神が彼女をその探求の終わりまで安全に導いてくださることだろう。

 彼女もまた怖れていなかった。彼女は慎重ながらも勇敢に私の後についてきた。喋ろうとはしなかった。黒々とした沼地が広がっている中を通り抜けた り、バ ンヤンの巨大な切株を乗り越えたりするのを手伝うために私が何度か振り返ると、彼女は一言も発せずに微笑んで私の手を取るばかりだった。

 そして、とうとう私たちは道の終わりに辿り着き、空地に足を踏み入れた。そこにピーター=メイスの家があり、私たちの目の前にぼんやりと見えてい た。そ して、初めて疑念が私の心を捉えた。

 その不気味な建物についている明かりはひとつだけだった──二階の部屋の塞がれた窓の後ろに、弱々しい黄色の明かりがひとつあるだけだった。ゆっ くりと 私たちは家に向かって歩いていき、ベランダの階段を上るときは歩調をさらに遅くした。私はおずおずとノックしたが、返事はなかった。ドアの掛け金を探りな がら、私の手はぶるぶると震えた。ドアが開き、私たちは押し黙って足を踏み入れた。

 その暗闇の中で女性と私は並んで立っていたが、二人とも喋ろうとはしなかった。天井から部屋の片隅に弱々しい光が射しており、梯子のてっぺんや、 その横 の壁のでこぼこした表面を照らし出していた。天井の開き口は閉じていた。頭上の部屋からは、低く抑揚のないピーター=メイスの声が聞こえてきた。その言葉 を聞くと、突如として私の心に恐怖が芽生えた。

 それらの言葉をここで繰り返す必要はないだろう。あの恐怖の部屋で執り行われている儀式のことを私はもう詳細に説明した。今回その恐怖は頂点に達 しつつ あったとだけいえば充分だろう──人にあらざるものの唇から生じた別の声は甲高いクレッシェンドとなって、怖ろしくもゆっくりと高まり、若者の喉から発せ られた冒涜の言葉をかき消さんばかりだった。ベールをかぶった女人と私が身じろぎもせずに立っている間も、それらの音は高まって力強い咆吼となり、自分た ちの勝利を絶叫していた。それと共に、悶え苦しむ女性の甲高く怖ろしい叫喚が聞こえてきた。

 魂の中に芽生えていた恐怖に自分が屈してしまい、あの邪悪な場所から逃げ出していれば良かったのにと今では思っている。一緒に来た女性の腕を掴 み、彼女 を引きずってでも戸口から連れ出せば良かったのに。そうする代わりに、私は根が生えたかのごとく床に立ちつくしていた。私は体を硬直させて突っ立ち、自分 の頭上で延々と吼えている狂気の声に耳を傾けていた。

 その荒々しい振動が家全体に木霊していた。恐るべき意味や、慄然たる暗示がこめられた言葉が怪物じみた喉から吐き出され、私の意識の深部まで食い 入って きた。無名にして御しがたい恐怖で私の魂を苛むのに充分な重要性を持つ名前が何度も何度も唱えられるのが聞こえた。それに加えて、それの内に、肉体的苦痛 を訴える荒々しい悲鳴が女性の唇から飛び出しては響き渡るのだった。

 私がそこに立ちつくしている間に、その怖ろしい騒音は頂点に達した。私たちの周りの壁が、頭上の天井が、足許の床が長々と震え、あたかも暴風にさ らされ ているかのようだった。それから、ゆっくりと音が静まった。ゆっくりと音が弱まっていき、不吉な囁きと呟きに変わったが、私には一言も意味がわからなかっ た。そして最後には、たったひとつの音が聞こえているばかりになった──ピーター=メイスの低く情熱的な声だ。彼は勝ち誇った調子で喋っていたが、そのこ と自体があまりにも重大であった。

 そして私は行動を起こした。機械的に傍らの女性に背を向け、部屋の片隅の梯子に向かった。おずおずと私は木の梯子を登っていき、両手で自分の体を まっす ぐに保とうと務めたが、カタツムリのようにのろのろと上方を手探りすると手が激しく震えた。頭上の部屋からは、若者の声が発作的な絶叫となって聞こえてき た。勝利の言葉や、愛撫する言葉を発している。荒々しく彼は喋っていた。

「終わったぞ! 愛する人よ、終わったんだ! 苦痛が死を破壊した。命は完璧なものになった! そうなるだろうと彼らは僕に約束してくれた、そして 彼らは 約束を果たしてくれたんだ。ああ、愛する人よ、僕のもとへおいで!」

 私は身震いし、長い間梯子にしがみついたまま動こうとしなかった。もっと高いところに行くのが怖かった。頭上の出入口を覆っている木の板をどかし たとき 私の眼に飛びこんでくるであろう光景に気付いていたら、私は大急ぎで梯子を下り、あの邪悪な部屋を永遠に放っておいただろう。だが私には知る由もなかっ た。私は覆いをどけ、自分の体を頭上の床へと持ち上げた。そして私は見た。

 部屋は闇に包まれており、テーブルの上でパチパチ音を立てている蝋燭が唯一の灯りだった。私の目の前にピーター=メイスが立っていた。彼の髪はぼ さぼさ で、服はボロボロだった。頭をのけぞらせ、床に敷かれたニッパヤシの粗末な敷物を素足で踏みしめている。彼が両腕で抱きしめ、異常なほど痩せ衰えた自分の 体にしっかりと押しつけているのは裸の女性だった──細かな粉末にした石膏のように白く滑らかな肌をした女性だった。愛らしい女性だった。あまりにも愛ら しすぎた。そして、そのとき私は真実を理解した。

 やにわに私は振り返り、部屋の隅に置いてある布張りの台座を見つめた──大理石の女人が座っていた台座だ。それから、私は恐れおののきながら、 ピーター =メイスが抱擁しているものを再び見つめた。彼女は同じ女人だった。神よ救いたまえ、同じ女人だったのだ! 外なる暗黒界の魔神たちが彼女に生命力を与え たのだ! ピーター=メイスの腕の中で彼にすがりついている女性は、生きた石の女性だった。

 私は見つめていた。真実であると知ってはいたが、信じることはできなかった。あまりにも怖ろしい出来事だったので、その意味を理解したくなかっ た。私は ただ見つめ、彼女の唇から言葉が漏れるのを、そして彼が彼女の言葉に答えるのを聞くばかりだった。ずいぶん長い時間が経ってから、私は直立して大声でいっ た。

「君に面会したいという御婦人がいますよ、ピーター」

 ひどくのろのろとピーター=メイスは振り向き、両腕に抱きしめていた裸体のものを離した。彼は私をまじまじと見つめ、あたかも私の存在に狼狽して いるか のようだった。彼は自分の周囲を眺め回した。自分のいる部屋ですら困惑の元であるかのようだった。それから彼は静かに言った。

「御婦人が? 僕に会いに?」

「そうです」と私は頷いた。「彼女が待っていますよ」

 彼は私に近づいてきた。彼には理解できていないのだった。彼の額にはしわが寄り、唇は歪んだ。己の伴侶を置き去りにしたまま彼は私の横を通り抜 け、ゆっ くりと梯子を下りていった。石の女人は何もいわなかった。彼女はきわめて静かに佇み、彼を見守っていた。押し黙って私は彼の後に続き、ぎしぎしときしむ梯 子を伝って下の部屋に降りた。そこでは、もうひとりの女性が待っていた。今度は私が狼狽する番だった。

 ピーター=メイスと黒衣の女性は見つめ合った。二人とも動こうとしなかった。1分もの間、二人とも喋らなかった。二人がかくも熱心に見つめ合って いるこ とが──二人がかくも完璧に沈黙していることが──私にはおよそ推し量れない何かを示していた。黒衣の女性が口を開くときは叫び声を上げることだろうと私 は感じたが、彼女はそうしなかった。彼女は静かに言った。

「あなたが私を呼んだのよ、ピーター。私はここにいるわ」

 彼は彼女の方に歩み寄った。彼の背後や頭上では、くぐもったきしむ音が木の梯子から聞こえてきたが、私たちは誰も振り向かなかった。若者は怖ろし いほど 眼を見開き、相変わらず見つめていた。彼は口ごもりながら言った。

「君は──君は死んでいなかったのか? ここにいるのか? どうしてそんなことが?」

「私は死んでいたの、ピーター」

「どういうことだい?」と彼は囁き声で言った。

「私は死んでいたけれど、あなたが私に命をくれた。私はあなたのところへ来たわ」

 若者は理解していないようだった。彼女が両手を上げ、ベールをめくって素顔を見せるまで──その時になって、自分の犯した罪の忌まわしい結果を彼 はよう やく悟った。そして私も悟った。私の目の前にいる女性は、ピーター=メイスの愛した女性だった。彼女は死んでいながら歩いているのだ! 彼の執り行った魔 道の儀式によって、彼女は墓の中から甦ったのだ! この女性──私の目の前にいる女性は──血肉を備えた生身の人間であり、彼と友人の芸術家は彼女をモデ ルにして、私たちの頭上の部屋にいる石の女を作り上げたのだ! その姿は瓜二つで、見間違えようもなかった!

 だが、違っている点もあった。この死美人の顔が愛らしいのは、彼女がそうしているからに過ぎなかった。顔に白粉をはたいて作った仮面の下では、死 が消え ない眉墨を使い、拭い去れない印をしかと残していた。彼女がベールをかぶっているのも不思議はなかった! 私やブルック船長など、彼女と接触があった人間 に素顔を見せることを彼女が拒んだのも不思議はなかった! だが彼女の恋人たるピーター=メイスは、墓場が彼女の身にしたことを見極められなかった。彼の 眼に入っているのは、彼女の愛らしさだけだった。彼は腕を差し出し、彼女の方に歩み寄った。そして、怖ろしいばかりの情熱をこめて彼女を抱き寄せたのだっ た。

 私は二人のすぐそばに立ったまま、立ち去れずにいた。梯子がきしむ音が背後でまたもや聞こえたが、それでも私は振り返らなかった。目の前で起きて いる痛 ましい出来事以外は何も重要ではなかった。私に見えるのは、狂おしい眼をして啜り泣いている若者だけだった。彼のもとに還ってきた女性を両腕で抱きしめて いる──彼の不浄な儀式の遠隔力で彼方の墳墓から甦り、彼の腕の中に飛び込むために地球の半分を旅してきた女性を。彼は何度も彼女の名前を大声で呼んだ。 啜り泣きながら、愛の言葉を繰り返しささやきかけた。彼の孤独と熱望がすべて彼の唇から流れ出し、彼の魂が彼女に対して剥き出しになっているのが見て取れ た。

 その時、第六感が私を振り向かせた──あるいは、重たい足が私の背後の床をどさりと踏みしめたからかもしれない。私はゆっくりと身を翻し、立ちす くん だ。梯子のふもとに、ピーター=メイスが作り上げた石の女人が立っていたのだ。

 生きている限り、彼女の表情は私の脳裏につきまとって離れないだろう。彼女の双眸は真夜中の奈落のように暗く深かった。唇はまくれ上がって歯が剥 き出し になり、野獣のごとき憎悪のうなり声を上げていた。彼女は若者の言葉を一言も余さずに聞きつけていた。彼の一挙一動を目の当たりにしていた。そして今や、 かつて美しかった彼女の顔は歪んでいた。彼女は連れ合いに棄てられた野獣だった。彼女がしようとしていることは殺人だった。

 ゆっくりと、怖ろしいほどの慎重さで彼女は床の上を進んできた。彼女は私を見ておらず、私がいることを気にも留めていなかった。彼女が見つめてい るのは ピーター=メイスと、彼にすがりついている女性だけだった。私の傍らを彼女はまっすぐ歩いていったが、たいそう近いところだったので私は手を伸ばして彼女 に触れたかもしれなかった。そして私は──神よ救いたまえ!──彫像のように突っ立っていた。身動きすることも、警告の言葉を発することも完全に不可能 だった。

 起きたことを私はすべて見ていたわけではない。彼女は私に背を向けていたし、私と犠牲者たちの間にいた。だが私が見て聞いたものだけでも、私の魂 を打ち のめすには充分だった。

 ピーター=メイスは愛する人にささやきかけ、低い声で愛と幸福の言葉を話していた。出し抜けに彼の声が止み、恐怖の絶叫が上がった。彼は後ろに飛 びすさ り、それから再び前に飛び出した。愛する人を守ろうと悪あがきをして、無慈悲な石像に飛びかかったりしなければ、彼は逃げおおせたかもしれない。すでに、 忌むべき指がもう一人の女性の喉に食い入っていた。ピーター=メイスは半狂乱でそれを引きはがそうとしていた。

 彼は我が身の安全を考えた方がよかっただろう。緩やかながらも確実に石の指は人を殺めていた。死美人は仰向けになって床に崩れ落ち、死者の眼で天 井を見 つめた。石像の指は絞めるのを止めた。

 その時になって、抵抗が無意味であることを若者は悟った。その時になって彼は逃げようとした。もう遅すぎた。地獄めいた両手が彼の首の肉に食い込 んだ。 彼は口を開け、苦悶の叫びを長々と上げた。その叫びは血まみれの喘鳴となった。彼は宙吊りになり、両足が床を打って怖ろしい音を立てた。彼女が彼を話す と、彼はもう一人の女性の死体と折り重なって倒れた。そして彼は、彼女と同じように死んでいた。

 室内には死の沈黙が満ちていた。石の女人は犠牲者たちの傍らに立ちはだかり、二人をじっと見下ろしていた。永劫とも思える時間が流れた。ゆっくり と、相 変わらず一言も発することなく、石の女人は身を翻して床を歩きはじめた。彼女は手探りで掛金を外し、ドアはきしみながら内側に開いた。まっすぐ前を見つめ ながら、彼女はベランダを横切って階段を降りていった。ぎごちなく、そして同じように忌まわしくも慎重に、彼女はジャングルへと向かっていった。戸外の宵 闇が彼女を呑みこみ、彼女は見えなくなった。


 これで話はおしまいだ。そういうわけで、ジェイソン神父すなわち私は原住民たちを引き連れて翌日ファイカナ島を引き払ったのである。みすぼらしい 丸木船 が転覆して溺れ死ぬ危険を冒しながら、私たちは2昼夜にわたって外洋を漕ぎ続けた。そして、ほとんど人の住んでいないメフという環礁に辿り着き、そこで新 しい生活を始めることにしたのである。そういうわけで、ピーター=メイスの恐怖の家が建っていたファイカナの空地には粗末な木の板が立ててあり、その板には次のような言葉が記されている。"In Teavi o te mata epoa o Faikana"──直訳すれば、次のような意味である。「ここにファイカナの恋人たちの亡骸が眠る」

 だがファイカナ島には、たった一人だけ生きた人間が住んでいる──愛のために、罪から作り出された女性が。彼女は石の女である。彼女は死なず、安 らぎを 見出すことがない。暗黒世界の名状しがたき魔神たちが彼女を憐れみ、彼らが彼女に与えた生命から彼女を解き放ってやるまでは。