月を創るもの

R.W.チェンバース


 僕自身は悪でもあり 善でもある
 僕の国もそうだ──そして本当は悪なんてない
 (あるとしても 君や国土や僕にとっては
 他のものと同じように重要だ)

 それぞれがそれぞれ自体のためにあるのではない
 地球全土が そして天空の星々すべてが
 信仰のためにあるのだといおう
 半分でも充分に信心深かった人はついぞいない
 半分でも充分に崇め拝んだ人はついぞいない
 自分自身がいかに神々しいか そして未来がいかに確かなものであるかに
 思いを馳せた人はついぞいない──ウォルト=ホイットマン

 お喋りな人たちが喋るのを聞いた
 始まりと終わりの話だった
 だが僕は始まりや終わりの話はしない


 月老とジンについて私が知っているのは、あなた方が知るべきことだけである。問題を解決したくて、私はいても立ってもいられないのだ。ことによると私の 記述が合州国政府に金銭と人命を節約させることになるかもしれないし、科学界を行動に踏み切らせることになるかもしれない。少なくとも、二人の人物の恐る べき疑惑に終止符を打つことはできるだろう。確実であれば、疑わしいよりはマシというものだ。

 もしも政府がこの警告を無視し、万全の装備を調えた探検隊をすぐさま送ろうとしないのであれば、あの州の人々は全域で速やかに報復を行い、今日では森林 と花咲く草原がカーディナルの森の中の湖に隣接している黒ずんで荒れ果てた地を立ち去るかもしれない。

 すでに物語の一部は御存じだろう。事件の詳細だといわれているものをニューヨークの新聞が書き立てたからだ。

 記事の多くは真実である。バリスは「密造屋」を現行犯で逮捕した。彼のポケットにも靴にも汚らしい拳にも金塊が詰まっていた。熟考した上で金塊といって おくことにするが、お好きなように呼んでくださってかまわない。バリスの状況がいかなるものであったかも御存じだろうが、私が自分の経験の発端から語りは じめなければ、結局あなたにはサッパリわからないということになってしまうだろう。

 今年の8月3日、私はティファニーの店内でデザイン部門のジョージ=ゴドフリーと会話していた。私たちを隔てているガラスのカウンターの上には、とぐろ を巻いた蛇が置いてあった。黄金の精巧な工芸品である。

「いいや」とゴドフリーは私の質問に答えた。「僕の作品じゃないよ。そうだったらいいんだがね。何しろ傑作だからね!」

「誰の作品かい?」と私は訊ねた。

「それがわかったら僕も嬉しいんだが」とゴドフリーはいった。「年寄りの伊達男から買ったものなんだ。その男がいうには、彼は田舎の人間で、カーディナル の森のあたりで暮らしているらしい。スターリット湖の近くだと思うね」

「星の湖のことかい?」と私は訊ねた。

「スターリット湖と呼ぶ人もいるよ。同じことさ。ええと、田舎者のルーベンがいうには、彼はこの蛇の作者の実務および商業上の代理人だそうだ。言い値で買 うことにしたよ。彼が僕らのところにもっと持ちこんでくれるといいんだが。この蛇はもうメトロポリタン美術館に売却済さ」

 私はガラスのケースにぼんやりと寄りかかり、黄金の蛇の上にかがみ込んでいる芸術家が貴金属を鑑定する鋭い眼を眺めていた。

「傑作だ!」光り輝くとぐろを撫でながら彼は独り言を呟いた。「この肌理を見ろよ!」

 だが私は蛇を見てはいなかった。何かが動き、ゴドフリーの外套のポケットから這い出てきたのだ。私にもっとも近いところにあるポケットだった。柔らかく て黄色く、蟹のような脚が生えていて、黄色く粗い毛に全身が覆われている。

「一体全体」と私はいった。「何を君はポケットに入れてるんだい? 這い出してきて君の外套をよじ登ろうとしているぞ、ゴドフリー!」

 彼はすばやく顔を向け、その生き物を左手で引っ張った。

 彼がそのぞっとする代物をつまんで私の鼻先でぶらぶらさせたので、私は尻込みした。彼は笑って、それをカウンターに置いた。

「こういうものを見たことはあるかい?」と彼は訊ねた。

「ないね」と私は正直にいった。「二度と見たくないね。何なんだい?」

「わからないんだ。自然歴史博物館に問い合わせても答えてもらえない。スミソニアン博物館もまったく見当がつかないそうだ。ウニと蜘蛛と悪魔の合の子じゃ ないかね。有毒であるように見えるけど、牙も口も見当たらない。眼は見えないのかな? 眼のように見えるものはあるんだが、そいつはペンキを塗られている みたいに見えるんだ。そういう有り得なさそうな生物も日本の彫刻家なら作れるかもしれないけど、神の被造物でそんなものが存在するとは信じがたいね。不完 全であるようにも見える。この生物はもっと大きくて醜悪な有機体の一部に過ぎないんじゃないかという狂った考えが浮かんだよ。それほどまでに寄る辺なく、 絶望的なまでに依存的で、呪わしくも未完成であるように見えるんだ。モデルとして使うことにしようと思う。それで日本人を超えることができなかったら、ゴ ドフリーという名前は捨ててもいいね」

 その生物はゆっくりとガラスケースを横切り、私の方に近づいてきた。私は後ずさりした。

「ゴドフリー」と私はいった。「君がもくろんでいるような作品を制作する奴がいたら処刑してやるぞ。そんな忌まわしいものが永続するようにして何をしよう というんだ? 日本人の醜悪な作品には我慢ができるが、この蜘蛛には耐えられないな」

「これは蟹だよ」

「蜘蛛だろうと蟹だろうとアシナシトカゲだろうと、おえっ! そんなもので何をしようというんだ? これは悪夢の産物だよ、汚らわしい!」

 私はそいつが大嫌いになった。私が生き物を憎むのは、それが初めてだった。

 湿っぽい刺激臭が空中に漂っていることに私はいつしか気づいた。その忌まわしい生物の臭いだとゴドフリーはいった。

「じゃあ、そいつを殺して埋めるんだな」と私はいった。「ところで、そいつはどこから来たんだい?」

「それもわからないんだ」とゴドフリーは笑った。「この黄金の蛇が入っていた箱にへばりついているのを見つけたんだよ。ルーベン爺さんのせいだと思うね」

「カーディナルの森にこんな代物が住み着いているんだとしたら」と私はいった。「自分がカーディナルの森に行かなきゃならないのが残念だ」

「君が?」とゴドフリーは訊ねた。「猟でもしに行くのかい?」

「ああ、バリスそれにピアポントとね。その生き物を殺しちまえよ」

「狩猟の旅に行っておいで。僕のことは放っておいてくれ」とゴドフリーは行った。私はその「蟹」に怖気をふるい、12月までお別れだとゴドフリーに告げ た。

 その晩、ケベック急行の長い列車がグランドセントラル駅を発ったとき、ピアポントとバリスと私は喫煙車両で談笑していた。デイヴィッド老人は犬たちと一 緒に先に行っていた。気の毒に、犬どもは貨物車両に乗せられるのが大嫌いなのだ。だがケベックと北部の路線には狩猟家専用車両がなく、デイヴィッドと三頭 のゴールデンセッターはくつろげない一晩を過ごすことになった。

 その車両に乗っているのはバリスとピアポントと私だけだった。バリスは身だしなみがよく、がっしりとしていた。そして血色もよく日焼けしていた。彼は窓 枠を指でコツコツと叩きながら、短く芳しいパイプをふかしていた。彼の銃が入ったケースは傍らの床に置いてあった。

「僕が白髪頭になって、積年の思慮分別が備わったときには」とピアポントは物憂げにいった。「かわいいメイドさんといちゃつくような真似はしないね。そう だろ、ロイ?」

「しないな」といって、私はバリスの方を見た。

「プルマン車両の大尉と一緒にいるメイドのことかね?」とバリスは訊ねた。

「そうです」とピアポントはいった。

 私は微笑んだ。その光景は私も目撃していたのだ。

 細かく縮れた灰色の口ひげをひねって、バリスはあくびをした。

「坊やたちはおねんねした方がいいな」と彼はいった。「あのメイドは秘密検察局の一員だよ」

「ありゃ」とピアポントはいった。「あなたの同僚ですか?」

「説明してくれませんかね」と私はいった。「退屈な旅ですからね」

 バリスはポケットから電報を引っ張り出し、指の間に挟んでひねくり回しながら微笑した。しばらくして彼はそれをピアポントに手渡し、ピアポントは心持ち 眉をつり上げながら読んだ。

「でたらめだ。暗号文なんですね」と彼はいった。「署名がドラモンド将軍のものだってことはわかる」

「秘密検察局長のドラモンドだよ」とバリスはいった。

「興味深いことなんですか?」と訊ねて、私は紙巻煙草に火をつけた。

「非常に興味深いことだ」というのがバリスの返事だった。「それで、私は自分で調べに行くところさ」

「そして狩りの三人組は解散というわけですか」

「いいや。そのことは聞いたかね? ビリー=ピアポント、君は?」

「はい」純情な青年は返事をした。

 バリスはパイプの琥珀の吸い口をハンカチでぬぐい、針金で柄を掃除してから一度か二度ふかして、椅子にもたれかかった。

「ピアポント」と彼はいった。「合州国クラブでの夜を覚えているかね? マハン大尉が持っていた金塊をマイルズ将軍とドラモンド将軍と私が調査していた。 君も調べたはずだ」

「調べました」とピアポントはいった。

「金だったかね?」と訊ねて、バリスは窓を指でコツコツと叩いた。

「金でした」というのがピアポントの返事だった。

「僕も見ましたよ」と私はいった。「もちろん金でした」

「ラグランジェ教授も見た」とバリスはいった。「金だといっていた」

「それで?」とピアポントは訊ねた。

「それで」とバリスはいった。「金じゃなかったんだ」

 しばらく沈黙してから、どんな検査を行ったのかとピアポントは訊ねた。

「通常の検査だ」とバリスは答えた。「合州国造幣局は金だと認めてくれるだろうし、どこの宝石店でも金として通用するだろう。だが金ではない。それでいな がら金なんだ」

 ピアポントと私は目配せしあった。

「さて」と私はいった。「バリスのいつものお芝居だ。その塊は何だったんですか?」

「実際的には純金だった。しかし」というバリスは状況をひどく楽しんでいた。「本当は金ではなかった。ピアポント、金とは何だ?」

「金は元素です。金属ですよ」

「間違いだ! ビリー=ピアポント」バリスは冷静にいった。

「金は元素だと学校では習いましたが」と私はいった。

「2週間前から元素ではなくなったんだ」とバリスはいった。「ドラモンド将軍とラグランジェ教授と私を別にすれば、君ら二人の若者だけがそのことを知って いる世界で唯一の人間だよ。いや、知ってしまった人間というべきかな。他にも一人いるはずだが」

「金は合金だということですか?」ピアポントはゆっくりといった。

「そういうことだ。ラグランジェ教授が証明した。一昨日、純金の検査法を開発したんだ。その塊は人工の金だった」

 バリスはからかっているのだろうか? これは壮大なホラ話なのか? 私はピアポントの方を見た。これで銀問題(訳註──当時、米国の貨幣制度が金銀複本 位制から金本位制に切り替わったことを不満として、複本位制を復活させるよう主に農家が求めていた問題。現実においても、金の産出量が増加したことが一因 となって決着した)は解決するという意味のことを呟いて、ピアポントは顔をバリスの方に向けたが、バリスの表情には冗談を許さないものがあった。ピアポン トと私は黙りこくって物思いに耽りながら座っていた。

「金の作り方は聞かないでくれよ」とバリスは静かにいった。「私にはわからん。だが、わかっていることもある。カーディナルの森界隈のどこかに、金の作り 方を知っている一団がおり、現に作っているんだ。あらゆる文明国への脅威だということはわかってもらえるだろう。もちろん阻止しなければならない。この私 がその任務を引き受けるというのがドラモンドと私の結論だ。この金を作っている連中がどこの誰であるにしろ、一人残らず逮捕しなければならん。さもなけれ ば射殺だ」

「さもなければ射殺」とピアポントは復唱した。彼はクロスカット金山の所有者だったが、その収入は微々たるものだった。「もちろんラグランジェ教授は賢明 な方ですよね。世界を転覆させてしまうことを科学が知る必要なんてありませんよ!」

「ウィリー坊や」といって、バリスは笑った。「君の収入なら大丈夫だよ」

「思うに」と私はいった。「その塊にいくらか疵があって、ラグランジェ教授に手がかりを与えたんですね」

「そういうことだ。塊を検査に回す前に彼は疵のところを削り取った。その疵を研究して金を三つの元素に分解したんだ」

「偉大な人だ」とピアポントはいった。「その発見を自分だけのものにしておいてくれれば、世界一の偉人になれるんだが」

「誰が?」とバリスはいった。

「ラグランジェ教授です」

「ラグランジェ教授なら2時間前に心臓を撃たれて死んだよ」バリスはゆっくりといった。


 カーディナル=スプリングスは材木輸送用の線路沿いにある寒村で、30マイルばかり下ったところにあるスリーリバーズ=ジャンクションでケベックと北部 が出会う。その村にある最寄りの電信局から、馬に乗った配達人がバリスのところに電報を届けに来たのは、我々がカーディナルの森の狩猟小屋に入って5日目 のことだった。

 ピアポントと私は木の下に座り、特別製の銃弾を何発か試しに装填しているところだった。日焼けしたバリスは我々の傍らに直立不動で立ち、火薬の箱に火花 が飛ばないようパイプを注意深く握っていた。馬の蹄が草むらを踏む音が我々の注意を喚起し、痩せた配達人がドアの前で手綱を引いて馬を止めたとき、バリス は前に進み出て、封筒に入った電報を受け取った。彼は電報を開封すると家の中に入り、しばらくしてから出てきて、自分の書いた文章を読み上げた。

「こいつをすぐに送ってくれ」といって、バリスは配達人の顔を正面から見据えた。「すぐにですね、バリス大佐」みすぼらしい風采の田舎者は返事をした。

 手綱を引き締めて鐙に足をかけた配達人をピアポントは一瞥し、私は微笑みかけた。紙に書いた返信をバリスは彼に手渡し、頷いて別れの挨拶を送った。馬の 蹄が緑の芝生を踏みしめる音がし、砂利道を横切っていくとき馬銜と拍車がガチャガチャ鳴り、そして配達人は姿が見えなくなった。バリスのパイプは火が消 え、彼はつけ直すため風上に立った。

「奇妙ですね」と私はいった。「あなたの配達人はしょぼくれた地元民なのに、ハーバード出の人間みたいな喋り方をしますよ」

「彼はハーバード出だよ」とバリスはいった。

「話が込み入ってきたぞ」とピアポントはいった。「カーディナルの森はあなたの秘密検察局の部下で一杯なんですか、バリス?」

「いいや」とバリスは返事をした。「だが電信局はそうだよ。散弾は何オンス使っている、ロイ?」

 私はバリスの質問に答え、調節可能な鋼鉄の計量カップを持ち上げて見せた。しばらくして彼は我々の傍らのキャンプスツールに座り、クリンパを手にとっ た。

「あの電報はドラモンドから来たものだ」と彼はいった。「御明察の通り、配達人は私の部下の一人だよ。ちぇっ! カーディナル郡の訛で喋ってくれれば、ば れずに済んだものを」

「扮装は見事でしたよ」とピアポントはいった。

 バリスはクリンパをくるくる回し、装填した薬莢の山を見た。そして薬莢をひとつ取り上げて絞めた。

「そのままにしておきなさいよ」とピアポントはいった。「きつく絞めすぎです」

「薬莢をきつく絞めすぎると銃の反動がひどいかね?」とバリスは穏やかに問いただした。「うん、自分自身の弾を絞めないとな。小人はどこかね?」

 「小人」というのは、気味の悪い英国人の移入者のことだった。態度は堅苦しく、細心の注意を払って清潔にしており、気息音がもつれる癖のある彼はハウ レットという名前だった。従僕として、銃を運んだり薬莢を絞めたり、彼はピアポントが日々の退屈を堪え忍ぶのを手伝ってやっていた。つまり呼吸以外のこと は何でもピアポントの代わりに行ってやっていたのである。しかしながら、最近バリスに小言をいわれたので、仕方なくピアポントはいくつかのことを自分でや るようになった。彼が驚いたことに、自分の銃を掃除するのは退屈な作業ではなかった。そこで彼はおどおどと薬莢を一つか二つ装填し、自分の仕事に満足し た。もういくつか装填して絞め、腹を空かして朝食に行った。そこで「小人」はどこにいるのかとバリスが訊ねたとき、ピアポントは返事をせずにバッグから カップ一杯分の弾薬をすくい上げ、半ば装填済の薬莢に厳粛な表情で流し込んだ。

 デイヴィッド老人が犬を連れて現れた。私の愛犬のゴードンセッター「ヴォユー」が見事な尻尾を振りながら装填用のテーブルに飛び乗って横切ったものだか ら、口の開いている実包が1ダースばかり飛び散って草の上に転がり、火薬と散弾がこぼれた。もちろん作戦会議が持たれた。

「犬を1マイルか2マイル駆けさせてきてくれ」と私はいった。「僕らはスウィートファーンの狩場で4時頃に撃つことにするから、デイヴィッド」

「銃は2丁だ、デイヴィッド」とバリスが付け加えた。

「行かないんですか?」デイヴィッドが犬たちを連れて姿を消すと、ピアポントが顔を上げて訊ねた。

「もっと大きな獲物がある」バリスは手短に答えた。ハウレットが我々の傍らに置いたばかりの盆から彼はビールのジョッキを取り上げ、ぐいっと一口飲んだ。 ピアポントは傍らの芝生に自分のジョッキを置き、装填の作業に戻った。

 私たちはラグランジェ教授殺害事件の話をした。ドラモンドの要請でニューヨークの当局が事件のことを隠蔽した経緯や、下手人が金塊製造団の一味である可 能性や、金塊製造団が警戒しているかもしれないということが話題になった。

「ああ、遅かれ早かれドラモンドが自分たちを追うだろうということは連中にもわかっている」とバリスはいった。「だが連中が知らないこともある。目ざとい 記者が58番地の家に赤鼻を突っこみ、ラグランジェ教授の『自殺』の記事を即座に書き上げたとき、利口なニューヨークの新聞は自分たちが思ったよりうまく やったというわけだ。ビリー=ピアポント、私の拳銃は君の部屋に吊してある。君のも持っていくことにするよ」

「御自由にどうぞ」とピアポントはいった。

「夜通し出かけることになる」とバリスは言葉を続けた。「銃の他にも、ポンチョとパンと肉を持っていかなければならん」

「今晩は銃を使うことになると思いますか?」と私は訊ねた。

「いや、もう何週間か出番がなさそうだね。いくらか詮索して回らなければならん。ロイ、この驚くほど美しい田園に誰も住んでいないのは奇妙だと思ったこと はあるかね?」

「きれいすぎる淵や流れみたいなものじゃないでしょうか。マスの釣れる川には必ずあるけど、そこでは魚が見つからないという」とピアポントが意見を述べ た。

「その通りだな、そして、その理由は神のみぞ知ることだ」とバリスはいった。「同じ神秘的な理由があって、この地方は人間に忌まれるのだと思うね」

「人がいない方が狩猟には好都合ですよ」と私はいった。

「狩りにはいいところだ」とバリスはいった。「湖のほとりの草原で鴫を見かけたかね? あそこは鴫で茶色く見えるんだ! すばらしい草原だよ」

「自然なことですね」とピアポントはいった。「この土地で狩りをした人は誰もいないんだから」

「そいつは超自然的なことだな」とバリスはいった。「ピアポント、一緒に来るかね?」

「バカな」と私はいった。バリスが誘ったのがピアポントだったので癪に障ったのだ。「召使いがいなかったら、ウィリー坊やは何の役に立ちますか?」

「確かに」厳粛な表情でバリスはいった。「ハウレットは連れて行けないぞ」

 ピアポントは何かを呟いて「畜生」で締めくくった。

「それでは」と私はいった。「今日の午後スウィートファーンの狩場には一丁の銃しかないということになりますね。大いに結構。あなた方が冷たい晩飯と、 もっと冷たい寝床を堪能されますように。寝間着を持っていきな、ウィリー。湿った地面で寝るんじゃないぞ」

「ピアポントをかまうんじゃない」とバリスは言い返した。「次回は君が行けるんだから、ロイ」

「ああ結構です。狩りが続けばってことですよね?」

「それで僕は?」しょげた様子でピアポントは訊ねた。

「君もだ、坊や。喧嘩はやめたまえ! 我々の荷物をすぐ詰めるようハウレットにいってくれ。だが瓶はダメだ。ガチャガチャ音がするからな」

「僕の魔法瓶なら音がしませんよ」とピアポントはいい、危険人物を夜通し追跡する準備をするために立ち去った。

「不思議だ」と私はいった。「未だかつて誰もこの地域に居住したことがないとは。カーディナル=スプリングスには何人くらい人がいるんですか、バリス?」

「20人といったところだな。電信局員だけで、木こりは勘定に入っていない。木こりはしょっちゅう他の人間と交代したり居場所を変えたりしているからな。 彼らの中に6人の部下を紛れ込ませてある」

「あなたの部下がいないのはどこですか? フォー=ハンドレッドは?」

「そこにも部下がいる。ビリーの親友で、彼がそのことを知らんだけだ。昨晩は山鴫がたくさん飛んでいたとデイヴィッドが教えてくれた。今日の午後は何羽か とれるだろう」

 ピアポントが家から出てきて出立の時になるまで、私たちはハンノキや魔女集会や沼地の話をした。

「それでは」といって、バリスは荷物をバックルで留めた。「ついてこい、ピアポント。濡れた草むらを歩くんじゃないぞ」

「あなたたちが明日の昼までに戻ってこなかったら」と私はいった。「ハウレットとデイヴィッドを連れて捜索に行きます。真北に行くといわれましたよね?」

「真北だ」方位磁針を見ながら、バリスは返事をした。

「2マイル臭跡が続いていて、さらに2マイル点々と跡があります」とピアポントはいった。

「いろいろと理由があって、使うことはしないがな」快活な調子でバリスはいった。「心配はいらないよ、ロイ。遠征隊には道を空けさせておきたまえ。何も危 険はない」

 自分が何の話をしているのか、もちろんバリスにはわかっていた。私は黙っていた。

 ピアポントの狩猟用コートの尖った先端がロング=カバートに消えていったとき、私はハウレットと二人きりで立っていた。彼は私の視線をしばらく受け止め てから慇懃に目を伏せた。

「ハウレット」と私はいった。「薬莢と道具を銃器室に持っていってくれ。何も落としたりするんじゃないぞ。今朝ヴォユーはブライアーを傷めたりしたか ね?」

「いいえ、カーデンヒー様」とハウレットはいった。

「じゃあ、他には何も落とさないよう気をつけるんだな」といって、私は立ち去った。後に残されたハウレットは気品を保ちつつも困惑していた。彼は弾薬を落 としたりしたことはないのだから。ハウレットの奴、かわいそうに!


 その日の午後4時頃、スウィートファーンの狩場へと至る雑木林で私はデイヴィッドや犬たちと落ち合った。三頭のセッター、ヴォユー・ガミン・ミョシュ (訳註──いずれもフランス語で「不良少年」とか「腕白小僧」という意味)は元気いっぱいだった。デイヴィッドは朝のうちに山鴫を一羽と雷鳥を一つがい仕 留めており、私が小脇に銃を抱えてパイプに火をつけながらやってきたときには、彼らは雑木林の中を探り回っている最中だった。

「何とも前途有望だね、デイヴィッド」尻尾を振りながら鼻を鳴らしている犬たちに足許をすくわれないようにしながら、私はいった。「やあ、ミョシュは何か 具合が悪いのかい?」

「ブライアーが足に刺さったのです。ブライアーを抜いて傷をふさぎましたが、砂利が入りこんだと思います。御異存がおありでなければ、奴を連れて帰りたい のですが」

「その方がいいだろうね」と私はいった。「ガミンも連れて行ってくれ。今日の午後は犬は一頭だけでいい。様子はどうだね?」

「上々でございます。雷鳥はオークの二次林の四半マイル以内におります。山鴫の方はほとんどハンノキの茂みにおります。草原では鴫を見かけました。湖畔に は何か他のものがおります。何なのかはちょっとわかりかねますが、わしが藪の中におりましたところ、アメリカオシが叫び声を上げ、狐の群に追い立てられで もしたかのように飛んでいきました」

「たぶん狐だな」と私はいった。「犬をつないでくれ。奴らにはじっとしていることを覚えてもらわなくちゃ。晩飯までには戻るから」

「もうひとつございます」銃を小脇に抱えたままデイヴィッドはいった。

「うん」と私はいった。

「オーク狩場の傍らの森で男を一人見かけました。少なくとも、見かけたように思います」

「木こりかね?」

「少なくとも木こりではあるまいと思います。連中の中に中国人はおりますか?」

「中国人? いないよ。ここの森で中国人を見たのかい?」

「見たと思いますが、断言はできません。わしが狩場に走っていくと、そやつはいなくなってしまいましたから」

「そのことには犬も気づいたの?」

「確かなことは申せませんが、犬どもの振舞も奇妙でございました。ガミンは寝そべって鼻を鳴らしておりましたが、腹痛でも起こしていたのかもしれません。 ミョシュはクンクン鳴いておりましたが、ブライアーでケガをしたせいだったかもしれません」

「ヴォユーは?」

「一番ヴォユーの振舞が目立っておりました。毛を逆立てておりましたが、ウッドチャックが近くの木に向かって進んでいくのが見えました」

「じゃあヴォユーが毛を逆立てても不思議はないな。デイヴィッド、君の見かけた中国人というのは切株か草むらだったんだろう。犬を連れて行ってくれ」

「そういうことなのでございましょう。御機嫌よろしゅう」というと、デイヴィッドはゴードンセッターを連れて歩み去った。私はヴォユーと一緒に雑木林に取 り残された。

 私は犬を見やり、犬の方でも私を見た。

「ヴォユー!」

 ヴォユーは座り、前足でダンスをした。きれいな茶色の眼が煌めいた。

「おまえさんはペテン師だな」と私はいった。「どっちにする、ハンノキか高台か。高台だな? よし! じゃあ雷鳥を獲りに行くか。ついてこい。おまえの奇 跡的な克己心を見せてみろ」

 ヴォユーはくるりと向きを変えて私の足跡に従い、ぴったりと後ろについてきた。厚かましいシマリスや、並の犬なら間髪を入れずに詮索するであろう無数の 魅力的で重要な臭いを気高くも意に介そうとしなかった。

 茶色と黄色に染まった秋の森には落葉と枯枝が積もっており、我々が雑木林から森に向かうと、それらが足の下で音を立てた。カエデは深紅に、オークは黄色 に葉が色づいている。湖へと静かに流れ込む細流はすべて落葉が浮かんで煌びやかだった。淵には点々と陽光が落ちて茶色の深みに射し込み、ヒメハヤの群が泳 ぎ回っては日々の暮らしを忙しく営んでいる水底の砂利を照らし出した。森のはずれでは、長く脆い草に隠れてコオロギが鳴いていたが、我々は森の奥深くへと 入っていったので、その鳴声からは遠く離れて静けさがあるばかりだった。

「今だ!」と私はヴォユーにいった。

 犬は前に飛び出し、一回ぐるぐると回ってから、我々を取り巻いているシダの茂みをジグザグに走り抜けた。そして、たちまち動きを止めて静かになり、青銅 の彫刻のように身を固くした。私は前に進み出て銃を上げ、二歩そして三歩と足を運んだ。雷鳥が藪の中から飛び出して茂みの縁を通り、より鬱蒼と生い茂った 木々の中へと飛んでいくまでに十歩くらいは歩いただろう。私の銃から閃光と硝煙が飛び出し、丈の低い木が生えた崖に轟音が反響した。ぼんやりした煙幕を通 して、何か黒っぽいものが中空から落ちるのが見えた。その羽は足許の枯葉のように茶色かった。

「とってこい!」

 ヴォユーは地べたから飛び上がった。すぐに彼は駆け足で戻ってきた。首を反らし、尻尾をぴんと立てて振っている。斑のある青銅色の羽の塊を桃色の口に優 しくくわえていた。ひどく厳粛な様子で獲物を私の足下に置くと、彼はすぐ傍らにうずくまり、すべすべした耳が前足にかかるようにして地面に鼻面をつけた。

 私は雷鳥をポケットに入れ、しばらく黙ってヴォユーを撫でてやった。それから銃を小脇に抱え、ついてこいとヴォユーに身振りで命じた。

 私が森の中の小さな空き地に行き着き、一息入れるために腰を下ろしたのは5時頃のことだったに違いない。ヴォユーがやってきて私の前に座り込んだ。

「うん?」と私は問いただした。

 ヴォユーはまじめくさって片方の前足を差し出し、私はそれを握った。

「晩飯までには絶対に戻れないぞ」と私はいった。「だから気楽に構えた方がいいな。おまえの責任だぞ。足にブライアーが刺さっているのかい? 見せてみ ろ、そら! 抜けたよ。好きなだけ嗅ぎ回って舐めるがいい。舌を出せば小枝や苔を舐められるだろうよ。横になって、もっと控えめに喘ごうとすることはでき ないのか? 嗅ぎ回ってシダの茂みを見ても無駄だよ。僕らは一服して、一眠りして、月明かりに照らされながら帰るんだから。どんな豪勢な晩飯になるか考え ても見ろよ! 僕らが間に合わなくてハウレットががっかりすることを考えても見ろよ! おまえがガミンとミョシュにしてやれる武勇伝のことを考えてみろ よ! 自分がどんなに立派な犬だったか考えてみろよ! おまえもくたびれたろう。僕と一緒に一眠りしよう」

 ヴォユーはいささか疲れていた。彼は私の足許で枯葉の上に寝そべったが、彼が本当に眠っているのかどうか私には確信が持てなかった。そのうち彼の後ろ足 がぴくぴくと動き、彼が大手柄の夢を見ているのがわかった。

 私は一眠りしたのかもしれないが、起きあがって眼を開けたとき、太陽は一向に傾いていないように見えた。ヴォユーは頭を上げ、まだ出発する気がないこと を私の眼から読み取ると、尻尾で6回ばかり枯葉を叩いた。そして溜息をつき、元通りくつろいだ姿勢になった。

 私は気怠げに辺りを見回し、自分が午睡の場所に選んだところがいかに美しいかということに初めて気づいた。その場所は森の真ん中にある楕円形の空地だっ た。地面は平坦で、緑の草に覆われている。空地を巨木が取り囲み、円形にそびえ立つ緑の壁となっていた。壁に覆い隠されていないのは、楕円形のトルコ石の ごとき上空の青だけだった。緑の芝生の中央に池があることに私は気づいた。その水は水晶のごとく透明だった。御影石のブロックのそばで、緑の草地にある鏡 のごとく輝いていた。木と芝生と透明な池の対称性が偶然の産物だというのは、ありそうにないことだった。私はこの芝生を一度も見たことがなかったし、ピア ポントやバリスから話を聞いたこともなかった。すばらしい場所だった。ダイヤモンドのように清浄な池はローマの泉のように優雅で均整がとれ、珠玉のごとき 芝地の中にあった。巨木はアメリカではなく、伝説の巣くうフランスの森のものだったが、そこでは苔むした大理石がほの暗い空地に打ち捨てられており、影の 地より来た細やかな姿形のものや妖精を森の黄昏が匿うのだ。

 私は横たわり、深紅のベニバナサワギキョウの群塊が生い茂っている鬱蒼たる雑木林に陽光が降り注ぐのを眺めていた。あるいは、そこでは一条の埃っぽい陽 光が池に浮かぶ落葉を縁取り、うっすらと金メッキをしたかのようだった。鳥もいた。ほの暗い木々の間を飛び交い、炎が噴射しているかのようだった。深い色 に染まった羽の華麗な猩々紅冠鳥だ。森に、15マイル離れた村に、郡全体にカーディナル(深紅)の名を与えた鳥だった。

 私は寝返りを打って仰向けになり、空を見上げた。コマドリの卵よりも薄い色の空だった。井戸の底に横たわっているような気がした。周囲は緑の高い壁に囲 まれている。私が横たわっていると、私の周囲では空気が甘く香ってきた。甘い香りはますます強くなり、いかなる迷い風が百合の野から吹き寄せてきたのだろ うかと私は訝った。だが風はなかった。空気は静まりかえっていた。金色の蜜蜂が私の手にとまった。私と同じように、薫る静寂に惑っているのだった。

 そのとき、私の後ろで犬がうなった。

 まず私はきわめて静かに上体を起こした。息は押し殺していた。だが、草地の直中にある池の縁に沿って動く人影に私の視線は釘付けになっていた。犬はうな るのをやめ、歯をむき出した。注意を怠らず、震えていた。

 ついに私は立ち上がり、池に向かって足早に歩きはじめた。私の愛犬もぴったりと付き従ってきた。

 その人影はゆっくりと私の方を向いた。女性だった。


 私が池に近づいたとき、彼女は静かに佇んでいた。我々の周りの森はあまりにも静まりかえっていたので、私が喋ると自分自身の声に驚かされた。

「いいえ」と彼女はいった。その声は流水のごとく滑らかだった。「道に迷ったのではないわ。私の方に来てくださらない? あなたの美しい犬のことだけど」

 私が喋れるようになるより早く、ヴォユーは彼女のところへ這っていき、すべすべした頭を彼女の膝にもたせかけた。

「でも、きっと」と私はいった。「ここに独りでいらしたんじゃないんですよね」

「独りで? 独りで来たのよ」

「でも一番近い人里はカーディナルですよ。我々のいるところからは、たぶん19マイルくらい離れてる」

「カーディナルのことは知らない」と彼女はいった。

「カナダのサンクロワまでは少なくとも40マイルあります。どうやってカーディナルの森にいらしたんですか?」私は仰天しながら訊ねた。

「森に?」と彼女は反復したが、やや苛立っているようだった。

「そうです」

 はじめ彼女は答えようとせず、優しい言葉と仕草でヴォユーを愛撫していた。

「あなたの美しい犬は好き。でも詮索されるのは嫌い」彼女は静かにいった。「私の名前はイゾンデ。あなたの犬に会いに泉に来たの」

 私は礼儀正しく押し黙った。少し経ってから、もう1時間もしたら暗くなると私はいったが、彼女は返事をしようともしなければ、私の方を見ようともしな かった。

「これは」私は思いきっていった。「きれいな池だなあ。あなたの言い方だと泉だけど。芳しき泉だ。これまで一度も見たことがありませんよ。こんなのが自然 にできたなんて想像しづらいですね」

「そう?」と彼女はいった。

「そう思いませんか?」と私は訊ねた。

「そうは思わないわ。あなたが立ち去るとき、犬を置いていってくださるといいんだけど」

「僕の犬を?」

「あなたがお嫌でなければ」と美しい声でいうと、彼女は初めて私の顔を正面から見た。

 たちまち我々は眼が合った。そのとき、彼女は真剣な表情になった。彼女の視線は私の額に釘付けになっていた。いきなり彼女は立ち上がって近寄り、私の額 をしげしげと眺めた。そこにはかすかな痣があった。眉のすぐ上に小さな三日月があったのだ。生まれつきのものだった。

「それは傷?」もっと近寄りながら彼女は訊ねた。

「三日月の痣のことですか? 違いますよ」

「違うの? 本当に?」と彼女は問いただしてきた。

「違いますとも」と私は答えたが、度肝を抜かれていた。

「生まれつきなのね?」

「そうです。訳を聞いてもいいですか?」

 彼女が私から離れるとき、彼女の頬が青ざめたのがわかった。一瞬だけ彼女は目の上で両手の指を組み合わせた。私の顔を見まいとしているかのようだった。 それから彼女はゆっくりと手を下ろし、半ば池を取り囲んでいる長く四角いブロックに座った。そのブロックの彫刻を私は驚嘆しながら見た。ヴォユーは再び彼 女のところに行き、彼女の膝に頭を乗せた。

「あなたの御名前は?」ついに彼女は訊ねた。

「ロイ=カーデンヒーです」

「私はイゾンデ。あなたが御覧になっている石にトンボや魚や貝殻や蝶を彫ったのは私」

「あなたが! すばらしく精巧な彫刻ですね。でもアメリカのトンボじゃないな」

「違うけど、もっときれいでしょう。ほら、ハンマーと鑿を持ってきてあるのよ」

 傍らにあった風変わりな小袋から彼女は小さなハンマーと鑿を取り出し、私に差し出した。

「あなたにはとても才能があるんだな」と私はいった。「どこで勉強したんですか?」

「私が? 勉強したことはないわ。やり方を知っていたの。ものを見て、それを石から彫り出したのよ。気に入っていただけたかしら? いつか別の作品をお見 せしましょう。大きな青銅の塊があれば、あなたの犬を作ることができる。生身の彼と同じくらい美しい像を」

 彼女のハンマーが泉に落ちた。私は飛びついて腕を水中に突っこみ、ハンマーを見つけようとした。

「そこにあるわ。砂の上で輝いている」といって、彼女は私と一緒に池の上にかがみ込んだ。

「どこですか」といって、水面に映っている自分たちの顔を私は見た。水鏡に映っている顔でなければ、彼女を長いこと見つめる勇気は私にはなかったからだ。

 この上なく美しい面長の顔が、豊かな髪が、双眸が水面に映っていた。彼女の腰帯がさらさらと衣擦れの音を立てるのが聞こえた。白い腕がさっと動くのが見 えた。そしてハンマーは滴をしたたらせながら引き上げられた。

 水面の乱れが収まり、再び彼女の双眸が映った。

「聞いて」彼女は低い声でいった。「あなたは私の泉にまた来ると思う?」

「来ます」と私はいった。私の声はぼんやりしていた。水音が私の耳をふさいでいた。

 そのとき、影が池をさっとよぎった。私は眼をこすった。私の傍らで身をかがめる彼女の顔が映っていたところには、青白い星がひとつ光っている薔薇色の夕 焼け空以外は何も映っていなかった。

 私は身を引いて振り向いた。彼女はいなくなっていた。夕焼けの中に立つ私の頭上で朧な星が瞬いているのが見えた。静まりかえった夕刻の空気の中で、丈の 高い木々が微動だにしていないのが見えた。自分の足許で愛犬がまどろんでいるのが見えた。

 空中に漂う甘い香りが薄らいでいき、嗅ぎとれるものはシダと森のカビの重苦しい臭いだけだった。盲目的な恐怖が私を捕えた。私は銃をひっつかみ、暗くな りつつある森の中に飛びこんでいった。

 犬は私の後についてきて、私の脇に生えている藪の中を突き進んだ。ますます光は鈍くなっていったが、私は大股に歩き続けた。汗が顔や髪から噴き出した。 私の心は千々に乱れていた。どうやって雑木林にたどり着いたのか、自分でもよくわからない。道が見つかったとき、暗くなりつつある藪の中から人間の顔が私 の方を窺っているのがちらっと見えた。怖ろしい人間の顔だった。黄色く、頬骨が張っていて、眼が細かった。

 思わず私は立ちつくした。私の足許で犬がうなった。それから私はその顔に飛びかかり、藪の中をやみくもに突き進んだが、夜が急速に迫っていた。ねじれた 灌木と絡み合った蔦の迷路の中で私は息を切らしながらもがいていた。自分の体を捕えている藪さえ見えなかった。

 青ざめて引っかき傷をこしらえた顔で、私はその晩の食卓に現れることになった。ハウレットが給仕をしてくれたが、暗黙のうちに私を非難していることは目 つきでわかった。スープはよどんでおり、雷鳥は汁気に乏しかったからだ。

 晩飯を済ませた犬たちをデイヴィッドが連れてきた。私は暖炉の前に椅子を引き寄せ、傍らのテーブルにビールを置いた。犬たちは私の足許で丸くなった。 どっしりとしたカバノキの薪から火の粉が舞い上がって渦巻く。その渦の中でパチパチと音を立てて飛ぶ火花を見ると、犬たちは厳粛な表情で瞬きをした。

「デイヴィッド」と私はいった。「今日、中国人をみたといったね?」

「左様でございます」

「今はそのことをどう思ってる?」

「見間違いだったのかもしれません」

「でも、そうは思わないんだろう。今日、僕の水筒に入れてくれたウイスキーはどんな種類のものだい?」

「いつも通りのものでございます」

「たくさん減っていたかな?」

「三口ほどでございました。いつもの通りでございます」

「ウイスキーに変なところがあったとは思わないよね。たとえば、薬物が混入してあったとか」

 デイヴィッドは微笑していった。「思いません」

「うん」と私はいった。「突拍子もない夢を見たんだ」

「夢」といったとき、私は気分が楽になり、自信を取り戻した。そういってみる勇気は、たとえ独り言であっても、それまではなかったのだ。

「突拍子もない夢だった」と私は繰り返した。「5時頃に森の中で眠ってしまったんだよ。泉が、いや池があるきれいな空地でね。その場所を知ってるかい?」

「存じません」

 私は二回その場所のことを詳しく説明したが、デイヴィッドは首を振った。

「彫刻を施した石とおっしゃいましたか? 見たこともございません。ニュースプリングのことではございますまいね」

「違う、違う! もっと遠くの空地だよ。こことカナダの線路の間にある森に誰かが住んでいるなんてことはあるかな?」

「サンクロワまでは誰も住んでおりません。少なくとも、わしは存じません」

「もちろん」と私はいった。「中国人を見たと僕が思ったのは幻だったんだ。もちろん、僕は思ったより君の冒険に影響されていたようだ。もちろん君は中国人 なんて見なかったのさ、デイヴィッド」

「おっしゃる通りでございましょう」はっきりしない返事だった。

 私は彼を休ませ、自分は一晩中ずっと犬たちと一緒にいることにするといった。彼が立ち去ると、私はビールをがぶがぶと飲んだ。「かまうもんか、畜生」と ピアポントのようにいって、葉巻に火をつけた。

 それから私はバリスとピアポントのことを考えた。彼らは冷たい寝床で寝ていることだろう。焚火をするような危険は犯さないだろうから。暖かい炉隅にお り、燃えさかる火に当たっているにもかかわらず、私は同情心を覚えて身震いした。

「バリスとピアポントに包み隠さず話をして、彫刻と泉を彼らに見せてやろう」と私は独り考えた。「イゾンデか。なんてすばらしい夢だったんだろう。あれが 夢だったのだとすれば」

 それから私は鏡のところに行き、自分の眉の上にあるかすかな白い痣を眺めた。


 翌朝8時頃、ハウレットがカップにコーヒーを注いでくれるのを気怠く眺めながら私は座っていた。ガミンとミョシュは身を起こして吠え、一瞬後に玄関でバ リスの足音がするのが聞こえた。

「おはよう、ロイ」といって、ピアポントがダイニングルームに入ってきた。「朝飯が欲しくてたまらないよ! ハウレットはどこかな。カフェオレはいらない よ。チョップと卵が少々ほしい。犬を見ててくれ。今にも尻尾がちぎれそうな勢いで振ってるじゃないか」

「ピアポント」と私はいった。「ずいぶんお喋りだな、驚いたよ。だが、どんどん喋ってくれ。バリスはどこかい? 君、全身びしょ濡れじゃないか」

 ピアポントは腰を下ろし、泥まみれになって強張った脚絆をほどいた。

「バリスならカーディナル=スプリングスに電話しているところだ。部下が要るんだと思うね。お座り! ガミン、このバカ! ハウレット、卵は三つゆでてく れ。それからトーストをもっと。何の話をしていたんだっけ? ああ、バリスのことだったね。金塊製造団の居場所を突き止める手がかりになりそうなものを彼 は見つけたんだ。楽しかったよ。バリスがそのことを君に話してくれるだろう」

「ビリー! ビリー!」私は驚きつつも喜んで叫んだ。「喋るってことがわかってきたじゃないか! 参ったな! 自分で実包を作り、自分で銃を運び、自分で 撃ったんだから。おはようございます! バリスが泥だらけでお出ましだ。本当に服を着替えた方がいいですよ。なんてひどい臭いだ!」

「たぶん、こいつのせいだろう」といって、バリスは何かを炉床に放り出した。そいつはぶるぶると震え、それからもがきはじめた。「これは湖畔の森で見つけ たんだ。何だかわかるかね、ロイ?」

 胸をむかつかせながら、私はそれを見た。蜘蛛と蟹に似た生き物だった。ティファニーでゴドフリーに見せられた奴だ。

「その刺激臭には覚えがあります」と私はいった。「お願いですから、そんなものを朝飯のテーブルに持ちこまないでください、バリス!」

「だが、何なのかね?」双眼鏡と拳銃を下ろしながらバリスは食い下がった。

「自分の知っていることは朝飯の後でお話しします」断固として私はいった。「ハウレット、箒を持ってきて、こいつを道に掃き出してくれ。何を笑ってるん だ、ピアポント?」

 その忌々しい生き物をハウレットは掃き出した。バリスとピアポントは、露でずぶ濡れになった衣装を乾いた服と替えるために出て行った。デイヴィッドが やってきて、犬たちを朝の散歩に連れて行った。数分後バリスが再び現れて、テーブルの上座にある自分の席に座った。

「それで」と私はいった。「何か話していただけることはありますか?」

「ああ、たっぷりあるよ。連中は、森の反対側にある湖の近くにいる。金塊製造団のことだがね。今朝、連中の一人を逮捕しなければならん。主な一味がどこに いるのか、確かなことはわからない。トースト立てをこっちに押しやってくれないかね、ロイ。およそ確信は持てないんだが、とにかく一人は押さえてある。ピ アポントは本当に役に立ったよ。それで、どう思うかな、ロイ? 彼は秘密検察局に勤めたがっているんだよ!」

「ウィリー坊やが!」

「そうだ。彼を思いとどまらせようと思う。私が持ってきたのは、どんな種類の生き物なんだ? ハウレットは掃き出したのかな?」

「ハウレットがあれをまた家の中に持ってきても僕は別にかまいませんよ」私は無頓着にいった。「朝飯は終わりましたからね」

「いいや」といって、バリスは慌ただしくコーヒーを飲み干した。「それは重要なことじゃない。君があの生き物の話をしてくれればいい」

「僕があなたの食事中にあれを持ちこんだとしても当然の報いというものですよ」と私は言い返した。

 湯上がりの上気した顔でピアポントが入ってきた。

「話したまえ、ロイ」と彼はいった。そこで私は彼らにゴドフリーと彼のペットの話をした。

「さて、良識の名において、ゴドフリーはあの生き物の何がおもしろいんですかね?」と私は話を締めくくり、吸っていた紙巻煙草を暖炉に投げ込んだ。

「日本のものですかね?」とピアポントはいった。

「いや」とバリスはいった。「芸術的には醜悪なんじゃない、俗悪で身の毛がよだつんだ。安っぽく未完成という感じがするね」

「まったくもって未完成です」と私はいった。「アメリカのユーモリストみたいに」

「うん」とピアポントはいった。「安っぽい。あの黄金の蛇は?」

「ああ、メトロポリタン美術館が買い取ったよ。見に行かないとな。傑作なんだ」

 バリスとピアポントは煙草に火をつけた。しばらくして我々は立ち上がり、家を出て芝生に行った。芝生のカエデの木々の下には鎖とハンモックがあった。

 銃を小脇に抱え、犬を後ろに従えたデイヴィッドが通りかかった。

「午後4時に、草原に銃を3丁持ってきてくれ」とピアポントはいった。

「ロイ」デイヴィッドがお辞儀をして歩き出したとき、バリスが行った。「昨日、君はどうしていた?」

 予期していた質問だった。一晩中、私はイゾンデと森の空地の夢を見ていた。そこで、水晶のように透明な泉の底に彼女の双眸が映っているのを私は見たの だ。朝、入浴して服を着る間ずっと、夢の話などしても無価値だと私は自分に言い聞かせていた。空地や、空想の石の彫刻を探すのはバカげたことだ。だが今、 バリスに質問されて、急に私は何もかも彼に話す決心をした。

「あのですね、皆さん」と私はぶっきらぼうにいった。「変な話をします。楽しめるし、同じくらい笑えますよ。でも、まず僕からバリスに一つか二つ質問させ てほしいんです。中国に行ったことはありますか、バリス?」

「ある」といって、バリスは私の眼をまっすぐ見つめた。

「中国人が木こりになることってあります?」

「中国人を見かけたのかね?」と彼は訊ねた。尋常でない声だった。

「わかりません。デイヴィッドも僕も見たような気がするんです」

 バリスとピアポントは互いに目配せしあった。

「あなたも見たんですか?」と訊ねて、私はピアポントの方も見ようと顔の向きを変えた。

「いや、見ていない」バリスはゆっくりといった。「だが、ここの森に中国人が一人いる、あるいはいたことはわかっている」

「何てこった、悪魔め!」と私はいった。

「ああ」厳粛な表情でバリスはいった。「悪魔だ。クエン=ユインの一員だよ」

 私は自分の椅子をハンモックの近くに引き寄せた。ハンモックに長々と寝そべっていたピアポントが純金の球を掲げて私に見せた。

「うん?」といって、私はその表面の彫刻を調べた。絡まり合って塊になった生物の彫刻だった。龍だろうと私は見当をつけた。

「うん」と繰り返すと、バリスは手を伸ばして黄金の球を受け取った。「この爬虫類と漢字が彫ってある黄金の球はクエン=ユインの象徴なんだ」

「どこで手に入れたんですか?」と私は訊ねた。何か驚くべきことが今にも起こりそうだという気がした。

「今朝方ピアポントが湖畔で見つけた。クエン=ユインの象徴なんだ」と彼は繰り返した。「恐るべきクエン=ユイン、中国の魔術師たちだよ。世界一残忍で非 道な結社だ」

 バリスが立ち上がり、灰色の口ひげをひねりながら木々の間を行ったり来たりしはじめるまで、我々は押し黙って煙草を吹かしていた。

「クエン=ユインは魔術師だ」といって、バリスはハンモックの前で立ち止まった。ハンモックに寝そべったピアポントはバリスの様子を見守っていた。「魔術 師というのは字義通りの意味だ。私は奴らに会ったことがある。奴らの悪魔めいた所業を目撃したこともある。真面目に繰り返させてもらうが、天上に天使がい るように、地上には悪魔の種族がいる。そして奴らは魔術師なんだ。ふふん!」彼は叫んだ。「インド人の魔術とかヨガ行者みたいな与太話をしてみろ! え えっと、ロイ、君に教えてやるが、クエン=ユインは十万の人間を完全に支配している。精神と肉体を、肉体と魂をな。中国の国内で何が進行中か知っている か? 欧州は知っているのか、あの巨大な地獄の釜の現状を想像できる人間なんているのか? 君は新聞を読んでいるだろう。李鴻章と皇帝について、くだらな い社交辞令を聞かされたことがあるだろう。海戦や陸戦の記事を見ているだろう。大いなる未知の大陸のギザギザした海岸線沿いに日本がちっぽけな嵐を起こし たことを知っているだろう。だがクエン=ユインについて聞いたことはあるまい。宣教師が一人か二人たまたま聞いた以外は、いかなる欧州人も聞いたことがな いんだ。この地獄の釜から噴き出した火が大陸から沿岸まで舐め尽くすときは、世界の半分を爆発が覆うだろう。神よ、残る半分を救いたまえ」

 ピアポントの煙草が燃え尽きた。彼は新しいのに火をつけ、バリスを鋭く見つめた。

「だが」バリスは静かに言葉を続けた。「『一日にて足れり』というしな(訳註──この言葉はマタイ伝6.34からの引用)。自分の経験したことをすべて語 る気はない。そんなことをしても何にもならん。君やピアポントですら、その話を忘れてしまうだろう。あまりにもあり得なく、遙か彼方の話であるように思え るだろうから。太陽が燃え尽きる話をするようなものだ。私が話し合いたいのは、クエン=ユインの一味の中国人がここにいる可能性のことだ。今、森の中に」

「もしも奴がいるとすれば」とピアポントはいった。「奴を手がかりにして金塊製造団を見つけられるかもしれませんね」

「そのことなら片時たりとも疑っていない」バリスの言葉は真剣だった。

 私は黄金の小球を手にとり、彫られている文字を調べた。

「バリス」とピアポントはいった。「僕が着ているサンフォードの狩猟着のポケットにはアンカット版の『公爵夫人』が入っているというのに、魔術なんか信じ られるわけがありません」

「僕も信じられませんね」と私はいった。「イヴニング=ポストを読んで、ゴドキン氏が魔術を認めようとしていないということを知りましたから。おやおや!  この金の球はどうしたんだろう?」

「何かあったのかね?」バリスはいかめしくいった。

「ええっと、色が紫に変わってるんです。いや、緋色だ。違う、緑だった。何てこった! 僕の指の下で龍がのたうち回ってますよ」

「あり得ないよ!」と呟いて、ピアポントは私の方に身を乗り出した。「それは龍じゃないな」

「龍じゃない!」私は興奮して叫んだ。「バリスが持ってきた生き物の絵なんだ。こいつらが這いずり回る様子を見てくれ」

「落とせ!」とバリスは命じた。私は芝生の上に球を放り投げた。たちまち我々は皆その傍らの草むらに跪いたが、球は再び金色になっており、その表面にグロ テスクに刻まれているのは龍と奇怪な文様だった。

 ピアポントはいささか顔を紅潮させて球を拾い上げ、バリスに手渡した。彼はそれを椅子の上に置き、私の傍らに座った。

「やれやれ!」といって、私は顔の汗をぬぐった。「あなたはどんなトリックで我々をかついだんですか、バリス?」

「トリック?」軽蔑した様子でバリスはいった。

 私はピアポントの方を見て意気消沈した。トリックでないとしたら何だというのだ? ピアポントは私を見つめ返して顔を赤らめたが、彼がいったのは「悪魔 みたいに奇妙だ」だけだった。そしてバリスは「ああ、悪魔めいている」と応じた。それから、話をしてくれとバリスは私に頼んだ。雑木林でデイヴィッドに 会ったところから始めて、黄色い面が幻の髑髏のように嘲笑っている藪の暗がりへと飛びこんでいった瞬間まで私は話をした。

「その泉を見つけに行きませんか?」しばらく間をおいてから私は訊ねた。

「うん。それから、その女性も」ピアポントは得々と提案した。

「バカなことをいうなよ」やや苛立って私はいった。「君が行く必要はないよ」

「行くとも」とピアポントはいった。「僕が軽率だなんて君が思うのでない限り」

「黙れ、ピアポント」とバリスはいった。「これは真面目な話なんだぞ。そんな空地や泉があるとは聞いたこともないが、この森のことを完全に知っている人間 が誰もいないのも事実だ。試してみる価値はある。ロイ、その場所まで引き返すことはできるか?」

「簡単です」と私は答えた。「いつ出かけますか?」

「鴫を撃ちに行く計画は台無しになっちまったな」とピアポントはいった。「だけど、生身の夢の女性を見つける機会ができたってわけで」

 私は立ち上がった。ひどく気分を害していたが、ピアポントはあまり後悔していないようだった。彼の笑い声が苛立たしかった。

「その御婦人は君が見つけたんだから、君のものだ」と彼はいった。「君の夢を侵害したりはしないよ。僕は別の女性の夢を見ることにするさ」

「おいおい」と私はいった。「ハウレットに頼んで、すぐ君を寝かしつけてもらうことにしよう。バリス、もしも準備ができているのであれば晩飯までに戻って こられますよ」

 バリスは立ち上がり、私を熱心に見つめた。

「どうしたんですか?」私はそわそわして訊ねた。彼の視線が私の額に釘付けになっていることがわかり、イゾンデと白い三日月の傷のことが頭に浮かんだの だ。

「その痣は生まれつきのものかね?」とバリスはいった。

「そうです。どうしてですか、バリス?」

「別に何も。おもしろい偶然の一致だな」

「一体どういうことなんです!」

「その傷というか痣のことだ。それは龍の爪痕で、月老の三日月の象徴なんだ」

「その月老というのは何者なんですか?」私は不機嫌に訊ねた。

「月老、月を創るもの、クエン=ユインのジル=エンブだ。中国の神話なんだが、月老はクエン=ユインを支配しに戻ってくると信じられているのさ」

「そんな会話をしていると」とピアポントが口を挟んだ。「精神病院の拘束服を着せられてしまいますよ。ロイは水疱瘡にかかって跡が残っただけでしょう。バ リスは僕らをからかっているんだ。さあ、夢の女性のところに行ってらっしゃいよ。バリス、馬の足音が聞こえます。あなたの部下たちがやってきたんですね」

 泥の跳ね散らかった二人組が玄関先に馬で乗り付け、バリスの合図で馬から下りた。連発銃と、どっしりしたコルトを二人とも携えていることに私は気づい た。

 彼らは恭しくバリスの後に付き従ってダイニングに入っていった。やがて皿や瓶がカチャカチャ鳴る音が聞こえ、低くガヤガヤとバリスの調子のよい声がし た。

 30分後、彼らは再び現れ、バリスと私に敬礼すると、馬に乗ってカナダ国境の方へ走り去った。10分が経過したが、バリスは出てこなかったので、我々は 立ち上がって家の中に入った。彼がいた。押し黙ってテーブルの前に座り、黄金の小球を眺めているところだった。今や小球は火のような深紅とオレンジに輝 き、熾火のように明るかった。口をあんぐりと開け、眼を眼窩から飛び出させたハウレットがバリスの背後に立ちつくしていた。

「行きませんか」いささか驚いてピアポントは訊ねた。バリスは返事をしなかった。ゆっくりと球体は青白い金色に再び戻ったが、我々に向けてバリスが上げた 顔はシーツのように白かった。それから彼は立ち上がって微笑んだが、彼のその努力は我々全員にとって痛々しいものだった。

「紙と鉛筆をくれ」と彼はいった。

 ハウレットが紙と鉛筆を持ってきた。彼は窓のところに行き、急いで書き付けた。そして紙を折りたたみ、机の一番上の引き出しにしまって鍵をかけた。彼は 私に鍵を手渡し、先に行くよう我々に合図した。

 我々が再びカエデの木の下に立ったとき、彼は不可解な表情で私の方を向いた。

「鍵を使うべき時はわかるだろう」と彼はいった。

「来たまえ、ピアポント。ロイの泉を見つけなきゃならん」


 その日の午後2時頃、バリスの提案で我々は空地の泉の捜索を断念し、森を横切って雑木林に行った。そこではデイヴィッドとハウレットが銃を持ち、3頭の 犬と共に我々を待っていた。

 ピアポントは「夢の御婦人」のことで私を容赦なくからかった。私の額の傷についてイゾンデとバリスが質問したことが意味ありげに一致してさえいなけれ ば、何もかも夢だったのだということで私はとっくに納得していたはずだった。

 さしあたり、私には説明できることが何もなかった。空地への入口に違いないと思われる地点に50回は行ったにもかかわらず、我々は空地を見つけられな かった。バリスは黙っており、探索の間ずっと我々のどちらにもほとんど声をかけなかった。彼がそんなに意気消沈しているところは見たことがなかった。しか しながら、雷鳥の冷肉とブルゴーニュワインの瓶が待っている雑木林が見えてくると、バリスは持ち前の陽気さを取り戻したようだった。

「夢の御婦人に乾杯!」そういうとピアポントはグラスを持ち上げて立ち上がった。

 私はそれが気に入らなかった。彼女が夢に過ぎなかったとしても、ピアポントの冷やかす声を聞くのは苛立たしかった。

 バリスは理解してくれていたのかもしれない。私にはわからないが、騒々しくしないで自分のワインを飲めと彼はピアポントに命じた。青年が従ったときの子 供っぽい信頼ぶりにバリスは微笑しかけたほどだった。

「鴫はどんな具合かな、デイヴィッド」と私は訊ねた。「草原の状態はいいはずだけど」

「草原には一羽の鴫もおりません」厳粛な様子でデイヴィッドはいった。

「ありえない」とバリスは強い語調でいった。「鴫が飛び立ったはずがない」

「飛び立ったのでございます」デイヴィッドの声は陰気で、私はほとんど聞き取れないほどだった。我々3人は興味津々で老人を見つめ、この失望させられるも のでありながらもセンセーショナルな報告を彼が説明してくれるのを待った。

 デイヴィッドはハウレットの方を見て、ハウレットは空模様を調べた。

「わしは」ハウレットを注視したままデイヴィッドは話しはじめた。「犬を連れて雑木林沿いに歩いておりました。そのとき隠れ場で物音がし、ハウレットがた いそう足早にわしの方に歩いてくるのが見えました。実際」とデイヴィッドは言葉を続けた。「彼は走っていたといってよいかもしれません。走っていたな、ハ ウレット?」

 ハウレットは「はい」といって、わざとらしく咳をした。

「申し訳ございませんが」とデイヴィッドはいった。「残りはハウレットに話してもらったほうがよろしいでしょう。わしが見ていないものを彼は見たのでござ います」

「続けたまえ、ハウレット」大いに興味をそそられて、ピアポントが促した。

 ハウレットは赤い大きな手を口に当てて再び咳払いをした。

「デイヴィッドのいったことは本当でございます」と彼は話しはじめた。「私は遠くから犬たちの働きぶりを見ておりました。デイヴィッドはブナの木立の後ろ に立ち、パイプに火をつけているところでした。そのとき、杖を持った顔が隠れ場にいきなり現れたのでございます。犬たちを狙っているかのようでした」

「杖を持った顔?」ピアポントは簡単に訊ねた。

「顔と手でございます」とハウレットは説明した。「色を塗った杖を持っておりました。ハウレット、こいつは怪しいぞと私は考えました。ハウレット、こいつ は奇妙だぞと私は考えました。そこで私は走り出しましたが、あの野郎に見られていたようです。私がデイヴィッドと一緒にやってきたとき、もういなくなって おりました。『やあハウレット』とデイヴィッドは申しました。『どうして、ここに来たんだね』と大声で申したのでございます。『走るんだ!』と私は申しま した。『中国人が犬を狙っているぞ!』『一体全体どんな中国人なんだ?』といって、デイヴィッドは藪ごとに銃の狙いをつけました。それから、奴を見たと 思ったので我々は走りに走りました。犬たちも私たちの後についてきましたが、中国人はまるっきり見つかりませんでした」

「残りはわしが話しましょう」とデイヴィッドはいった。ハウレットは咳をして、犬の後ろの片隅に慎ましく引き下がった。

「続けたまえ」とバリスは奇妙な声でいった。

「ハウレットと私が追跡を止めたとき、私たちがいたのは南の草原を見晴らす崖の上でございました。そこには何千羽も鳥がおりました。ほとんどはキアシシギ とチドリで、ハウレットも見たのでございます。わしがハウレットに何かいう前に、何かが湖から現れてザブザブと水音を立てました。まるで崖全体が湖の中に 崩れ落ちたかのようでございました。わしはたいそう怯えてしまったので急いで藪の中に飛びこみ、ハウレットもすぐさましゃがみ込みました。そして鴫が一斉 に飛び立ちました。何百羽もおりましたが、どれも怯えて騒いでおりました。そして草原の上をアメリカオシが飛んでいきました。悪魔に追い立てられているか のようでございました」

 デイヴィッドは言葉を切り、沈思黙考しつつ犬たちの方を見やった。

「続けたまえ」同じ緊張した声でバリスはいった。

「以上でございます。鴫は戻ってまいりませんでした」

「だが、湖でザブザブと音がしたのは?」

「わしにはわかりません、旦那様」

「鮭かな? 鮭が鴨や鴫をそんな風に怯えさせることはあるだろうか?」

「ございません。50匹の鮭が一斉に飛び跳ねても、あんな水音がすることはございません。そうだな、ハウレット?」

「ああ」とハウレットはいった。

「ロイ」ついにバリスはいった。「デイヴィッドが話してくれたことのおかげで、今日の鴫撃ちは中止だ。私はピアポントを家に連れて行く。ハウレットとデイ ヴィッドは犬を連れてついてきてくれ。奴らに言いつけたいことがあるんだ。ロイが一緒に来たければ、そうしてもかまわん。嫌なら、つがいの雷鳥を晩飯用に 撃ちに行きたまえ。昨日の晩ピアポントと私が発見したことを知りたければ、8時までに戻ってくるんだぞ」

 デイヴィッドは口笛を吹いてガミンとミョシュを後ろに従え、手提げかごを持ったハウレットの後について家に向かった。私はヴォユーを傍らに呼び寄せ、銃 を手にとるとバリスの方を向いた。「8時までには戻ります」と私はいった。「金塊製造団の一人を捕まえられると予測しているのですね?」

「そうだ」とバリスは物憂げにいった。

 ピアポントが中国人の話を始めたが、バリスはついてこいと彼に身振りで合図をした。そして私に向かって頷くと、ハウレットとデイヴィッドが家に向かって いった道を歩き出した。彼らの姿が見えなくなると、私は銃を小脇に抱えて森の方へ急旋回した。ヴォユーが私の足許にぴったりとついてきた。

 中国人の幻影がひっきりなしに現れるものだから、私は思わず神経質になっていた。もしも奴が再び私を煩わせるようなことがあれば、私は奴に銃を突きつ け、奴がカーディナルの森で何をしているのか見極めてやろうとしたことだろう。もしも奴が満足な申し開きをしないようなら、奴を金塊製造の容疑者としてバ リスのところにしょっ引いていくつもりだった。どうあろうと奴を連行してやろうと私は思った。そして奴の醜い面を森から追い払ってやるのだ。デイヴィッド が湖で聞いたものは何だったのだろうかと私は訝しく思った。鮭のような大きい魚だったに違いない。追跡の後だったものだから、デイヴィッドとハウレットは 神経が疲れていたのかもしれない。

 私は物思いに耽っていたが、犬が吠えたので我に返って頭を上げた。そして突然その場で足を止めてしまった。

 見つからなかった空地がすぐ目の前にあったのだ。

 すでに犬は空地に飛びこんでおり、ビロードのような芝地を横切って石の彫刻へと駆け寄った。そこには細やかな人影が座っていた。我が愛犬がすべすべした 頭を彼女の絹のドレスに愛おしげにもたせかけるのが見えた。彼女がヴォユーの上に身をかがめた。私は息を呑み、陽に照らされた空地にゆっくりと足を踏み入 れた。

 半ばおずおずと彼女は白い片手を差し出した。

「いらしてくださったので」と彼女はいった。「私の作品をあなたにもっとお見せできる。ここで石に彫ったトンボや蛾の他にも作品があるといったでしょう。 なぜ私をそんなに見つめているの? 気分が悪いの?」

「イゾンデ」どもりながら私はいった。

「はい」といって、彼女は眼の下をほのかに染めた。

「またお会いできるとは思っていませんでした」と私は口を滑らせた。「あなたは私の見た夢だと思っていたので」

「私の夢を見た? そうかもしれない。それはおかしなこと?」

「おかしい? いいえ、でも我々が二人して泉を覗きこんでいたとき、あなたはどこに行ってしまったんですか? 僕にはあなたの顔が見えました。僕の顔の隣 であなたの顔が水に映っていた。それから、いきなり青空しか見えなくなってしまった。星がひとつ瞬いているばかりでした」

「それはあなたが眠ってしまったから」と彼女はいった。「そうではないの?」

「僕が眠っていた?」

「眠り込んでしまったわ。あなたはとても疲れているのだと思ったので、私は帰った」

「帰った? どちらへ?」

「自分の家に。そこで私はきれいな彫刻を作るの。御覧なさい、今日あなたにお見せするために持ってきたの」

 彼女が私の方に差し出した彫刻の生物を私は手にとった。ずっしりとした黄金の蜥蜴で、鉤爪を広げた繊細な黄金の翼があった。翼はあまりにも薄かったの で、陽光は翼を透過し、燃え上がるような金色を点々と地面に投じた。

「うわあ!」と私は叫んだ。「驚いたなあ! こんな作品を作ることをどこで習ったんですか? イゾンデ、こんな傑作には値段がつけられないですよ!」

「そうだといいのだけど」と彼女は真顔でいった。「自分の作品を売るなんて我慢がならないのだけど、義父が遠くへ送るために持っていくの。これは私が完成 させた二番目の作品だけど、よこすようにと義父が昨日いった。あの人は貧乏しているのだと思う」

「あなたに作品制作用の黄金をくれるのだとしたら、お義父さんがどうして貧乏なのかわかりません」私は驚いていった。

「黄金!」と彼女は声を上げた。「黄金! 黄金で一杯の部屋を義父は持っているわ! 彼は黄金を作るの」私はすっかり狼狽して彼女の足許の芝生に座り込ん だ。

「どうして、そんな風に私を見るの?」ちょっと困った顔をして彼女は訊ねた。

「お義父さんのお住まいはどこですか?」とうとう私はいった。

「ここよ」

「ここですって!」

「湖の近くの森の中。私たちの家はあなたには一度も見つかっていないわ」

「家!」

「もちろん。私が木の中に住んでいるとでも思った? 何てバカバカしいことを。私はきれいな家に義父と一緒に住んでいます。小さいけれども、とても美しい 家。そこで義父は黄金を作るけど、その黄金を遠くに運んでいく人たちは一度も家に来たことがないわ。家がどこにあるのか彼らは知らないし、知ったところで 家には入れないから。義父は金塊を帆布の鞄に入れるの。鞄が一杯になると、義父はそれを外の森に持っていく。あの人たちはそこに住んでいるけど、彼らが金 塊で何をするのかは知らない。義父が黄金を売って金持ちになってくれたらいいのに。そしたら私はイアンに帰れる。イアンではあらゆる庭が甘く香り、一千の 橋の下を川が流れている」

「その都はどこにあるのですか?」ぼんやりと私は訊ねた。

「イアンのこと? わからない。香しく、銀の鐘が日がな一日鳴り響く都よ。昨日、私は蓮の蕾を懐にしまってイアンから持ち帰ったわ。森中がよい匂いだっ た。その匂いを嗅いだ?」

「はい」

「昨日の晩、あなたが嗅いでくれただろうかと思ったわ。あなたの犬は本当にきれいね。私は彼が大好き。昨日、私はほとんどあなたの犬のことばかり考えてい たのだけど、昨日の晩は」

「昨日の晩は」私は小声で繰り返した。

「あなたのことを考えていた。あなたにはどうして龍の爪痕があるの?」

 私は反射的に手を額にやり、傷を覆った。

「龍の爪のことを何か御存じなのですか?」と私は呟いた。

「龍の爪痕は月老の象徴。月老はクエン=ユインを統べる方だと義父はいっている。私の知っていることはすべて義父から教わったの。私が16歳になるまで、 私たちはイアンに住んでいた。いま私は18歳。私たちが森に住むようになってから2年が経つわ。御覧なさい! 真っ赤な鳥よ! あの鳥は何なのかしら?  イアンにいるのと同じ色の鳥がいる」

「イアンはどこにあるんですか、イゾンデ?」ひどく冷静に私は訊ねた。

「イアン? わからない」

「でも、そこに住んでいたんでしょう?」

「ええ、長い間」

「海の向こうにあるんですか、イゾンデ?」

「七つの海と、地球から月までの距離よりも長い大河の向こうに」

「そのことをあなたに教えてくれたのは誰?」

「誰かって? 私の義父。何もかも義父が私に教えてくれた」

「お義父さんの名前を教えてくれませんか、イゾンデ?」

「わからない。あの人は私の義父。それだけ」

「それで、あなたの名前は?」

「御存じでしょう、イゾンデよ」

「知ってます。でも、もうひとつの名前は」

「それだけよ。イゾンデだけ。あなたには名前が二つあるの? そんなにもどかしそうに私を見るのはなぜ?」

「お義父さんが黄金を作るんですか? 作っているのを見たことはある?」

「ええ、あるわ。義父はイアンでも黄金を作っていた。夜、火花が金の蜂のように渦巻くのを見るのが私は大好きだった。何もかも私たちの庭や周りの庭のよう だったら、イアンはすばらしいところ。私の庭からは一千の橋と彼方の白い山が見える」

「住人の話もしてください、イゾンデ」私は穏やかに促した。

「イアンの人たち? 蟻のように群れているのを見たわ。ああ! 何百万もの人が一千の橋を行ったり来たりしていた」

「でも、どんな人たちでしたか? 僕みたいな服装をしてました?」

「わからない。とても遠くにいて、一千の橋の上で動く点のようにしか見えなかったから。16年間、私は庭から毎日その人たちを見ていたけれども、庭からイ アンの街に出て行ったことは一度もなかった。義父が許してくれなかったから」

「イアンでは、身近なところに生き物がいるのを見たことは一度もなかったんですね?」私は失望して訊ねた。

「鳥たちがいたわ。丈が高く賢そうな鳥たち。全身が灰色と薔薇色なの」

 彼女は輝く水の上に身をかがめ、すべすべした手で水面をなぞった。

「なぜ、こんなことを聞くの」と彼女は呟いた。「腹を立てているの?」

「お義父さんのことを話してください」と私は食い下がった。「僕みたいな見かけですか? 僕みたいな服装や喋り方ですか? 米国人ですか?」

「米国人? 知らない。義父はあなたみたいな服装ではないし、風采もあなたみたいじゃない。義父は年寄り。とても、とても年寄り。あなたのような話し方を することもあれば、イアンの人のように話すこともある。私も両方の言葉で話せる」

「じゃあイアンの人の言葉で喋ってください」と私は気短に急き立てた。「喋ってください。おや、イゾンデ! どうして泣くんですか? あなたの心を傷つけ るようなことをいってしまいましたか? そんなつもりじゃなかったんです。あなたが嫌がるとは夢にも思わなかったんです! ねえイゾンデ、許してくださ い。ほら、あなたの足許に跪いて謝りますから」

 私は動きを止めた。金の鎖で彼女の腰に下げてある黄金の小球に眼が釘付けになった。小球が揺れて彼女の太腿にぶつかるのが見えた。小球は色が変わった。 さっきは赤、今は紫、そして燃えるような緋色になった。クエン=ユインの象徴だ。

 彼女は私の上にかがみ込み、私の腕にそっと手を置いた。

「なぜ、そんなことを聞くの?」と彼女はいった。睫毛が涙で光っていた。「傷つくわ。ここが」といって、彼女は胸に手を当てた。「痛むの。理由はわからな い。ああ、あなたの眼がまた険しく冷たくなってきた。私の腰に下げてある黄金の球を見ているのね。これのことも知りたい?」

「はい」と私は呟いた。地獄の炎のような光彩に眼が釘付けになっていたが、私が喋っている間に輝きは静まっていき、球体は再び青白い金色になった。

「クエン=ユインの象徴よ」震える声で彼女はいった。「なぜ聞いたの?」

「あなたのものですか?」

「え、ええ」

「どこで手に入れたんですか?」私はとげとげしく叫んだ。

「義父が」

 そのとき、彼女は細やかな両腕にありったけの力を込めて私と押しのけ、顔を覆った。

 私が彼女を抱き寄せても、彼女の指の間からゆっくりと滴り落ちる涙を接吻で止めても、彼女を愛していると打ち明けても、彼女が不幸そうなのを見ると心が 切り刻まれるようにつらいと述べても、結局それが私のするべきことであった。彼女が涙ぐみつつも微笑んだとき、彼女の瞳に純粋な愛と優しさを見て取った私 は、晴れた青空でほのかに輝いている月よりも高く魂が舞い上がった。私の幸福はあまりにも唐突で激しく圧倒的なものだったので、私はその場に跪くより他に なかった。彼女は私の手を握り、私は上空の蒼穹と月の微光を見上げた。そのとき、私の傍らの丈高い草むらで何かがうごめき、私の膝に迫ってきた。湿っぽい 刺激臭が鼻を突いた。

「イゾンデ!」と私は叫んだ。しかし彼女の手の感触は唐突に消え失せ、固く握りしめられた私の両手は露に濡れていた。

「イゾンデ!」私はふたたび叫んだ。思考が恐怖に硬直していた。だが私が叫んだのは、悪夢から覚めた者としてだった。なぜなら湿っぽい刺激臭がし、あの蟹 のような化物が膝をよじ登ってくるのを感じたからだ。なぜ、こうも速やかに夜になったのだろう? 私はどこにいるのだろうか? 体が強張り、凍え、傷つい て血を流し、私は骸のように敷居の上に横たわっていた。ヴォユーが私の顔を舐め、夜風に吹かれて松明のように燃え上がり煙るランプの火で照らしながらバリ スが私の顔を覗きこんでいた。うぐっ! ランプの息詰まる悪臭のせいで私は意識がはっきりし、叫び声を上げた。

「イゾンデ!」

「一体全体どうしたんです?」と呟きながら、ピアポントは私を子供のように抱え上げた。「ロイは刺されたんですかね、バリス?」


 数分で私は立ち上がり、ハウレットが熱い風呂を用意してくれている自分の寝室までぎごちなく歩いていけるようになった。もっと熱いスコッチもタンブラー に入れてあった。私の喉にこびりついている凝固した血をピアポントがスポンジで拭い取ってくれた。傷は小さなもので、ほとんど目に見えず、トゲがちょっと 刺さった程度に過ぎなかった。顔を洗って私は気分をさっぱりさせ、冷水を浴びてアルコールで体を摩擦することによって仕上げをした。

「さて」とピアポントがいった。「熱いスコッチを飲んで横になれよ。山鴫の焼肉は要るかい? よし、君はもう大丈夫だと思うね」

 バリスとピアポントに見守られながら私はベッドの端に座った。神妙な顔をして山鴫の鎖骨を囓り、ボルドーをちびちびと飲んでいると、たいそう気分が安ら いだ。

 ピアポントは安堵の溜息をついた。

「さて」とピアポントは陽気にいった。「10ドルか拘禁10日かという問題に過ぎなかったわけだ。君は刺されたんだと思ったよ」

「僕は酔いつぶれていたわけじゃないぞ」といって、私は穏やかな気分でセロリをつまんだ。

「酔っぱらっていただけ?」同情の念を込めてピアポントは訊ねた。

「バカなことを」とバリスはいった。「彼をそっとしておけ。もっとセロリが欲しいかね、ロイ? 安眠できるぞ」

「眠りたくはないんです」と私は応じた。「あなたとピアポントはいつ金塊製造団を捕まえに出かけますか?」

 バリスは時計を見やり、ぱちんと音を立てて時計の蓋を閉じた。

「1時間後に。一緒に来ようとは思わないだろう?」

「でも行きますよ。コーヒーを一杯くれないか、ピアポント。僕はそうしたいんです。ハウレット、パナテラ(訳註──細く巻いた葉巻)の新しい箱を持ってき てくれ。輸入物の軽い奴だ。それからデカンターを持っていってくれ。さあバリス、僕は服を着ることにしますから、そしたら黙って僕の話を聞いてほしいんで す。そこのドアをしっかり閉めてくれますか?」

 バリスはドアに鍵をかけて腰を下ろした。

「ありがとう」と私はいった。「バリス、イアンという都はどこにあるんですか?」

 恐怖にも似た表情がバリスの眼にさっと現れた。彼が束の間ながら息を止めたのがわかった。

「そんな都は存在しないよ」と彼はしまいにいった。「私は寝言を言ったことがあるのかな?」

「イアンは都市です」私は静かに言葉を続けた。「そこでは一千の橋の下で河が逆巻き、庭は香しく香り、空気は銀の鐘の調べに満ちています」

「止めろ!」バリスは喘ぎ、震えながら椅子から立ち上がった。一気に10歳も老け込んだように見えた。

「ロイ」ピアポントが冷ややかに口を挟んだ。「何だって君はしつこくバリスに絡むんだ?」

 私はバリスを見つめ、彼も私を見つめ返した。1秒か2秒して、彼は再び座った。

「続けたまえ、ロイ」と彼はいった。

「そうしなくては」と私は応じた。「自分が夢を見たんじゃないと確信していますから」

 私は彼らにすべてを話した。だが話しているうちに一切がとても朧で非現実的に思えてきたので、時々話を中断しなければならなかった。熱い血で耳がかっと なった。1896年にもなって、そんな話をまじめにするのは良識的な人間のすることとは思えなかったのだ。

 私はピアポントの反応を懸念したが、彼はにこりともしなかった。バリスはといえば、ハンサムな頭をうなだれさせ、火のついていないパイプを両手でしっか りと握りながら座っていた。

 私が語り終えると、ピアポントはゆっくりと体の向きを変えてバリスの方を見た。何かを問おうとするかのように彼は二度ばかり唇を動かしたが、言葉は出さ ずじまいだった。

「イアンは都市だ」とバリスはいった。夢見ているかのような声だった。「君が質問したかったのはそのことだな、ピアポント?」

 我々は黙って頷いた。

「イアンは都市だ」とバリスは繰り返した。「そこでは一千の橋の下を大河が流れ、庭は香しく香り、空気は銀の鐘の音色で満ちている」

 私の口から質問が発せられた。「その都はどこにあるんですか?」

「イアンは」愚痴っぽいといってもいい口調でバリスはいった。「七つの海と、地球から月までの距離よりも長い川を越えたところにある」

「どういうことですか?」とピアポントがいった。

「ああ」というと、バリスは努力して己を奮い立たせ、伏せていた眼を上げた。「異国の寓喩を使ったまでだよ。そのことは気にするな。クエン=ユインのこと を話したことはなかったかな? イアンはクエン=ユインの中心地だ。クエン=ユインは、中国と呼ばれる巨大な影の中に隠れている。真夜中の天空のように朧 で巨大で、計り知れない未知の大陸の中に」

「計り知れない」とピアポントは小声で繰り返した。

「見たことがあるんだ」夢見ているかのような声でバリスはいった。「黒きキャセイの荒原を見たことがあるし、頂が成層圏より高い死の山脈を越えたこともあ る。嫦娥の影がアバドンに投げかけられているのも見た。嫦娥の影の中で密生している睡蓮を見るくらいなら、イェズドとアテル=ケダーから100万マイル離 れたところで死んだ方がマシだ! ザインドゥの廃墟で眠ったこともある。そこでは風が決して吹き止まず、死者がウルウラーを悼むのだ」

「それでイアンは」と私は穏やかに促した。

 ゆっくりと私の方に向き直った彼の顔には、幽鬼のごとき表情が浮かんでいた。

「イアン。私はそこに住んでいたし、そこを愛していた。私が息絶えるとき、私の腕から龍の爪痕が消えるとき」彼は腕まくりをした。白い三日月が彼の二の腕 で光っているのが見えた。「私の眼から光が永久に失われるときですら、私はイアンのことを忘れられないだろう。あの都は私の故郷なんだ、私の! 河と一千 の橋、彼方に見える白い峰、香しく薫る庭、百合の花、蜂の羽音と鐘の音が聞こえてくる夏の風の楽しきさざめき、すべてが私のものだ。私の腕にある龍の爪痕 をクエン=ユインが怖れたから、奴らを相手にした私の仕事も終わりだと思うか? 月老が与えてくれたから、彼の奪い取る権利を私が認めると思うか? 彼 は、その影の中では睡蓮が頭を上げようとしない嫦娥なのか? いいや、答は否だ!」彼は荒々しく叫んだ。「私の幸福は魔道士・月老、月を創るものから与え られたのではない! あれは本物の幸福だった、薄く染まった泡のように消えてしまう影ではなかった! 愛する女性を魔道士が作り出して与えるなどというこ とができるものか? それなら月老は嫦娥と同じくらい偉大な存在なのか? 嫦娥は神だ。しかるべき時が来たら、無限の慈愛により、愛する女性のもとへと私 を再び連れて行ってくれるだろう。私にはわかっているんだ、彼女は神の御許で私を待ってくれている」

 後には張りつめた沈黙が続いた。その中で聞こえるものは、倍の速度で打っている自分の鼓動だった。ピアポントの顔は蒼白になっており、痛ましげだった。 バリスは身震いして顔を上げた。彼の赤ら顔に生じた変化が怖ろしかった。

「気をつけるんだ!」といって、彼は怖ろしい眼差しで私を見た。「君の額には龍の爪痕があり、月老はそのことを知っている。もしも君が愛さなければならな いのなら、男らしく愛するんだ。しまいには、地獄に落とされた魂のように苦しむことになるのだから。彼女の名前は何だったっけ?」

「イゾンデです」私は簡潔に答えた。


 その晩9時、我々は金塊製造団の一員を逮捕した。バリスがどのように罠をしかけたのかは知らない。私が見届けたことは、1分か2分あれば語り尽くせてし まう。

 家から1マイルばかり南にあるカーディナルの道路に我々は陣取った。ピアポントと私は道路の片側におり、シログルミの木の下で拳銃の用意をしていた。バ リスは反対側でウィンチェスター銃を構えていた。

 私がピアポントに時間を訊ね、彼が時計を取り出そうとしたとき、道の彼方から馬が駆けてくる音がした。馬の足音は近づいてきて、轟きながら通り過ぎてい こうとした。そのときバリスのライフルが火を噴き、馬と乗り手は一塊になって地面に倒れ込んだ。半ば硬直している乗り手の襟首をピアポントはただちにひっ つかんだ。馬は即死していた。我々がその人物を調べるために松明に火をつけたとき、バリスの二人の部下が馬を走らせてきて我々の傍らで停止した。

「ふむ!」バリスは顔をしかめていった。「こいつが『密造屋』だ。密造酒の製造者ということだがね」

 我々は興味津々で「密造屋」の周りに群がった。彼は赤毛で、汚らしく太っており、小さな赤い眼を怒った豚の眼のようにぎらぎらさせていた。

 ピアポントがそいつを拘束し、私が松明を持つと、バリスはそいつのポケットを念入りに改めた。密造屋はまるで金鉱だった。ポケットもシャツも靴も帽子 も、しっかりと握りしめて血が流れ出ている汚らしい拳にまで、柔らかく黄色い金塊が詰め込んであった。バリスは狩猟用外套のポケットに「密造金塊」を入 れ、囚人を尋問するために引っ立てていった。彼は数分で戻ってきて、密造屋を監視するよう馬上の部下たちに合図した。太腿にライフルを装備した二人が馬に 乗って暗闇の中にゆっくりと歩み去っていくのを我々は見守った。きつく縛られた密造屋は二人に挟まれ、むっつりと歩いていった。

「密造屋というのは何者なんですか?」ポケットに拳銃を再び収めながらピアポントが訊ねた。

「密造酒の製造業者で、偽金作りで、追いはぎだ」とバリスはいった。「ことによると人を殺しているかもしれん。ドラモンドは彼に会えたら喜ぶことだろう。 奴が私に白状したがらなかったことも、ドラモンドなら白状させられると思うね」

「奴は吐かなかったんですか?」

「一言も。ピアポント、君がこれ以上するべきことは何もない」

「僕がするべきこと? 僕らと一緒に戻らないんですか、バリス?」

「戻らんよ」とバリスはいった。

 我々は暗い道をしばらく黙って歩いた。バリスは何をしようとしているのだろうかと私は訝ったが、ベランダに着くまで彼は一言も喋らなかった。そこで彼は まずピアポントに、それから私に手を差し出して別れの挨拶をした。まるで長旅に出ようとしているかのようだった。

「いつ戻ってきますか?」彼が踵を返して門に歩いていったとき、私は彼に向かって呼びかけた。彼は芝生を歩いて引き返し、再び我々の手を取った。彼の態度 には静かな愛情が感じられた。そのような態度を彼が示せるとは夢想だにしたことがなかった。

「出かけてくる」と彼はいった。「今夜で彼の金塊製造を終わらせるために。晩飯の後で私は独り散歩に出かけたが、君らはその理由を疑いもしなかっただろ う。教えてやろう。金塊製造団のうち4人はもう密かに片づけてある。そいつらは私の部下たちが里程標の下に埋葬した。3人はまだ生きているが、密造屋は逮 捕した。2人目は『イエロー』と呼ばれている。方言だと『ヤラー』だがな。そして3人目は」

「3人目は」ピアポントは興奮して繰り返した。

「3人目は一度も見かけたことがない。だが何者なのかはわかっている。私は知っているんだ。彼が人間の血肉でできているのならば、今夜は彼の血が流れるこ とになる」

 彼が喋っている最中に芝生でかすかな音がして私の注意を引きつけた。馬に乗った男が星明かりに照らされながら、ふわふわした草地を押し黙って進んでく る。彼が近づいてくるとバリスはマッチを擦り、鞍の前輪に死体がくくりつけてあるのが見えた。

「ヤラーです、バリス大佐」その男はそういうと、目深にかぶった帽子に触れて敬礼した。

 この不気味な死体の紹介に私は震え上がり、眼を大きく見開いて体を硬直させている死者を一瞥すると引き下がった。

「確認した」とバリスはいった。「こいつを里程標のところに持っていき、所持品はワシントンに送れ。封印することを忘れるな、ジョンストン」

 その男が不気味な荷物と共に走り去ると、最後にもう一度バリスは我々の手を握った。そして彼は立ち去った。陽気な調子で、冗談を飛ばしていた。ピアポン トと私は踵を返して家に入った。

 1時間ほど我々はホールで座りこみ、暖炉の前でむっつりと煙草を吸っていた。ピアポントがしゃべり出すまで、二人とも何もいわなかった。

「今晩バリスが僕らの片方を連れて行ってくれたらよかったのに!」

 同じ考えが私の胸中を駆けめぐっていたが、私はこういった。「バリスには自分のしていることがわかっているんだよ」

 こんな風に意見を述べてみたところで我々は安心できるわけでもなければ、会話が弾むわけでもなかった。数分後ピアポントはお休みと告げ、ハウレットを呼 んで湯を頼んだ。ピアポントがハウレットに暖かな寝具を整えてもらって寝に行くと、私はランプをひとつ以外すべて消して犬をデイヴィッドに連れて行かせ、 ハウレットを休ませた。

 私は床につく気にはなれなかった。眠れないことがわかっていたからだ。暖炉の傍らにある卓の上には本が広げてあり、私はその本を1ページか2ページ読ん でみたが、心を占めているのは別のことだった。

 ブラインドを上げて、私は窓外の星空を見た。その晩は月が出ていなかったが、空は一面の星空で、月よりも明るい青白い輝きが草原や森を照らしていた。彼 方の森で風の音がした。柔らかく暖かな風で、イゾンデという名をささやいた。

「お聞きなさい」と風の声は嘆息していい、その「お聞きなさい」という声は木の葉を一枚残らずふるわせながら、揺れる木々に木霊した。私は耳を傾けた。

 長い草がコオロギの鳴声で震えるところにも、イゾンデという彼女の名前が聞こえた。さらさらと音を立てるスイカズラでは灰色の蛾が飛び回っていたが、そ こにも彼女の名前が聞こえた。玄関からぽたぽたと滴り落ちる露にも彼女の名前が聞こえた。静かな草原の小川も彼女の名をささやき、波打つ森のせせらぎがそ れを繰り返した。イゾンデ、イゾンデ。ついには大地と天空がことごとく柔らかな震動音で満たされた。イゾンデ、イゾンデ、イゾンデ。

 玄関脇の藪でヨナキツグミが歌っていた。私は忍び足でベランダに出て耳を傾けた。しばらくしてヨナキツグミの歌がまだ始まったが、今度はちょっと離れた ところから聞こえてきた。私は道路に足を踏み出した。さらに遠い森の中で、再びヨナキツグミの声が聞こえた。私はその歌声を辿っていった。ヨナキツグミが 歌っているのはイゾンデのことだとわかったのだ。

 幹線道路を離れ、雑木林の南にあるスウィートファーンの狩場へと続く道まで来たとき、私は躊躇した。だが夜の美しさが私を誘い続けていたし、ヨナキツグ ミの歌声は藪という藪から聞こえてきた。星明かりに照らされて、灌木や草むらや野の花がくっきりと際立っていた。月が出ていなかったので、影がなかったの だ。草原も小川も、木立も清流も、青白い輝きに照らし出されていた。穹窿の惑星は巨大なランプを灯したようで、天から神秘的な光を通して平静に見つめる恒 星は眼のようであった。夜露に濡れたアキノキリンソウに腰まで埋まりながら、私は野原を歩いていった。晩稲のクローバーやカラスムギの荒れ地を通り、真っ 赤な実をつけた野バラやブルーベリーや野生のスモモをくぐり抜けて、とうとう辿り着いたのはワイアー川だった。小川はさらさらと流れ、道は行き止まりだよ と私に警告していた。

 だが私は立ち止まらなかった。夜の空気には睡蓮の香りが立ちこめていたのだ。そして丈の低い木が生えた崖と、その向こうの湿った牧草地を通り過ぎた彼方 には、かすかに銀色の光があった。眠たげな水鳥の声が聞こえた。私は湖に行くことにした。若草が密生しているのと、ムースブッシュに足を取られるのを除け ば、道は開けていた。

 ヨナキツグミの歌は止んでいたが、生き物の道連れが欲しいとは思わなかった。ほっそりとした敏捷な姿が私の行く手をやのように横切った。つややかなミン クだ。私の足音を聞きつけ、影のように逃げていく。屈強なイタチやジャコウネズミも逢引きか狩りをするために急いでいた。

 森の生き物が夜そんなにたくさん活動しているのは見たことがなかった。連中はそんなに急いでどこに行く気なのだろうか、こぞって一方向へと急いでいるの はなぜなのだろうかと私は訝りはじめた。私が通り過ぎる傍らでは、下草の中を野ウサギが跳ねていき、ふさふさした尾を立てたアナウサギがちょこちょこと 走っていった。ブナの二次林に足を踏み入れると、二頭の狐が私の横を音もなく走っていった。もう少し歩くと、藪の中から牝鹿が飛び出してきた。彼女のすぐ 後ろを忍び歩いているのは大山猫で、眼が熾火のように光っていった。

 大山猫は牝鹿にも私にも関心を払わず、北の方へ大股で走り去った。

 大山猫は怯えていた。

「どういうことだ?」私は不思議に思って自問した。火事は起きていなかったし、台風や洪水もなかった。

 もしもバリスがこの道を通っていったのだとして、彼がこの唐突な大脱出の引き金となったのだろうか? あり得ない。たとえ1個連隊が森の中を通過して いったとしても、こんなに大勢の動物が怯えて逃げ出すようなことはほとんど考えられない。

「一体全体」と考えながら私は体の向きを変え、テンが一目散に逃げていくのを見守った。「夜のこんな時間に何が獣たちを驚かせたんだろうか?」

 私は空を見上げた。恒星の穏やかな光を見て気を静め、狭いトウヒ林の中を歩き続けた。その林が続く先は星の湖の縁だった。

 野生のクランベリーとムースブッシュが私の足に絡みつき、露に濡れた枝が私に水をかけた。苔むした丸太と、ふかふかした底深い草むらを踏み越えて、湖畔 の平坦な砂利道へと歩いていくと、鬱蒼と繁ったトウヒの枝が私の顔を引っかいた。

 風は少しもなかったにもかかわらず、湖面には細波が立っており、小石に波が打ち寄せる音が聞こえた。青白い星の輝きに照らされた幾千もの睡蓮が、半ば閉 じた花を天に向けていた。

 ぱしゃぱしゃと岸辺に打ち寄せる波は近づき、高まり、ナイフの刃のように薄く輝いている水の膜が私の肘に這い寄ってきた。私には理解できなかった。湖の 水位が上がっているのだ。しかし雨は降っていない。岸全体に水が押し寄せてきていた。スゲの茂みに波が流れ込む音が聞こえた。私の傍らに生えている雑草は 細波をかぶっていた。睡蓮は小さな波に揺れており、濡れた浮葉はことごとく大波に乗って持ち上がり、沈み、再び持ち上がって、波打つ花で湖全体がほのかに 輝いた。睡蓮から放たれる芳香がいかに甘く濃厚だったことか。

 そして今や水はゆっくりと渦巻いていた。波が岸辺から退き、白い小石が再び現れた。小石の輝きは、溢れそうになっているグラスの泡のようだった。

 水の中から岸辺の暗がりに上がってくる生き物はまったくおらず、太った鮭が押し寄せてくることもなかった。大きな船の余波がどっと押し寄せてきたかのよ うに、岸全体が洗われていた。森の中で豪雨が降って、ワイアー川から流れ込む水の量が増えたのだろうか? それ以外に説明のしようがなかったが、私がワイ アー川を渡ったときには増水の気配がなかった。

 私がそこに寝そべりながら考え込んでいると微風が生じ、持ち上がってきた睡蓮の浮葉で湖面が白くなるのが見えた。私の周りの至る所でハンノキが溜息のよ うな音を立てていた。背後の森が揺れ動いている音が聞こえた。交差した枝が静かにこすれ合い、樹皮と樹皮がぶつかった。梟か何かが暗闇の中から飛んでき て、ちょっと下がってから上がり、再び闇の中に消えていった。湖のずっと向こうから、そのかすかな叫びが聞こえてきた。イゾンデという叫びが。

 その時はじめて私は胸がいっぱいになり、地べたに突っ伏して彼女の名前を呼んだ。私が頭を上げたとき、眼が濡れていた。岸辺から水煙が再び吹き寄せてき たのだ。私の心は激しく動悸がしていた。「二度とない、二度とないんだ」だが私の心は嘘をついていた。ちょうど私が顔を上げて穏やかな星々を見上げたと き、彼女が私のすぐ傍らに静かに立っているのがわかったのだ。イゾンデという彼女の名を、私はたいそう優しく呼んだ。

 彼女は両手を差し出した。

「寂しかった」と彼女はいった。「森の空地に行ったのだけど、森は怯えた動物で一杯で、私はそれが怖かった。森で何が起こっているの? 鹿の群が高台に駆 け上がっていった」

 我々は手に手を取り合って岸辺を歩いていった。我々の話し声は、岩場や浅瀬に波が打ち寄せる音より大きいかどうかといったところだった。

「あの空地の泉で、なぜ一言もいわずに私を置き去りにしたの?」と彼女はいった。

「僕があなたを置き去りにしたですって!」

「置き去りにしたわ。犬と一緒に走っていき、茂みと藪に飛び込んでいった。あなたが怖かった」

「僕はそんな風にあなたを置き去りにしたんですか?」

「ええ、その前に」

「その前に?」

「私にキスしていったけど」

 それから、空地の泉を覗きこんだときのように、我々は一緒に身をかがめ、星々を映している黒い水を覗きこんだ。

「覚えていますか?」と私は訊ねた。

「ええ。ほら、水に銀の星がちりばめられている。そこかしこに白い睡蓮が浮いているし、底の方には星々が。ずっと、ずっと深いところに」

「あなたが手に持っている花は何?」

「白蓮よ」

「月老のことを教えてください。クエン=ユインのジル=エンブのことを」彼女に上を向かせて眼を見ながら、私はささやいた。

「知りたい?」

「はい」

「私が全部あなたのものであるように、私の知識は全部あなたのもの。耳を近づけて。知りたいのは月老のこと? 月老はクエン=ユインのジル=エンブ。月に 住んでいる。とても、とても年寄り。昔、クエン=ユインを支配するようになる前、月老は運命の男女を絹の紐で結び合わせる老人だった。月老の絹紐で結び合 わされたものは誰もその相手から逃れられない。でも月老がクエン=ユインを支配するようになって、すべてが変わった。いま月老は中国のよい精霊を邪道に導 き、その歪められた肉体を材料にして、彼がジンと呼ぶ怪物を作っている。怖ろしい怪物よ。ジンは自分自身の肉体に宿っているだけでなく、幾千ものおぞまし い僕を従えているのだから。ジンの下僕は口のない盲目の生き物で、ジンの動きに合わせて動くの。まるで中国の高官と従僕みたい。下僕たちはジンから離れた ところにいるけど、ジンの一部なの。下僕が傷つくと、ジンは苦痛にのたうち回る。ジンの巨大な体と下僕の生き物が広がっていると、切り離された指が醜悪な 手の周りで蠢いているようで怖ろしい」

「誰に教えてもらったんですか?」

「義父に」

「信じていますか?」

「ええ。ジンの下僕を見たことがあるから」

「どこで、イゾンデ?」

「ここの森で」

「それで、ここにはジンがいると信じているんですね?」

「いるに違いないわ。たぶん湖の中に」

「うわ、ジンは湖に住むんですか?」

「ええ、それと七つの海に。私はここでは怖くない」

「なぜ?」

「だって私はクエン=ユインの象徴を身に着けているから」

「じゃあ僕は安全じゃないわけですね」と私は微笑した。

「あなたなら大丈夫よ。だって私があなたを抱きしめているのだから。ジンのことをもっとお話ししましょうか? ジンが人を死に至らしめようとするとき、 イェースの猟犬が宵闇を衝いて駆けてくる」

「イェースの猟犬というのは何ですか、イゾンデ?」

「イェースの猟犬は頭のない犬。殺された子供たちの霊なの。夜、泣声を上げながら森を駆けていく」

「こんなことを信じているんですか?」

「ええ、だって私は黄蓮を身に着けたのだから」

「黄蓮」

「黄色は信仰の証」

「どこで?」

「イアンで」彼女は力なくいった。

 しばらくして私はいった。「イゾンデ、神がいるということは知っていますか?」

「神というのは嫦娥のことね」

「キリストについて聞いたことはある?」

「いいえ」彼女は穏やかに答えた。

 木々の梢で再び風が吹きはじめた。彼女が私の手をぎゅっと握るのが感じられた。

「イゾンデ」私は再び訊ねた。「魔法使いがいるということは信じますか?」

「ええ、クエン=ユインは魔法使いの集まり。月老は魔法使い」

「魔法を見たことはありますか?」

「ええ、ジンの従僕の生き物を」

「他には?」

「私のお守り、黄金の球、クエン=ユインの象徴。球が変わるところを見たことはある? あの生き物がもがいているのは見た?」

「はい」と私は簡潔に答えて黙り込んだ。理解したことによる突発的な身震いが襲ってきたのだ。バリスもクエン=ユインの魔術師たちのことを厳粛かつ不吉に 語っていた。そして、輝く球体に彫刻された生物が身をよじってのたうつのを私は自分の眼で見たのだ。

「それでも」と私は大声でいった。「神はおわしますが、魔法は名前に過ぎません」

「あら」と呟いて、イゾンデは私に身を寄せた。「イアンではこういわれている。クエン=ユインは実在している。神は名前に過ぎない」

「嘘だ」私は激しくささやいた。

「気をつけて」と彼女は嘆願した。「聞かれているかもしれない。あなたの額に龍の爪痕があることを忘れないで」

「それがどうしたというんです?」と私は訊ねたが、バリスの腕にも白い印があったことを考えていた。

「あら、龍の爪痕がある人は月老に注目されているということを知らないの? 彼には善意があるのかもしれないし、悪意があるのかもしれない。悪意があるの だとしたら、あなたが彼に逆らうということは死を意味するのよ」

「そんなことを信じているんですか!」私は苛立って訊ねた。

「私は知っているの」と彼女は溜息をついた。

「そんなことを誰から教わったんですか? お義父さんですか? 一体全体お義父さんは何者なんですか、中国人でしょう!」

「わからない。義父はあなたには似ていない」

「お義父さんに僕のことを何か話しましたか?」

「父はあなたのことを知っている。いいえ、私は何も話さなかった。ああ、これは何かしら。御覧なさい、紐よ。あなたと私の首に巻き付いている絹紐だわ!」

「どこから出てきたんでしょうか?」仰天して私は訊ねた。

「月老があなたを私に結びつけたに違いない。義父がいっていた通りだわ。月老が私たちを結び合わせるだろうと義父はいっていた」

「バカバカしい」私の口調はほとんど乱暴といってもいいほどだった。私は紐を掴んだが、驚いたことに紐は私の手の中で煙のように溶け去ってしまった。

「この忌々しい手品は何なんだ!」と私は腹を立ててささやいたが、その言葉が発せられるなり私の怒りは消え去った。私は発作的に爪先まで震え上がった。湖 畔の、石を投げれば届きそうなところに、ひとつの人影が佇んでいる。腰の曲がった小柄な老人だ。赤々と燃える熾火から輝く火花が飛んでおり、その熾火を老 人は素手で掴んでいるのだった。熾火の輝きはいや増し、その上方にある髑髏のような顔を照らし出しながら、老人の足許の砂地に赤い火花を飛ばした。だが、 その顔は! 明かりが照らし出している幽鬼のような中国人の顔、そして蛇のような細い眼。熾火が激しく燃え上がるにつれて、その眼は煌めいた。熾火! 熾 火ではなく、黄金の球体だった。宵闇を深紅に染め上げているものはクエン=ユインの象徴だった。

「見て! 見て!」わなわなと震えながらイゾンデは息を呑んだ。「あの人の指の間から昇っていく月を見て! ああ、あの人は義父だわ。そして月を創るもの 月老なんだと思う! 違う! 違う! あの人は私の義父。ああ神様! 義父は月老だったんだわ!」

 恐怖に凍りつきながら私は膝をつき、外套のポケットの中にある拳銃を手探りで掴もうとした。だが、絹のごとき一千の強靱な網目を持つ網のような何かが私 を縛していた。私はもがいたが、網はきつく締めつけてくるばかりだった。網は我々の全身に絡みついて締め上げたので、とうとう我々は抱き合って横たわるし かなかった。手も体も脚も縛られて胸は早鐘を打ち、網にかかった鳩のように喘いでいた。

 そして岸辺に佇む怪人と来たら! 銀色に輝く巨大な月が彼の指の間から泡のように昇っていくのを見たときは何と怖ろしかったことか。月は天高く昇って いって真夜中の空にかかったが、その間にも新たな月が彼の手から昇っていくのだ。そしてもうひとつ、さらにもうひとつ、とうとう空はほとんど月で覆い尽く されてしまい、大地は白い閃光に照らされてダイヤモンドのように輝いた。

 東から強風が吹いてきて、長々とした哀しげな吠え声が我々の耳に届いた。この世のものとは思えぬ吠え声で、我々は心臓が一瞬止まったかと思ったほどだっ た。

「イェースの猟犬よ!」イゾンデはすすり泣いた。「あなたにも聞こえるかしら! 猟犬が森の中を駆け抜けていく! ジンが近くにいるの!」

 そのとき、乾いたスゲの茂みの中に横たわっている我々に、小動物が這っているかのようなガサゴソという音が八方から近づいてきた。湿っぽい刺激臭が大気 を満たした。私にはその臭いがわかった。蜘蛛と蟹に似た生き物が湖から上がってきて私の周りに群がるのが見えた。柔らかく毛深い黄色の体が草むらを這い ずってくる。何百匹もいた。空気を毒しつつ、のたうち回り、口のない盲目の頭をもたげてにじり寄ってくる。寝ぼけ眼の鳥たちは宵闇に戸惑いながら、為す術 もなく怯えて飛んでいった。ウサギは穴蔵から跳びだした。イタチは滑るように走っていき、まるで影が飛んでいるかのようだった。森の動物で残っていたもの も立ち上がり、おぞましい侵略者から逃げ出した。怯えた野ウサギの悲鳴が、足を踏みならす鹿の鼻息が、どさどさと走っていく熊の足音が聞こえた。その間中 ずっと私は息がつまり、毒気に満ちた空気のせいで窒息しそうになっていた。

 私を捉えている絹の罠から抜け出そうともがきながら、私は恐れおののいて魔術師の方を一瞥した。それと同時に、彼が唐突に身を翻すのが見えた。「動く な!」という大声が藪の中から聞こえてきたのだ。

「バリス!」と叫んで、私は苦悶しつつ半ば跳ね起きた。

 魔術師が前方に跳ぶのが見えた。立て続けに銃声が聞こえた。魔術師が波打ち際に倒れ伏すと、バリスは白い閃光の中に飛びこんでいって再び銃を発射した。 一発、二発、三発の弾丸が、彼の足許でもがいている魔術師に撃ちこまれた。

 そのとき、恐るべきことが起きた。黒々とした湖からひとつの影が現れたのだ。名前も形もない塊だった。頭も眼もなく、巨大で、端から端まで大きく口を開 けていた。

 大波がバリスを襲い、彼は倒れた。もうひとつ波が来て、バリスを岸辺の小石の上に打ち上げた。さらなる波が彼を水の中に引き戻した。そして怪物が彼に覆 い被さり、私は意識を失った。

 月老とジンについて私が知っていることは以上だ。科学者や報道関係者は私を嘲笑するかもしれないが、かまわない。なぜなら私は真実を語ったのだから。バ リスは死んでしまった。そしてバリスを殺した怪物は今日なお星の湖に棲んでおり、蜘蛛のような分身がカーディナルの森を徘徊している。動物は逃げ去り、湖 の周りの森からは生き物がいなくなってしまった。いるのは、ジンが湖底で身動きするのに合わせて這い回る分身だけだ。

 バリスの死がいかなる損失であるかドラモンド将軍は知っている。そしてピアポントと私も、自分たちが失ったものが何であるか知っている。バリスが私に手 渡した鍵で引き出しを開けると、中から彼の遺書が見つかった。遺書は紙片に包まれており、次のようにしたためられていた。

「魔術師・月老はここカーディナルの森にいる。私は彼を始末しなければならない。あるいは彼が私を殺すことになるだろう。私の愛した女性は月老が作り上 げ、私に与えたものだ。私は見たのだが、彼は彼女を白蓮の蕾から作り上げたのだ。我々に子供ができると、月老が再び私の前に姿を現し、私の愛する女性をよ こせと命じた。私が拒むと彼は去ったが、その晩のうちに妻と子は私の傍らからいなくなってしまった。妻の枕の上には白蓮の蕾があった。ロイ、君の夢の女性 イゾンデは私の娘なのかもしれない。もしも神が彼女を愛しているのなら、神が君を助けたまいますように。なぜなら月老は神たる嫦娥であるかのごとく与え、 そして奪うからだ。私はこの森を去る前に月老を殺す。さもなければ彼が私を殺すまでだ。フランクリン=バリス」

 バリスがクエン=ユインと月老について考えていたことを世界は今や知っている。李鴻章が黒きキャセイとクエン=ユインの魔神たちのために便宜を図ったこ とを垣間見て、各紙は興奮している。クエン=ユインは動き出したのだ。

 ピアポントと私はカーディナルの森の狩猟用別荘を取り壊した。政府が部隊を派遣して星の湖を浚い、蟹めいた生物を森から一掃するのであれば、我々もすぐ さま参加して指揮を執ろうと身構えた。だが、装備を調えた大軍が必要になることだろう。月老の死体はついぞ見つかっていないのだ。生きているにせよ死んで いるにせよ、私は彼が怖ろしい。彼は生きているのだろうか?

 明くる日の朝、意識を失ったイゾンデと私が湖の岸辺に横たわっているのをピアポントが発見した。砂地には死体の痕跡も血痕もなかったそうだ。月老は湖に 落ちたのかもしれないが、彼は生きているのではないかとイゾンデは懸念している。彼女の住まいの場所はついにわからなかったし、森の空地と泉も二度と見つ からなかった。彼女のそれまでの人生の手がかりとなるものは、メトロポリタン美術館にある黄金の蛇と、クエン=ユインの象徴たる黄金の球体だけだった。だ が球体の色が変わることは二度となかった。

 こうやって私が書いている間にも、デイヴィッドと犬たちは中庭で私を待っている。ピアポントは銃器室で実包を作り、ハウレットは樽からビールを出して私 と彼のジョッキに注いでくれている。イゾンデは私のデスクの上に身を乗り出し、私の腕に手を置く。そして彼女はいうのだ。「それで今日はもう充分だと思わ ない? そんな根も葉もない絵空事をあなたはどうして書けるのかしら?」