仮面

R.W.チェンバース

カミラ 仮面をお取り遊ばせ。
過客 何ですと?
カシルダ お時間ですの。あなた様以外の方はみんな仮装をおやめになっていますわ。
過客 私は仮面など着けておりませんよ。
カミラ (怯えてカシルダに寄り添い)仮面ではない? 仮面ではないわ!
『黄衣の王』第1幕第2場


 私は化学のことは何も知らなかったが、魅惑されて耳を傾けていた。その日の朝ジュヌヴィエーヴがノートルダムから持ってきて水盤に生けた復活祭の白百合 を彼はつまみ上げた。一瞬にして、その液体は水晶のような透明さがなくなった。束の間、百合は乳白色の泡に包まれた。泡が消えると、液体はオパールのよう に乳白光を発していた。橙と深紅のほのかな色が変化しつつ表面で揺らめいた。百合が沈んでいる水盤の底から、純粋な太陽光線のように見えるものが放たれ た。同時に彼は手を水盤に突っ込んで花を取り出した。「危険はないよ」と彼は説明した。「時機を間違えなければね。金色の光線が合図さ」

 彼は百合を私に差し出し、私はそれを手に取った。百合は石化していた。純粋な大理石に変わっていたのだ。

「わかったろう」と彼はいった。「完全無欠な百合の花だ。彫刻家に再現できるものかね?」

 大理石は雪のように白かったが、深いところでは百合の葉脈がうっすらと青みを帯びており、芯のところにはかすかな赤みが残っていた。

「原因は聞かないでくれ」私が不思議がっているのに気づいて、彼は微笑んだ。「葉脈と芯に色がつく理由は全然わからないんだが、色は常につくんだ。昨日、 僕はジュヌヴィエーヴの金魚を一匹試してみた──これさ」

 その魚は大理石の彫刻のように見えた。それを手に持って光にかざすと、石は美しい青みをうっすらと帯びており、オパールの内側でまどろんでいる淡い色の ような薔薇色の光がどこか石の内側から出てくるのだ。私は水盤の中を覗きこんだ。再び水盤の液体は水晶のように澄み切っていた。

「いま触ったらどうなるかな?」と私は聞いてみた。

「わからない」と彼は答えた。「でも、やめておいた方がいい」

「不思議でたまらないことがひとつある」と私はいった。「太陽光線がどこから来るのかということだよ」

「まさしく太陽の光のように見えるね」と彼はいった。「わからない。生き物を浸すと必ず出てくるんだ。もしかすると」微笑みながら彼は言葉を続けた。「も しかすると、生物の生命力が本来の源へと逃れていくときの火花なのかも」

 彼がからかっていることがわかったので、私は彼を腕杖で脅しつけてやったが、彼は笑って話題を変えただけだった。

「昼飯の時までいろよ。もうじきジュヌヴィエーヴがここに帰ってくる」

「彼女が朝のミサに行くときに会ったよ」と私はいった。「君が殺してしまう前のその百合みたいに生き生きとしていて、かわいらしかった」

「僕が殺したと思うのかい?」とボリスは厳粛にいった。

「殺した、保存した、どうやって見分けられる?」

 ボリスは仕事場の一角に腰を下ろした。近くにあるのは制作中の「運命の女神」の群像だった。彼はソファにもたれかかって彫刻刀をくるくる回し、眼を細め て自分の作品を見た。

「ところで」と彼はいった。「あの古くさい型どおりのアリアドネが仕上がったよ。サロン(1)に出展できると思 う。僕は今年はあれにかかりっきりだったんだが、マドンナの成功の後では、あんなものを出展するのが恥ずかしくってね」

 「マドンナ」というのは非常に美しい大理石の彫刻で、ジュヌヴィエーヴがそのモデルを務めたのだが、昨年のサロンで大評判になった。私はアリアドネを見 た。それは技巧を凝らした豪華な作品だったが、もっとすばらしいものを芸術界はボリスに期待しているだろうという点で私は彼と意見が一致していた。だが、 私の後ろにある半ば大理石に覆い隠された壮麗で怖ろしい群像の完成をサロンに間に合わせることは考えるだに不可能だった。「運命の女神」のお披露目は延期 しなければならなかった。

 ボリス=イヴァンは私たちの誇りだった。彼が米国生まれであることによって私たちは彼を自分たちの同胞だと主張し、彼も私たちを自分の同胞だと主張した が、彼の父親はフランス人で、母親はロシア人だった。美術学校の人間は誰もが彼のことをボリスと呼んでいたが、彼が同じく親しげに名前を呼ぶ人間は私たち の中には二人しかいなかった。ジャック=スコットと私である。

 もしかすると、私がジュヌヴィエーヴに恋していたことと彼の私への愛情には何か関係があったのかもしれない。その事実が私たちの間で認められたからでは ない。そうではなく、すべてが落ち着くべきところに落ち着き、自分が愛しているのはボリスなのだと彼女が眼に涙を浮かべながら私に打ち明けた後で、私はボ リスの家に行って彼を祝福したのだ。その会見は私たちのどちらにとっても真心のこもったものだったと私はいつも信じていたが、それは少なくとも一方にとっ ては大いなる安らぎだった。彼とジュヌヴィエーヴがその問題について話し合ったとは思わないが、彼にはわかっていたのだ。

 ジュヌヴィエーヴは愛らしかった。彼女の表情の聖母のごとき純粋さはグノーのミサ曲の「サンクトゥス」によって引き起こされたものだったのかもしれな い。しかし「4月の術策」と私たちが呼んでいるものに彼女の雰囲気が変わると、私はいつも嬉しい思いがした。しばしば彼女は4月の日のように移り変わりや すかったのだ。朝はまじめで品位があり、優しかった。昼は笑い上戸で気まぐれだった。夕方はどんな風になるか予測のしようがなかった。私の心の奥深いとこ ろをかき乱す聖母のような平静さよりも、そっちの方が私にはありがたかった。彼が再び口を開いたとき、私はジュヌヴィエーヴのことを夢想していた。

「僕の発見のことをどう思う、アレック?」

「すばらしいと思うよ」

「僕にはこれを使う気はないんだ。自分自身の好奇心を満足させる以外のことにはね。秘密は僕と一緒に墓場へ行くことになるだろう」

「彫刻にとっては相当な打撃になるんじゃないかな? 僕たち画家は写真によって得るものより失うものの方が多いよ」

 ボリスは彫刻刀の端をいじくりながら頷いた。

「この危険な新発見は芸術界を堕落させてしまうだろう。僕は誰にも秘密を打ち明けないことにする」彼はゆっくりと述べた。

 そのような現象について私よりも知識の乏しい人間を見つけ出すのは困難だった。しかし珪素で飽和しているので、そこに落ちた木の葉や枝が一定時間の後に 石化してしまう鉱泉のことを私はもちろん耳にしていた。私は石化の過程をおぼろげながら理解していた。植物性の物質が一原子ずつ珪素に置き換えられてい き、その結果として石の複製ができあがるのだ。このことが私に大きな関心を持たせたことは決してなかったと断言できるし、そのようにして作り出された太古 の化石は私をうんざりさせるものだった。ボリスは嫌悪の代わりに好奇心を覚えて問題を探求し、浸された物質を前代未聞の獰猛さで攻撃して瞬時に数年分の仕 事を成し遂げる溶液にたまたま行き当たったらしかった。今しがた彼が私に語ってくれた奇妙な物語はそうとしか考えられなかった。長いこと沈黙した後で彼は 再び口を開いた。

「自分が発見したもののことを考えると怖ろしいくらいだ。この発見のことを知ったら科学者たちはのぼせ上がるだろうね。とても単純な代物でもあるんだよ。 自ずと明らかになったんだ。その化学式のこととか、金属質の鱗に沈殿した新しい元素のことを考えると」

「何という新しい元素かね?」

「ああ、そいつに名前をつけるなんて考えたこともないし、僕が名前をつけるべきだとも思わないね。喉を切り裂き合う原因になる貴金属は世の中に充分あるん だから」

 私は耳をそばだてた。「金を発見したのかい、ボリス?」

「いや、もっといいものさ──おい、アレック!」彼は笑い声を上げ、さっと立ち上がった。「僕たちがこの世界で必要とするものを君と僕はすべて持ってるん だぜ。ああ! 君は何て邪悪で強欲そうな顔をしてるんだ!」私も笑い、自分は黄金への欲望に取り憑かれているのだと彼にいってやった。何か別のものの話を した方がよかった。そこで、しばらくしてジュヌヴィエーヴが入ってきたとき、私たちは錬金術から話題をそらしていた。

 ジュヌヴィエーヴは頭から爪先まで銀灰色に装っていた。彼女がボリスの方に頬を向けると、金髪の柔らかなカーブに沿って光が煌めいた。それから彼女は私 を見て挨拶に応えた。彼女が白い指の先から私にキスを投げなかったことはそれまで一度もなかったので、私はさっそくキスの省略に不平をいった。彼女は微笑 し、私の手に触れた直後に降ろした手を差し出した。そしてボリスを見て、「お昼を食べていってほしいとアレックにお願いしないと」といった。これも今まで はなかったことだった。今日まで彼女は自分で私に頼むのが常だったのだ。

「そうするよ」とボリスは簡潔にいった。

「イエスとおっしゃってくださるわよね」魅力的な型通りの微笑を顔に浮かべながら彼女は私の方を向いた。私との友情も過去のものになってしまったというこ とかもしれなかった。私は深々と彼女にお辞儀をした。「光栄でございます、マダム(2)」だが、いつものおどけた口調 で喋ろうとはしなかった。彼女は陳腐なもてなしの言葉を小声でいって姿を消した。ボリスと私は互いに顔を見合わせた。

「僕はおいとました方がいいかも。そう思わない?」と私は訊ねた。

「よせよ、そんなこたない!」彼の返事には親愛の念がこもっていた。

 私が立ち去るのが得策かどうかを議論しているうちに、ボンネットを外したジュヌヴィエーヴが戸口のところに再び現れた。彼女はすばらしく美しかったが、 あまりにも顔が紅潮しており、愛らしい眼があまりにも輝いていた。彼女はまっすぐ私の方にやってきて私の腕をとった。「お昼の支度ができたわよ。私って機 嫌が悪いのかしら、アレック? 頭が痛いと思ったんだけど、違ったわ。さあ、ボリス」そして彼女はもう一方の腕をボリスの腕に通した。「アレックにはわ かってるのよ、私が彼と同じくらい好きな人はこの世にあなたしかいないってことが。だから、彼は時たま冷たくされたように感じても傷ついたりはしないわ」

「すてきだ!(3)」と私は叫んだ。「4月に嵐がないなんて誰がいった?」

「用意はいいかい?」とボリスは単調な調子で繰り返した。「ああ、いいとも」そして私たちは腕を組み合って食堂に駆け込み、召使いたちを憤慨させた。何と いっても私たちはそれほど非難されるべきではなかった。ジュヌヴィエーヴは18歳でボリスは23歳、そして私はまだ21歳になっていなかった。


 このころ私はジュヌヴィエーヴの私室の飾りつけという仕事をしていたので、サント=セシル通りの古風で小さなホテルに泊まっていた。その頃のボリスと私 の仕事は大変ではあるものの楽しく、気紛れなものだった。そしてジャック=スコットを入れた3人は一緒にずいぶん遊び回ったものだった。

 ある日の静かな午後、私は一人で屋敷の中をうろつき、骨董品を調べていた。人目につかない片隅を覗きこんだり、一風変わった隠し場所から砂糖菓子や葉巻 を取り出したりして、しまいには浴室に入って足を止めた。そこでは粘土だらけのボリスが手を洗っていた。

 その部屋は薔薇色の大理石で作られていたが、床だけは別で、薔薇色と灰色のモザイクになっていた。中央には正方形のプールがあり、床より低くなってい た。階段でプールの底に降りられるようになっており、彫刻を施した柱が、フレスコ画の描かれた天井を支えていた。楽しげな大理石のキューピッドは、部屋の 上の端にある台座に降り立ったばかりのように見えた。内装はすべてボリスと私の手になるものだった。ボリスはキャンバス地の仕事着を着ており、男性的な 整った手から粘土と赤い型どり用の蝋の跡をこそげ落としていた。そして肩越しに振り向き、キューピッドに話しかけて見せた。

「俺にはわかってるんだぞ。おまえは」と彼は言い張って見せた。「他の表情を見せまいとして、俺の言葉がわからないふりをしてるんだろう。おまえをこしら えたのが誰だか教えてやるよ、小僧!」

 この会話におけるキューピッドの意見を通訳するのは常に私の役目だった。私の番になったので、私は返事をした。その返事を聞いてボリスは私の腕を掴み、 プールのところまで引きずっていくと、溺れさせてやるぞと宣言した。次の瞬間、彼は私の手を放して青くなった。「うわっ!」と彼はいった。「忘れてたよ、 プールはあの溶液でいっぱいなんだ!」

 私は少し身震いし、あの貴重な液体をどこに保管しておいたかは忘れない方がいいと冷淡に助言した。

「一体全体、なぜ君はあのおぞましい液体でこんなところに小さな湖をこさえているんだい?」と私は訊ねた。

「何か大きなもので実験をしてみたいんだ」というのが彼の返事だった。

「たとえば僕ってことか!」

「ああ! そいつは冗談にしちゃ手厳しすぎるな。でも、もっと高度に組織された生命体にあの溶液が作用するところを見てみたいんだ。あの大きな白ウサギ さ」というと、彼は私の後に続いて仕事場に行った。

 絵の具の染みのついた上着を着たジャック=スコットがぶらぶらと入ってきて、自分がつまもうとしている東洋の砂糖菓子を褒め、葉巻を分捕った。そして、 しまいに彼とボリスは連れだって姿を消した。リュクサンブールの画廊に行こうというのだ。そこではロダンの新しい銀の像とモネの風景画がフランスの芸術界 の関心を独占していた。私は仕事場に戻り、仕事を再開した。取り組んでいるのはルネッサンス風の屏風だった。ボリスは私に絵を描いてもらい、ジュヌヴィ エーヴの私室に置こうとしていた。だが、嫌々ながらも絵のモデルを務めてくれている幼い少年が今日はどんなになだめすかしてもおとなしくならなかった。少 年は片時たりともじっとしておらず、5分も経つと私は腕白小僧のありとあらゆるポーズを見尽くしてしまった。

「君はポーズをとってくれてるの、それとも歌ったり踊ったりしてるわけ?」と私は問いただした。

「旦那様のお好きなようにするよ」天使のような笑みを顔に浮かべて少年は答えた。

 もちろん私はその日は彼をお払い箱にした。いうまでもなく、報酬はきっちりと支払った。私たちはそんな風にモデルを甘やかしているのだった。

 小悪魔が行ってしまった後で私はいくらか機械的に仕事をした。だが、およそ気が向いていなかったので、自分のしでかしたへまを修復するのに午後の残りを すっかり費やさなければならなかった。しまいに私はパレットから絵の具を落とし、黒石鹸の鉢に絵筆を突っ込んで喫煙室に行った。ジュヌヴィエーヴの部屋を 別にすれば、この部屋ほど煙草の匂いがしない部屋は屋敷の中になかったはずだと思う。その部屋には古ぼけた壁掛けがかかっており、がらくたが奇天烈な混沌 となっていた。窓際にあるのは甘美な音色の古いスピネットで、手入れが行き届いていた。武具を立てる台があった。ある武具は古く鈍っており、あるものは新 しく輝いていた。マントルの上にあるのはインディアンの花綱とトルコの鎧だった。見事な絵が2枚か3枚あり、それからパイプ立てがあった。煙草を吸うとき の新しい感覚を求めて、私たちはここにやってくるのだ。そのパイプ立てに集められていない型のパイプなど未だかつて存在したかどうか、私は疑わしく思う。 私たちはパイプを一本選ぶと、それをすぐ他のところに持っていって喫煙するのだった。その場所は概して屋敷のどこよりも薄暗く、魅力に欠けていたからだ。 だが、この日の午後は黄昏の光が人を癒すかのようで、床に敷いてある絨毯や毛皮は茶色く柔らかに眠気を誘うようだった。私は自分のパイプを見つけ、そこで 紫煙をくゆらした。喫煙室にはなじみのない煙だった。私が選んだのは長いしなやかな柄のついたパイプで、それに火をつけると私は夢想にふけった。しばらく してパイプの火が消えたが、私は身動きしなかった。私は夢想を続け、やがて眠りに落ちた。

 音楽が聞こえて、私は目が覚めた。これまで聞いたことがないほど物悲しい曲だった。部屋は真っ暗で、何時なのか見当もつかなかった。月の光が古いスピ ネットの一端を銀色に照らし、白檀の箱が芳香を漂わせるように、磨き上げられた木が音を放っていた。誰かが闇の中で立ち上がり、静かにすすり泣きながら離 れた。私は愚かにも叫んだ。「ジュヌヴィエーヴ!」

 私の声を聞くと彼女はばったりと倒れた。明かりをつけて彼女を床から起こそうとしながら、私は自分を罵った。彼女はかすかに苦痛の声を上げながら身をす くめた。彼女はとてもおとなしく、ボリスをつれてきてほしいと頼んだ。私は彼女をソファーに運び、ボリスを探しに行ったが、彼は屋敷の中にはいなかった。 召使いたちはもう寝た後だった。困惑して不安を覚えながら、私は急ぎ足でジュヌヴィエーヴのところに戻った。私が寝かせたところに彼女は横たわっていた。 顔色がとても白かった。

「ボリスはいなかった。召使いも見つけられなかったよ」と私はいった。

「わかってるわ」と彼女は弱々しく返事をした。「ボリスはスコットさんと一緒にエプト川に行ったの。ついさっき、彼を連れてきてほしいとあなたにお願いし たときは、そのことを忘れていたのよ」

「でも、それじゃ彼は明日の午後まで戻ってこないな──痛いかい? 君を転ばせちゃうほど怖がらせちゃったのかな? 僕は何てバカ野郎なんだ、でも寝ぼけ てたんだよ」

「あなたは晩御飯の前に帰っちゃったものとボリスは思ったの。ずっとあなたをここに放っておいて、ごめんなさい」

「長いこと眠ってたんだよ」私は笑った。「あんまりぐっすりと眠っていたもんだから、僕に近づいてくる人を見たとき、自分がまだ眠っているのかどうかわか らなくて君の名前を呼んだんだ。あの古いスピネットを弾こうとしていたの? すごく静かに弾いていたに違いないね」

 彼女の顔に安堵の表情が浮かぶのを見るためなら、それよりひどい嘘を千もついたことだろう。彼女はほれぼれするような笑顔になり、いつもの声でいった。 「アレック、あの狼の頭につまずいちゃったわ。足首を捻挫したみたい。おうちに帰る前にマリーを呼んでちょうだい」

 私は頼まれた通りにし、メイドがやってきたとき、彼女をそこに残して部屋を出た。


 次の日の午後に私が訪問すると、ボリスは仕事場をしきりに歩き回っていた。

「ジュヌヴィエーヴは眠ってるよ」と彼は私にいった。「捻挫はどうってことないが、何だって彼女はあんなに高熱を出してるんだ? 医者にも理由がわからな いんだ。さもなければ理由を教えてくれないんだ」と彼はぶつぶつ言った。

「ジュヌヴィエーヴは熱があるのかい?」と私は訊ねた。

「そういうべきだろうな。時たま頭がふらふらする状態が現に一晩中続いたんだ。ひどいよな、かわいい陽気なジュヌヴィエーヴが、世の中に悩み事なんてない 彼女が──心が壊れてしまったと彼女は言い続けている。死にたがってるんだ」

 私自身の心臓も鼓動が止まった。

 ボリスは仕事場のドアにもたれかかり、ポケットに手を突っ込んでうつむいていた。優しいながらも鋭い眼は曇り、悩み事を示す新しい線が「笑みを作る口の 見事な特徴の上に」(訳注──この言葉はロバート=ブラウニングの「アンドレア=デル=サルト」からの引用)できていた。ジュヌヴィエーヴが眼を開けたら すぐにボリスを呼ぶようメイドは言いつけられていた。私たちはひたすら待った。型取り用の蝋や赤い粘土をいじくりながら、ボリスはますます落ちつきなく歩 き回るようになった。やにわに彼は隣の部屋に駆け込んだ。「来て、死でいっぱいの薔薇色の湯船を見てくれ」と彼は叫んだ。

「それは死なのかい?」彼に調子を合わせて、私は訊ねた。

「生と呼ぶわけにはいかないだろう」と彼は応えた。喋りながら彼は独りぼっちの金魚を掴んだ。金魚はもがいて金魚鉢から飛び出した。「今度はこいつを送り 出すことにしよう──そこがどこであろうと」と彼はいった。熱に浮かされているような興奮した声だった。私は彼の後についてプールのところに行った。熱が あるかのように手足と頭がだるく重たかった。液体は水晶のように透明だったが、プールの側面は薄く桃色に染まっていた。彼は金魚を落とした。落ちていきな がら金魚は激しく体をよじり、鱗がまばゆく橙色に輝いた。液体の表面に触れたとたんに金魚は硬直し、重々しく底へと沈んでいった。乳白色の泡が生じ、液体 の表面は目もあやな色合いになった。無限とも思える深みから、純粋にして晴朗な光芒が発した。ボリスは手を突っ込み、きわめて美しい大理石の物体を取り出 した。それは青い縞があり、薔薇色にうっすらと色づいており、オパールのように乳白光を発するしずくで光っていた。

「子供の遊びさ」と呟いて、彼は私を見た。疲れた様子で、何かを切望しているようだった。そのような質問に私が答えられるかのようだった。だがジャック= スコットが入ってきて、彼が「ゲーム」と呼んでいるものに加わった。彼は熱心だった。すぐさま白ウサギで実験してみることになった。温かな生き物から命が 失われるところは見るに忍びなかったので、私は中座させてもらった。私は仕事場で腰を下ろし、何か読もうと適当に一冊の本を手に取った。何たること、私は 『黄衣の王』を見つけたのだ。久遠とも思える数分間の後、私はびくびくして震えながら本を押しやった。そのときボリスとジャックが大理石のウサギを持って 入ってきた。同時に階上でベルが鳴り、病室から叫び声が聞こえてきた。ボリスは脱兎の如く駆け出し、次の瞬間「ジャック、医者を呼びにいってくれ。医者を 連れてくるんだ。アレック、こっちに来てくれ」と叫んだ。

 私は行ってドアのところで立ちつくした。怯えたメイドが足早に出てきて、助けを呼ぼうと走り去った。ジュヌヴィエーヴはまっすぐ座っていた。頬が紅潮 し、眼が輝いていた。訳のわからないことをひっきりなしに口走り、ボリスが優しく抱きしめるのを振りほどこうとしていた。彼は助けを求めて私を呼んだ。私 が触るなり彼女は溜息をつき、ぐったりと寝台に横たわって眼を閉じた。そして──ボリスの顔をまっすぐ見つめて、熱に浮かされた哀れな娘は自分の秘密を 語った。ある瞬間に、私たち3人の人生は新しい方向へと転じた。たいそう長いこと私たちを結び合わせていた絆が断ち切られ、それに代わって新しい絆が形成 された。なぜなら彼女が私の名前を口にしたからだ。そして熱が彼女を苛んでいるとき、彼女の心は秘められた悲しみという重荷を吐き出したのだった。私の耳 では血流が渦巻き、がんがんと鳴ったので、私は頭がぼうっとなった。私も身動きすることも喋ることもできず、熱に浮かされた彼女が恥じらいと悲しみに苛ま れながら話すのを聞いていた。私には彼女を黙らせることも、ボリスの方を見ることもできなかった。そのとき、自分の肩に手が置かれるのを私は感じた。血の 気の失せた顔をボリスが私の方に向けたのだ。

「君のせいじゃないよ、アレック。彼女が君を愛しているからといって、そんなに悲しむことはない」だが彼は最後まで喋ることができなかった。そして、医者 が部屋の中に駆け込んできて「ああ、発熱ですね!」といったとき、私はジャック=スコットを捕まえ、急ぎ足で通りに連れて行って「ボリスは一人きりになり たがってるんだ」といった。私たちは通りを渡り、自分たちの住んでいるアパートに行った。その晩、私の気分があまりにもよくないのを見て取ると、彼は再び 医者を呼びにいった。「一体全体、先生、どうして彼はあんな顔になるほど苦しんでいるんでしょうか?」とジャック=スコットがいうのが聞こえたが、少しで も明瞭に思い出せるのはそれが最後だった。そして私は『黄衣の王』と蒼白の仮面のことを考えた。

 私はひどく具合が悪かった。「あなたが好きよ、でも私が一番愛してるのはボリスだと思う」とジュヌヴィエーヴがささやいた運命的な5月の朝から2年間に わたって堪え忍んできた桎梏のために、とうとう参ってしまったのだ。それが耐えがたいものになるなど夢想だにしたことがなかった。表向きは平静だったが、 私は思い違いをしていたのだ。心の中では夜な夜な苦闘が繰り広げられ、私は自分の部屋で独り横たわりながら、ボリスに対して不誠実でジュヌヴィエーヴにふ さわしくない不埒な考えを抱いている自分を責めていた。それでも朝になれば常に安らかな気持ちとなり、夜の嵐によって洗い清められた心でジュヌヴィエーヴ と親友ボリスのところに戻ることができた。

 二人と一緒にいるとき、私は言葉にも行いにも考えにも自分の悲しみをさらけ出さなかった。それどころか、自分自身にさえ打ち明けなかったのだ。

 もはや自己欺瞞の仮面は私にとって仮面ではなく、私の一部となっていた。夜になると仮面が外れ、その下で抑えられている素顔があらわになる。だが、私以 外に見るものは誰もいなかった。そして朝になると、仮面がひとりでに再びかぶさるのだった。私が病気で寝ているとき、私の千々に乱れた心をそんな考えがよ ぎっていった。だが、それらの考えは絶望的なまでに幻影と絡み合っていた。石のように白く、ボリスの水盤の中を這い回っている生き物の幻影と──絨毯の上 にある狼の頭の幻影と。狼の頭は泡を吹きながらジュヌヴィエーヴに食らいつくが、彼女はその傍らに横たわりながら微笑んでいる。私は黄衣の王のことも考え た。異様な色の襤褸に王は身を包んでいる。そしてカシルダが悲痛な叫び声を上げるのだ。「我らをかまいたもうな、おお王よ、我らをかまいたもうな!」熱に 浮かされて私はその幻影を振り払おうとした。しかし不毛にして空虚で、風や波が乱すこともないハリ湖が私には見えた。そして月の後ろにカルコサの塔がそび えているのが見えた。アルデバラン・ヒアデス・アラル・ハスターが雲の切れ間を通って音もなく動く。その通過のたびに、黄衣の王のスカラップで飾られた襤 褸のように雲がはためくのだ。こういった幻想に混じって、ひとつのまともな考えがずっと存在していた。自分が生きている最大の理由は、ボリスとジュヌヴィ エーヴの望みを多少なりとも叶えてやることだという考えだった。私の錯乱した精神にどんな幻影が登場しようと、それは決して揺らがなかった。この義務感が 何なのか、その本質はついぞ明らかにならなかった。それは時には防壁となり、時には大いなる危機を切り抜ける支えとなってくれるようだった。そのとき、そ れがどのように見えていたとしても、その重みは私にだけかかっており、全身全霊で応えることができないほど私の病状が悪化し力が弱まってしまうということ は決してなかった。たくさんの顔が私を取り巻いていた。ほとんどは見知らぬ顔だったが、知っている顔もいくつかあった。その中にはボリスの顔があった。そ んなことがあったはずはないと後で聞いたが、少なくとも一度は彼が私の上に屈み込んだことを私は知っていた。彼がちょっと触れ、彼の声がぼんやりと反響し て聞こえただけだった。それから雲が再び私の意識を包み込み、私は彼を見失ってしまった。しかし彼はそこに立ち、少なくとも一度は私の上に屈み込んだの だ。

 ある日の朝ついに私が目覚めると、寝台に陽光が射しており、私の傍らでジャック=スコットが読書をしていた。私には大きな声で話せるだけの力がなかった し、考えることもできなかった。覚えていることはずっと少なかったが、ジャックと眼が合ったときに弱々しく微笑むことはできた。そしてジャックが飛び上が るようにして立ち上がり、何か欲しいものはないかと熱心に質問したとき、ささやき声で返事をすることができた。「うん、ボリスを」ジャックは寝台の頭の方 に移動して身をかがめ、枕の位置を直してくれた。彼の声は見えなかったが、心のこもった声で彼が答えるのが聞こえた。「待たなきゃダメだ、アレック。君は とても弱っている。ボリスに会うのだって無理だ」

 私は待ち、力が回復していった。数日で私は誰とでも会えるようになった。だが一方で私は考え、思い出すようになった。一切の過去が私の脳裏で再び鮮明に なった瞬間から、時節が到来したときに自分が何をするべきか私は決して疑わなかった。ボリスに関する限り、彼も同様の解決策をとるだろうという確信があっ た。私一人に関係したことについていえば、私の行為を彼が理解してくれるだろうということがわかっていた。私はもう誰とも会おうとしなかった。なぜ彼らか ら伝言がないのか、私がそこに横たわって待ちながら力を回復させていった1週間に彼らの名前を一度も聞かなかったのはなぜなのか、私は決して訊ねなかっ た。正しい道を探し求めることに、そして絶望に対する弱々しいながらも決然とした戦いに夢中になって、私はただジャックの寡黙さを見習っていた。彼が二人 の話をしたがらないのは、私が二人に会いたがって手がつけられなくなることを懸念しているからだと思っていたのだ。一方で、私たち全員にとって人生が再出 発するのはどんなものだろうかと私は何度も自分に言い聞かせていた。ジュヌヴィエーヴが病気になる前と寸分違わぬ関係を取り戻そう。ボリスと私は互いの眼 を見つめ合い、その眼差しには怨恨も怯懦も不信も存在しない。しばらくの間、私たちは二人の家で再び親しく交際し、それから予告も説明もせずに私は二人の 人生から永遠に姿を消す。ボリスはわかってくれるだろう。ジュヌヴィエーヴは──彼女には決してわからないだろうということが唯一の安らぎだ。熟考してみ たのだが、譫妄状態にあった間もずっと消えなかった使命感の意味と、それに対する唯一の可能な答が見つかったようだった。だから、私はすっかり準備が整っ ていた。ある日ジャックを呼んでいうのだ。「ジャック、すぐボリスに会いたい。それと、ジュヌヴィエーヴによろしく伝えておいてくれ……」

 ボリスとジュヌヴィエーヴは二人とも死んでしまったということをジャックがとうとう私に理解させたとき、私は荒れ狂い、ささやかな病み上がりの力をすっ かり損なってしまった。私はわめき散らし、我が身を呪った挙句に病気がぶり返した。数週間後に私はのろのろと回復したが、自分の青春は永遠に過去のものと なってしまったと信じている21歳の青年になっていた。もう私は苦しみという苦しみを味わい尽くしてしまったようだった。ある日ジャックが私に一通の手紙 とボリスの家の手紙を手渡したとき、私は怯まずに受け取り、何もかも話してほしいと彼に頼んだ。彼に頼むのは酷なことだったかもしれないが、そうする以外 になかった。彼は疲れた様子で自分の薄い両手に顔を埋め、決して癒えることのない傷口を再び開こうとした。彼は静かに語りはじめた。

「アレック、僕が何も知らないということがわからない限り、君は僕以上には事件のことを説明できるようにならないだろう。細々とした事柄は聞きたくないん じゃないかと思うが、君は聞かなきゃいけない。そうでなかったら僕は話をしない。僕が話したくないと思っているのかどうかは誰にもわからんよ。多くは語る まい。

「僕が君の世話を医者に任せてボリスのところに戻った日、彼は『運命の女神』を制作中だった。ジュヌヴィエーヴは薬を投与されて眠っているという話だっ た。完全に正気を失っていたそうだ。彼はそれ以上は何もいわずに仕事を続け、僕は彼を見守った。やがて、群像の3番目の像が──まっすぐ前を向いて世の中 を見渡しているやつがボリスの顔をしていることがわかった。以前はそんな風には見えなかったわけだが、その時からは最後までそう見えたんだ。このことを説 明したいと思っているんだが、絶対に無理だろうな。

「ああ、彼は仕事をし、僕は黙って彼を見守った。真夜中近くになるまで、そんな調子で続けたんだ。その時ドアが開き、急に急に閉まるのが聞こえた。隣の部 屋で足早に突進する音がした。ボリスは大急ぎでドアを通り抜けていき、僕も後に続いた。でも遅すぎた。彼女はプールの底に横たわっていた。胸の上で両手を 組んでいたよ。それからボリスが銃で心臓を撃ち抜いて自殺したんだ」ジャックは話すのを止めた。汗の滴が眼の下にたまり、薄い頬が痙攣していた。「僕はボ リスを彼の部屋に運んでから水道の栓を全開にし、大理石を徹底的に洗った。とうとう、僕が勇気を振り絞ってプールの階段を下りると、雪のように白い彼女が そこに横たわっていた。しまいに、何をするのが一番いいか決まると、僕は実験室に行き、まず水盤の溶液を下水に流して水盤を空にした。その後で壺や瓶の中 身をみんな捨てた。暖炉の中に薪があったので火をたき、ボリスのキャビネットの鍵を壊して、そこにあった論文やノートや手紙をすべて焼き捨てた。仕事場か ら木槌を持ってきて、空っぽになった瓶をすべて粉々にし、破片は石炭入れに放り込んだ。そいつを地下室に持っていき、赤々と燃えている炉床の上に放り出し た。6往復したら、ボリスが発見した化学式を探す上で再び参考になりそうなものはとうとう跡形もなくなった。それで、ついに僕は医者を呼んだんだ。医者は いい人だったよ。僕らは二人で事件を公衆の眼に触れさせまいと奮闘した。彼がいなかったら、やり遂げられなかったろうね。最後に僕たちは召使いに給料を支 払って国に帰した。国ではロジャーじいさんが彼らに口封じをし、ボリスとジュヌヴィエーヴは遠国へ旅行に行ったのだという作り話をしている。そこから二人 は何年も帰ってこないだろうということになっているんだ。セーブルにある小さな墓地に僕らはボリスを埋葬した。医者はいいやつで、個人を哀れむべき時を 知っていた。彼は心臓病の死亡証明書をくれ、僕には何も訊ねなかった」

 両手に埋めていた顔を上げて、彼はいった。「手紙を開封しな。僕ら二人に宛てたものだ」

 私は開封した。それはボリスの遺言状で、日付は1年前のものだった。彼は一切をジュヌヴィエーヴに残していた。彼女が子供を残さずに死亡した場合は、サ ント=セシル通りの家は私が管理し、エプトの方はジャック=スコットに任されるということになっていた。私たちが死亡したら、ロシアにいる母方の一族に遺 産が譲られる。ただし、彼自身が制作した大理石の彫刻は例外で、私が相続することになっていた。

 私たちが読んでいると、遺書のページがぼやけて見えた。ジャックは立ち上がって窓のところに行った。やがて彼は戻ってきて再び腰を下ろした。彼がいおう としていることを聞くのを私は怖れたが、彼は口を開いた。同じように簡潔で優しい口調だった。

「大理石の間にある聖母像の前にジュヌヴィエーヴを安置してある。あのマドンナは思いやり深く彼女の上に身をかがめ、彼女を除いてあり得なかっただろう穏 やかな顔に向かってジュヌヴィエーヴは微笑み返している」

 彼の声が途切れた。しかし彼は私の手を握っていった。「勇気を出すんだ、アレック」翌朝、彼は自分の義務を果たすためにエプトへ向かった。


 同じ日の夕方、私は鍵を持ち、慣れ親しんだ家に行った。すべて整頓されていたが、静けさは怖ろしいほどだった。私は大理石の間のドアのところに二度行っ たが、部屋の中に踏みこむことはできなかった。その行為は私の力では無理だった。私は喫煙室に行き、スピネットの前に座った。小さなレースのハンカチが鍵 盤の上に置いてあった。私は顔を背けて咽んだ。自分がいたたまれなくなっているのは明らかだったので、私はすべての窓とドアに鍵をかけた。そして表門と裏 門を閉ざし、出て行った。翌朝アルシードが私の旅行用の手提げ鞄に荷物を詰めてくれた。私はアパートの管理を彼に任せ、コンスタンティノープル行きのオリ エント急行に乗った。2年間、私は東洋を放浪していた。初めのうちは手紙でジュヌヴィエーヴやボリスに言及することもなかったが、徐々に二人の名前が出る ようになった。とりわけ、私の手紙に対してジャックから来た返事に書いてあった一節のことをよく覚えている。

「病気で寝ている間にボリスが君の上に屈み込むのを見て、彼が君に触れるのを感じ、彼の声を聞いたという君の話はもちろん僕を悩ませている。君の話にあっ た出来事は、彼の死後2週間経ってから起きたに違いないんだ。君は夢を見ていたのであり、その出来事は譫妄の一部だと僕は自分に言い聞かせているのだが、 その説明では納得できない。そして君も納得しないだろう」

 2年目の終わり近くになって、インドにいる私のもとにジャックから一通の手紙が届いた。彼について私が知っていることとはあまりにも異なった内容だった ので、私はすぐパリに帰ることにした。彼は次のように書いていた。「僕は元気だ。芸術家たちがやるように自分の絵をすべて売り物にしている。金には困って いない。自分のことでは何も心配していないが、そうする以上に落ち着かないんだ。君のことが妙に気がかりで仕方ない。心配なわけではなく、むしろ息詰まる ような期待感があるんだが、何を期待しているのかは皆目わからない。おかげでへとへとだということしかできない。僕は夜な夜な君とボリスの夢を見ている。 その後のことは何も思い出せないが、朝になって目が覚めると心臓が早鐘を打っている。日中はずっと興奮が高まりっぱなしで、そのまま夜になって眠ると、同 じ体験が繰り返されるんだ。本当に疲労困憊しているよ。この病的な状態を打開することに決めた。僕は君に会わなくちゃならない。僕がボンベイに行こうか、 それとも君がパリに来てくれるかい?」

 私は彼に電報を打ち、次の汽船で帰ると伝えた。

 再会したとき、彼はほとんど変わっていないと私は思った。私の方はといえば、すばらしく健康そうに見えると彼は主張した。彼の声をまた聞けて嬉しかっ た。二人で座って人生の話をしていると、輝かしい春の陽気の中で生きているのは喜ばしいことだという気がしてきた。

 私たちは一緒に1週間パリに滞在し、それから私は彼と共に1週間エプトに行ったが、私たちがまず訪れたのはボリスが埋葬されているセーブルの墓地だっ た。

「ボリスの小さな墓に『運命の女神』を安置しようか?」とジャックは訊ね、私は答えた。「ボリスの墓を見守るべきものは『マドンナ』だけだと思う」

 しかし私が来てもジャックは一向によくならなかった。至極ぼんやりした概要ですら耐えがたいものとなっている夢が続き、期待感のせいで窒息しそうになる ことがあると彼はいった。

「僕が百害あって一利なしの存在だということがわかったろう」と私はいった。「僕抜きで生活を変えてみたまえ」そこで彼は独りでチャネル諸島への旅に出か け、私はパリに戻った。私は帰ってきてから、今や自分のものとなったボリスの屋敷にまだ上がっていなかった。だが、やらなければならないことだとわかって いた。屋敷はジャックが管理してくれていた。そこには召使いたちがいたので、私は自分のアパートを引き払い、そこに引っ越した。怖れていた動揺の代わり に、私はそこで心安らかに絵を描くことができた。私はすべての部屋を訪れた──だが、ひとつだけ例外があった。ジュヌヴィエーヴが横たわっている大理石の 間に立ち入ることはできなかった。それでも、彼女の傍らに跪いて彼女の顔を見上げたいという願いが日増しに強まっていくのを感じた。

 ある4月の午後、私は喫煙室で寝転がり、ちょうど2年前と同じように夢想にふけっていた。私は機械的に黄褐色の東洋の絨毯を眺め、狼の頭を探した。そし てジュヌヴィエーヴが狼の頭の傍らに横たわっていた自分の夢のことを考えた。すり切れた壁掛けには相変わらず兜がかかっており、その中には古いスペインの モリオン(4)があった。私たちが年代物の鎧に見惚れていたとき、ジュヌヴィエーヴがそのモリオンをかぶって見せたこ とがあるのを覚えている。私はスピネットの方に眼を向けた。黄ばんだ鍵はことごとく彼女の優しい運指を雄弁に物語っているかのようだった。私は立ち上が り、生涯の情熱の力によって、大理石の間の封印された扉へと引き寄せられていった。震える手で私が押すと、重たい扉は内側に開いた。窓から日が射し込み、 キューピッドの翼を金色に染めていた。またマドンナの顔を後光のように照らしていた。聖母の優しい顔は憐れみ深く大理石の像の上に屈んでいた。像は非常に 美しく純粋だったので、私は我知らず跪いて溜息をついた。ジュヌヴィエーヴはマドンナの影の中に横たわっていたが、それでも彼女の白い腕は青白い静脈が透 けて見えた。そっと組まれた両手の下ではドレスのひだが薔薇色に染まっており、あたかも彼女の胸の内側でほのかな暖かい光が放たれているかのようだった。

 胸が破れそうになりながら私は身をかがめて大理石の着物のひだに口づけし、そして静まりかえった屋敷の中によろよろと戻っていった。

 メイドが手紙を持ってきた。私は小さな温室に腰を下ろして手紙を読もうとした。だが手紙の封を切ろうとしたとき、メイドが立ち去ろうとしないことに気づ いたので、何が望みかと彼女に訊ねた。

 彼女は口ごもりながら喋った。話題は屋敷の中で捕まった白ウサギのことで、どうしたらいいでしょうかと彼女は訊ねた。塀で囲われた裏庭に放してやりなさ いと答えて、私は手紙を開封した。それはジャックからの手紙だったが、あまりにも支離滅裂だったので、彼は正気を失ってしまったに違いないと私は思った。 自分が戻ってくるまで屋敷を立ち去らないでほしいとひたすら私に嘆願しているだけだったのだ。理由は教えられないが、夢を見ているのだと彼はいった──彼 は何も説明してくれなかったが、私はサント=セシルの屋敷から去ってはならないのだと確信していた。

 手紙を読み終えて眼を上げると、同じメイドが戸口のところに立っていた。彼女が持っているガラスの皿の中では2匹の金魚が泳いでいた。「金魚を水槽に戻 してやりなさい。で、君が私の邪魔をする目的を教えてくれ」と私はいった。

 半ば泣き声を押し殺しながら、温室の端にある水槽にメイドは水と金魚を流し込んだ。そして私の方を向き、辞めさせてほしいといった。自分をからかってい る人たちがいる、どう見ても自分を揉め事に巻き込もうという企みだと彼女はいった。大理石のウサギが盗まれ、生きたウサギが屋敷の中に放たれていた。2匹 の美しい大理石の魚がなくなってしまい、ありふれた生きている金魚が食堂の床ではね回っているのが見つかった。私は彼女を安心させ、自分でも調べてみると いって彼女に暇を出した。私は仕事場に行った。そこには私の画布と鋳型がいくつかあるだけで、それ以外にあるものといえば大理石の白百合だけだった。部屋 の向こう側にあるテーブルの上にその白百合が置いてあるのが見えた。私は立腹して大股でテーブルに歩み寄った。しかし私が卓上から取り上げた花はみずみず しくて壊れやすく、あたりを芳香で満たした。

 急に私は理解し、廊下を駆け抜けて大理石の間に行った。ドアが勢いよく開き、陽光が奔流のごとく私の顔に降り注いだ。天上の栄光に包まれて聖母が微笑ん でいた。そしてジュヌヴィエーヴは紅潮した顔を大理石の長椅子からもたげ、眠たげな眼を見開いたのである。


訳注

  1. 毎年パリで開かれる現代美術展覧会。
  2. この言葉は原文ではフランス語。
  3. 同上。
  4. 16〜17世紀に使用された兜。