名誉修理者

R.W.チェンバース

狂人を侮るなかれ。彼らの狂気は我らの狂気よりも長く続く……違いはそれだけだ(1)。

 1920年の終わりに向けて、ウィンスロップ大統領在任中の最後の1カ月に採用された政策を米国政府は達成したも同然だった。国内は明らかに平穏だった。関税・労働問題が解決されたことは誰もが知っていた。ドイツがサモア諸島を占領したことに端を発した同国との戦争は、目に見える傷跡を何も米国に残さなかった。侵略軍はノーフォーク諸島を一時的に占領したが、海軍は連戦連勝し、フォン=ガルテンラウベ将軍の軍隊はニュージャージー州で滑稽にも苦境に立たされたので、国民は喜びに沸き返って占領のことを忘れた。キューバとハワイへの投資は100パーセントの収益を上げていたし、サモアの領土は採炭の拠点として出費に見合うものだった。国防は万全だった。あらゆる港湾都市は要塞化されていた。参謀本部の親心に溢れた監督のもとで陸軍はプロイセン流の機構に基づいて組織され、兵員は30万まで増強された上に100万の地方守備兵がいた。巡洋艦と戦艦から成る戦隊6個が、航行可能な海の六つの基地を巡察し、祖国の海を管理するのに充分適した状態に蒸気機関用の備蓄を保っていた。法廷弁護士を育成するのにロースクールが必要であるのと同様に、外交官を育成するには大学が必要だということを、西海岸出身の紳士たちもついに認めた。したがって、無能な愛国者が海外で我々の代表を務めるということはもはやなくなったのである。国家は繁栄していた。シカゴは二度目の大火によって一時的に麻痺状態になったが、廃墟から復興し、白く荘厳で、1893年に玩具として築かれた白い都(2)よりも美しくなった。至る所で秀逸な建築物が劣悪なものに取って代わり、ニューヨークでさえ突如として品位が切望されるようになって、存在している怖ろしい物事の大部分が駆逐された。街路は拡張され、きちんと舗装された。照明が設置され、樹が植えられた。広場が設計され、高架建築は取り壊されて、代わりに地下道が造られた。長々と連なる石造りの波止場が島を取り囲んでいたが、公園に造り替えられ、それは住民にとって思いがけない幸運だった。国立劇場と国立歌劇場に助成金を支給したことにも報いがあった。米国国立美術アカデミーは欧州の同種の機関にたいそう似たものだった。美術長官の地位を羨むものはいなかった。国立騎馬警官隊の新たな機構のおかげで、森林鳥獣保護長官の仕事はずっと楽だった。フランスおよびイングランドとの最近の条約から得られる利益は上々だった。国家の自己保存の手段として外国生まれのユダヤ人を排除したこと、スアニーに新しく黒人国家を独立させたこと、移民の制限、帰化に関する新法、そして行政府への漸進的な中央集権化はすべて国家の安寧と繁栄に貢献するものだった。政府がインディアン問題を解決し、民族衣装をまとったインディアンの騎兵大隊の斥候が、形骸化した連隊の最後尾に前陸軍長官が付け加えた哀れな機関に取って代わったとき、国民は大きく安堵の溜息をついた。並はずれて巨大な宗教会議の後に偏見と不寛容が葬り去られ、相争う諸宗派を優しさと寛容がひとつにまとめはじめたとき、千年王国が到来したと考えたものが大勢いた。少なくとも新世界には千年王国が訪れたものと考えられた。詰まるところ、新世界というのはそれ自体がひとつの世界なのだ。

 しかし自己保存が第一の原則だった。ドイツ・イタリア・スペイン・ベルギーがアナーキズムと苦闘し、一方カフカスから様子を窺っていたロシアが襲いかかって、それらの国々をひとつずつ束縛しても、米国はふがいなく傍観していなければならなかった。

 ニューヨーク市では1910年の夏に高架鉄道が廃止された。1911年の夏はニューヨーク市民に長く記憶されることになった。その年、ドッジ像が撤去されたのだ。翌年の冬は、自殺禁止法の撤廃を求める煽動で幕を開けた。1920年4月にその成果が現れ、ワシントン広場に最初の官営安死室が開設された。

 その日、私はマディソン街のアーチャー博士の家から下っていった。そこに私がいたのは、ほんの形式でしかなかった。4年前に落馬してからというもの、私は後頭部と首の後ろに痛みを覚えることが時々あったが、ここ数カ月間は痛まなかった。その日、もう君を治療しなくてもよいといいながら博士は私を送り出してくれた。そう告げられたからといって、謝礼に値するものではなかった。全快していることは自分でもわかっていたのだ。それでも私は彼への支払いを惜しまなかった。気になっているのは、彼が最初にしでかした間違いのことだった。私が意識不明で横たわっている歩道から人々が私をすくい上げ、誰かが情け深くも私の馬の頭に銃弾を撃ちこんでやったとき、私はアーチャー博士のところに連れて行かれた。そして私が脳に損傷をおっていると診察した彼は、個人的に経営している精神病院に私を入院させ、そこで私は精神障害の治療を堪え忍ばなければならなかった。私が快復したと彼はついに判断した。そして、常に自分の精神が彼よりも健全とまでは行かなくても、彼と同じくらい健全であったことを私は知っていたが、彼が戯れに称したように「授業料を払って」立ち去った。彼の間違いの仕返しをしてやるつもりだと私は微笑みながら彼に告げた。彼を思う存分笑い、時々は診察を受けに来るようにといった。私はそうした。帳尻を合わせる機会を窺っていたのだが、彼は私に隙を見せなかった。待つことにすると私は彼に告げた。

 幸運なことに、落馬は悪い結果を何も残さなかった。逆に、私の全人格をよい方に変えてくれた。町をぶらつく怠惰な青年から、私は活発で精力的で節度ある人間に変わった。とりわけ──ああ、他のすべてに増して──野心的になった。私の心を悩ませていることはひとつしかなかった。私は自分の不安を笑い飛ばした。それでも、それは私を悩ませていた。

 療養している間に私は『黄衣の王』を買って初めて読んだ。第1幕を読み終えたとき、もう読まない方がいいと思ったことを覚えている。私は歩き出し、本を暖炉の中に放り込んだ。本は暖炉の鉄格子にぶつかり、火に照らされながら炉床に落ちた。第2幕の幕開けとなる言葉をちらりと見たりしなければ、私が『黄衣の王』を読み終えることなどついぞなかったろう。だが私が本を拾い上げようと身をかがめたとき、開いているページに眼が釘付けになった。私は炉床の本をひっつかみながら恐怖のあまり叫び声を上げた。あるいは歓喜の叫びだったのかもしれないが、あまりにも強烈なものだったので私は神経の隅々まで苦痛を覚えた。私は震えながら忍び足で寝室に行き、そこで『黄衣の王』を繰り返し読んだ。そして、未だに私を悩ますことのある恐怖のために泣いたり笑ったり震えたりした。このために私は苦しんでいる。なぜなら私はカルコサを忘れられないから。そこでは黒き星々が天空を飾り、双子の太陽がハリ湖に沈む午後に人間の思念の影が伸びる。そして私の精神は永遠に蒼白の仮面の記憶を堪え忍ぶことになるだろう。神が『黄衣の王』の作者を呪ってくださるよう私は祈った。この美しく途方もない戯曲で作者は世界を呪ったのだから。その簡明なことは怖ろしいほどで、その真実には抗いがたい──今や世界は『黄衣の王』の前に恐れおののいている。パリに届いたばかりの訳書をフランス政府が押収したとき、もちろんロンドンはそれを読みたがった。その本がいかに伝染病のごとく都市から都市へ、大陸から大陸へと広がっていったのかは有名な話だった。こちらでは禁書となり、あちらでは押収され、新聞と教会に弾劾され、もっとも進歩的な文学的アナーキストにさえ非難されたのだ。その書の邪悪なページではいかなる明確な原理も冒涜されていないし、いかなる指針も公表されていないし、いかなる信念も蹂躙されていない。いかなる既知の基準によっても判定できない書物であり、それにもかかわらず『黄衣の王』で至高の芸術が表現されていることは事実として認められていた。人間の本性はその緊張に耐えられず、至純の毒の精華が潜んでいるその言葉を読んで育つこともできないと誰もが感じていた。第1幕が陳腐にして無垢であることにより、後で襲いかかってくる衝撃はますます怖ろしい効果を発揮していた。

 ウースター通りと南5番街の間にあるワシントン広場の南側で最初の官営安死室が開設されたのは1920年4月13日のことだったように記憶している。以前そのブロックにはむさ苦しく古い建物がたくさん建っており、外国人のためにカフェやレストランとして使われていたが、1913年の冬に政府が接収した。フランス料理やイタリア料理の店は取り壊された。メッキをした鉄の柵でブロック全体が取り囲まれ、芝生や花畑や噴水のある愛らしい庭園へと姿を変えた。庭園の中央には小さな白い建物が建っていた。たいそう古典的な様式の建築物で、花々の茂みに取り巻かれていた。6本のイオニア式の柱が屋根を支えており、ひとつだけある扉は青銅製だった。扉の前に立っているのは、目もあやな「運命の女神たち」の大理石像だった。わずか23歳の時のパリで客死した若き米国人彫刻家ボリス=イヴァンの作品である。

 私がユニバーシティー通りを渡って広場に足を踏み入れたとき、除幕式が進行中だった。私は押し黙っている見物人の列を縫いながら進んでいったが、4番通りのところで警察の非常線に阻まれた。安死室の周りの空っぽの広場に合州国槍騎兵の1個連隊が整列していた。ワシントンパークに面して築かれた演壇にはニューヨーク州知事が立っていた。その後ろにいるのは、大ニューヨーク市長・警視総監・州軍司令官・リヴィングストン大佐(米国大統領の軍事補佐官)・ブラウント陸軍大将(ガバナーズ島の警備隊司令官)・ハミルトン陸軍少将(大ニューヨーク市守備隊司令官)・バフビー海軍大将(ノース川の艦隊司令官)・ランスフォード軍医総監・国立自由病院のスタッフ・ニューヨーク州選出のワイス・フランクリン両上院議員・公共事業局長から成る一団だった。演壇は州軍の軽騎兵大隊に取り囲まれていた。

 軍医総監の短い演説に対する返答を知事は終えたところだった。彼が喋るのが聞こえた。「自殺を禁止し、いかなる自己破壊の試みをも罰する法律は撤廃されました。肉体的苦痛および精神的絶望により、自分にとって耐えがたいものとなっている存在を終わらせる人権を政府は認めることにいたしました。そのような人物が共同体の直中から除去されることは共同体の利益になるものだと信じられております。この法案が可決された後も、米国における自殺者の数は増加しておりません。全国のあらゆる市・町・村に安死室を建設することを今や政府は決定したわけでありますが、その意気消沈した隊伍からの日々の落伍者が自己破壊の新たな犠牲者となっている人類の階層が、このように提供された救済を受け入れるかどうかは未知数であります」彼は言葉を切って、白い安死室の方を向いた。通りは静まりかえっていた。「もはや人生の悲しみに耐えられなくなった人間を無痛の死が待っております。もしも死が歓迎すべきものであるならば、その人にはここで死を捜し求めさせてやりましょう」それから、大統領府の軍事補佐官の方にいきなり向き直って、彼はいった。「安死室の運営開始を宣言いたします」そして再び大群衆の方を向くと、彼は朗々たる声で叫んだ。「ニューヨークおよび米国の市民諸君、私は政府を代理して安死室の運営開始を宣言します」

 まじめくさった静けさは、鋭い叫び声の号令によって破られた。軽騎兵大隊は知事の車の後ろに列をなして行進した。槍騎兵は旋回し、5番街に沿って整列して守備隊司令官を待った。彼らの後に騎馬警官隊が続いた。大口を開けて白い大理石の安死室を眺めている群衆を尻目に私は南5番街を渡り、ブリーカー通りまで大通りの西側を歩いた。それから私は右に曲がり、すすけた店の前で立ち止まった。店先には看板が出ていた。

 武具師 ホーバーク

 私は戸口を一瞥した。広間の突き当たりにあるこぢんまりとした店でホーバークが忙しそうにしているのが見えた。彼は顔を上げて私を目にとめ、深みのある愛情のこもった声で叫んだ。「お入りなさい、カステインさん!」私が敷居をまたぐと、娘のコンスタンスが立ち上がって私に挨拶し、かわいらしい手を差し出したが、彼女の顔が失望でさっと赤くなったのがわかった。彼女が心待ちにしていたのはもう一人のカステイン、私の従兄のルイなのだ。困惑している彼女に私はほほえみかけ、彼女が絵皿を手本に刺繍している旗を褒めてやった。ホーバーク老人は座り込み、古びた鎧の摩耗した脛当てに鋲を打っていた。彼の小さなハンマーが立てるカン! カン! という音が、古風で趣のある店内に楽しげに響いていた。やがて彼はハンマーを傍らに置き、小さなレンチをしばらく探し回った。鎖帷子が穏やかにカチャカチャ音を立てるのを聞くと、私は喜びで胸がわくわくした。鋼鉄が鋼鉄をさっと打つ音を、木槌が腿当てを打つ豊かで美しい音を、そして鎖帷子がガチャガチャいう音を聞くのが私は大好きだった。私がホーバークに会いに来るのは、そのためでしかなかった。私は決して彼に個人的な興味を抱こうとしなかった。コンスタンスにも関心がなかったが、彼がルイと相思相愛であるという事実だけは別だった。このことは私の注意を引き、時として私は夜も眠れなかった。しかし万事はうまく行くだろうと私は心の中では知っており、親切な主治医ジョン=アーチャーに対して計画しているのと同様に二人の行く末の手筈を整えてやるつもりだった。しかしながら、金物を打つハンマーの音楽がこれほどまでに強く私を魅了しているのでなかったら、私が彼らをわざわざ訪問することは決してなかっただろう。私は何時間も座りこみ、ひたすら耳を傾けていた。日射しが象眼細工の鋼鉄を煌めかせるとき、それを見て私が覚える感覚はほとんど耐えがたいほど激しいものだった。武具師の老人の動作が陽光を遮るまで私の眼は釘付けになり、ほとんど破綻しそうなほど神経の隅々まで広がる喜びに見開かれるのだった。それから、なおも密かに興奮を覚えながら私は上体を反らし、つや出しのボロ切れが鋲の錆をこするシュッ! シュッ! という音に再び耳を傾けた。

 コンスタンスは膝の上に布を広げて刺繍の仕事をしていたが、時たま手を休め、メトロポリタン美術館から借りてきた絵皿の模様をもっと詳しく調べた。

「この仕事は何のために?」と私は訊ねた。

 ホーバークはメトロポリタン美術館の武具師に任命されていた。メトロポリタン美術館の鎧という宝物に加えて、裕福なアマチュアが所蔵している収集品もいくらか自分の仕事になっているのだと彼は説明してくれた。これは有名な鎧の行方不明になっていた脛当てで、パリのケ=ドルセーの小さな店にあるのを彼の顧客が突き止めたのだ。ホーバークは交渉して脛当てを首尾よく手に入れ、今や鎧は欠けたところがなくなった。ホーバークはハンマーを置き、その鎧の歴史を私のために読んでくれた。それは1450年まで遡るもので、トーマス=ステインブリッジのものになるまで人から人へと転々としてきたのだった。

 彼の実に見事なコレクションが売り払われたとき、ホーバークの顧客は鎧を買い取った。そのときから、失われた脛当てがパリにあることがほとんど偶然にわかるまで、探索が押し進められてきたというわけだ。

「脛当てがまだ存在しているという保証がないのに、そんなに根気よく探したんですか?」と私は問いただした。

「もちろん」と彼は冷静に答えた。

 そのとき、私は初めてホーバークに個人的な興味を覚えた。

「あなたにとっては値打ちものだったんですね」と私は思いきっていった。

「いいや」と返事をして、彼は笑った。「見つけたという喜び、それがわしの褒美ですよ」

「金持ちになろうという野心はないんですか?」微笑みながら私は訊ねた。

「わしの野心は、世界一の武具師になることです」と彼は厳粛に答えた。

 安死室の除幕式を見たかとコンスタンスは私に訊ねた。その日の朝、騎兵隊がブロードウェイを通り過ぎるのに彼女自身も気づき、除幕式を見たいと思ったのだが、父親が旗の仕事を終わらせてほしがったので、頼みに応じて家にいたのだ。

「従兄弟のカステインさんにそこで会われました?」と彼女は訊ねた。柔らかな睫毛がわずかに震えた。

「いや」と私はうっかり返事をした。「ルイの連隊はウェストチェスター郡で演習中だよ」私は立ち上がり、帽子と杖を手に取った。

「上の階に行って、あの気違いにまた会われるのですか?」とホーバーク老人は笑った。「気違い」という言葉を私がどんなに忌み嫌っているかホーバークが知っていたら、私のいるところで彼がその言葉を使うことは金輪際なかっただろう。説明したくない感情が自分の内側で立ち上るのを私は感じた。しかし、私は静かに答えた。

「ちょっと立ち寄って、ワイルドさんにしばらく会っていこうと思うんですよ」

「かわいそうな方」といって、コンスタンスは頭を振った。「何年も独りぼっちで暮らすのって辛いことに違いないわ。貧乏だし、身体も不自由だし、ほとんど気も変になってるし。カステインさん、なるべく頻繁にあの方を訪問して差し上げるなんて、あなたは親切な方ですのね」

「あの人は物騒だと思うね」といって、ホーバークは再びハンマーを使い出した。脛当ての板が金色にチリンチリンと鳴るのに私は耳を傾けた。聞き終えたとき、私は返事をした。

「いいや、物騒な人じゃありませんよ。それに少しも気は変じゃありません。あの人の精神は魔法の小部屋で、あなたや僕がそれを手に入れられるものなら自分の命を何年分も差し出すような宝をあの人はそこから取り出してくるんです」

 ホーバークは笑った。

 私は多少いらいらしながら言葉を続けた。「他の人が誰も知らないような歴史をあの人は知っています。どんなに些細なことでもあの人は調べ上げていますし、あの人の記憶はすごいもので、細々したところまで精確無比です。ああいう人がニューヨークにいることがわかっているんだとしたら、みんな彼を充分に称えることができてないわけですよ」

「ばかげとる!」とホーバークはつぶやき、床に落とした鋲を探した。

「ばかげている」自分の感情を押し殺そうとしながら私は訊ねた。「一般には『皇太子の紋付』として知られているエナメルの鎧の草摺と股当てがペル通りの屋根裏部屋にあって、錆びついた舞台衣装や壊れたストーブや、屑拾いも相手にしないがらくたと一緒くたにされていると彼がいったら、それはばかげたことですかね?」

 ホーバークのハンマーが床に落ちた。彼はそれを拾い上げ、「皇太子の紋付」から草摺と左の股当てがなくなっていることを私がどうして知っているのかと努めて平静に訊ねた。

「知りませんでしたよ。先日ワイルドさんが教えてくれるまでは。ペル通り998番地の屋根裏部屋にあると彼はいっています」

「ばかげとる!」と彼は叫んだ。だが、革のエプロンの下で彼の手が震えていることに私は気づいた。

「じゃあ、これもばかげたことかな?」と私は楽しげに訊ねた。「常日頃ワイルドさんがあなたのことをエヴォンシャー侯爵と呼んでいて、コンスタンスさんは──」

 私は最後までいわなかった。コンスタンスがさっと立ち上がったからだ。彼女の表情の至る所に恐怖が表れていた。ホーバークは私を見て、ゆっくりと革のエプロンのしわを伸ばした。「ありえんことだ」と彼はいった。「ワイルドさんは随分たくさんのことを知っとるようだが──」

「たとえば鎧のことを。それから『皇太子の紋付』のことを」微笑みながら私は口を挟んだ。

「ああ」彼はゆっくりと言葉を続けた。「鎧のことも──たぶん──だがエヴォンシャー侯爵のことは間違っとる。御存じのように、自分の奥さんを侮辱した男を侯爵が殺したのは何年も前のことです。それから侯爵はオーストラリアに行き、奥さんよりも大して長生きはしなかったのですからな」

「ワイルドさんは間違ってるわ」とコンスタンスは呟いた。彼女の唇は青ざめていたが、声は甘美で平静なものだった。

「よろしかったら、この場合はワイルドさんが間違っているということにしておきましょう」と私はいった。


 私は荒れ果てた階段を4階まで上った。その階段は前に何度も上ったことがあった。廊下の突き当たりにある小さなドアを私はノックした。ワイルド氏がドアを開け、私は部屋に入った。

 ドアに二重に鍵をかけ、重い箪笥をあてがうと、彼は私の傍らにやってきて座り、色の薄い小さな眼で私の顔を見上げて覗きこんだ。半ダースの新しい引っかき傷が彼の鼻と頬を覆っており、人工の耳を固定している銀色の針金は位置がずれていた。彼がそれほど怖ろしくも魅力的に見えたことはないと私は思った。彼には耳がなかった。人工の耳は、今は細い針金から一定の角度でずれていたが、彼の欠点だった。それは蝋製で、帯褐赤黄色に塗られていた。しかし彼の顔の残りは黄色かった。左手の人工の指はもっと贅を尽くしたものだったかもしれない。彼の左手には指がまったくなかったが、彼はそのことに不便を感じていないようだったし、人工の耳に満足していた。彼は非常に小柄で、10歳の子供とほとんど同じ背丈だった。だが彼の腕は著しく発達しており、太腿は陸上選手のように逞しかった。だがワイルド氏のことでもっとも特筆に値するのは、彼のような知性と知識の持ち主がそんな頭を備えていなければならないということだった。彼の頭は平べったく尖っており、精神薄弱だという理由で精神病院に入れられてしまう大勢の不幸な人々の頭のようだった。彼のことを狂人だという人間は大勢いたが、彼が私と同様に正気であることを私は知っていた。

 彼が奇矯な人物であったことは否定しない。猫を飼い、その猫が魔神のごとく自分の顔に飛びかかってくるまでいじめる彼の性癖は確かに奇矯なものだった。なぜ彼がその生き物を飼っているのか、その無愛想で物騒な獣と一緒に部屋の中に閉じこもっていて何が楽しいのか、私にはついぞ理解できなかった。一度、獣脂の蝋燭の明かりで読んでいた手稿から顔を上げ、丈の高い子供用の椅子の上にじっとしゃがみ込んでいたワイルド氏の方を見たときのことを私は覚えている。彼の眼は興奮のために爛々と輝いていた。一方、猫は暖炉の前の定位置から起きあがったところだったが、彼に向かってまっしぐらに這ってきた。私が行動を起こす前に、猫は地面に腹這いになってうずくまり、身震いするなり彼の顔に飛びかかった。わめき声を上げて怒り狂いながら彼らは床の上を転げ回り、かきむしったり引っかいたりした。ワイルド氏は仰向けになった。彼の四肢は瀕死の蜘蛛の脚のように縮こまっていた。彼は奇矯な人だった。

 ワイルド氏は子供用の椅子によじ登り、私の顔をじっと見てから、ページの角の折れ曲がった元帳を手にとって開いた。

「ヘンリー=B=マシューズ」と彼は読み上げた。「教会用の装飾品を販売しているワイソット=ワイソット&カンパニーの簿記係。4月3日に訪問。競馬場のことで名誉を損傷。払戻金を持ち逃げしたとされる。8月1日に名誉を修理。修理費は5ドル」彼はページをめくり、びっしりと書かれた言葉の縦の列に、指のない拳を上から下へと走らせた。

「P=グリーン=デュッセンベリー、ニュージャージー州フェアビーチの福音伝道師。バワリー通りにて名誉を損傷。可能な限り早めに修理するべし。修理費は100ドル」

 彼は咳き込んで付け加えた。「4月6日に訪問」

「お金は必要ないわけですね、ワイルドさん」と私は訊ねた。

「聞きたまえ」──彼は再び咳き込んだ。

「ニューヨーク市チェスターパークのC=ハミルトン=チェスター夫人、4月7日に訪問。フランスのディエップにて名誉を損傷。10月1日までに修理すること。修理費は500ドル」

「註──C=ハミルトン=チェスターは米艦〈アヴァランチ〉の艦長。10月1日に南洋戦隊より帰国せよとの指令を受けている」

「うーん」と私はいった。「名誉修理者という商売は儲かりますね」

 色の薄い彼の眼が私の眼を見た。「自分が正しいということを立証したいだけだよ。名誉修理者として成功するのは不可能だと君はいったな。たまに成功することがあったとしても、私は報酬以上の支出を余儀なくされるだろうと。今日、私は500人の人間を雇っている。薄給だが、熱心に仕事をしてくれているよ。ことによると、その熱意は恐怖から生じるものなのかもしれんな。連中は社会のあらゆる陰と階級に入りこんでいる。もっとも閉鎖的な社会の殿堂で中心人物となっているものさえいるのだ。他のものは金融界の支柱にして自慢の種となっている。さらに他のものは『奇想と才能』の世界で確固たる地歩を占めている。私の広告に応募してきた連中の中から暇なときに選んだのが彼らだ。まったくもって簡単なことだったよ──彼らは臆病者だからな。私がその気になれば、20日以内に手下の数を3倍に増やせる。だから、同胞たる市民たちの名誉を預かっている連中は私が密かに雇っているというわけだよ」

「彼らはあなたに背くかも」と私はいってみた。

 彼は親指で人工の耳をこすり、蝋製の代用品の位置を直した。「背くことはないだろう」と彼は考え深げに呟いた。「罰を与えなければならないことは滅多にないし、その時でも一回きりだ。それに連中は自分たちの報酬に満足している」

「どんな罰を与えるのですか?」と私は問いただした。

 束の間、彼の顔は見るも怖ろしいほどだった。彼の眼は徐々に細くなり、二つの緑色の煌めきとなった。

「彼らを招待し、少し会話をするのだ」と彼は穏やかな声でいった。

 ドアをノックする音が彼の言葉を遮り、彼の顔は再び愛想のいい表情になった。

「誰かね?」と彼は訊ねた。

「ステイレットです」というのが返事だった。

「明日にしろ」とワイルド氏は応じた。

「無理です」と来客は言い出したが、ワイルド氏に怒鳴りつけられて黙り込んだ。

「明日にするんだ」と彼は繰り返した。

 誰かがドアから立ち去り、階段付近の角を曲がるのが聞こえた。

「誰ですか?」と私は訊ねた。

「アーノルド=ステイレットだよ。大ニューヨーク日報の社主で編集主幹だ」

 彼は指のない手で元帳を叩いて付け加えた。「私が彼に払っている報酬はひどいものだが、それで結構だと彼は考えている」

「アーノルド=ステイレット!」私は仰天して鸚鵡返しにいった。

「ああ」といって、ワイルド氏は満足げに咳をした。

 彼が喋っている最中に、猫が部屋に入ってきた。猫はためらいがちに彼を見上げ、うなり声を上げた。彼は椅子から降りて床にしゃがみ込み、猫を抱き上げて撫でた。猫はうなるのを止め、やがてゴロゴロと大きく喉を鳴らしはじめた。彼が猫を撫でていると、その音質がよくなっていくようだった。

「帳面はどこですか?」と私は訊ねた。彼はテーブルを指し示した。私がその帳面を手に取るのは100回目だった。綴じられた手稿の表題は

 アメリカの皇朝

 私は1枚ずつページを精読していった。ページはすり切れていたが、それを繰ったことがあるのは私だけだった。私はすべてを暗記していたにもかかわらず、出だしの「ヒアデス・ハスター・アルデバランより」から「カステイン、ルイ=ド=カルヴァドス、1887年12月19日生まれ」まで熱心に読んでいった。私は夢中になり、手を止めては記述の一部を音読した。そして、とりわけ「ヒルドレッド=ド=カルヴァドス、ヒルドレッド=カステインとエディス=ランデス=カステインの一人息子、継承順位第1位」等々のことを長々と考えた。

 私が読み終えたとき、ワイルド氏はうなずいて咳をした。「君の正当なる野望のことだが」と彼はいった。「コンスタンスとルイはどうしている?」

「コンスタンスはルイを愛しています」と私は簡潔に答えた。

 彼の膝の上にいた猫がいきなり向きを変えて彼の眼に飛びかかった。彼は猫を振り払い、私の真向かいにある椅子によじ登った。

「それでアーチャー博士は? だが、そっちは君が好きなときに解決できる問題だな」と彼は付け加えた。

「はい」と私は返事をした。「アーチャー博士のことは後でもよいのですが、ルイに会うべき時が来ています」

「時節到来だ」と名誉修理者は繰り返した。そして彼は卓から別の元帳をとり、ぱらぱらと頁を繰った。

「今や我々は1万の人間と連絡を取り合っている」と彼は呟いた。「最初の28時間で10万人が見こめる。48時間で政権を樹立できるだろう。全米がその政権に従う。従おうとしない部分は──つまりカリフォルニアと北西部の諸州のことだが──最初から人間など住んでいなかった方がよかったということになるだろうね。彼らには黄の印を送ってやるべきではない」

 私は頭に血が上ったが、こう応じただけだった。「新しい箒はよく掃けるものです」

「人類の精神を掌握し、未だ生じざる思考をも管理するまで憩えないものの前では、カエサルやナポレオンの野望ですら色褪せる」とワイルド氏はいった。

「黄衣の王のことをおっしゃっているのですね」震えながら私は呻いた。

「彼は帝王たちの仕える王なのだ」

「彼に仕えることができて光栄です」と私は返事をした。

 ワイルド氏は不具の手で耳をこすった。「もしかすると、コンスタンスは彼を愛していないかもしれない」と彼はいった。

 私は返事をしようとしたが、下の通りから軍楽隊の演奏がいきなり聞こえてきて私の声をかき消した。前はセント=ヴィンセント山に駐屯していた第20竜騎兵連隊がウェストチェスター郡での演習を終え、東ワシントン広場にある新しい兵営に帰ってきたのだ。私の従兄弟がいる連隊だ。大勢の兵士がいた。ぴったりした空色の上着を着て、粋な毛皮の高帽をかぶり、乗馬ズボンをはいていた。黄色の袖章は2本で、乗馬ズボンは兵士たちの脚をかたどっているように見えた。その他すべての騎兵大隊は槍で武装しており、槍の金属の先端部からは黄色と白の槍旗がたなびいていた。軍楽隊は連隊の行進曲を演奏しながら通り過ぎ、それから大佐と幕僚たちがやってきた。馬たちはひしめき合い、どしんどしんと歩いていたが、その頭は一斉に上下に動いていた。槍の先端からは槍旗がはためいていた。美しい英国製の鞍にまたがった騎兵たちは褐色に日焼けしていた。ウェストチェスター郡で無血の作戦行動に従事した結果だ。彼らのサーベルが鐙に当たる響きや、拍車と騎兵銃がガチャガチャいう音は私にとって心地よいものだった。ルイが自分の大隊と一緒に騎乗しているのが見えた。彼は私がそれまでに見た中で一番ハンサムな将校だった。窓辺の椅子によじ登っていたワイルド氏も彼を見たが、何もいわなかった。ルイは通り過ぎながら体の向きを変え、ホーバークの店をまっすぐ見た。褐色に日焼けした彼の頬がさっと赤らむのが見えた。店の中にコンスタンスがいたに違いなかった。最後の騎兵がパカパカと音を立てながら通り過ぎていき、最後の槍旗が南5番街に消えていくと、ワイルド氏は椅子を伝い降り、ドアから箪笥を引っ張ってどけた。

「うむ」と彼はいった。「君が従兄弟のルイに会うべき時だ」

 彼はドアの鍵を外した。私は自分の帽子とステッキを手に取り、階段を下りていった。階段は暗かった。手探りしながら、私は何か柔らかいものを踏みつけた。そいつはうなり声を上げ、私は猫に必殺の一撃を食らわせようとしたが、私の杖は欄干にぶつかって震えた。猫はワイルド氏の部屋に駆け込んでいった。

 ホーバークの店のドアを通りすぎると、まだ彼があの鎧の仕事をしているのが見えたが、私は立ち止まらないでブリーカー通りに足を踏み出した。ウースターまで道をたどり、安死室のある庭の端を通ってワシントンパークを横切り、ベネディックにある自分の部屋に直行した。そこで私は快適な昼食をとり、ヘラルドとメテオを読んだ。そして、寝室にある鋼鉄の金庫のところにとうとう行って、時限錠をセットした。時限錠が解除される間に待たなければならない3分45秒は私にとって至福の時だった。時限錠をセットした瞬間から、取っ手をつかんで堅牢な鋼鉄の扉を開け放つときまで、私は期待のため有頂天になっていた。その時間はまるで楽園で流れていく時間のようだった。刻限になったときに何が出てくるかはわかっていた。どっしりとした金庫が私のために、私だけのために、何を保管してくれているかはわかっていた。そして金庫が開き、ダイヤモンドが燦然と輝く純金の王冠をビロードの頂から取り上げたときも、待っていたときの強烈な喜びがさらに大きくなるということはほとんどなかった。これが私の日課だった。待つときと、とうとう王冠に再び触れられたときの喜びは日増しに大きくなるものでしかないようだった。それは諸王の王、諸帝の帝にふさわしい王冠だった。黄衣の王はそんなものは軽蔑するかもしれないが、その王冠は彼の忠実な下僕がかぶらなければならないのだ。

 金庫の警報が無情にも鳴るまで、私は王冠を腕に抱きかかえていた。それから優しく誇らしげに王冠を元の位置に戻し、鋼鉄の扉を閉めた。ワシントン広場に面している書斎に私はゆっくりと戻り、窓台にもたれかかった。午後の日射しが窓に降り注ぎ、芽や若葉に覆われていない公園の楡と楓の枝を優しい微風が揺すっていた。鳩の群がメモリアルチャーチの塔の周りを飛び回り、紫の瓦葺の屋根に止まったり、大理石のアーチの前にある蓮華模様の噴水に向かって旋回しつつ降下したりした。噴水の周りの花壇では庭師たちが忙しそうに働いており、新たに掘り返された土は甘美で趣深い香がした。太った白馬に引かれた芝刈り機がチリンチリンと鳴りながら芝生を横切り、散水車がアスファルトの車道にしぶきを浴びせていた。ガリバルディを表していると思しき奇怪な代物の代わりに1906年に設置されたピーター=ストイベサントの銅像(3)の周りでは、子供たちが春の陽光を浴びながら遊び回っていた。乳母たちは乳母車を押していたが、青白い不健康な顔をした乳母車の主たちのことは無謀にも意に介していなかった。それは6人のすらっとした竜騎兵が物憂げにベンチに寄りかかっていたかもしれない。木々を通して、陽光を浴びたワシントン=メモリアルアーチが白銀のごとく輝いていた。その向こうは広場の東端で、竜騎兵たちのいる灰色の石造りの兵舎と砲兵隊の白い大理石の厩舎が色彩と運動に充ち満ちていた。

 広場の反対側の隅にある安死室を私は見た。メッキを施した鉄柵の周りには数人の物見高い人間がまだとどまっていたが、構内の道には人はいなかった。噴水が波打ち、輝いているのを私は見守った。この新しい水浴び場を雀はすでに見つけており、汚らしい羽の小鳥が水盤にひしめき合っていた。2羽か3羽の白い孔雀が注意して歩き、芝生を横切った。くすんだ茶色の鳩が運命の女神のうち一体の腕にとまっていたが、あまりにもじっとしていたので、彫刻の一部に見えたほどだった。

 私がうっかり顔を背けようとしたとき、門の周りにたむろしている物見高いのらくら者どもの集団でわずかに動揺が生じて私の注意を引きつけた。一人の青年が入ってきて、安死室の青銅の扉へと至砂利道をそわそわと大股で進んでいったのだ。彼は運命の女神たちの前でちょっと立ち止まり、三つの神秘的な顔を見上げた。鳩が大理石の腕から飛び立ち、しばし旋回して東に飛んでいった。青年は両手を自分の顔に押し当て、それから曖昧な仕草をして大理石の階段を駆け上がっていった。彼の背後で青銅の扉が閉まった。30分後にのらくら者どもは肩を落として歩み去り、おびえていた鳩が戻ってきて運命の女神の腕に止まった。

 私は帽子をかぶり、ちょっと夕食後の散歩をするために公園へ行った。私が中央の車道を横切ったとき、将校の一団が通り過ぎ、その中の一人が大声で呼んだ。「やあ、ヒルドレッド!」そして引き返してきて私に手を振った。従兄弟のルイだった。微笑みながら佇み、拍車をつけた靴の踵を乗馬用の鞭で叩いている。

「ウェストチェスターから戻ってきたばかりなんだ」と彼はいった。「田舎暮らしをしてたんだよ。牛乳と凝乳さ。乳搾りの娘さんたちは日よけ帽をかぶっていて、かわいいねっていってあげると『まあ』とか『違うと思うわ』とかいうんだ。デルモニコのたっぷりした飯が食いたくてたまらなかったよ。何かニュースある?」

「何も」と私は快活に返事をした。「今朝、君の連隊がやってくるのを見たよ」

「見たのかい? 僕の方からは君が見えなかった。どこで見てたの?」

「ワイルドさんの部屋の窓で」

「うわっ!」と彼はもどかしそうに言い出した。「あの人はまるっきり頭が変だよ! わかんないなあ、何で君が──」

 この言葉の噴出に私がどれほど苛立っているかを見て取って、彼は謝った。

「ねえ君、実際のところ」と彼はいった。「君の好きな人の悪口をいうつもりはなかったんだ。でも、一体全体ワイルドさんのどこがいいのか僕にはどうしてもわからないな。好意的な言い方をしても、あの人は育ちがいいとはいえないよ。ひどい奇形じゃないか。あの頭は精神異常者の頭だね。君も知ってるだろ、彼が精神病院にいたって──」

「僕もいたんだけどな」と私は冷静に遮った。

 ルイは唖然とし、束の間まごついていたが、気を取り直して元気よく私の肩を叩いた。

「君は全快してるよ」と彼は言い出した。しかし私は彼の言葉を再び遮った。

「僕の気が変になっていたことは一度もないと一般に認められているということを君はいいたかったんだと思うね」

「無論そうさ──僕はそういいたかったんだ」と彼は笑った。

 私は彼の笑いが嫌だった。無理やり笑っているのだということを知っていたからだった。しかし私は陽気にうなずき、どこに行こうとしているのかと彼に訊ねた。ルイは同僚の将校たちの方を見やった。彼らはもうじきブロードウェイに辿りつきそうだった。

「ブランズウィックのカクテルを試しに飲んでみようかという話なんだ。でも本当のことをいうと、僕は代わりにホーバークの店に行かせてもらえないかと思ってる。一緒に来てくれよ。君がいれば口実になるからさ」

 ホーバークは新調の春着できちんと盛装し、店の前に立って空気の匂いを嗅いでいた。

「コンスタンスをちょっと夕食前の散歩に連れて行こうとしていたところでしてな」ルイがせっかちに矢継ぎ早の質問を浴びせるのに彼は答えた。「ノース川沿いの公園の高台を散歩しようと思ったんです」

 その時コンスタンスが姿を見せ、手袋をした小さな手の上にルイが身をかがめると、交互に青くなったり赤くなったりした。私は中座させてもらおうとして、住宅地区の方に約束があるのだと言い張ったが、コンスタンスとルイは聞く耳を持たなかった。私はとどまってホーバーク老人の注意を引きつけるものと期待されているのだとわかった。結局、ルイから眼を離さずにいた方がよさそうだと私は思った。彼らがスプリングストリートの電気自動車を呼び止めたとき、私は彼らの後ろに乗り込んで武具師の隣に席を占めた。

 ノース川沿いの岸壁は1910年に工事が始まり、1917年の秋に完成したものである。その岸壁を見晴らす公園と大理石の高台の美しい道は、この大都会でもっとも人気のある遊歩道のひとつとなっていた。その道はバッテリーから190番通りへと広がり、堂々たる河を見晴らしていた。ジャージーの岸辺と対岸のハイランズの見事な風景を見ることができた。木々の間のあちこちにカフェとレストランが点在しており、胸墻のキオスクでは警備隊の軍楽隊が週に2回ばかり演奏を行うのだった。

 私たちは陽光を浴びながら、シェリダン将軍の乗馬像の裾にあるベンチに座った。コンスタンスは日傘を傾けて眼を覆った。聞き取ることのできない会話をコンスタンスとルイはひそひそと始めた。象牙の握りの付いた杖にすがったホーバーク老人は高価な葉巻に火をつけた。彼は私にも葉巻を勧めてくれたが、私は丁重に断り、ぼんやりと微笑んだ。太陽はスタテンアイランドの森の上空に低く垂れ下がっており、港に停泊している船の太陽で暖められた帆から照り返されている黄金の色彩で湾は染め上げられていた。

 ブリッグ・スクーナー・ヨット・不格好なフェリー、それらのデッキは人でごった返している。茶・青・白の貨車を貨車輸送船は運んでいる。堂々たる旅客船に低級な不定期貨物船、沿岸貿易船・浚渫船・大型平底船。そして湾の至る所で、厚かましい小さなタグボートがポッポッと煙を立ち上らせたり、お節介にも警笛を鳴らしたりしていた。眼の届く限り、陽に照らされた水をかき乱している船舶はこんな感じだった。帆船と汽船の慌ただしさとは対照的に、白い戦艦の静かな艦隊が湾の中程にじっと停泊していた。

 コンスタンスが楽しげに笑い、私は夢想から引き戻された。

「何を御覧になっているの?」と彼女は訊ねた。

「何も──艦隊を」と私は微笑んだ。

 その時、古いレッドフォートとガバナーズ島との相対的な位置でそれぞれの艦船を指し示しながら、ルイが私たちに艦の名前を教えてくれた。

「あの葉巻の形をした小さい奴が水雷艇」と彼は説明した。「一カ所に4隻が集まってるだろう。『ターポン』と『ファルコン』と『シーフォックス』と『オクトパス』さ。ちょっと北の方にいる砲艦は『プリンストン』と『チャンプレン』と『スティルウォーター』と『エリー』。砲艦の脇にいるのは巡洋艦で、『ファラガット』と『ロサンゼルス』。その北にいるのが戦艦の『カリフォルニア』と『ダコタ』、それから旗艦の『ワシントン』だ。キャッスル=ウィリアムの沖に停泊しているずんぐりした金属の塊は、旋回砲塔の二つあるモニター艦で、『テリブル』と『マグニフィセント』だ。その後ろにいるのが衝角艦の『オシオーラ』だよ」

 コンスタンスは美しい眼に深い賞賛を称えて彼を見た。「あなたって軍人さんにしては、すごい物知りなのね」と彼女はいい、私たちは一斉に笑った。やがてルイは私たちにうなずいて立ち上がり、コンスタンスに腕をさしのべた。二人は堤防に沿って歩いていった。ホーバークはしばし二人を見やり、それから私の方を向いた。

「ワイルドさんは正しかった」と彼はいった。「『皇太子の紋付』のなくなっていた草摺と左の股当てが見つかりました。ペル通りの薄汚い古ぼけた屋根裏部屋にあったんです」

「998番地ですね?」微笑みながら私は訊ねた。

「そうです」

「ワイルドさんはとても知的な方ですよ」と私はいった。

「このたいそう重要な発見の名誉をあの人のものにして差し上げたい」とホーバークは言葉を続けた。「そして、あの人にその名声の権利があるということが知れ渡らなければならないと思うんです」

「そんなことをしても、あの人はあなたに感謝しないでしょう」と私は荒々しく返答した。「そのことでは何もおっしゃらないでください」

「どれほど価値のある発見か御存じですか?」とホーバークはいった。

「いいえ。50ドルくらいかな」

「500ドルの価値があります。ですが『皇太子の紋付』の持ち主は、自分の鎧を完全なものにしてくれた人に2000ドルを払うといっています。そのお金もワイルドさんのものです」

「あの人は金なんか欲しがりませんよ! 断るはずです!」私は怒って言葉を返した。「ワイルドさんについて何を知ってるというんです? あの人には金なんか必要じゃないんです。彼は金持ちです──あるいは金持ちになるでしょう──僕以外のいかなる人間よりも金持ちに。そうなったら我々は金なんか欲しがるもんですか──我々は欲しがるもんですか、あの人と僕は、その時になったら──」

「その時になったら何ですか?」仰天してホーバークは訊ねた。

「あなたにもわかるでしょう」私は再び用心して応じた。

 彼は私のことを入念に見た。アーチャー博士も同じようにして私を見たものだった。私が精神的に不健康な状態だと彼が考えていることがわかった。狂人なる語をその場で使わなかったのは、彼にとって幸運だったかもしれない。

「いいや」彼が口に出さなかった考えに対して私は返事をした。「僕は精神病じゃありませんよ。僕の精神はワイルドさんの精神と同じように健全です。自分の手許に何があるのか僕はまだ説明しませんが、それは金銀や宝石よりも儲けのある投資なんです。それはひとつの大陸の幸福と繁栄を保証してくれるものです──ええ、半球のね!」

「おお」とホーバークはいった。

「そして、しまいには」より冷静になって私は言葉を続けた。「それは全世界の幸福を保証してくれることでしょう」

「ついでに、あなた自身やワイルドさんの幸福と繁栄も?」

「その通りです」と私は微笑んだ。だが、そういう言い方をする代わりに彼の喉を絞めてやることもできたのだ。

 彼はしばしば黙って私を見つめ、それから非常に穏やかにいった。「カステインさん、読書と研究をおやめになって山歩きでもなさったらいかがですかな? あなたは魚釣りがお好きだった。ラングレーでマス釣りをして御覧なさい」

「もう釣りは好きじゃないんです」と私は答えた。苛立ちが声に表れているのを隠そうともしなかった。

「あなたは何でもお好きだったじゃないですか」と彼は言葉を続けた。「陸上競技もヨットも射撃も乗馬も──」

「落馬してからは、絶対に馬に乗りたくなくなりました」と私は静かにいった。

「ああ、そうだ、落馬です」と彼は鸚鵡返しにいって私から眼をそらした。

 この茶番はもう充分だと思ったので、私はワイルド氏の話題に戻った。しかし彼は再び私の顔をつくづく見た。その態度はひどく私の気に障った。

「ワイルドさんといえば」と彼は繰り返した。「今日の午後に彼が何をしたか御存じですか? 彼は階下に降りてきて、ホールのドアに表札を取り付けました。わしの表札の隣です。『ワイルド 名誉修理者 ベル街3番地』という表札なんだが、名誉修理者というのが何だかおわかりになりますか?」

「わかってますよ」内心の憤激を押し殺して、私は返事をした。

「おお」と彼は再びいった。

 ルイとコンスタンスが戻ってきて立ち止まり、一緒に散歩しないかと訊ねた。ホーバークは時計を見た。同時にキャッスル=ウィリアムの開き窓から煙が吹き出した。日没を知らせる砲声が海上に轟き、対岸のハイランズから反響が返ってきた。旗竿から旗が降ろされ、戦艦の白い甲板でラッパが鳴り響いた。そしてジャージーの岸辺から最初の電灯の光が煌めいた。

 ホーバークと一緒に街へ戻っていくとき、コンスタンスがルイに何事かをささやくのが聞こえたが、その内容はわからなかった。だが、それに応えてルイは「ダーリン」とささやいた。また、ホーバークの前に立って公園を歩いていくとき、「愛しい人」とか「僕のコンスタンス」というささやきが聞こえ、重要な問題について従兄弟のルイと話すべき時が到来したことがわかった。

 5月のある早朝、私は寝室で鋼鉄の金庫の前に立ち、宝石をちりばめた黄金の王冠を試しにかぶってみた。私が鏡に向かうとダイヤモンドが炎のように輝き、重たい打ち延ばした金が私の頭の周りで後光のごとく光った。カミラの苦悶の叫びと怖ろしい言葉がカルコサの薄明の通りにこだましたのを私は思い出した。それが第1幕の終わりなのだ。私は春の日射しを浴びながら自分の部屋におり、なじみ深いものに囲まれていた。通りのにぎわいと、外の廊下にいる使用人たちの声も私を安心させてくれるものだったが、それでも私は戯曲の続きを考えまいとした。死の快楽が敷布にしたたり落ちて染みこむように、毒に満ちた言葉がゆっくりと私の頭にしたたり落ちてきた。震えながら私は王冠を頭から外して額をぬぐったが、ハスターと自分自身の正当なる野望のことを考え、私が最後にワイルド氏のもとを辞したときの彼のことを思い出した。彼の顔はあの悪魔の生き物の鉤爪でずたずたにされて血まみれだった。そして彼の言葉を──ああ、彼の言葉! 金庫の警報が容赦なく鳴りはじめ、時間切れになったことがわかった。しかし私は気にせず、光り輝く冠を再び頭に載せると、挑むようにして鏡に向かった。私自身の目の移り変わる表情に夢中になりながら、私は長いこと立っていた。私の顔によく似た顔が鏡に映っていたが、その顔はもっと白かった。そして非常に痩せていたので、私はそのことをほとんど認識しなかった。私はひっきりなしに歯を食いしばり、「その日は来たれり! その日は来たれり!」と繰り返していた。その間も金庫の警報は鳴り響いて騒ぎ立て、ダイヤモンドは私の顔の上で煌めき燃え上がっていた。ドアが開くのが聞こえたが、私は気にしなかった。二つの顔が鏡に映るまでは──別の顔が私の肩越しに現れ、二つの別の眼が私の眼と合うまでは気にもとめなかった。私は火花のように身を翻し、鏡台から長いナイフをひっつかんだ。私の従兄弟は蒼白になって飛び下がり、叫んだ。「ヒルドレッド! お願いだから!」それから私が手を下に下ろすと、彼はいった。「僕だよ、ルイだよ。わからないの?」必死になれば喋れたろうが、私は無言で立ちつくしていた。彼は歩み寄って私の手からナイフを取り上げた。

「一体全体どうしたんだい?」と彼は優しい声で訊ねた。「気分でも悪いのかい?」

「いいや」と私は答えたが、彼が私の言葉を聞いていたかどうかは疑わしかった。

「ねえ、ねえったら」と彼は叫んだ。「その真鍮の冠を脱いで書斎に行こうぜ。仮面舞踏会にでも行く気なのかい? 一体全体この金ぴかの舞台衣装はどうしたんだい?」

 王冠が真鍮と糊で作られていると彼が思っていたので私は嬉しかったが、そう考えた彼をもっと好きになれるなどということはなかった。彼に調子を合わせるのが一番だとわかっていたので、彼がそれを私の手から取り去るに任せた。彼は輝く王冠を宙に放り投げて受け止め、私の方を向いて微笑んだ。

「これは50セントじゃ高すぎるかな」と彼はいった。「いくらするんだい?」

 私は答えずに彼の手から冠をとり、それを金庫に納めて、どっしりした鋼鉄の扉を閉めた。警報の地獄めいた騒音はすぐに静まった。彼は物珍しげに私を見守っていたが、急に警報がやんだことに気づいた様子はなかった。しかしながら彼は金庫のことをビスケットの空箱と呼んだ。彼が錠の組み合わせを調べるのではないかと怖れた私は彼を連れて書斎に行った。彼はソファにどっと身を投げ出し、片時も手放さずにいる乗馬用の鞭で蠅を叩いた。彼は作業用の制服と組製のジャケットを着ており、粋な帽子をかぶっていた。彼の乗馬靴の至る所に赤い泥が跳ねかかっていることに私は気づいた。

「どこに行っていたんだい?」

「ジャージーの泥んこの小川を飛び越えたんだよ」と彼はいった。「着替えている時間がなかったんだ。むしろ君に会いたくて急いでいた。何か飲物はないかい? へとへとなんだ。24時間も馬に乗ってたもんでね」

 私は自分の薬用の備蓄からブランデーを出して彼に与え、彼はしかめっ面でそれを飲んだ。

「ひどい代物だなあ」と彼はいった。「ブランデーと呼べるようなブランデーを売っているところを教えてあげるよ」

「僕にとっては、これで充分だ」私は冷淡に言った。「胸をマッサージするのに使ってるんだ」彼は別の蠅を見つめて叩いた。

「ねえ君」と彼は言い出した。「ちょっと提案があるんだよ。君がここに引きこもって4年になるよね。梟みたいじゃないか。どこにも行かず、運動もせず、マントルピースの上にある本を読む以外に何もしないで」

 彼は本棚の列をすばやく見渡した。「ナポレオン、ナポレオン、ナポレオン!」と彼は読み上げた。「まったく、ここにはナポレオン以外のものはないのかい?」

「その本が黄金で綴じられていたらいいと思うんだが」と私はいった。「でも待ちたまえ。うん、別の本もあるよ。『黄衣の王』だ」私はしっかりと彼の眼を見た。

「読んだことはあるかね?」と私は訊ねた。

「僕が? ないよ、ありがたいことに! 気違いにはなりたくないからね」

 そういうなり彼が自分の発言を後悔したことがわかった。狂人という言葉以上に私が忌み嫌っている唯一の言葉は、気違いという言葉だった。しかし私は自制し、なぜ『黄衣の王』が危険だと思うのかと彼に訊ねた。

「いや、僕にはわからないよ」と彼は急いでいった。「あの本が巻き起こした興奮と、教会や新聞の非難を思い出しただけさ。この怖ろしい本を世に送り出した後で作者は拳銃自殺したはずだよね?」

「彼はまだ生きてるよ。僕にはわかってるんだ」と私は答えた。

「そうなのかもしれないな」彼はもぐもぐと呟いた。「あんな悪魔は銃弾では死にそうにないからね」

「あれは大いなる真実の書なんだよ」と私はいった。

「うん」と彼は返事をした。「人々を狂乱させ、自らの人生を台なしにしてしまうような『真実』のね。彼らがいうように、あの代物が芸術の最高の精華かどうかなんて僕にはどうでもいいんだ。あんなものを書くのは犯罪だし、僕はあれのページを絶対に開こうとは思わないよ」

「君はそんなことをいいに来たのかい?」と私は訊ねた。

「いや」と彼はいった。「僕は結婚することになったと伝えに来たんだ」

 一瞬、私の心臓は鼓動を止めたに違いない。だが私は彼から眼をそらさなかった。

「うん」幸福そうに微笑みながら彼は言葉を続けた。「世界一かわいい子と結婚することになったんだ」

「コンスタンス=ホーバーク」と私は機械的にいった。

「どうして知ってるんだい?」仰天して彼は叫んだ。「この前の4月、僕たちが堤防まで夕飯前の散歩をしたあの夕方になるまで僕も知らなかったのに」

「式はいつだい?」と私は訊ねた。

「今度の9月にする予定だった。ところが1時間前に特電が来て、僕らの連隊はサンフランシスコのプレシディオに派遣されることになった。明日の正午に出発するんだ。正午にだよ」彼は繰り返した。「考えてもみたまえ、ヒルドレッド。明日になったら、僕はこの楽しい世界にこれまで生を受けた一番幸せな人間になるんだ。だってコンスタンスが僕と一緒に行ってくれるんだから」

 私は彼に祝福の手を差し出し、彼はその手を握って振った。実際にそうなのか、そう見せかけているのか、人のいい愚か者のようだった。

「結婚の贈物として、僕は自分の大隊を持てることになった」彼はぺちゃくちゃと喋り続けた。「ルイ=カステイン大尉というわけさ、ヒルドレッド」

 式の場所がどこで、誰が出席するのかを彼は私に教え、来て花婿付き添いの男になると私に約束させた。私は歯を食いしばり、自分の感情をあらわにせずに彼の子供っぽいおしゃべりを聞いていたが、私の堪忍袋の緒は切れそうになっていた。彼が飛び上がり、拍車がチリンチリンと鳴るまで鞭で打って、もう行かなければならないといったとき、私は彼を引き留めようとはしなかった。

「君に頼みたいことがひとつある」と私は静かにいった。

「話せよ、約束するぜ」と彼は笑った。

「今夜、君に会って15分ばかり話がしたい」

「もちろん、お望みならね」と彼はいったが、いくらか困惑していた。「どこで」

「そこの公園ならどこでも」

「いつにする、ヒルドレッド?」

「真夜中に」

「一体全体」と彼は言い出したが、言葉を飲み込んで笑顔で同意した。彼が階段を下りていき、足早に去っていくのを私は見守った。彼が大股で歩くたびにサーベルが揺れた。彼はブリーカー通りの方に向かった。コンスタンスに会いに行こうというのだ。彼の姿が見えなくなるまで私は10分待ち、それから彼の足取りをたどった。宝石をちりばめた王冠と、黄の印を刺繍したローブが持ち物だった。私はブリーカー通りに向かい、そして戸口に入った。その戸口に掲げてあるのは

 ワイルド 名誉修理者 ベル街3番地

 ホーバーク老人が店の中で動き回っているのが見えた。居間でコンスタンスの声が聞こえたような気がした。だが私は二人のどちらとも顔を合わせないようにして、揺れる階段を上ってワイルド氏のアパートへと急いだ。私はノックし、形式張らずに入った。ワイルド氏は呻きながら床に横たわっていた。彼の顔は血まみれで、着ているものはずたずたに引き裂かれていた。血のしずくが絨毯のあちこちに飛び散っていたが、その絨毯も明らかに最近の乱闘で引き裂かれ、ぼろぼろになっていた。

「あの忌々しい猫だよ」といって、彼はうめくのを止め、色の付いていない眼を私の方に向けた。「眠っている間に攻撃してきたんだ。いつかはあいつが私を殺すだろうと思う」

 これはあまりにも由々しきことだったので、私は台所に行って食料品貯蔵室から手斧をひっつかみ、あの地獄の獣を見つけ出して始末しようと、あちこち探し回った。だが徒労に終わったので、しばらくして私はあきらめた。戻ってみると、テーブルの脇にある子供用の椅子の上にワイルド氏はしゃがみ込んでいた。彼は顔を洗い、服を着替えていた。猫の鉤爪がえぐった顔の傷を彼はコロジオンで埋め、ボロ切れが喉の傷を隠していた。あの猫に近づくことがあったら殺してやるつもりだと私は彼にいったが、彼は頭を振り、自分の前にある開かれた元帳の方に向き直っただけだった。自分たちの名誉のことで彼のところに来た人々の名前を彼は次々と読んでいった。彼が集めた金の総額は驚くべきものだった。

「私は時として脅しをかけることもあるのだ」と彼は説明した。

「いつか、この連中の誰かがあなたを暗殺しますよ」と私は主張した。

「そう思うのかね?」といって、自分の切断された耳を彼はこすった。

 彼と議論しても無駄だったので、『アメリカの皇朝』と題された手稿を私は手に取ったワイルド氏の書斎で私がその手稿を手にするのは、それが最後だった。喜びに震えながら私は通読した。私が読み終えるとワイルド氏は手稿を取り返し、書斎から寝室へと続く暗い廊下の方を向いて大声で呼んだ。「ヴァンス」その時になって初めて、一人の中がそこの影の中にうずくまっていることに私は気づいた。私が猫を探している間どうして彼のことを見落としていたのか想像できなかった。

「ヴァンス、来たまえ」とワイルド氏は叫んだ。

 その人物は立ち上がり、這うようにして私たちの方にやってきた。彼は私たちに向かって顔を上げ、窓から差し込んでいる光がその顔を照らし出した。決して忘れられることのできない顔だった。

「ヴァンス、こちらはカステイン氏だ」とワイルド氏はいった。彼が話し終える前に、その男はテーブルの前の床に這いつくばり、叫びつつ喘いだ。「おお、神様! 何てこった! お許しを──ああ、カステインさん。その男を私に近づけないでください。あんたは、あなたはそんなつもりじゃないでしょう! あんたは違うんだ──お許しを! 私は壊されてしまったんです──私は精神病院にいました。そして今になって──すべてがうまく行こうとしていたときになって──私が王のことを忘れたときになって──黄衣の王と──でも私はまた気が狂う──気が狂う!」

 彼の声は途絶え、窒息するときのガラガラという音になった。ワイルド氏が彼に飛びかかり、その男の喉を右手で締め上げたのだ。ヴァンスが床に崩れ落ちると、ワイルド氏はすばやく再び椅子によじ登り、切りさいなまれた耳を手の根本でこすりながら私の方を向いた。そして元帳を渡してくれと私に頼んだ。私が元帳を本棚からおろすと、彼はそれを広げた。美しく書き込まれたページを繰って探したのも束の間、彼は満足げに咳をし、ヴァンスという名前を指さした。

「ヴァンス」と彼は音読した。「オスグッド=オズワルド=ヴァンス」彼の声が聞こえると、床にのびていた男は頭を上げ、痙攣している顔をワイルド氏の方に向けた。彼の眼は血走り、唇は腫れ上がっていた。「4月28日に訪問」とワイルド氏は言葉を続けた。「職業、シーフォース国立銀行の出納係。文書偽造罪のためシンシン刑務所にて服役。そこより精神病院に移送される。ニューヨーク州知事より恩赦を与えられ、1918年1月19日に退院。シープスヘッド=ベイにて名誉を損傷。収入以上の生活をしていると噂される。すぐさま修理すること。修理費は1500ドル」

「註──1919年3月20日より、3万ドルに上る金銭を横領。名家の出で、伯父の影響力によって現在の地位を維持。父親はシーフォース銀行頭取」

 私は床の上の男をみた。

「立ちたまえ、ヴァンス」ワイルド氏は優しい声でいった。ヴァンスは催眠術にかかったかのように立ち上がった。「これから我々が提案するとおりに彼は行動する」といって、ワイルド氏は手稿を広げ、アメリカの皇朝の全史を読み上げた。それから、優しい宥めるような声で彼は重要な点をヴァンスと一緒にさっと見直した。ヴァンスは唖然となったかのように立ちつくしていた。彼の眼は非常にうつろだったので、彼は白痴になったのではないかと私は思った。私はそのことをワイルド氏に指摘したが、それは何ら重要なことではないというのが彼の返事だった。きわめて辛抱強く、この用事における彼の役割がどんなものであるかを我々はヴァンスに説明してやった。そして、しばらくして彼は理解したようだった。自分の調査の結果を実証するために、紋章学に関する数巻の書物を用いてワイルド氏は手稿のことを説明した。彼はカルコサの王朝の成立に言及し、ハスターとアルデバランそしてヒアデスの神秘を結び合わせる湖の話をした。彼はカシルダとカミラの話をし、デムヘの雲に包まれた深淵のことを、そしてハリの湖のことを知らせた。「スカラップで飾られた黄衣の王の襤褸はイーティルを永遠に覆い隠すに違いない」と彼は呟いたが、ヴァンスが彼の言葉を聞いているとは思えなかった。それから彼は徐々に王家の分岐に沿ってヴァンスを導いていった。ウオートおよびターレへと、ナオタルバから真実の幽霊へと、アルドネスへと、そして手稿と覚書を脇に放り出して、最後の王のすばらしい物語を始めた。魅惑されて感動しながら私は彼を見守った。彼は頭を上げ、長い腕を伸ばして、誇りと権力の壮麗なる身振りをした。彼の眼窩の奥では二つの眼がエメラルドのように輝いていた。ヴァンスは仰天して聞いていた。私のことだが、ワイルド氏は話を終えると私を指さして叫んだ。「王の従兄弟よ!」私は興奮で頭がくらくらした。

 なぜ私だけが王冠に値するのか、なぜ私の従兄弟は流刑になるか死ななければならないのかを、超人的な努力で自制しながら私はヴァンスに説明した。己の権利をすべて放棄した後であっても私の従兄弟は決して結婚してはならず、とりわけエヴォンシャー侯爵の娘と結婚してイングランドを問題にしてはならないのだということを私は彼に理解させた。ワイルド氏が作成した何千もの名前の一覧を私は彼に見せた。そこに記されているのは、いかなる人間も無視しようとしない黄の印を受け取った人々の名前だった。都市が、州が、国中が立ち上がって蒼白の仮面の前に震撼する準備ができていた。

 時節は到来し、人々はハスターの息子を知るだろう。そしてカルコサの空なる黒き星々の前に全世界が額ずくだろう。

 ヴァンスはテーブルにもたれかかり、顔を両手に埋めていた。ワイルド氏は昨日のヘラルドの余白に鉛筆でざっとスケッチした。ホーバークの部屋の見取図だった。それから彼は命令を書き上げて印を添え、中風の人間のように震えながら私は人生初の執行令状に自分の名前ヒルドレッド=レックスで署名した。

 ワイルド氏は床に降りてきて飾り棚の鍵を開け、長く四角い箱を1段目の棚から取り出した。この箱を彼はテーブルにもってきて開けた。箱の中に入っているのはティッシュペーパーに包まれた新品のナイフだった。私はナイフを取り出し、令状やホーバークのアパートの見取図と一緒にヴァンスに手渡した。もう行ってよいとワイルド氏はヴァンスに告げ、スラム街の浮浪者のようによろめきながらヴァンスは立ち去った。

 ジャドソン=メモリアルチャーチの四角い塔の後ろに陽が隠れていくのを見つめながら、私はしばらく座っていた。そして、ついに手稿と覚書を集めて帽子をかぶると、ドアに向かって歩きはじめた。

 ワイルド氏は無言で私を見守っていた。ホールに足を踏み入れたとき、私は振り返った。ワイルド氏の小さな眼はまだ私に釘付けになっていた。彼の背後では、薄れゆく日射しに照らされながら影が次第に増していた。私は自分の背後でドアを閉め、夕暮の通りに出て行った。朝食以後は何も食べていなかったが、私は空腹を覚えなかった。ひどく汚らしく腹を空かせた人間が立っており、通りの向こうにある安死室を見ていたが、私に気づくと、不幸な身の上話をするために寄ってきた。私は彼に金をやった。その理由は自分でもわからず、彼は感謝の言葉も言わずに行ってしまった。1時間後に別の浮浪者が近づいてきて、哀れっぽく身の上話をした。私はポケットから白紙を取り出し、それに黄の印を書き付けて彼に手渡した。彼は束の間それを愚かしく眺め、曖昧な表情で私を一瞥してから紙片を折りたたんだ。私には、その動作は不自然なまでに慎重に見えた。彼は紙片をズボンにしまった。

 木立の間では電灯の光が煌めいており、安死室の上空では新月が輝いていた。広場で待つのは退屈だった。私は大理石のアーチから砲兵隊の厩舎へと散策し、蓮華模様の噴水に再び戻ってきた。草花の芳香が私の気に障った。噴水の水が月明かりに照らされて煌めき、落ちてくるしずくが音楽的にはね散るのを見ていると、ホーバークの店で鎖帷子がチリンチリンと鳴っていたのを思い出した。だが、それはそんなに魅惑的ではなかった。月光が水面で鈍く煌めいているのは、ホーバークの膝の上で胴鎧の磨き上げられた鋼鉄が日光に輝いていたときのような有頂天の喜びをもたらしてくれるものではなかった。噴水の水盤に植わっている水生植物の上を蝙蝠が飛び交うのを私は見つめた。蝙蝠のすばやいぎくしゃくした動きは私の神経を苛立たせた。私は再び歩み去り、木々の間を当てもなく散策した。

 砲兵隊の厩舎は暗く、騎兵隊の兵舎では将校たちの窓に皓々と明かりが灯っていた。非常門は対照的に作業服の兵士たちでいっぱいで、錫の皿でいっぱいのバスケットや藁や馬具を彼らは運んでいるところだった。

 私がアスファルトの歩道を行ったり来たりしている間に、門のところでは馬に乗った哨兵が二度交代した。私は時計を見た。約束の時間が近づいていた。兵舎の明かりがひとつずつ消えていった。鉄格子のある門が閉まった。1分か2分おきに将校が脇の小門をくぐり抜け、装具や拍車がぶつかり合う音を夜の空気に残していった。広場はきわめて静かになった。灰色の外套を着た公園の警官に最後の宿無しが追い立てられ、ウースター通りの車道が閑散とすると、静寂を破る唯一の音は哨兵の馬の足音と、彼のサーベルが鞍の前橋にぶつかる音だけだった。兵舎では将校専用の区画にまだ明かりが灯っていたが、軍で働いている使用人たちは張り出し窓の前を次々と通っていった。聖フランシスコ=ザビエルの新しい尖塔から12時の鐘の音が聞こえてきた。哀愁を帯びた音色の鐘が最後のひとつを打つと同時に、一人の人物が吊し門の脇の小門から出てきて哨兵の敬礼に返礼し、通りを渡って公園に入ると、ベネディックのアパートに向かって歩いてきた。

「ルイ」と私は名前を呼んだ。

 拍車のついた踵を返して、その男はまっすぐ私の方にやってきた。

「君か、ヒルドレッド?」

「ああ、時間通りだな」

 彼が差し出した手を私は握り、私たちは安死室の方に歩いていった。

 自分の結婚とコンスタンスの優しさと二人の将来の見通しについて彼はぺちゃくちゃと喋り続けた。そして大尉の肩章と、襟と作業帽の三重になった黄金のアラベスクに私の注意を促した。彼の子供っぽいお喋りと同じくらい、彼の拍車とサーベルが奏でる音楽に私は耳を傾けていたに違いない。そして、安死室の向かいにある広場の4番通りの隅で私たちは楡の木の下にとうとう立った。そのとき彼は笑い、自分に何をしてほしいのかと私に訊ねた。電灯の下にあるベンチに座るよう私は彼に身振りで促し、彼の傍らに腰を下ろした。彼は私を物珍しげに見た。私が憎み怖れた医者たちの眼差しと同じ探るような眼差しだった。私は彼の眼差しに屈辱を覚えたが、彼にはそのことがわかっておらず、私は用心深く自分の感情を隠した。

「さあ」と彼はいった。「君に何をしてあげればいいの?」

 私は『アメリカの皇朝』の手稿と覚書をポケットから取り出し、彼の眼を見ていった。

「教えてやろう。軍人としての言葉にかけて誓え。何も聞かずに、この手稿を最初から最後まで読むと。この覚書も同じようにして読むと誓え、その後で僕の話を聞くと誓え」

「誓うとも、お望みならばね」彼は快活にいった。「その書類をよこしてくれ、ヒルドレッド」

 彼は読みはじめたが、困惑した滑稽な様子で眉をつり上げていたので、私は押し殺した怒りに身が震えた。読み進むにつれて彼は眉をひそめ、唇は「くだらない」という言葉を発したようだった。

 彼はいくらか退屈しているようだったが、見たところ私のために読んでいた。興味を持とうとしていたが、それはやがて努力ではなくなった。びっしりと書き込まれたページに自分自身の名前が出てきたとき、彼はびくっとした。そして私の名前が出てくると彼は文書を下に置いて一瞬だけ私を鋭く見つめたが、何もいわずに再び読みはじめた。そして、彼の唇から半ば発せられた問いに私は答えずにおいた。最後まで行ってワイルド氏の署名を読むと、彼は文書を注意深く折りたたんで私に返した。私は彼に覚書を手渡した。彼は元通り腰を下ろし、子供っぽい仕草で作業帽を額の上に押し上げた。私の学生時代の記憶に鮮明に残っている仕草だった。彼が読んでいるときの表情を私は見守り、彼が読み終えると覚書を手稿と一緒にして自分のポケットにしまった。それから、黄の印の描かれた巻物を私は広げた。彼は印を見たが、それを認識していないようだった。私はやや鋭く彼の注意を印に促した。

「うん」と彼はいった。「見てるよ。それは何?」

「黄の印だ」と私は腹立たしげにいった。

「ああ、それが?」とルイスはいった。おもねるような声だった。アーチャー博士が私と話すときに使った声だ。そして私が博士を始末してやらなければ、また使ったかもしれない声だった。

 私は憤激を押し殺し、なるべく着実に答えた。「聞きたまえ。約束したよな?」

「聞いてるよ、君」彼は宥めるように返事をした。

 私はきわめて静かに話しはじめた。

「アーチャー博士は何かの手を使って皇位継承の秘密を握り、僕が4年前の落馬のせいで精神薄弱になったと主張して僕から権利を剥奪しようとした。彼は僕を発狂させるか毒殺しようと思い、自分の家に僕を監禁したんだ。僕はそのことを忘れはしなかった。昨日の晩、彼を訪問した。会見は終わった」

 ルイは蒼白になったが、身じろぎもしなかった。私は勝ち誇って言葉を続けた。「ワイルドさんと僕自身の利益のために会見しなければならない人間がまだ3人いた。その3人というのは従兄弟のルイとホーバーク氏と彼の娘のコンスタンスだ」

 ルイは勢いよく立ち上がった。私も立ち上がり、黄の印が描かれた紙を地面に振り落とした。

「ああ、いうべきことを君に伝えるのに、そんなものは必要ないな」私は勝ち誇って笑いながら叫んだ。「君は王冠を放棄して僕に譲らなければならない。聞こえているのか、僕にだぞ」

 ルイは愕然とした様子で私を見たが、我に返って優しげにいった。「もちろん放棄するとも──何を放棄しなければならないんだって?」

「王冠だ」私は怒っていった。

「もちろん」と彼は答えた。「放棄するとも。ねえ、部屋まで君を送っていくよ」

「君の医者の奸計を僕に使おうとするな」私は憤激のあまり体を震わせながら叫んだ。「僕が狂っていると思っているみたいな振る舞いは止めろ」

「何てバカバカしい」と彼は応じた。「さあ、もう夜更けだよ、ヒルドレッド」

「いやだ」私は絶叫した。「君は聞かなければならないんだ。君は結婚できない。僕が禁止する。聞いているのか? 僕が禁止するんだぞ。君は王冠を放棄し、その代わり僕は恩赦を与えて君を流刑にする。だが君が拒むんだったら、死ななければならない」

 彼は私を落ちつかせようとしたが、私はついに奮起し、長いナイフを取り出して彼の行く手をふさいだ。

 それから、喉を切り裂かれたアーチャー博士を地下室で見つけるにはどうしたらいいかを私は彼に教えてやった。そしてヴァンスと彼のナイフと、自分の署名した令状のことを考えて、ルイを嘲笑した。

「ああ、おまえが王だ」と私は叫んだ。「だが王になるべきなのは僕なんだ。居住可能な地すべてを版図とする帝国を僕に渡そうとしないおまえは誰なんだ。僕は王の従兄弟として生まれたが、僕が王になるべきなんだ!」

 ルイは蒼白になって私の前に立ちつくしていた。出し抜けに一人の男が4番通りを走ってきて安死室の門に入り、青銅の扉へと至る道を全速力で走り抜けると、錯乱した叫び声を上げながら死の部屋に飛びこんでいった。私は笑い転げて涙が出た。その男がヴァンスであることがわかり、ホーバークと彼の娘はもはや私の行く手を邪魔できないと知ったからだ。

「行け」と私はルイに向かって叫んだ。「おまえはもう脅威ではなくなった。おまえはもう決してコンスタンスと結婚できない。おまえが流刑先で誰か別の人間と結婚するようなら、昨日の晩に僕の主治医を訪問したように、おまえを訪問してやる。明日ワイルドさんがおまえの世話をしてくれるはずだ」私は身を翻し、南5番街を駆けていった。恐怖の叫びを上げてルイはベルトとサーベルを落とし、風のように私の後を追いかけてきた。ブリーカー街の角を曲がったとき、彼がすぐ後ろに迫ってきているのが聞こえた。ホーバークの標識の下にある戸口に私は飛びこんだ。「止まれ、さもないと撃つぞ!」と彼は叫んだ。だが私が階段を駆け上がり、階下にあるホーバークの店を放っておくのを見ると、彼は私は追いかけようとはしなくなった。まるで死人を目覚めさせるのが可能であるかのように、彼がホーバークの店のドアをどんどんと叩きながら叫んでいるのが聞こえだ。

 ワイルド氏の部屋のドアは開いていた。私は叫びながら入っていった。「やりましたよ、やりました! 諸国を決起させ、王を見せてやりましょう!」だがワイルド氏は見つからなかった。そこで私は飾り棚のところに行き、光り輝く王冠をケースから取り出した。黄の印を刺繍した白絹のローブを私はまとい、頭に王冠をかぶった。ついに私は王となった。ハスターにおける私の権利によって王となった。私はヒアデスの神秘を知っており、私の精神はハリ湖の深さを測ったことがあるが故に王となったのだ。私は王だ! 最初の灰色の曙光が射すとき、二つの半球を揺るがす嵐が起こる。立っていると私は神経の隅々まで緊張が最高潮に達し、歓喜と私の思考のすばらしさのために頭がくらんだ。そして暗い廊下では一人の男がうめいていた。

 私は獣脂の蝋燭をひっつかんで戸口に駆けつけた。猫が魔神のごとく私の傍らを駆け抜けていった。獣脂の蝋燭がかき消えたが、私のナイフの方が猫よりもすばやかった。猫の悲鳴が聞こえ、私のナイフが猫をしとめたことがわかった。暗闇の中で猫が転げ回る音を私はしばらく聞いていたが、猫の狂乱が収まるとランプをともし、それを自分の頭の上に掲げた。ワイルド氏が床に横たわっていた。喉が切り裂かれていた。彼は死んでいるものと私は初め思ったが、見ると緑の煌めきが彼の落ちくぼんだ眼に現れた。彼の切り刻まれた頭が震え、痙攣が起こって口が大きく開いた。一瞬だけ私の恐怖と絶望に希望が取って代わったが、私が彼の上にかがみ込むと彼はすっかり白目をむいて絶命した。私は憤激と絶望のあまり立ちつくした。私の王冠が、私の帝国が、あらゆる希望と野望が、私の人生そのものが、死んだ師匠と共にそこに伏せっているのがわかった。そして彼らがやってきた。彼らは私を背後から捕え、私の血管が紐のように浮き出るまで私を縛り上げた。狂乱した金切り声の発作のために、私の声は声にならなかった。しかし、私はまだ怒り狂っていた。彼らに取り囲まれて流血し憤激していた。私の鋭い歯で食いつかれた警官は一人だけではなかった。私がもはや動けなくなったとき、彼らは近づいてきた。ホーバーク老人の姿が見えた。彼の後ろには従兄弟のルイの青ざめた顔があった。そして、ずっと向こうの角のところでは、コンスタンスが静かにすすり泣いていた。

「ああ! わかったよ!」私は絶叫した。「玉座と帝国はおまえのものだ。災いあれ! 黄衣の王の冠を戴くおまえに災いあれ!」

[編者の註。昨日カステイン氏は精神病院で死去した]


訳注

  1. この言葉は原文ではフランス語。
  2. 1893年にシカゴで開催された世界博覧会を指す。
  3. このガリバルディ像は実在し、今もニューヨークのワシントン広場に立っている。ストイベサントの銅像に取って代わられたというのは仮構。