何かが向こうから

オーガスト=ダーレス


 大多数の人々は互いの存在を当然のことと考えて特に注意を払わないばかりか、自分たちの存在の全容を同様の流儀で捉える傾向がある。時たま思うの だが、私たちは皆あまりにも万物の理法を不変の法則として受け入れすぎており、その理法を疑ってみようともしない。それでも諸科学の法則は日ごとに変化 し、論破されていく。新しい概念が注目をひき、古いものに取って代わる。新しい概念は、さらに新しい理論に取って代わられるが、その根拠となっている事実 も同様に反駁不可能なものに見えるのだ。

 しかし実際には、ごく最近になって発見された多くの事実は有史以前に初めがある。いわゆる「マルヴァーンの謎」の発端となったのも、そのように遙 かな過去のことだったに違いない。ある程度まで、それはいまだに謎のままである。なぜなら、ハイドストールで見つかったものが何なのか、それがどこから やってきたのか、そもそもどのようにしてそこに居着いたのかを満足に説明できる人間などいないからだ。

 私がその怪異とかかわりを持つようになったのは、リンウォールドの巡査ジョン=スレイドが私を叩き起こした晩に遡るに過ぎない。私の診療所と自宅 を兼ねた建物のドアを彼はどんどんと叩き、私が窓を開けて返事をすると、ウィリアム=キュリー博士に診てもらうためにジョフリー=マルヴァーンを連れてき ましたと告げた。「見つかったときには気が狂っておりましたよ」とスレイドは手短に説明してくれた。私は服を着て階段を降りていき、スレイドが青年を診察 室に連れて行くのを手伝った。何とかジョフリーは倒れ込まずに腰を下ろしたが、今にも崩れ落ちてしまいそうな様子だった。彼は縮こまって顔を手で覆い、す さまじいショックを受けたかのようにガタガタと震えた。

 私はスレイドの方をちらっと見た。スレイドは顎の無精ひげをいじりながら突っ立っていたが、私がしようとした質問を私の眼から読み取ったらしく、 力なく首を振って肩をすくめた。ジョフリーがこの状態でいるところにスレイドが出くわし、すぐさま彼を私の診療所に連れてきたことは明白だった。私はジョ フリーの方へ行き、優しいながらもしっかりと彼の肩に手をかけた。

 彼は呻き声を上げた。だが、たちまち彼の手は顔から滑り落ち、彼は眼を上げた。私は自分の驚きを隠しておけなかった。泥のはねた蒼白の顔を引きつ らせ、視点の定まらない虚ろな眼を憑かれたようにギラギラと輝かせているこの青年がマルヴァーン卿の息子だとは信じられなかった。彼が状況を認識できてい るという兆候は微塵もなかったが、その顔に浮かんでいる表情や、今や眼が灯りに慣れてきたことによる眼差しの真剣さは、彼が誰かもしくは何かを心眼で見て いることの証左だった。彼の顔は引きつりはじめ、唇はわななき、手は固く握りしめられた。

「何があったんだい、ジョフリー?」私は彼を落ちつかせようと問いかけた。

 私の声を聞くと彼はまたもや体を二つに折り曲げ、椅子にすがりついて、錯乱した顔を両手に埋めた。そして、ひどい恐怖に見舞われているらしく、一種の泣き呻く声を上げた──その声は、医師の聞きうるもっとも不愉快な音だった。


 彼が手を前よりも大きく開いたとき、片方の手から石が床に落ちた。自分が石を落としたことにジョフリーは気づいていないようだった。そこで私はか がみ込み、その石を拾い上げた。それはおかしな形をした風変わりな石だった。五芒星の形をしており、人工物であるように思われたが、その憶測が誤りである ことが石の外見からわかった。にもかかわらず、その石は少なくとも部分的には人間の手になるものだった。なぜなら銘が刻んであったからだ。今や部分的に摩 滅していたが、それでも読めないことはないだろうと思われるものだった。実際、銘の後に続く署名と思われるもののうち、AV.V...という三文字までは 読み取れた。その石の年代は測りがたかったが、石が海中にあったことをほのめかす全体的な見かけや摩滅の具合やラテン語の銘文から察するに、少なくとも数 百年の時を経ているらしかった。

 だが、その石のもっとも奇妙な点と、石に初めて触れたときの様子は次の通りだった。石を手にとるや否や、私は奇妙な力を感じた。どこか他の場所か ら私を一種の媒体として通り抜けていく一種の温和な力だった。石を持っている限り、その感覚が失われることはなかった。しかも、特定の方向へと導かれてい るという感覚もあり、ぜひとも成し遂げなければならない何かが石と関係しているかのようだった。今これを書きながら当時を振り返って思うのだが、私が謎を 探索しようと思い立ったのは、マルヴァーンの容態よりもその感覚の方が大きな理由だった。したがって、解き放たれかけていた恐怖からリンウォールドと周辺 の地方を救えたのも、その感覚のおかげなのだろう。

 しかしながら、その時点での私はあまりにも混乱していたので、その強い印象を顧みていられなかった。私はその石をジョフリーの目の前に突きつけ、彼のもつれた黒髪を掴んで頭を上に向かせ、石が彼に見えるようにした。

「これをどこで手に入れたのかね、ジョフリー?」と私は訊ねた。

「石印だ!」と彼は呟いた。束の間、恐怖で一杯だった彼の眼からその色が消え去ったが、彼に私の質問が聞こえた気配はなかった。そして彼は前後に小さく体を揺すりはじめ、とぎれとぎれに独り言を呟きながら、負傷しているかのように呻いた。

 彼に睡眠薬を投与して寝床に連れて行く以外に何もできないのは明白だった。私は投薬を済ませるとスレイドに頼み、海辺を見下ろすマルヴァーン卿の 古色蒼然たる屋敷にジョフリーを私の車で連れて行ってもらった。それからマルヴァーン卿に電話をかけ、ジョフリーが心神喪失の状態で街をさまよっていると ころを発見されたことを説明して、彼に睡眠薬を投与したから可及的速やかに寝かせてほしいと述べた。朝一番で彼を診に行くと私は約束した。マルヴァーン卿 はいつになく態度がぶっきらぼうだったが、それは自分の息子がよからぬことをしたのではないかと疑っているせいだと私は見なした。なぜならジョフリーはた まに突飛な挙に出ることがあり、そのせいで親子の関係は緊張したものになっていたからだ。


 翌日、ジョフリー=マルヴァーンの行動のあらましを知ることができた。前の日の朝、彼は独りで家を出て、海岸近くの低地で長い散歩をしたのだ。曲 がりくねった道を歩きながら、父親の地所の近くにある修道院の廃墟へと彼は向かった。彼がそこに着いたのは昼過ぎのことだった。海浜の道沿いにある修道院 の近くの居酒屋で足を止め、軽い昼食をとったのが午後4時頃である。続いて、今はマルヴァーン家の元庭師が住んでいる小さな田舎家に彼はしばらく立ち寄っ た。彼の様子はまったく普段通りだったそうである。ジョフリーはきわめて打ち解けた様子で冗談を飛ばしてから散策を続けたと居酒屋の主人も元庭師も証言し た。

 彼は5時前に修道院へ戻ってきたのを目撃されている。そして5時から日没にかけての刻限に、リンウォールドの地元民が何人か自動車で通りかかった とき、廃墟の近くにあるイチイの木陰で彼が読書をしているのを見たという。日が沈む頃、教師のジェレミー=コットンが徒歩で修道院を通った。ジョフリーの 姿を見かけた彼は海浜の道を外れ、彼に話しかけようと修道院の庭に足を踏み入れた。そのとき、ジョフリーは廃墟を探り回るのに忙しかったらしい。コットン が姿を見せたとき、ちょうどジョフリーは奇妙な石を見つけたところだった。彼はその石を教師に見せた。コットンが石の形状を説明し、それに彫ってある言葉 を解読しようという彼らの試みのことを詳しく話すのを聞いて、その石は私がいま持っているのと同じものに違いないと私は確信した。ジョフリーがその星形の 石にひどく興味を示していたことをコットンは覚えていた。コットンがいみじくも「過度の魅惑」と呼んだものに、そのときのジョフリーは囚われていた。ジョ フリーが携えていた本について訊ねられると、その本はジェームズの『イングランドの大聖堂』だったとコットンは答え、ハイドストールの大聖堂の廃墟を訪れ てみるつもりだとジョフリーは自分に語ったと付け加えた。ハイドストールの大聖堂の廃墟は修道院から程遠からぬところにあり、地平線のすぐ上に姿を見せて いた。

 私がどうにか突き止めた事実は以上の通りだった。その後のことは皆目わからない。真夜中過ぎになってジョフリーはリンウォールドに姿を見せたが、 スレイドが彼を発見したときのような有様に成り果てていた。夕暮から真夜中にかけての間に何かが起こり、ジョフリー=マルヴァーンを一時的に錯乱させてい るのだ。その謎はかつてなく私の興味をそそった。私が謎を解こうと決意したのが、己の意志の及ばざる力によるものであったことも今はわかっている。だが ジョフリー=マルヴァーンが回復して自分の体験を語れるようになり、なされた発見の正しさが証明されることなど当時は予期するべくもなかった。

 その日の朝、海に臨むマルヴァーン邸を訪問しても謎は一向に解決されず、私はますます困惑するばかりだった──ほとんど変化していないジョフリー の容態のせいではなく、むしろマルヴァーン卿の態度のせいで。この事件のことは誰にも口外しないでほしいと彼は私に頼み、この青年がオックスフォードでし でかしたことと彼の不可解な狂気には関連性があるらしいと会話の端々でほのめかした。しかしながら、謎がすっかり解明されてしまうのは彼の望むところでは なかったけれども、オックスフォードの一件に醜聞として言及することで、謎を解くための第二の手がかりをマルヴァーン卿は提供してくれたのだった。第一の 手がかりは星形の石それ自体であったが、当時の私にはそんなことなどわからなかった。だが、その日の晩になって私は考えを巡らしはじめた。ジョフリーが譫 妄状態で呟いていたこととオックスフォードの事件には何らかの関係があるのではないだろうか? もしかして、五芒星の石とオックスフォードの醜聞にも関係 が? 数件の好ましからざる行状のせいで4人の青年がオックスフォードを退学になり、ジョフリーだけが親の威光のおかげで同様の運命を免れたのだというこ とを私はまざまざと思い出した。

 そこで私はその日の夕刻くだんの石に向かい、付着物をいくらか取り除いて、銘文を解読できるようにした。幸運なことに、もっとも重要な部分はまだ 読むことができた。とはいうものの入念に調べなければならず、キーワードがすべて揃っているという事実ですら私の作業をあまり楽なものにはしてくれなかっ た。完全に摩滅してしまっている語句や文字はほとんどなく、簡単に補うことができた。翻訳してみると、刻まれていた言葉は茫洋と謎めいたものだった。以下 の通りである。

 五芒星は鍵である。造物主の御名において私はこの鍵を用い、汝を封印する。古なる邪悪の落とし子よ、神に呪われしものよ、邪都ルルイエより帰還せんとする狂魔クトゥルーの従僕よ、何者も汝を解放したまうな。
司教アウグスティヌス

 その銘文は、高名な教父であるヒッポ司教アウグスティヌスのものらしかった。石印の正確な年代を知るための事実が初めて判明したのだ。


 石印とジョフリーの錯乱にはつながりがあるのではないかと私は推測していたが、銘文の翻訳はその推測を強めてくれるものだった。そして少なくとも 推断の結果、石印の銘文には「凶悪なこと」への言及がありはしなかったか? 限定的ながら公になった情報によると、オックスフォードでは「凶悪なこと」が あったそうだ。そのとき、謎を解く鍵はオックスフォードの事件にあるのだろうと私は信じるようになった。鍵ではないとしても、鍵を見つける手がかりとなる 何らかの曖昧な説明が得られるかもしれない。オックスフォードを退学になった青年を一人か二人問いただし、彼らが大学当局の不興を被る原因となった出来事 について率直に訊ねてみてはどうだろうか?

 そこで私はソームズ=ヘメリーに電報を送った。自分の退学という結果をもたらした事件のことでヘメリーがタイムズにした投書から彼の住所がわかっ たのだ。できることなら、くだんの醜聞に関係のある若者を他に一人か二人連れてきてはくれないかと私はヘメリーに提案し、ジョフリーの健康と幸福が危うい のだと説明した。

 次の日の早朝、ヘメリーとダンカン=ヴァーノンが到着した。二人ともジョフリーの友人である。両人は快活な青年であるように見受けられたが、張り つめた雰囲気を漂わせており、できることなら何でも手伝うと申し出てきた。二人がジョフリーの容態を知ったとき、彼らの質問は奇妙にも執拗なものとなっ た。なかんずく、ジョフリーがなんと口走ったのかを知りたがった。

「支離滅裂なことばかりです」と私は言下に答えた。それでも、問題の鍵さえあれば、彼のうわごとの意味は充分に明瞭なものなのだと私は思わずにはい られなかった。「何かが向こうから来る!」と彼は何度か口走ったのだ。私はその言葉を反復し、ジョフリーが持っていた星形の石印の話をした。

 ヴァーノンは遙か彼方を見つめ、微かな困惑した笑みを唇に浮かべた。「その石を御覧になりましたか、先生?」と彼はやがて訊ねた。「それはどうなりました?」

 五芒星の石印はキャビネットの中にしまってあった。私はキャビネットのところに行き、石印と銘文の翻訳を持ってきてヴァーノンに渡した。ヘメリーも石印を間近で観察した。二人とも感情の高ぶりを隠しきれず、不思議そうに石印をいじくり回していた。

「ジョフリーはこれを見つけて」とヴァーノンは呟いた。「どうやら何かから引っぺがしたようですね」

「で、それを呼び出したというわけだ」とヘメリーが付け加えた。

「この翻訳はすばらしいですね、先生」とヴァーノンがいった。

「私が知らないことを君たちなら知っているんじゃないかという気がするんです」と私は認めた。

 ここで私たちの会話は遮られた。スレイドが足早に入ってきて、前置き抜きで切り出したのだ。「クラムトン爺さんが死体で発見されました。先生、検死をお願いします」

 クラムトンは一人暮らしの漁師で、リンウォールドの外れの掘っ立て小屋に住んでいた。彼の死は自然死だろうと私はすぐさま決め込んだ。というのも彼は非常な高齢であり、私が物心着いたときから年寄りだったからだ。

「どうして爺さんは外出していたんでしょうね?」と私は打ち解けて訊ねた。

「知っている者は誰もおりません。爺さんが見つかったのは洞窟の中です。あの子たちが古い修道院の下に見つけた洞窟ですよ」

 ヘレミーとヴァーノンはやにわに興味を覚えて身を乗り出した。修道院が持ち出され、今まで知られていなかった洞窟がその下にあるといわれたことには私も驚いた。

「一度にひとつずつお願いしますよ、ジョン」と私はいった。「あの子たちというのは?」

「昨日、迷子になった3人のことですよ、先生」

「済まないが、わからない」と私は認めた。「教えてもらえたらありがたいんですが」

「ヘンリー=コップスのところの2人と、ジバー=クロイのうちのアルバートです」といって、スレイドが話をはじめた。まことに単純明快な話だった。


 昨日の午後、3人の幼い少年が修道院の廃墟に行ったきり戻らなかった。夕闇が迫り、そして夜になったが、それでも男の子たちは帰ってこなかった。 年長の少年たちが捜索隊を結成して出かけていった。ついに迷子の子たちが発見された場所は海岸だったが、そこはリンウォールドをずっと過ぎたところで、修 道院よりもさらに向こうだった。子供たちは無事だったが、怯えきって意識が朦朧としており、どうして自分たちがそんなところにいるのか全然わかっていな かった。その子たちを問いただしてみたところ、奇妙な物語を聞くことができた。子供たちは修道院に行ったのだが、そこで見つかったものは洞窟と、地下へと 続いている通路だった。子供たちは探検しようと通路を降りていった。洞窟の中を這い進んでいくうちに、闇の中で奇妙な塊に突き当たった。暗すぎて何も見え なかったので、子供たちはその塊を撫で回し、外套かマントと思しきもののボタンをひとつ引きちぎってみたりした。そのとき、子供たちの手は顔を探り当て た。子供たちはすっかり怯えてしまい、一目散に逃げ出した。子供たちが思うには、彼らは道に迷ってしまい、この上なく入り組んだ洞窟の中を長い間さまよっ ていたのだ。洞窟は部分的に浸水していたが──水浸しだったという──とうとう子供たちは海岸に出ることができた。捜索隊がやってくるまで、自分たちがど こにいるのか見当もつかなかったそうだ。すでに真夜中をだいぶ過ぎていた。子供たちは修道院で何か見かけたのか? 見かけたということである。ちょうど日 没の頃だったそうだが、詳しい描写は得られなかった。「ロンドンの動物園から何かが逃げてきたみたいだった」と一人の子はいった。

 その子たちが見つけたボタンは、クラムトンの着衣として有名な外套の古い真鍮のボタンだということがわかった。そこで老人のところへ使いが出され たが、彼はいなかった。しまいに判明したのは、ここ何日か彼を見かけた者がいないということだった──ジョフリーが奇妙な発作を起こした日の夕方以来とい うことだ。そのボタンと、漁師が失踪したことと、顔のある奇妙な塊を少年たちが探り当てたこととが相俟って、老人の亡骸を捜索することになった。潮が引い たとき、修道院の洞窟で遺体が発見されたが、その状態は奇妙で不可解なものだった。検死官として、私は葬儀屋に行かなければならなかった。

 ジョフリーが体験したこととの関連性はあまりにも明白であるように思われたので、無視するわけにはいかなかった。私はさらに質問を続けて時間を無 駄にしようとはせず、一緒に来るようヘメリーとヴァーノンを誘って、クラムトンの死体を検視するためにスレイドに同行した。亡骸はまことに驚くべき状態に あった──ほとんど凍っているかのように冷たく、硬かった。実際に凍りついていたのかもしれないとさえ思えたが、そんなことはあるはずがなかった。クラム トンの死因が何であろうと、その命を奪ったものは彼を押し潰していた。クラムトンの亡骸はぐしゃぐしゃになっており、まるで修道院が彼の上に崩れ落ちてき たかのようだったのだ。彼の骨は砕け、肉はずたずたになっていた。

 クラムトンの死体の状態を見ると、ジョフリーの友人の青年たちはますます黙りこくってしまった。私の知らないことを彼らは知っていると私は感じた が、彼らがそれを喋りたがっていないことも理解できた。クラムトンを目の当たりにしたことでヘメリーとヴァーノンは意気阻喪していたが、私が死亡証明書に 署名して葬儀屋を後にすると、彼らは沈黙を破った。

「あまりにも危険すぎて止められないことに僕らは首を突っ込んでしまったようです」とヘメリーはいった。「危険にさらされているのはジョフリーだけ ではありません──彼のためにしてやれることは大してありません。キュリー先生、もしもジョフリーがあの星形の石を持っていなかったら、彼はさっきの死体 みたいになって見つかったことだろうと思います」

「話を続けてください」と私は静かにいった。「君たちがオックスフォードでした『凶悪な行い』がそもそもの原因ではないかと疑ってみたのは正しかったようですね」

 二人ともそのことを否定しなかった。自分たちは訳もなく退学させられたわけではないとヴァーノンは認めた。

 それで、その「行い」とはいかなるものだったのか?

 古の魔術──それよりも悪しきものだ。彼らはそれを実践したのだ。もちろん真剣ではなかった。だが退学処分になったことで、事件はもっと強硬な様相を帯びてきた。

「しかし、君たちは実際にはどんなことをしたんですか?」と私は訊ねた。


 ヴァーノンが話を始めた。

「何もかも偶然に始まったことなんです。ジョフは石印だけを探しに行ったのではないはずです。たぶん、僕らのグループでは彼がもっとも懐疑的だった からでしょうね。彼がもっと本気で信じていたら、自分が星形の石印の秘密を探り当てたときに何を見つけることになるか、わかっていたことでしょう。

「神秘学の中でも一風変わった部分に僕らが出くわしたのは偶然でした。伏せられたままにしておいた方がずっとよかったに違いない部分です。僕らは魔 術書を研究していて、名状しがたい恐怖が妙に暗示されているのに突き当たることがよくありました──黒ミサの隠語の中に見つかる類のものとはちょっと違っ ているんです──そういったヒントがいつも伴っているのは不可解な名前でした。異神とか、旧支配者とか、世界が誕生する前に外宇宙に住んでいた狂気の悪霊 だと称されるものどもです。そういう神々が地球に降りてきて猛威を振るい、旧神に打ち負かされて宇宙の様々な場所に放逐されました──そのうちの一柱は海 底にいます。その神の呪われた落とし子が身を潜めていると伝えられるのは、ルルイエとかライアーとかライヘとか呼ばれる水没した王国の洞窟です。

「もちろん、こんな文章は僕らにはちんぷんかんぷんでした。そういう文章は確かに外宇宙の恐怖を生々しく暗示していて、じれったくなるようなもので した。それに、地球上の至る所で未開人が伝えている古代の伝承には同様の伝説があって、そういう文章と奇妙に対応してるんです。でも、何世紀も秘め隠され てきた物事を教えてくれる書物をヘメリーがとうとう見つけました──ある本は狂気のアラビア人が、ある本はドイツ人の学者が書いたものでしたが、しまいに 『クリサヌスの告白』が見つかりました。同じようにいささか気が触れていたらしい修道士の著作です。同じ時期に別のメンバーが気づいたのですが、とある英 米の作家たちの小説にも不穏な類似点がありまして、その人たちもこの奇妙な神話に気づいているものと思われました。

「クリサヌスは直接ハイドストールに言及していました──つまり、あの古い大聖堂のことなんですが──それからアウグスティヌスの話をしていました ──ええ、ヒッポ司教の聖アウグスティヌスです。クリサヌスの住んでいたハイドストールをアウグスティヌスが訪れたんです。クリサヌスは海辺で五角形の石 印を見つけました。旧神の力の紋章です。そしてクリサヌスは旧支配者とその従僕を怖れていました。海の通路とか、口にするのも憚られる小部屋とか、ハイド ストールの沖合の海中にある恐怖とか、海岸沿いのどこかにある開口部とかについて、『クリサヌスの告白』には不穏な暗示がありました」

「それでは、こうは考えられませんか」と私は口を挟んだ。「昨日あの3人の子供たちが迷いこんだ『通路』というのは、その修道士が言及しているのと同じものだと?」

 ヘメリーは頷き、ヴァーノンが始めた話を続けた。

「クリサヌスの記述によると、彼は人目を憚りながら、その通路に入ってみたそうです。ひどく暗示的な音が遙か海底の方から朧に聞こえてきたことも書 いてありました。クリサヌスが発見した石印の位置を変えたか、取り除いたかしたことで、深みから来た何かのための開口部ができてしまったらしいのです。海 中に没した王国からやってきたものです──あるいは、ただ海中のどこかからといっておくことにしましょうか。その時になってクリサヌスは恐れおののき、ア ウグスティヌスにすがりました。五芒星の力でそのものを呪縛して棺に封じ込め、大聖堂の近くにある修道院の地下室の遙か下に幽閉したのはアウグスティヌス なんです。クリサヌスは狂っているとアウグスティヌスが認めた古い手紙があります。アウグスティヌスはクリサヌスをローマに送り、『告白』は元来ローマで 出版されたものです。ですが現れたものについては、アウグスティヌスは何も述べていません。ただ教皇に宛てて、謎めいた一文を書き送っているだけです。 『何かが向こうから現れたのです。そして岸辺へと帰っていきました。私がそれを始末いたしました』それ以上は何も述べられていません」

 私は若者たちの意を汲んで推論を行った。

「してみると、クリサヌスとアウグスティヌスの記述にある『何か』がクラムトンを殺害し、ジョフリー=マルヴァーンを錯乱させ、通路に迷いこんで3人の子供たちに目撃されたのだというわけですね?」

 二人とも躊躇せずに頷いた。

「古の書物に奇妙な話が書いてあるんです──邪悪なものどもは人間から生命力を吸い取らなければならないそうです。かつての非道な行いを再開できる だけの力を得るには、少なくとも3人の犠牲が必要なのだとか。ひとり死にましたね──今までのところ、一人だけです。古の伝説によると犠牲者は氷のように 凍てつき、ぐしゃぐしゃに砕けているそうです。クラムトンが見つかったときの状態にそっくりです。先生、魔物は今も修道院のあたりに潜んで、別の犠牲者を 捜し求めているんじゃないでしょうか。ジョフが石印を動かし、図らずも魔物を解き放ってしまった晩にクラムトンは失踪しました。できるものなら僕らがそい つを送り返さなければなりません。そいつの母国である海中の王国に」

「なるべく早く修道院に駆けつけた方がいいですね」とヴァーノンが付け加えた。

「ええ、もう夕暮です。魔物は日中は出歩けないようです──今のところは。石印を持っていく必要があります」

 私は医師として懐疑心を抱きながら、この突拍子もない物語に耳を傾けていた。だがヴァーノンとヘメリーの態度には説得力があり、彼らの信念が伝 わってきた。しかも、もしも彼らがほらを吹いているのだとしたら、もっと説得力のある話をでっち上げるはずだということも否めなかった。彼らの話は実際あ まりに途方もなかったので、まさに真実の可能性があったというわけだ。公平無私な第三者に問い合わせて得られたような事実も彼らの話と合致していた。もし 彼らの話が部分的にしか真実でなかったとしても、何か人命にかかわるものが修道院に存在するわけで、その正体を突き止めるために行動を起こさなければなら なかった。


 私たち3人が家を出発したとき、朧な銀色の三日月が地平線近く残照の中で輝いていた。私は星形の石印をポケットに入れて上から片手で押さえ、石印 に刻んである言葉が掌に当たっていた。穏やかな夕べで、海から微風が吹いているだけだった。静かな晩ですねとヘメリーが当たり障りのないことをいい、私が 返事をしたが、それ以上の会話はなかった。

 私たちはリンウォールドの郊外へと歩いていき、草原を横切って近道をしようとしたが、そのとき一人の人物が私たちの方に向かって道を走ってくるのが見えた。ジャスパー=ウェインだった。引退した農夫で、修道院の近くに住んでいる。

 ウェインは無謀なほど猛烈な勢いで走っており、私たちに向かって叫んでいた。彼の方でも私たちが目に入ったのだ。やがて彼は私たちのところに辿り 着いたが、彼がちゃんと喋れるほど落ちつくまでには数分を要したし、それから彼が語った話も要領を得ないものだった。だが、それは確かに大変な話だった。 つい先程まで私が耳を傾けていた話の正しさを裏書するものだったのだ。

 ちょうど日没の頃ウェインは外出しており、双眼鏡を持って散歩をしていた。たまたま修道院の方を観察したとき、影のごときものが動いているのが見 えた。彼が双眼鏡を修道院に向けたまま固定すると、使用人のハーバート=グリーンが馬を連れて海沿いの道を下り、修道院に近づいていくのが見えた。グリー ンが修道院の横を通りかかると、例の影が再び現れて実体化し、道の方へと一定の速さで無様に転がっていくようだった。馬たちは走り出したが、間に合わな かった。影のごときものはグリーンに飛びかかった。数分間グリーンの姿がぼやけ、馬はもうもうと砂塵を巻き上げながら、襲ってきた影とグリーンを引きずっ て走った。それから、そのものは転がりつつ離れていき、廃墟を取り巻いている闇の中へと再び消えていった。馬はグリーンを農場まで引っ張ってきたが、グ リーンは奇妙な死に方をしていた──氷のように冷たく、ぐしゃぐしゃに潰れていたのだ。

「彼はどこにいます?」と私は訊ねた。

「毛布を掛けて、わしのうちのベランダに寝かせてあります。馬は離しました。わしはちょうど先生をお呼びするところだったんですが──でも彼は亡くなりました。お医者様は必要ないです」

「我々は先へ行きます」と私はいった。「リンウォールドに行って葬儀屋を呼んでください。ウェインさんが戻ってきたときに我々がいなかったら、修道院にいると思ってください」

 深まっていく黄昏の中を、ウェインは歩いていった。

「二人目です」とヘメリーがいった。静かな声だったが、ひどく狼狽していることは隠すべくもなかった。


 ジャスパー=ウェインの農園でハーバート=グリーンの亡骸が見つかった。死体を馬の引き革から離したときの跡はまだ顕著だった。私は毛布をめくっ た──そして震えおののきながら眼を背けた。連れの青年たちも震えていた。なぜならグリーンはクラムトンとそっくり同じ死に方をしていたからだ──同じよ うに冷え切り、同じように硬く、同じように組織が潰されていた。一件でも私の心を騒がせるには充分だったが、二件目となると私の心を恐怖で満たして余り あった──起きたことだけではなく、ヘメリーとヴァーノンがしてくれた話に鑑みて、これから起こるだろうと予想されるものも怖ろしかった。

 それでも、もしも何らかの解決策があるとすれば、それを探して見出す私たちの力にかかっているのだということは確かだった。修道院にいるものの二 人目の犠牲者となったズタズタの死体とここで向き合っていても、得られるものは何もなかった。それ以上ぐずぐずしないで修道院に急ぎ、さらなる惨事を食い 止めようとしてみるしかなかった。

 私たちが修道院に近づいたとき、廃墟の周りでは影が濃さを増していた。廃墟のあたりには音も動きも全くなかった。結局のところ私たちは何を探しているのか? いかなる類のものなのだろうか? 私は囁き声でヴァーノンに質問してみた。

「僕にもわかりません」というのが彼の返事だった。「説明もできないほど怖ろしいものです。そうでなかったらジョフの気が狂うはずがありません。でも、そいつがここにいるのだとしても、石印から放射されている力を感じ取っているはずです」

 私たちは身動きを止め、押し黙って待った。夜の声として聞こえるものは、近くの海が寄せては返す音と、彼方で滑空する夜鷹の叫びくらいだった。長 い間、景色には変化がなかった。それから新しい音が聞こえてきた。恐怖を感じさせ、重々しく動いたり引っかいたりする音で、ずるずるという怖ろしい音を 伴っていた。その音が聞こえてくるのは、私たちが座っている地面の下からだった。おそらくは伝説の石棺が隠されているところからだろう。

「ありがたや、僕らには石印がある!」とヴァーノンが呟いた。

 描写しがたい姿が出し抜けに廃墟の直中から立ち上がり、その不格好な巨体の奥深いところから放たれていると思しき吠え声を発した。そのものは一瞬しか躊躇せず、廃墟を取り巻いている低地へと無様に転がり出てきた。そいつが前に進むに連れて速度が増した。

「僕に石印をよこしてください」とヴァーノンが頼んできた。

 私は躊躇せずに石印を渡した。

 ヴァーノンは雄叫びを上げ、そのものの方へ走っていった。ヘメリーと私も彼のすぐ後に続いた。だが、廃墟から現れた妖魔には私たちが見えていない ようだった。そいつは大聖堂の方にどんどん移動していった。後れをとるまいとする私たちは全速力で走らなければならなかった。それでも私たちが追いつく前 に、廃墟と化した教会の中にそいつは姿を消してしまった。屋根のない大聖堂の壁の中に入るなり、ヴァーノンは停止を命じた。ばらばらになるのは良くないと ヴァーノンは警告した。今のところ魔物は石印に対して無力だ。だがヘメリーか私を一人きりにして捕え、石印の力から離れた私たちの一人を殺すことによって 力を増すかもしれない。

 そこで私たちは一団となって妖魔を追いかけ、影に覆われた大聖堂の廊下に足を踏み入れた。私たちは廃墟の中をそろそろと歩いていき、再び引き返し た。それから、もっと勇気をふるって前進した。だが魔物は影も形も見当たらなかった。どこかで進路を変えたのだ。ウェインの家の方に引き返したのではない かと私は懸念した。半時間後、若者たちは意気消沈し、修道院の廃墟かリンウォールドに戻りましょうといった。

 そのときだった。身の毛もよだつような緑色の巨体が廊下の床から私たちの前に起き上がり、まっしぐらに向かってきた。すぐさまヴァーノンが石印を 持って立ちはだかった。そのものは立ち止まった──だが一瞬だけだった。触手が猛然と伸びてきてヘメリーに襲いかかった。だがヴァーノンが前に飛び出し、 石印を楯にした。通廊の怪魔は倒れ込み、口笛のような気味悪い音を立てた。私たちの眼前の暗闇から、悪意に満ちた三眼が輝き、口の役割を果たす器官がその 下で大きく開いた。同時に魔物の体は不気味な海緑色に輝きはじめた。再び魔物は私たちの方に向かってきた。

 それから起きたこととして私が覚えているのは、まるで狂おしく途方もない悪夢だった。外世界からやってきた怪物との戦いは際限なく続くかのように 思われたが、とうとう魔物はハイドストールの大聖堂から鈍重に出て行き、修道院の方に向かった。そこで新たな戦いが繰り広げられた。魔物が地底の通路へと 姿を消すまで、長い戦いだった。

 人ならざる怪物との戦いの末に、私たちはもはや人間ではなくなってしまっていたのではないかという気がしている。私たちはじりじりと魔物を押し戻 して退かせ、ついに魔物は石棺の中に身を潜めた。ジョフリー=マルヴァーンが──私たちは後でそう知ったのだが──軽率にも星形の石印を剥ぎ取ったとき、 まさにその石棺から魔物が解き放たれたのだ。どれだけ戦いが続いたのか私にはわからない。だが私たち3人が疲労困憊して海岸から帰還したとき、もう夜明け だった。石棺は再び石印によって封印され、大洋の深みに据えられている。あの晩の出来事はもはや絵空事めいた悪夢であり、修道院の廃墟で束の間ながら太古 の生命を取り戻した不定形の妖魔と同じように非現実的であるように思える。


 だが、それがどこからやってきたのかは誰にもわからない。いかなる法則によって何世紀も生きながらえ、悠久の時を超えて肥え太り成長し、その恐怖 を遙かな未来にもたらすのか告げられる者もいない。もし何年も時が経って、また別の探索者が再び石印を取り除き、外世界からやってきたものをまたもや解き 放つようなことがあったら? 誰にわかろう? この地球の片隅には、時節の到来を待ちかまえているものが他にもいるかもしれないのだ。