眼を半ばに閉じ
胸の上で手を組んで
あなたの眠れる心から
いかなる意図も永久に払いのけよう(1)
私は歌う 自然を
宵の星々を 朝の涙を
彼方の地平に沈む陽を
存在の中心にて未来を語る空を!(2)
その獣は戸口のところで立ち止まった。何か問いたそうな様子だった。警戒を怠らず、いつでも逃げ出せるようにしている。セヴァンはパレットを置いて手招きした。猫はじっと動かず、黄色い眼でセヴァンを見つめていた。
「猫ちゃん」低い快活な声で彼はいった。「お入り」
猫の尾の先端が自信なさそうにぴくぴくと動いた。
「お入り」と彼は再びいった。
彼の声が安心させてくれるものだとわかったらしく、猫は四つんばいでゆっくりと進んできた。相変わらず彼から眼を離さず、痩せた脇腹の下に尻尾を巻き込んでいる。
彼は画架から立ち上がって微笑んだ。彼が猫の方に歩み寄ると、彼が自分の上に身をかがめるのを猫は無言で見守った。彼の手が猫の頭に触れるまで、猫の眼はその動きを追った。それから猫は耳障りな鳴声を上げた。
動物と会話するのがセヴァンの癖になって久しかった。もしかすると、それは彼が独りぼっちで暮らしていたからかもしれない。彼はいった。「どうしたの、猫ちゃん?」
猫の臆病そうな眼が彼の眼を見ようとした。
「わかったよ」と彼は優しくいった。「すぐやるよ」
静かに動き回りながら、彼はホストの務めを果たすのに忙しかった。皿を洗い、窓敷居に置いてあった瓶から牛乳の残りを注いだ。それから跪き、ロールパンを粉々にして自分の掌に載せた。
猫は起きあがり、皿の方に這っていった。
彼はパレットナイフの柄でパン屑と牛乳を混ぜ合わせてから引き下がった。猫は食べ物に鼻面を突っ込んだ。彼は猫を無言で見守った。時々、縁についているかけらを猫が舐めようとすると、皿はタイル張りの床の上でカチャカチャと鳴った。ついにパンはすっかりなくなり、猫の紫色の舌が至る所を舐め回したので、磨き上げられた大理石のように皿が輝いた。猫はまっすぐ座り、冷淡にも彼に背中を向けて顔を洗いはじめた。
「その調子」たいそう興味をそそられて、セヴァンはいった。「必要なことだからね」
猫は片方の耳をぱたぱたさせたが、振り向こうとはしなかったし、身繕いを中断しようともしなかった。汚れが徐々に取り除かれていくと、猫が本来は白猫だったことがわかった。病気か喧嘩のせいで猫の毛皮は所々がむしられていた。猫の尻尾は骨張っており、背骨の存在がはっきりと見て取れた。だが、せっせと毛皮を舐めているうちに、猫に備わっている魅力が明らかになっていった。猫が身繕いを終えるまで彼は会話の再開を見合わせた。とうとう猫が眼を閉じて前足を胸の下で折り曲げると、彼はきわめて優しく言い出した。「猫ちゃん、悩み事を話してみたまえ」
彼の声を聞くと、猫は耳障りな鳴声を上げた。ゴロゴロと喉を鳴らそうとしているのだと彼は考えた。彼は身をかがめて猫の頬をこすり、猫は再び鳴声を上げた。愛想がよく問いかけるような小さい鳴声だった。その鳴声に彼は返事をした。「ずいぶんよくなったね。羽さえ生え揃えば立派な鳥になれるよ」たいそう喜んで猫は起きあがり、彼の脚の周りをぐるぐる歩き回った。そして彼の両脚の間に頭を突っ込んで頬ずりをし、親愛の意を表明した。彼は厳粛な慇懃さで応じた。
「さて、どうして君はここに来たのかな」と彼はいった。「この四風の街に。5階まで上ってきて、自分が歓迎してもらえる部屋のドアに? 僕がキャンバスから振り向いて君の黄色い眼を見たとき、どうして君は逃げるのを思いとどまったんだい? 僕がラテン地区の人間であるように、君はラテン地区の猫なのかな? どうして君は薔薇色の花柄の靴下留めを首につけているの?」猫は彼の膝によじ登り、彼が薄い毛皮を撫でてやると喉を鳴らしながら座った。
「ごめんよ」猫がゴロゴロと喉を鳴らすのに調子を合わせて、物憂げで宥めるような口調で彼は言葉を続けた。「不躾なことをいうようだけど、僕はこの靴下留めのことを考えずにはいられないんだ。とても古風で趣のある花模様だね。それに銀の留金で留めてある。気になるのは留金が銀だからさ。フランス共和国の法律で規定されているように、縁に刻印があるのが見えるよ。薔薇色の絹で織り、上品な刺繍をしたこの靴下留めが──銀の留金のついたこの絹の靴下留めがなぜ君の細首に巻いてあるんだい? その靴下留めの持主が君の飼主だといってしまったら軽率かな? その人は過去の思い出に生きているおばあさんなんだろうか。優しい人で、君を溺愛していて、自分の大事な私物で君を飾ってくれたのかい? その靴下留めの周囲の長さを見ると、こんな風に考えられるんだよ。だって君の首は細いし、その靴下留めは君にぴったりだからね。だけど、もうひとつ気づいたことがある──僕は大概のことなら気づくんだ──その靴下留めはもっと広げることもできるよね。銀の縁取りをした小穴が五つあるけど、それが証拠さ。5番目の穴がすり切れてしまっている。留金の針がいつも当たっていたかのようだ。そのことからすると、ふくよかな人なんだろう」
猫は満足して爪先を丸めた。戸外の街は静まりかえっていた。
彼は呟き続けた。「なぜ君の御主人は君をこれで飾ってやる気になったんだろうね、いつも自分にもっとも必要な品なのに? ともあれ、ほとんどの時間は必要なものだ。この絹と銀の切れっ端をなぜ君の首に巻いてやることにしたんだろうか? 痩せて汚くなってしまう前の君が鳴きながら寝室に入ってきて朝の挨拶をしたとき、一時の気まぐれを起こしたのかな? もちろん彼女は枕に囲まれながら身を起こす。彼女の巻き毛は乱れて肩に掛かり、君はベッドに飛び乗って『おはようございます、御主人様』と鳴くんだ。ああ、とても理解しやすいな」彼はあくびをし、椅子の背に頭をもたせかけた。猫は相変わらず喉をゴロゴロと鳴らし、彼の膝の上で前足の肉球に力を込めたり緩めたりしていた。
「彼女のことを君に全部しゃべろうか、猫ちゃん? 彼女はとても美人だ──君の御主人のことだけどね」と彼は眠そうに呟いた。「彼女の髪は磨かれた黄金のように重たいんだ。僕は彼女の絵を描けた──といってもキャンバスにではなく──なぜなら虹よりも華麗な陰影と濃淡と色調と染料が必要だったから。眼をつぶって彼女の姿を思い描くしかなかったんだ。必要な色は夢の中でしか見つからなかったからね。彼女の眼を描きたければ、雲のない空から青をとってこなければならなかった──幻夢境の空からね。唇を描きたければ、まどろみの色の宮殿から薔薇を持ってこなければならなかった。顔を描きたければ、幻想的な頂を月へとそびえさせている山々から雪の吹きだまりをとってこなければならなかった──ああ、ここにある僕たちの月よりずっと高いところにある月さ──幻夢境の水晶の月なんだ。彼女は──とても──美人なんだ、君の御主人は」
彼の唇から言葉が出なくなり、まぶたが閉じた。
猫も眠っていた。やせこけた脇腹の上に頬を乗せて上に向け、前足をだらんと緩めていた。
「運がよかったよね」まっすぐ座って伸びをしながらセヴァンはいった。「夕食の時間を乗り切れたんだから。1フランで買えるものしか僕は君に晩飯を出せないんだ」
彼の膝の上にいる猫は起きあがって伸びをし、あくびをして彼を見上げた。
「何にする? ローストチキンにサラダを添えようか? いや? もしかして牛肉の方がいいのかな? もちろん──僕は卵と白パンにしよう。さてワインの代わりに。君はミルクがいいの? いいとも。僕は桶から新しく水を汲んでくるよ」といって、彼は流しのバケツに向かった。
彼は帽子をかぶり、部屋から出て行った。猫は彼を追いかけてドアのところに行き、彼が自分の背後でドアを閉めると腰を下ろして隙間の匂いを嗅いだ。そして狂気じみた古い建物からきしむ音が聞こえるたびに耳をピンと立てるのだった。
階下でドアが開いて閉じた。猫は深刻そうな表情をしていた。ちょっとの間、疑わしげになった。そして神経質な期待で耳を平らに伏せた。やがて猫は尻尾を痙攣させながら起きあがり、音もなく仕事場を歩き回りはじめた。テレビン油の匂いを嗅ぎ、急いでテーブルの方に引き返した。やがてテーブルによじ登り、赤い型取り用の蝋の塊をいじくって好奇心を満足させるとドアのところに戻った。そして敷居の上の隙間を眺めながら座った。それから細い悲しげな鳴声を上げた。
セヴァンは戻ってきたとき厳粛な表情だったが、猫は楽しげで感情をあらわにしており、彼の周りをぐるぐる歩き回っては痩せた体を彼の脚にこすりつけた。彼の手に頭を熱狂的に押しつけ、彼が悲鳴を上げるまで喉を鳴らし続けた。
茶色の紙に包まれた肉の塊を彼はテーブルの上に置き、ペンナイフで細かく刻んだ。また薬用にとっておいた瓶から牛乳を取り出し、炉床の皿に注いだ。
猫は皿の前にしゃがみ、喉を鳴らしながら同時にぴちゃぴちゃと舐めだした。
彼は卵を料理してパンと一緒に食べながら、細切れにした肉に猫が忙しく取り組んでいるのを眺めた。彼は食事を終え、流しのバケツからコップに水を注いで飲み干すと、腰を下ろして猫を膝に乗せた。彼の膝の上で猫はすぐさま丸まって毛繕いを始めた。彼はふたたび喋りはじめ、時たま自分の言葉を強調するために猫を撫でた。
「猫ちゃん、君の御主人の住所がわかったよ。あまり遠くなかった──ここなんだ。この雨漏りのする同じ屋根の下にいるのさ。ただし北の翼だ。あそこには誰も住んでいないと思ってたんだけどね。管理人が教えてくれたんだ。たまたま今晩の彼はほとんど素面だった。僕は君の肉をセーヌ通りの肉屋で買ったんだが、その肉屋が君のことを知ってたよ。パン屋のカバンヌ爺さんが不必要な嫌味をいいながら君の素性を明かしてくれた。君の御主人のことで彼らが話してくれたのはひどい話だったが、僕はそんなものを信じるわけにはいかないね。彼女はのらくらしていて虚栄心が強く、享楽家だと連中はいった。軽はずみで向こう見ずな女性なんだそうだ。1階に住んでいる彫刻家がカバンヌ爺さんからパンを買っていたんだが、僕に話しかけてきた。彼とはしょっちゅう挨拶を交わしているけど、話をするのは今夜が初めてだった。彼女はとてもいい人で、とても美人だと彼はいった。彼は一度しか彼女を見かけたことがなかったし、彼女の名前を知らなかった。僕は彼に礼をいった──そんなに厚く礼をいった理由はわからない。カバンヌ爺さんがいった。『この呪われた四風の街には、あらゆる邪悪なものを四つの風が運んでくるんじゃよ』彫刻家は困惑したようだったけど、パンを持って出て行くとき僕にいった。『僕にはわかってますよ、あなた。彼女は美人なのと同じくらい善良な人です』」
猫は毛繕いを終え、ふわりと床に飛び降りると、戸口のところに行って匂いを嗅いだ。彼は猫の傍らに跪いて靴下留めを外し、束の間だけ自分の手に握った。しばらくして彼はいった。「バックルの下の銀の留金に名前が彫ってある。シルヴィア=エルヴェン。かわいい名前だ。シルヴィアは女性の名前で、エルヴェンは都市の名前だ。パリでは、この地区では、とりわけこの四風の街では、季節ごとに服装が替わるように名前が付け替えられていく。エルヴェンという小さな町を僕は知っている。そこで僕は運命の女神と顔をつきあわせたんだから。運命の女神は不親切だった。でも知ってるかい? エルヴェンでは運命の女神には別の名前があって、その名前はシルヴィアというんだよ」
彼は靴下留めを元に戻して立ち上がり、閉ざされたドアの前でうずくまっている猫を見下ろした。
「エルヴェンという名前は僕にとって魅力的なものだ。その名前は草原と清澄な川のことを僕に告げてくれる。シルヴィアという名前は、枯れた花から立ち上る匂いのように僕の心を悩ませる」
猫は鳴声を上げた。
「うん、うん」なだめすかすように彼はいった。「君を帰してあげるよ。君のシルヴィアは僕のシルヴィアじゃない。世界は広いし、エルヴェンは無名じゃない。それでも、貧しきパリの暗闇と汚濁の中では、この古ぼけた家の悲しき影の中では、この名前は僕にとって喜ばしいものなんだ」
彼は猫を腕に抱え、階段へと続く静まりかえった廊下を大股に歩いていった。1階まで降り、月明かりに照らされた中庭に足を踏み入れて、彫刻家の住んでいる小さな部屋を通り過ぎた。そして再び北の翼の門をくぐり、閉ざされたドアのところに辿りつくまで、虫食いだらけの階段を上っていった。彼が長い間ノックしていると、ドアの向こうで何かが動いた。ドアが開き、彼は部屋の中に入った。室内は暗かった。彼が敷居をまたぐと、猫は彼の腕から影の中へと飛び出していった。彼は耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。静寂は重苦しいほどで、彼はマッチを擦った。彼の肘のところにテーブルがあり、メッキを施した燭台に立てた蝋燭がテーブルの上に置いてあった。この蝋燭に彼は火をつけ、辺りを見回した。部屋は広々としており、カーテンは一面に刺繍がしてあった。彫刻を施した炉棚が暖炉の上にそびえており、火が消えた後の灰で鼠色だった。深く窪んだ窓の傍らの壁龕にはベッドが置いてあった。ベッドからは、レースのように柔らかく細かな夜具が磨き上げられた床に垂れ下がっていた。彼は頭上に蝋燭を掲げた。彼の足許に一枚のハンカチが落ちていた。ハンカチはかすかに香りがした。彼は窓の方を向いた。窓の前にはカナッペがあり、その上には絹のガウンや、蜘蛛の網のように白く繊細なレース様の衣装の山や、しわくちゃになった長い手袋が乱雑につり下がっていた。その下の床にはストッキングや、爪先の尖った小さな靴があり、そして薔薇色の靴下留めの片割れがあった。古風で趣のある花柄で、銀の留金のついた靴下留めだった。訝りながら彼は前に進み、重たいカーテンをベッドから引いた。一瞬、彼の手中で蝋燭の炎が揺らめいた。そのとき、彼の眼はもう一組の眼を見据えた。その眼は大きく見開かれ、微笑んでいた。黄金のように重たい髪の上で蝋燭の炎が輝いた。
彼女は蒼白だったが、彼ほど青ざめてはいなかった。彼女の眼は子供のように安らかだった。だが彼は頭から爪先まで震えながら見つめた。手中で蝋燭の炎が揺らめいた。
とうとう彼はささやいた。「シルヴィア、僕だよ」
再び彼はいった。「僕だよ」
そのとき、彼女が死んでいるということを知りながら、彼は彼女の唇に接吻した。そして長い通夜の間中ずっと猫は彼の膝の上で喉を鳴らし、四風の街の空が白むまで前足の肉球に力を込めたり緩めたりしていた。
訳注