盤珪禅師説法を読む ... 仏心

『ただ今この場にござる人々凡夫は一人もござらぬ。 この場ではみな仏でござるわい。したほどに是をようきかっしゃれ。 皆親のうみ付けたもったは、不生の仏心一つでござる。 余の物は一つも生みつきやしませぬわい。 その親のうみつけてたもった仏心は、不生にして霊明なものにきわまりました。 不生なが、仏心。仏心は不生にして霊明な物でござって、 しかもこの不生で一切事が調いますわい。
 その不生にして霊明なが仏心に極った事を決定して、 すぐに不生の仏心のままでござる人は、 今日より未来永劫の活如来と申すものでござるわい。
(前篇一より)

 では、人はなぜ迷うのでしょうか。

其の迷うと云はいかようなる事でござるぞなれば、 我が身に贔屓がござるに依って迷いまする。 我が身のひいきのござるとは如何様成る事なれば、 先ず何茂の隣の人がことをそしりたる事を聞いては、 それをいかり、其人を見てはにくしきこえぬと思い、 其人の物云う事をもあしく聞き成し、 其人の沙汰あれば悪しきとりなしなど致す事は、 是れ我身にひいき有る故でござらぬか。其の如く、 いかり腹たちますれば、我にそなわりたる仏心を、 修羅道の罪にかえまするではござらぬか。 又、隣りの人が我が事をほめ、悦ばしき事を我に申しきけまする時は、 未だほめらるる事も見えず、悦ばしき事もふり来たらぬに、 早、悦ぶではござらぬか。此のよろこぶ、何事ぞ。 是れ我身にひいきの有る故でござる。
 此の身の元を顧るに、出生したる時は、嬉しき、悲しき、 にくし、つらしと思う念を、親のうみ付けたるにてはさらさらござらぬ。 是れは、出生の後ち智恵が生じました物でござる。此の如く、 身のひいき故に、修羅道に此の仏心がかわり、 人の物がほしと思えば、我れにそなわりたる仏心から餓鬼道にかわりまする。 是を流転と申しまする。是皆、我身にひいきある故でござる。 右の趣を、何れもとっくりと合点なされて、いかり腹立ちも無く、 ほしやにくやの念もおこらず、つらしかわゆしの心もなければ、 是れすなわち不生の仏心でござる。』
(前篇三七より)

『皆、人々、親のうみ付てたもったは、不生の仏心一つばかりじゃに、 我が身の贔屓故、我思わくを立てたがって、顔へ血を揚げてあらそい合い、 俺は腹は立てねども、あいつが言分が聞えぬ不届な事を云いおる故に、 我に腹を立てさせおります、と云て、向うの云分に貪着し取り合うて、 不生の一仏心をそのままつい修羅に仕替え、せんなき事をくいくいと思いはかって、 くりかえし、ひた物、念には念を重ねて相続して止まず、思い得遂げましてから、 畢竟役に立たぬ事を、愚痴さに思い明らめず、愚痴は畜生の因なれば、 大事の一仏心を、そのままつい内証には、上々の畜生にしかえ、 それでつい死ねば、活きながら内証では、仏心を畜生に仕かえて居て死ぬる程に、 死んで後は畜生になろうより外の事はない。
 総じて一切の迷いは、皆、身のひいき故に迷いを出かす。 故に仏心でえ居らず、迷をでかしてつい凡夫になる。 始めより凡夫と云うものはなかったに。 時々縁に逢て、今も古も迷うが故、凡夫となる。 迷わず、仏心の重く尊き事を知て迷わざる時は、仏心なれば是れ仏なり。 或は又、六根の縁に対して我が欲をでかす。欲は餓鬼の因なれば、 大事な親のうみ付けてたもった一仏心を、欲に貪着して、 そのままつい軽々と餓鬼にしかゆる。人は己れが我欲ゆえに、 時々の縁に対して欲を出かして、迷って仏心を餓鬼にしかえながら、 それを知らずして、却って申すは、我が欲は生まれ付じゃに依って、 えやめられぬと云ては、うみ付けもせぬいわれの無き難題を、 つい親に引きかぶせるは、不孝これより大なるはなし。 皆、そうではござらぬか。大きな不孝でござるわい。
 向うに貪着して、身のひいきゆえに、仏心をつい修羅にしかえ、 我がでに迷いますは。向うは如何様にあろうとままよ、 向うに貪着せず、又身のひいきせず、又仏心は仏心のままで居て物にしかえねば、 迷はいつでも出来ませぬ。常住、不生の仏心で日を送ると云う物でござるわ。 然れば即ち、今日の活仏ではござらぬか。決定して今日の活仏でござるは、 さて尊い事でござらぬか。』
(前篇四より)

 では、縁に逢って生じる念はどのようにすればよいのでしょうか。

『不生に成りたいと思召とて、瞋り腹立ち、 惜しやほしやの念のおこるをやめうと思召されて、それをとめますれば、 一心が二つに成りまして、走る物を追うが如くでござる。 おこる念をやめうとたしなみました分では、 永代おこる念とやめうと存ずる念がたたかいまして、やまぬものでござる。 只ひょっとおもわずしらずにいかる事のござろうとも、 又はおしやほしやの念が出ましょうとも、 それは出次第に致し、その念をそだてず、執着を致さず、 おこる念をやめうともやめまいとも、その念にかかわらざれば、 おのずからやまいでは叶いませぬ。 たとい色々の念がおこりまするとて、 そのおこりました当座ばかりにて、重ねてその念にかかわらず、 うれしきにもかなしきにもながく念をかけず、一心を一心に致すがよくござる。 常に心持をかように思召せば、悪しきをもよき事をも、 思うまいのやめうのと思召されねども、自ずからやまいでは叶いませぬ。 瞋りと云うも喜びと申すも、是れ皆、我より生じましたれば、 其の心が滅せいではなりませじ。其にゆだんがござらねば、 善悪におこる念もござらず、尤も、やめうと存ずる所もござらぬ。 しかる時は、生ぜず滅せずではござらぬか。 爰がすなわち不生不滅の仏心と申すものでござる程に、 よくよく御合点致されたがようござる。』
(前篇四一より)

『この仏心は、本源不滅なもので御座れば、生ずると云う事も御座らず、 又、生ぜざる物故に、滅すると云う事も御座らぬ故に、不生不滅とは云いまする。 又、この仏心は唯不生にして働き、一切事が調いまするに依って、 それぞれに任せて、不生で立ち、不生で座り、不生で住し、 不生で行き、不生で寝、不生で起きて、不生のままで働く衆は、 信心は決定の人と云う物で御座るわいの。
(後篇三〇より)