8月の日記

SCENE8:となりの芝生は青くてきれいだ。

ジェラシー?

TVのドキュメンタリーで、『ギャルママ』なるものを見た。若くして母親になっても自分のしたい事が最優先なので、育児は主に同年代の父親がやっているそうだ。彼女(ギャルママ)はまだ19才で青春まっさかりだから【アナタ、母親でしょ?もう少し家族を大切にしなさいよ!】と言ってもねえ・・・て感じだった。

『セレブママ』というのも見た。夫婦でブティックを経営して、お子様もお上品そうでお稽古事を数個こなして、これまた上流階級の子育てってこんな感じなのかとため息がでた。

↑の母親二人とも、【自分の生き方に自信がある】ように見えて、迷いごとなんてほとんどなさそうだった。う・うらやましい。こちらなんか望んでもいないのに心配事はモグラ叩きみたいにひょこひょこ現れるし、落ち込んだり、反対に怒ってしまうことばかりを繰り返してくたびれてしまっている。そして多分そうなってしまうのは、やはり『自分の子供に何らかの障害がある』というのも関係しているような気がする。だってもし↑の『ギャルママ』『セレブママ』達の子供になんらかの障害があったら、今頃(TVで流れていたような事なんぞ)全然出来ないはずだからねえ。

(8月20日記録)

SCENE7:(オリジナルペンライト・よく見るとミニフレディがいる)

次の日、筋肉痛なり。

8月24日で最終だと聞いたので、とうとう観にいってきた『WE WILL ROCK YOU』。いつもは演歌の大御所がリサイタルショーを開くであろう『新宿・コマ劇場』は、ここはロンドンかい?という感じでブラックな建物に変わり、QUEENのメンバーのどでかい写真とフレディの銅像があった。巨大スクリーンでは見覚えのあるライブシーンが映し出されていたが、見慣れているのについ見入ってしまった。中ではカフェがあってもちろんアルコール類も売っていたが、最初はコーラにしておいた。QUEENの展示物コーナーもあって、(フレディの衣装)(ブライアンのギター)(今までのシングルレコード一覧)(フレディの直筆の歌詞)が目の前にあると、何かこみ上げてくるものが・・・。

この日の観客の入りはほぼ満員だった。年代も幅広くて、QUEENの事を全然知らなさそうな若者から、ちょっと思いつめた感じの中年の女性(あ、ワタシか)もいた。

年配者たちは、《まだ若くて未来に対する夢がいっぱいあって、毎日大した悩みもなく生きていた時代によく聞いていたQUEENの音楽》を、《その『青春時代』へのツーンくるセンチメンタルな思い》を感じるために来たのか?又はあの若い時から随分年月が立って、色々あって様変わりした自分の“LIVE感”を確認に来たのか?パンフレットで見るブライアン・メイとロジャー・テイラーの写真を見て、自分同様彼らにも確実に時は流れているなと思い知らされて、「お互い老けたよね。」と苦笑したりしてね。

出だしに『INNUENDO(風刺)』が流れた時は、思わず涙が出た。―で、最初から最後までQUEEN三昧!CDでいつも聴いている曲が生サウンドというのは、実に気分爽快!まあ舞台のミュージカルを見る位置としては、斜めで見づらかったけど、生バンドがちょうど至近距離の斜め上(上の一角で演奏していた)だったので、音楽的には大満足。1部からこぶしがでていたけど、2部にはペンライト(300円也)をわざわざ購入してペンライトをつきあげるは、振り回すは、手拍子打ちっぱなしだわ、最後はスタンデイングして「We Will 〜We Will〜 Rock You!」と叫んでいた。いつもの冷静なワタシ(?)はどこかへ消えていた。

ミュージカルの内容はネタバレになるからここでは余り言わないでおこう、結構笑かしてくれたけど。特にレマン湖からフレディの銅像が出現するというシーンは強烈だったな。そしてその銅像が指し示している腕の位置がイギリスはウェンブリーホールというのも、「ダハー」ものではあった。ブライアンの事を「毛深いギタリスト」と言って(そうか、ブライアン毛深いのか)と妙に再確認してしまったし。でも『若くして亡くなったミュージシャンの写真』としてエルビス・プレスリーや、ジョン・レノン、日本のヒデ(XJAPAN)や尾崎 豊まで紹介したのは、(お、真面目に扱っている)とちょっと感心した。ミュージカルって初めて経験したけど、皆さん歌お上手で、【フレディ以外の人が歌うQUEENなんて】と偏見は払拭された。だから、今度ボーカルがポール・ロジャーズになったQUEENのコンサートは観にいこうかな〜と考えている。

QUEENはねえ、(ビジュアル系)(アイドルっぽく)(キワモノっぽく)最初デビューしたし、その後もフレディ・マーキュリーがエイズで亡くなったから(ゲイだったから)どうも色眼鏡でみられがちだったと思う。実際フレディが危篤だとの噂があった時期、QUEENのMTVが街頭で流れているのをぼんやり眺めていたら、そばを通った若者が「エイズだってな。いかにもだな。」と嘲笑していたのを悲しく記憶している。でもさ、エイズだろうがなんだろうが昔のロックミュージシャンって破天荒な奴らって結構いたがな。ドラッグやアルコールで命を落とした人たちなんぞ何人いるやら。・・・色眼鏡で見られがちだったけど、今は評価は高いと感じる。30年活動してきて、初期の曲『WE ARE THE CHAMPIONS(伝説のチャンピオン)』『WE WILL ROCK YOU』が現在なおも、いろんな場所で使われている・・・て他のロックグループではないのではないか?それはね、彼らの書いた曲は演奏もさることながら、歌詞がいいんだよ。(何訳のわかんないこと歌ってんだ?)て難解な哲学みたいではないし、(しょーもないこと歌ってやがる)ていう風でもない。もちろん単純なラブソングもあるんだけど、【情景が浮かぶようなストーリー性があるような歌詞】なんだわ。一つの曲の中にドラマが見えるよーな・・・。また、サビの部分がその時々の自分の心情にグサッとくるというか。(曲を聴いて感動するというのは歌詞にグッとくるって時にあるよねえ?)

事実、ワタシ自身ここ数年シンドイ時期が続いていた時、自分の抑えがたい様々な感情をQUEENの曲で代替(だいたい・他のもので代えること)していた。猛烈に自分の周りの人間に怒りをもった時は【地獄へ道連れ】してやる!とか【鉄槌を下してやる(Hammer To Fall)】!と、腹の中で罵っていた。孤独や困難にに打ちひしがれている時は【誰か私を愛してくれ(Somebody To Love)】【誰か私を救ってくれ(Save Me)】【押しつぶされそうだ(Under Pressure)】【It's A Hard Life】と泣きそうに祈っていたし、自分を取り巻く閉塞感を打ち壊してやりたい時は【We Will Rock You】【We Are The Champions】【Breakthru】【The Show Must Go On】【One Vision】【Innuendo】で 風が吹き抜ける荒野にただ一人立っているような気分だった。

INNUENDO

While the sun hangs in the sky and the desert has sand / While the waves crash in the sea and meet the land / While there's a wind and the stars and the rainbow / Till the mountains crumble into the plain /  Oh yes we'll keep in tryin' Tread that fine line / Oh we'll keep in tryin' yeah / Just passing our time・・・・

太陽が空にあり、砂漠に砂がある限り/ 波が海に砕け散り、大地と出会う限り/ 風と星と虹のある限り /山々が砕けて平原になるまで/ そうさ僕らは努力を続ける/ 堂々と道を歩むんだ/ ああ僕らは努力を続けて/ 人生を過ぎてゆく・・・・・

QUEEN『INNUENDO』より一部抜粋

フレディと他メンバーは彼自身の病気の正体がわかった段階で【いずれ自分達に“死”という名の別れが来る運命】を予想したはずだ。その運命に抗って戦おうと努力していたのではないだろうか?だから彼らの最後の方のアルバムは何か“他を寄せ付けない強さ”を見せ付けてくれる。フレデイ・マーキュリーは、自らの死への恐怖その他諸々の感情をQUEENの楽曲に芸術性の高いものへと、昇華させたのだ。どちらにしろ、凄まじい強い精神の持ち主だったんだろうな、QUEENのメンバーは・・・。

ワタシは若い時分より、今の方がQUEENの曲でエネルギーをもらい、心の支えになってもらっている。そして多分これからもずっと。

(8月17日記録)

新宿コマ劇場その@ そのA

そのB・若いフレディ歌っています。 歌舞伎町にいたクマさん

SCENE6:EAT ’EM AND SMILE(訳:ヤツラを喰って笑っちまおうぜ)

←ダイアモンド・デイブ

↑の題名はVAN HALEN(USAハードロックグループ)の第1期ヴォーカリスト/デイブ・リー・ロスがグループ脱退後に出したアルバムのタイトルである。デイブが脱退した当初はそれはそれは壮絶な悪口合戦(正確に言うと、VAN HALEN側の方が凄まじかった)だったので、おのずとアルバムタイトルにも影響が出たのだろう。脱退前に出た大ヒットアルバム『1984』の時来日してくれなかったので、このニュース(脱退→不仲)はとても残念だったのを憶えている。今は全然VAN HALENも、デイブ・リー・ロスの新譜も買っていない・・・。『1984』のアルバムがヒットしていた当時はよく洋楽の音楽雑誌を買ってインタビュー記事を読むのが好きだった。多分実家に行けば、QUEENやVAN HALENが表紙の『MUSIC LIFE』が物置あたりに在ると思う。今オークションで出したら、プレミアものだろうか?(出さないけど。というか、ちゃんと探せよ。)

・・・で、今はすぐ手元に日本のミュージシャンのインタビュー記事集がある。1994年出版だから、約11年前だ。ミスチル(Mr.Children)がそろそろ大ヒット出す頃で、スピッツがぼちぼちメジャーになりかけてきた頃で、GLAYとLUNA SEAがまだビジュアル系の頃の記事が載っているのだが、「ククク・・・」ワタシ的にはすんごい受けた記事が載ってあったので是非紹介してみよう。

この中に、『黒夢』というビジュアル系暗めをイメージしたバンドがあった。ボーカルが清春(キヨハル?)クンで3人組らしい。彼らのページの最初の説明はこうである。

TITLE:僕のテーマは「正常な人間が自分をどこまでいじめられるか?」ということです。

TITLEの説明:―これはメジャー・デビュー・アルバム「迷える百合達」リリース直後に行ったインタビューで、・・・・(以下略)

で、インタビュー記事にとある歌の事を彼自身の口から説明があったが、これがまあ爆笑ものだった。

(清春クン)何でも全部悪い方向へ考えてしまうんです。(略)差し出し人の名前がない手紙を読むのも怖いし、部屋をノックされてもビクッとします。慣れている人や「今日こういう人と会いますよ」という前フリがあればともかく、人と会うのも・・。その辺は自閉的なんですよ。

(イ)―ま、実際に『autism―自閉症―』の歌詞の中で、“僕はおかしい”と言い切っちゃってますけどねえ(笑)

(清春クン)今回のアルバムの歌詞は、映画を見たり、本を読んで感じたことを歌詞にしているんではなく、全部リアルな自分ですからね。(苦笑)・・・(以下略)

(イ)―それはバンドが存在理由だということですよね。でも、そこで唄うことで、自閉的な自分がフィードバックしてくるわけでしょ?その辺がよくわかんないなあ?

(清春クン)う〜ん・・・(しばし考える)・・・『自閉症』に関して言えば、自分のことを「自閉症だ』と言ってしまう快感があるんですよ。“隠す”ということは誰にでもできますよね?

(イ)―そこなんですよ、わかんないのは。少なくても、普通は隠す人の方が多いよね、特にそういうネガティブなことは。

(清春クン)でしょ?でも、僕は全部公言したいんですよ。「自閉症だ」とか、普通はなかなか言いにくいじゃないですか?でも将来的には「僕は過去にこんなことをしているから、こういう歌詞が書けた」ということを全部暴露してしまいたい。ま、徐々にもれてきているところではあるんですけどね。

・・・・・・・以下略・・・・・

【INTERVIEW FILE CAST 1994 VOL.10】より抜粋

実におもろい。というのは、↑で言っている『autism―自閉症―』はリリース直後(だと思うが)猛烈な抗議を受けて、絶版になったのだ。絶版になっているから一度も聴いた事ないけど、歌詞も相当問題あったんだろう。レコード会社も平謝り状態だったらしい。せっかくメジャーデビューを果たしたというに、しょっぱなからケチ(というか汚点)がついて、その点に関しては妙に同情してしまう。結局『黒夢』というグループも解散してしまったようだ。

まあ、これがもし本当に彼自身が自閉症の当事者だとしたら、抗議を受けても「でも、本当にボクはそうなんです。」と言い張ればよかったんだよ、専門医の診断書を付けてもらってね。そうすれば、逆に【カミングアウトした偉い人】という評価があったかもしれない。そう言えなかったという事は【清春クンは自閉症ではない】という証明で、大いなる勘違いだったというわけだろう。ジョークの一つも言わないビジュアル系ミュージシャンが自己愛に浸りながら話している内容が超ウルトラギャグだったとは全く「アッハッハー」なもんだ。

今の清春クン本人にワタシからインタビューしたいものだ。「あなたは過去に『自分は自閉症だ』と歌って抗議受けて絶版になってしまったけど、そういう過去についてどう思いますか?」なんてね。

よくマスコミ関係で【自閉症についてのまちがった見解⇒大体が、(根暗)(閉じこもり)(内向的)と勘違い】があるが、怒りたくもなるが笑い飛ばしてやろうとワタシは思う。【↓とおんなじなんだ】と思うようにしている。

(父)「・・・それで?」「どうなんだ?おとうさんの具合は」

(母)(フッ・・)(青い顔して)「心臓は前から悪かったんだけどとうとう入院したって」

「今日兄さんが病院で説明してもらって来てね」「手術で心臓にヘルスメーターうめこむって・・・・」

【ヘルスメーター】

(みかん)(父)(笑いをこらえている)「そりゃペースメーカーだろ・・・・・」

(母)(青い顔のまま)「ハア・・・こわいねえ・・・」とつぶやく。

 

「あたしんち」けらえいこ作・一巻より抜粋

まあ、人間誰でも間違いはあるわな・・・・。

ね、笑えるでしょ?ビジュアル系のミュージシャンが『あたしんち』のお母さんだったなんて・・・。ちなみにこの『あたしんち』は1995年出版である。

(8月16日真夜中記録)

SCENE5:イマジン

想像してごらん〜♪

先週はつい、日テレ『女王の教室』を娘と見てしまったが・・・いいのか?こんなシーン流して?と心配性のおばさんは考えてしまった。そりゃあドラマ全体の流れを見て、つくづく『寓話性の高い、どっかとある宇宙のとある小学校の話』だとは思うよ。ストーリーの流れを掴める人なら刺激的なシーンを見ても、面白がることはできるだろう。しかし、全ての視聴者がストーリーの内容を理解できるとは限らないし、断片的な刺激的なシーンのみ頭に残してしまう人もいる。

その刺激的なシーンってさー、・・・児童が教室でヤケクソになって担任に向かってカッターを振り上げて向かっていくっていうのは・・・いいのかなー?正直言って、刺激を通り越して嫌悪感が出たぞい、ワタシャ。教室、カッター、手に怪我、・・・・現実に数件あったではないか似たような事件が。ずい分昔に【若い女性教師が教え子に刺殺された】ってあったよ。それに友達間のトラブルで同級生が・・・・(以下略)

最初のシーンで【自分(担任)に歯向かった児童の机を教室から出した】のシーンもイヤーな記憶がよみがえった。よみがえりついでに、つい娘に囁いてしまった。

「本当の怖い話教えてあげようか?」「何?」「おまえの学校でつい数年前、ある子がどうしてもストレスからか教室に入れなくなっちゃったんだって。」「・・・」「保健室登校ならできるってことで・・・。」「どうしたの?」「当時の担任が教室にあるその子の机をサッサと保健室に運んでしまったんだと。」「えーーー!」「それって“この教室にはもうお前の居場所はないぞ”って知らしめたのと同じだよね。」「・・・」「ああ、恐ろしい。これが現実だよ。目覚めなさい。」「・・・ママがそんな事言うな!」

自分が担任をしている児童のストレスの原因を考えよう/ストレスを無くしてあげよう/などとはと考えずに、【あっそ。教室がダメなら保健室でがんばってね。】と【その子と自分との関係性を断ち切った】と受け取れまいか?机不足だったのではないかと思う?フフッ この学校がある市は、統廃合された小学校がいっぱいあるから、余って仕方がないんだよ。

その担任は異動してもういないが、でも東京のどこかで教鞭をとっているんだろう、平気な顔して。

『自分の娘に耳障りな実話を話してしまうワタシは・・・アクマ?かもしれない。』と杞憂していたワタシだが、このドラマのエンドの展開で娘は【よかったー!みんな仲良くなったね!】と小躍りしていた。TVの前でクルクル踊っていた。・・・心配しすぎた。

(8月15日記録)

自家製カキ氷メロンとアイスクリーム

SCENE4:心も体も寒いのよ。

又、熱が出た。

今日は藤沢まで息子とお出かけした。ホントはとーっても行きたくなかったのだが、ご本人が「どうしてもママ(ワタシ)と一緒じゃないとヤダ!」と喚くので仕方なく一緒に行動した。しっかしまいったねー、どこに行っても、【冷房が効きすぎ】なのだ。元々ワタシはすごく汗かきなので、汗で瑞々しく(ミズミズしく)なっているワタシが冷たい風にあたると、その“冷たさ”が余計身にしみるのだ。寒さを防ぐ用の衣類なんぞ、思いつきもしなかったし・・・。

暑いのと寒いのと極端に経験したので、家に帰ってきたら、又風邪症状になっていた。頭がぼーーとしてしまい、体の節々が少々痛くなっていた。(←体の筋肉痛は熱が出始める時の合図)熱を測ったら37.5だった。急いで薬を飲んだので、どうにか又復活した。

暑がりのワタシには冷房が不可欠なのだが、【冷房効きすぎ】はちときついなあ・・・。体がくたびれるう・・・。

(8月12日記録)

SCENE3:Walking On A Thin Line With My Son(USAのロックバンド・ヒューイ・ルイス & ザ ニュース 参考)

Thin=か細い・貧弱・荒れた

息子を連れて【お出かけ】する時は、外見(そとみ)上は平気な顔をしているワタシだが、内心はいつも「何か起きはしないか?」とハラハラしているのである。公共の場に彼が出ると、どーしても何かあるのだ。別にとんでもない事をするわけではないが、どーしても一般的ではない行動をするのである。そして本人の主張が見かけとはそぐわない幼いもの故、妙に目立つし⇒よって(失笑)(軽い非難)が発生し、ワタシは頭が瞬間湯沸し器状態になって息子に八つ当たりしてしまうのであった。・・・つい↓のような説明文でも息子のTシャツの後ろにでも貼り付けようかとも考えるが、どうだろ?ここまで神経質にならなくてもいいだろうか?
この子は障害を持っています。

今社会のルールを学んでいる最中です。

どうか温かい目で見守ってください。

でも、最近どうも他人の目が厳しいように感じて仕方がない。《自分たちに迷惑かけるな!》と咎められている様に感じる。疲れるんだよなあ・・・。

息子のどーしても一般的ではない行動とは例を挙げればこうである。

●外食してお店から出たら、店員さんが「忘れ物ですよ。」とある物を丁寧に持ってきてくれた。しかし、彼の頭のスケジュールには(店員さんが急に自分を追いかけてくる。)というのは入っていないので、非常に動揺して、「もう一回、お店に戻って、出直す!」とわめく。「ありがとうございます。」なんて言えやしない。(急なハプニングに非常に弱い)

●人の波をかき分けて前に進みたい時は、周りの人に「ピーピー!」と言いながら、移動する。「ピーピー!」とは警笛を鳴らしているつもりらしい。「そういう時は“失礼します”と言うのよ。」と教えているのだが、本人からすれば、「ピーピー!」が何故その場にそぐわないのか今一わかっていない。

●電車に乗るときはほぼ(一番前)(一番後ろ)で『運転席が見える所』に執着する。そこに既に他の人がいたら、「どいてください!」とお願いして無理やりその位置をゲットしたがる。・・・いや別に無言で割り込みしている訳ではないから“悪いことしているわけではない”が、一般的にはその場に執着するってのはないでしょ?ましては先客が小さい子供だったら、(なによこの子!大きいくせにわがまま言って!)となってしまう。

●自転車に乗れば、前方に他の人がいた場合は、馬鹿丁寧にベルを何回も鳴らす。別に悪い事じゃないが、《なんだ、うるさいな。》という目で見られる。最近、ベル鳴らす人っていないものねえ。

ならば、「そんなにストレスに感じるなら、息子を外に出さなければいいじゃない。」となるか?でも家にずっとこもらせているというのはどうよ?自閉症であろうがなかろうが、外の世界を学ばないというのは不健全ではないだろうか?ましてや(イマジネーションの障害)を抱えている人間が家にずっと居て、いざという時に外に出たときに“どう動いていいのか”機転が利くわけあるまい。ならば、少しずつ外の世界に慣れさせて社会のルールを実地研修(変な言い方だが)させておくに越したことない・・・。

という感じで親のワタシからすればある意味悲壮な決意での【お出かけ】なので、運悪く何かあると、めちゃくちゃ落ち込むかプンスカ怒りまくるかの繰り返しをしている。先日は帰りの電車の切符を急いで買いたい息子は券売機に突進していった。(周りに人がいるのに気がつかず)そうしたら後ろの幼児3人連れの若親父が聞こえよがしに「脇から横入りした。」と2〜3回も言いまくったので、息子をどうにか券売機の前から引き剥がしたが・・・・。よっぽど「この子は○○で◇◇なので、周りの状況が見えないときがあります。一生懸命公共のルールを教えているのですが、上手くいかないのです。大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうか許してください。」と言ってこれ見よがしにに土下座でもしてやろうかと思った。

でもさ、“切符買う時の横入り”ってそーんなに悪い事かなあ?そもそも切符買うときって、上の運賃表を眺めてボーとしている人って結構いるではないか?「さっさとお金入れなさいよ!」て言いたくなる人もいるじゃない?「ボーとしているなら、お先に失礼!」て言いたくなるさ!(そうさ、どうせ自己弁護さ)・・・それに電車に乗るときに、もっと目に余る行為をしている人達っていっぱいいるじゃない?

大体、他の人(健常な人)だって社会性がなっちょらん“ルール違反”している時あるじゃない。それなのに【どーしてこっちばかり責められるのかなあ?】と思うことが度々ある。

健常な人達の“なっちょらん行動”で目についたものを挙げるとこうである。

◆○クドナルドでミニスカートの女子高生が足広げて隣の椅子に片足乗っけてハンバーガーを食べていた。「スカートの中見えそう・・。」というか、「そんなカッコで食事しないでよ。」だった。自分の子供に『行儀よく座れ!』といつも言っているのが空しくなる。

◆バスのシルバーシートに平気な顔して座っている人が多すぎる。この間なんぞ他の席が空いていても、若々しいおばあちゃんと孫が平気な顔して座り込んだ。・・・・以前バスの(息子にとってのこだわりの席)がいっぱいだったからシルバーシートに座ろうとした。既にそこに座っている人が「私は障害を持っていて手帳もある。それでも立てというなら立つけど。」と言われてひっじょーに頭にきたので、「この子だって自閉症です!」と捨てゼリフを吐いてバスから降りた。泣く息子を引きずって1時間近く歩いて家に着いた。その後ワタシが息子の『愛の手帳』を申請したのは言うまでもない。そんな思いまでしたシルバーシートに【どう見ても健常じゃん!】て人達がへーきな顔をしてしれっと座っているのを見るとムカツクんですけど。

◆・・・大体さ、バスの車掌さんは「(席があるなら)座ってください。」と息子が立っている時によく言う癖に、同じシチュエーションでも口答えしそうな学生には何も言わないのだ。不公平だ。(ちなみに、息子はバスの中で立っている時は全然フラフラしません。それに立っているのは自分のこだわりの席が埋まっているという息子なりの理由があるから。)

健常な人のルール違反はみんな何となく見てみぬ振りするのに、《ハンデのある子供の目立つ行動》には鋭い冷たい目を向けがちに思える。

多数派の健常な人に問うてみたいものだ。

「本当に出来なくて行動が×になってしまう人」 と「本当はたやすく出来るのに、やろうとしないで行動が×になる人」と

どっちが始末に悪いのか??と。

ここ2〜3日、今度はワタシが夏風邪で調子がスキッとしないので、思うことが悶々としていますな。だるくて・・・。

(8月12日記録)

息子の学校で育った夏野菜

SCENE2:またかよ、都電荒川線

よくまあ取材材料に事欠かないな、と思う。

マニアックな電車好きの息子は毎週土曜日は日テレで午前9時30分から放映される『ぶらり途中下車の旅』が大好きである。俳優、タレントのレポーターが東京都内の電車に乗って、あちこち下車して近所をぶらついて、おいしそうなお食事拠で舌鼓を打ち、珍しそうな場所を案内するという趣旨の番組である。息子は用事があってどうしてもリアルタイムで観れない時は録画していないと気が済まないほどなのだが、本当の所、番組の内容自体にはそれ程興味は深くない。ただ(今日の出てくる路線は○○線)(次は◇◇駅だ)などに注目している。マア毎週そういう感じなので、自然に親もこの番組を眺めているのだが、8月6日は「またかい!都電荒川線だよ!」だった。

最近他局の鉄道関係の番組でもやたら取り上げられているのだよ、『都電荒川線』。なんなんだよ、そんなに取材する程珍しくて貴重なのか『都電荒川線』?・・・まあ推測するに、(レトロっぽい)(電車から降りてほんのちょっと(a little bit)歩けば色々なお店がいっぱいある)(下町情緒溢れて人情に触れやすい)てな所か。これがニュータウン方面の路線を行ってみな、お店一つ探すにも20分は歩かないとなーんにもないからねえ。だからTVで『都電荒川線』を扱うのは、実は合理的なわけなんだ。

8月6日のレポーターは【ジャズドラマーのつのだひろさん=(メリー・ジェーンの人と言えば有名な)】だった。途中下車ばっかして(とろろごはん)(塩あんみつ)を食べて、小学校を覗いて不信がられたり(冗談です)、成り行きでとある小学校の楽団の見学⇒アドバイスをしたら途端に調子がよくなる楽団⇒そこの児童に「太鼓叩けるの?」なんて聞かれてプロ根性を見せてしまう⇒あげくは教師からのリクエストで本格的ドラムを児童の前で披露・・をしていた。【プロのドラマーの技】を目の前で見るという実にラッキーな小学生達、彼の素晴らしい技に目が点の口ポカーン状態。・・・ワタシも口がポカーン。この番組でそういうシチュエーションが出現するとは!と驚いてしまった!いや、番組作る際に事前打ち合わせはあったと思うよ。でも普通『小学生の前でプロのミュージシャンが自分の技をひょいと見せてしまう』なんてことって滅多にないっしょ。すごーい!この時の【プロの技を目の前で見た小学生】は感動して、「自分も音楽をやろう!」と決意するのであった、じゃんじゃん。

       

まあ、つのだひろさんだったからできた事ではあるが。これがレポーター常連の阿藤 快さんだったら?太川 陽介さんだったら?ところで昔NHKで『レッツゴーヤング!』というアイドルがいっぱい出る番組があったが、太川さんギター弾きながら『チンチン電車に乗ってゆらりんりん〜♪』って歌っていなかったけな?記憶違いだろうか?でも太川陽介と言えば、「ルイルイ!!」だな、やっぱ。そして渋谷哲平といえば「DEEP!青い海〜♪」・・懐かしすぎる・・。おっと、ついワタシの頭の(長期記憶装置)が働いてしまった。

(塩あんみつ)美味しそうだったなあ〜850円だと記憶しているが。最寄駅は庚申塚だったはず。そうか、後でHPを見ればいいのか。・・・息子と同じ事しようとしているワタシ・・・。

(8月6日記録)

SCENE1:HEAT OF THE MOMENT・〜発熱〜(USAのロックバンド『AISA』参考)

燃えろ、いい男といい女?

暑すぎる。ただでさえ暑いのに、息子が高熱をだした。でも一日で治った。と思ったら今度はオットが同じように熱だした。夏風邪が流行っているらしい。息子には「そばにいったら伝染っちゃう?」と避けられている。オイ、元はお前だろうが。

息子は毎日鉄道関連のHPを勝手に検索して、飽きもせず同じ内容を吟味して喜んでいる、まあそれが『趣味』なのだが。最近は8月24日に『つくばエクスプレス』が開通するとのことで、「後何日。」と毎日カウントしながらルンルンしながら待ち続けている。また、8月下旬にある『プラレール展』にいつ行こうかと思案中である。この『プラレール展』では(プラレール電車釣り)というのがあって、『黄金の新幹線(市販されていない)』をうまくすればゲットできる。希少物なのだが、息子本人は今一執着していない。現実には『黄金の新幹線』なんて走っていないから、(違うじゃん)とでも感じているのか。

注意:タダではない、プラレール釣り

実は我が家は『ブラレール天国』と言えるほど関係グッズが溢れている。元々“飽きっぽい性格の幼児”の息子が徐々に集中しだしたグッズが『プラレール』だったので、親は“この子が落ち着いて遊べるなら”とグッズを積極的に集めてしまったのが始まりではある。そうやって作り上げてしまった『鉄道オタク』の行き着く先はどこなのだろう?ちなみに小学高学年の現在は、(毎月『鉄道ファン』をジイチャンに買ってもらっている)(電車の運転席/線路/道路/を寝そべりながら描いている)。

時刻表をじっくり読むのが趣味になるのか?Nゲージ作りに情熱を傾けるようになるのか?それとも日比谷公園で毎年開催される『鉄道博覧会(という名前だったと思うが)』でグッズを買い込むようになるのか?ちなみに数年前に同博覧会で我が家がゲットしたのは以下のもの。↓ 息子の何らかの手書きが入っているからずい分汚くなってしまった。
京王線の路線図(拡大版)

この所毎週木曜日の夜はTVドラマ『菊次郎とさき/テレビ朝日系』『電車男/フジTV』を母子3人で夜更かしをしながら観ている。いやワタシャ最初は『電車男』の方には全然興味はなかったのだが、『電車』というフレーズに息子が勝手に反応して(自分のことだと思っているのか?)録画しだすし、リアルで観ながらゲラゲラ笑っているしで、(そんなに面白いの?)て感じで一緒に観だしたのだ。  結論:菊次郎にしろ、電車男にしろ(不器用で、要領よく世の中渡っていかれない人物)には共感するわな。『菊次郎とさき』は原作を読んだが、当事者達(北野 武のお兄さんなど)は「自分たちの子供時代には余りいい思い出がない。辛いことの方が多かった。」と書いているにもかかわらず!TVを観ている側は「古き良き時代の親子関係っていいわね。」なんてほのぼのしちゃっている?様に感じる。本人達には辛い日々だったのに、他人からすればヒューマンファミリードラマということかね?

・・・似たような感触を思い出す。我が息子がカンシャク起こして泣きながら怒っているのに、第3者から見ると【ありゃまあ、そんな事で怒るなんて可愛いわね。】なんて取られるとずっこけそうな気分になる。所詮『ひとごと』だからね。でも、「大変な目にあっているんですねえ。可哀想に。」と取られると逆にムッとしてしまうだろうな。(じゃあどっちがいいんだよ!)

娘は今『女王の教室』(日テレ)を感情移入して見ている。ちらっと見たけど・・・・不愉快だ。全部ウソ臭くてというか、まるで少女マンガだな。まあ、ワタシの場合現実の方がもっとシビアだったからなあ。こういうドラマ見て【大変、子供が悪影響受けてしまう】とはカケラも心配しない。

シビアな話・・・息子が小2の時、小6のグループにちょっかい(いじめに近いもの)されていたと知り合いの小6の保護者から聞かされた。で当時の担任に言ったら、「お宅のお子さんだって変なことするじゃないですか。」と返された。つまりさ、【お宅のお子さんだって十分変なことしているんだから、そのせいで小6の上級生にいじめられても仕方がないでしょ。】というわけだ。娘だって小2の一学期「このまま勉強が遅れがちだと大変です。」「まだ小2でしょ?」「でも、娘さんに将来おにいちゃんを託すでしょ。今のままでは・・・。」なんて言われた事もあったな。「お宅の娘さんは、障害のある兄の面倒を将来見なければいけないでしょ?なら一生懸命勉強しなければ。」と現役の教師に宣告されたのだ。【娘には娘の人生・幸せをつかんで欲しい】と心の中で願っている親に、教師が「そんな甘いこと考えているの?」と言ったわけだ。おかげでショックで一週間泣いたな・・・。これが現実だ。

娘は今泣きながら見ているようだ、ハナすすっていやがる。そして心の中で(和美、がんばれ!)なんてエールおくっているんだろう。フッ。「目覚ませよ。」

しかしながら最近こう思うのだ。『人間ある程度はキツイ目に遭わないと、人間の根っこの部分が強く成長しないのでは?』と。『菊次郎とさき』みたいに、現実が辛かったから北野家の子供達は大成したのではないかな?つい『ずっと悩み事なく幸せに生きたい。』と望みたくなるし、ましてや自分の子供たちには『辛い目に遭わずに幸せになって欲しい。』と熱望しがちである。でも、ずーーーーとそんな状態(辛い目に遭わないこと)で生きていくと、ナンカ精神が脆弱に育つような気がする。・・・と言っても、キツイ目ばかりに遭ってると、それこそ打ち負かされてボロボロになってしまうか、精神がすさんでしまうけど。

う〜ん・・・女性に関して言えば、(キツイ目ばかりに遭っていると、性格がキツクて気の強い女/可愛げがない女)になる危険性もあるか。あら、どうしましょ? 損だわ。

(8月6日記録)