(MY掲示板)→http://www67.tcup.com/6724/sokikaku.html/    本コーナーは左記の掲示板と関連しています。また  NEW!2001/03/08 「アマゾンからアージリス研究、実践者を紹介します」の続編です。

『組織よ人をこう見てほしい』
(大友 立也著、日本経営出版会)につき以下に概要及び三章の環境対応能力(コンピテンス)部分〜4章 アージリスの成長概念部分につき全文を引用し紹介します。



■「はじめに」
・アージリス理論をほんものの行動科学と切り出す。
 日本の伝統的経営学はアメリカの見直しの実態を教えない。
・今日、社会心理学・社会学・文化人類学系の学者で経営に関心を おく人々の見解は、すべてがアージリス理論に帰着してきている。
・経営学は「能力」とは何かを知ろうともせずに、実務界といっしょにな って能力主義を標榜鼓吹してはいないか、と批判し「能力」と「仕事 」の概念を経営学にもちこんだ。
・コンフリクト(衝突)の認識、情動の尊重にせよ多くの行動科学的概 念は、すべて、とっくに、アージリスによって深耕されている。

■第一章 これまでの”経営学”からの脱皮
・考え・考え方を変えてもらう大げさに言えばこの本は哲学的な本なのである。
・技法を教える本ではない。考え方が変わればそれで良いのである。考え方が変われば使う 技法は変わる、用いる技法を選ぶようになる。 
・モラールと生産性には関係がないとする、実証研究の紹介。
 「従業員中心主義管理」もやはり生産性には関係がない。
・伝統的経営学が教えない知識や科学があることをまず知ることが重要。
・上役が大事か仕事が大事か
  われわれが概念する責任は仕事(あるいは組織)に対する責任である (人に対する責任 をアカウンタビリティと認識する)。
・人間関係論の非人間性の実態(証明)
  アメリカの経営者から鵜呑みにして受け入れた欧米そして日本。
・したり顔でプラン・ドウ・シーを説いている経営学、・・・それでも
 あなたは仕事をしているつもりか。

■第二章 環境がつきつける挑戦状
・アージリスの環境補足
 第一 技法的革新
 第二 利益の狭窄化
 第三 マーケティング費用の増大
 第四 消費者側の嗜好の転々変化
経営はいまや、環境のもつ支配力に、がんじがらめになっている。  
そして環境は、間断なく、重要な選択を迫ってくる。経営は営利性(あるいは経済性)指向の体制とされるが、いまや、社会の経済的諸元の構成する側面だけに立ってはいられない。・・・・機械や道具の発達とそれを使いこなす若い人たちの能力の向上は、長幼の序をくずす。知 識といわれるものも、これからのそれはいままでとは違ったものになってくる。人々の価値観 が新しいものにとって代わられる。
 とすれば、経営というものの組織も、いままでではありえない。われわれは、次に、この組織 を考えてみよう。

・組織の体質は変わる
 最後は航空母艦型
・とりあえず同族会社式
・上役の権限はさらに空洞化する
 情報自体が組織の命運を左右する程の力をもちだし、情報たるや、部下の方が最新のものをもっている。
  まず犠牲になるのはミドルである。
・プロジェクト・チームの意味
・環境対処できる組織と人の条件
 【組織に対する要請】
  第一に 創造的な画策のできること
  第二に 新製品・新製法・新販売戦略等をあみだすのに必要な確実有効な知識をもちまた        育てていける組織であるのを必要とする。
  第三に 組織の所属全員の心に長期間かわることのない意欲と今日的活動に対する自分       の判断がしっかりあって、それによって合奏曲を奏でるような気持ちの良い協働が       なければ ならない。
  第四に そういう合奏曲のような活動のできる人間に育てるのにかなった規準をもつ組織       でなければならない。
 ★ 特に効率とは何かの理解をもつ組織、そして所属全員がそれをよく身につけている組織   でなければならない。 

【本質追求の思考を持続できること】
【衝突を認めてやれること】
 個人の水準で言い直せば、
(1)自分の見解を完全に、なんらまわりに気兼ねすることなくいえる人間であること、そういう   、恐れを感じない雰囲気の環境であること  。 
(2)それぞれの個性によるユニークな貢献を最大限に発揮させるグループであること(したが   って、グループをあたかも束縛・規律の象徴のように、個人よりもグループのほうが大事  のように、所属員に意識させようとしている巷間かまびすしいグループ論チーム論はもって  のほかの指向である)、そういうグループを自分もその一員となってつくりだしていける個   人でなければならない。
(3)そのようにして生まれるお互いの貢献を撚り合わせて、全体的最終的なものにし、それを  創造的な貢献に統合することに価値をおく人であり、
(4)自分の貢献が個人的に酬いられるなどは二の次に考えている人、
(5)だからこそ、またそのためにも、確実・有効な知識を求めることができ、それによって真正  の満足の得られる可能最善の解決に仕立てていくことのできる人、であることが要求され  る。

■第三章 能力とはなにか
・始祖テーラーは、従業員をゴリラに劣る、のろまな牛よりも程度がわるい、とグチタラタラに立 てた経営学なのである。
・アビリティ−−欲望と対の能力
 単に「できる」「やれる」という意味の能力をアビリティと呼び、この種の能力は、欲求のある 人間には、その欲求と対応して、つまり対になって、どんな人間にもそれなりに必ずある能  力であるとする。
 この能力をアージリスはプラトンの分け方にしたがって、肉体運動的(動的)、認知的(知的  )、意欲的(情・感的)の3つに分ける。

【環境対応能力】−(ここは重要なので、全文を記載します)
・コンピテンス−−責任と対の能力
 伝統的経営学は、人間のアビリティ能力でさえ認識しきっていないが、人間には、このほか にコンピテンス能力というものがあり、社会心理学も社会学もこれを重視しているのであり、 伝統的経営学はこれを意識もしていない。会社が行なっている社内登用なしい昇進試験で も、このコンピテンス能力への配慮などまったくないことをみると、人の能力をみることが専  門職務であるはずの人事部ないし労務部も、これに気がついていないといえる。実はこの能 力こそ、求められるべき能力なのである。能力主義をいうのなら、この能力をこそいうべきな のである。

  コンピテンスという言葉を辞書でひくと、能力・資格という意味がでてくる。十分な能力、ある仕事をするのに適格な資格という意味であるが、最近の社会科学における用語の意味としてはそれでは十分でない。この言葉は、アビリティ能力が十分にあることを意味するものでもなく、アビリティとは水準のちがう、より高次の能力を指すものである。アビリティは欲求と対になって存在すると解説したが、その表現になぞらえていうなら、これは責任と対になっている能力である。このいい方は、社会学の大御所タルコット・パーソンズの用いるものであるが、アビリティを人間の基礎能力とし、コンピテンスをその社会能力として捉えるのもよいと思う。「できる」「やれる」の能力に対して、「期待されている」能力とすることも成り立とう。

  この概念を開発したのは、フロイト批判により画期的な業績をあげているR・W・ホワイトのごく近年の貢献である。ホワイトは、これまでの人間研究が精神異常者の研究から得られていることに不満で、常人の研究を、ハーバード大学生を対象に、在学中から卒業の10数年後まで観察する長期調査によって実施した。ホワイトのこうした研究から、常人の積極面がようやく概念されることになった。コンピテンスという概念は、そのいちじるしいものの一つである。ホワイトはすなわち、「できる」「やれる」の能力が問題になっているようではだめで、どれだけやるか、ひいては、どれだけ「期待できる」かの能力が問題にされるようでなければならない、という。個人も、「できる」「やれる」などということに水準を置かず、自分は、これほど責任をもてる、それゆえ「期待してほしい」と主張し、コンピテンス能力の意識に目覚め、それを育てなければならない、とするのである。「できる」「やれる」だけでなく(「できる」がやらないボンクラ秀才、「やれる」がしない名人肌職人、ではなく)、やってのける、つまり責 任を果たす能力を育てることを、社会もまた考えねばならぬ、というわけである。責任と対になった能力、それはまた換言すれば、「環境にどう対処するか」の能力である。
 
  このホワイトの研究によって、能力の新しい概念が登場してきた。これは待望の概念であり、そして期待にそうだけの内容をもっている。アージリスは、時を移さず組織水準においてこの概念を展示してみせる。組織水準においてというのは、「経営学的に」の意味に受けとって差支えない。経営学の領域にこの概念をもち込み展開しているのは、いまのところアージリスの独走態勢にある。われわれは、ようやくにして、経営学のなかで、能力の問題を考えることができるようになったのである。

【アージリスの能力定義】

 アージリスは、能力をつぎのように定義する。組織のなかで問題になるのは、能力(アビリティ)ではなくて、能力(コンピテンス)である。能力(コンピテンス)とは、問題を解決しうる能力のことであり、アビリティ能力をいかに多くまた熱棟してもっていようとも、それだけではコンピテンスがあるとはいえない。

  問題の解決は、その問題の本質をどれだけよく知っているかによって変わってくる。問題を表面的にしか知らなければ、解決はおのずから表面的な解決になる。表面的な解決では、根底にある問題の解決にはならず、おそかれはやかれ、それは再発する。あるいは、姿をかえて別の問題になって現われてくる。これでは本当の解決にならない。そういう表面的な解決しかできない、あるいはやらない人間は、コンピテンスがあるとはいえない。したがって、問題をどこまで本質的に知っているかが重要なことがらになる。
 
 さきに述べた、原因(結果)の長い鎖をたぐっていける力とその気がなければ、本質はつかまらない。コンピテンスというときは、この力や気のあることまで含めていっているわけである。アージリスは、これを問題意識があるという。問題意識があるというのは、だから、問題に気がついているといったことだけを意味するのではない。詳細にいうならば、まず問題の存在に気がついていること、その問題の本質を知っていること、知っていなければあるいは刻々変化しているのであれば、それを追求して知っておくこと、さらにまた問題の発生以前、つまり存在する以前から概念的に予定しうるのでなければ、発生と同時にこれをとらえられないのであるから、概念的な認識のあること、これではじめて問題意識があることになる。ひとから教わって知るようでは、本当の意味で、問題意識があることにはならない。

  このことは、解決方法についてもいえる。解決方法をひとから教わってでは、コンピテンスがあることにはならない。なぜなら、問題の本質をどれだけ知っているかで、解決の方法が変わるはずだからである。教えられた解決方法は、本質に対するある認識程度による解決方法であるに過ぎない。

 会社のなかでは、スリカエ・ヌキトリ・オキカエ等でいかにも問題の解決をあざやかに手ぎわよく行なったようにごまかしてみせる経営者や管理職が多い。これらの人は、コンピテンスのない人であり、問題意識のない人である。あなた自身を反省し、また上役を批判してみるといい。
 もちろん、あなた自身が独りで努力してみても、容易には実現できることではない。これを実現させるには、仕事の体制をそれにあうように変えて置かねばならない。変える必要があるかどうか、その必要を感じる度合は、本質を概念する度合による。あなたが、組織のなかで問題になる能力とはこうありたいと思うその概念の実現への欲求いかんによる。

 コンピテンスの説明には、まだこの先があるが、この辺でつぎに、心理的エネルギーの概念
を知っておこう。

■第四章 成長と成功感とエネルギー

【アージリスの成長概念】
・成長とは幼児がおとなになることである。
・人間は7つの方向で成長する。

第一は、すべてに受動的な状態から、能動的積極的な状態に発達していく。自己率先性(エリクソン)・自己決定性(ブロンフェンブレンナー)もこれである。幼児も、二〜三歳になると、母親をおしのけて自分でやりたがることが増えてくる。

第二に、これは依存から独立への発達でもある。ただし、独立とはいっても、「純粋」「完全」「他のものとは無関係」という独立ではない。いまの世の中では、人間は自分に必要なものを全部自分でつくって生活していくことはできないのであるから、他のひとたちに依存しているからこそ自分の独立がたもたれているとの認識を含んだ独立意識でなければならない。そして、独立とは、子供のころ家族から教え込まれてきた行動決定因からの解放であり、自分自身のそれを作ってもつようになることである。

第三。幼児のころは、ごくわずかなやり方でしか行動できないが、年とともに、多くの違ったしかたで行動ができる。いろいろな能力(アビリティ)がついてくる。

第四。移り気な、その場限りの、底の浅い関心しかもてない状態から、深い関心をもてる状態に発達する。

第五。幼児は、短期の見通ししかもてない。つまり、現在そこにあるもので、行動がきまってしまうが、しだいに過去も将来も考え、それが行動に反映してくるようになる。いいかえれば、長い時間の範囲の回顧・展望、すなわち眺望をもった行動になってくる。当面のことしかわからぬというのではがまんができなくなってくる。

第六。家庭にあっても社会にあっても、下のものの立場から上のものの立場を得たいという考えが強く生まれてくる。

第七には、幼児のころは自分というものにまったく気がついていないが、しだいに自分を知ってくるようになる。小学校に入れば、いやおうなしに、自分は算数が不得手だとか、歌がおんちだとか気づかさせられ、自分というものを知ってくる。思春期にもなれば、人間とは何か、自分とは何かを考えざるをえなくなる。このようにして、「自己感得」「自己認識」「自己概念」が増した状態になる。さきに述べたように、一生かかっても人間は自分というものを全部知りつくすことはできないが、年をとればそれだけ自分というものを知ってくる。自分というものを知ってくればくるほど、自分を自分でコントロールできるようになる。そればかりでなく、完全誠実(インテグリティ)の意識(ユリクソン)・自己価値の感じ(カール・ロジャース)をもつようになってくる。

 さて、これら七つの次元におげる成長は、学校にいかなくても、ほっておいても、人間はそれなりに実現していく。「成長とは子供がおとなになること」という一見幼椎な単純水準から出た第一次の認識ではあるが、われわれはその単純さを笑ってはいられない。われわれ自身の実生活上のことがらをかえりみるならば、われわれがこの幼稚単純なことすら意識していないことを知るはずである。この七つの次元からみた実務上の問題は、後に論じるが、社内教育にしても、部下指導にしても、この規準にあっているかどうか、お考えになってみるといい。

脅威と自己防衛

脅威と成長の関係
 人間はほっておいても成長すると述べたが、成長に抵抗するものももっている。それは、人間がつねに外界からの脅威にさらされ、脅威から自分を守らねばならないからであり、自分を守るということは「自分の現在」を守ることである。自分の現在を守るということは、変化を嫌うということであり、自分のパースナリティを守る、自分のパースナリティの変化を嫌うことである。
 
 人間はだれでも成長を願っている。にもかかわらず、過去から育てあげてき現在は、たとえ一部分でも否定されたくない。もし人間が、変化をつねに受け入れていたら、その人の精神的な自分というものは、おそかれはやかれ失ってしまうわけであるから、変化を嫌うこの性質も、いちがいに無益有害ときめつけることはできない。
 
 ところで、精神的な脅威とは何かといえば、これはまず現在の自分の知識(意識・認識・自信・価値観・偏見等々)とは異質のものである。同質ならば脅威になるはずがないわけであり、そして異質であればこそ、自分には貴いはずのものなのである。なぜならば、さきに述べたアージリスの七つの成長次元の第七番目に、成長とは自己概念・自己認識・自己感づきの増えること、というのがあったことを思い出さねばならない。そしてまた、前述のように、パースナリティは、自分の認識している部分と、認識していない部分とで、個をなす。同質のものが入ってきても、それは自己認識を増やすものではない。自己認識を増やすのは、異質のものが認識されたときである。こうしてみると、脅威は実は貴いものなのである。

 もちろんそれは、これまでの自己概念と「統合」されてのはなしである。統合されずに、無条件・無抵抗に脅威に屈服していたのでは、自分というものがなくなる。
 パースナリティが脅威に対応するのには、二つのいき方がある。一つは、統合が行なわれる場合であり、このとき自己認識は変化し、そして増大する。つまり、パースナリティは成長する。「君の評判はよくないぞ。君はコレコレのところがある」という、自分では予想もしなかった(自己概念になかった)ことをいわれ、自分でもそれを認めるならば、それだけで進歩であり成長である。それを改めるべく努力を開始するなら、いよいよ成長である。また、どうしても自分にはそうは思われないというのであっても、そういう評判があるという事実を知っただけで成長である。
 
 もう一つのいき方は、右の場合の否定である。また、否定の一つの型である歪曲受容である。後者は、自分につごうのいいように一部を否定ないし変化させての受入れである。いずれも、自分の現在を守ろうとする、つまり成長をみずから拒否する態度のものである。こうした否定ないし歪曲を、人間は意識してやってしまうこともあるし、また無意識に犯してしまうこともある。意識してやってしまうのは情ないが、自己統制がきかないとそうなるのであって、自己概念が狭ければ必然的におきるのである。

防衛機制−−ディフェンス・メカニズム

脅威に出会うと人間は無意識にも自分の自己概念を守ろうとする。これを防衝機制という。フロイトの開発した業績である。前述したように、人間は何歳になっても未認識の自分が残るものであるから、脅威を感じることは避けられない。
よほど自己概念が拡大していて自己統制ができるようになっている人でも、当人に何か不安があったり、葛藤があったり、あるいはフラストレーションにかかっていたり、失敗感におそわれていたりする場合には、脅威を感じてしまう。そうすると、この防衛機制が自然に発動する。ということは、頭脳明せき・学識豊かな学者でも、百戦練磨の経験を誇る社長でも、思わず自己防衛をする、ということである。もう一度念を押しておくが、自己防衛をするというのは、成長を拒否していることである。

@攻撃 脅威を感じると、反射的にこれに刃向かっていくことにより自己を守ろうとする。自己概念の典型的に未発達な人によく現われる。相手を傷つけようとするのであるから、社会的な傷つけ方・心理的な傷つけ方、いろいろな方法が用いられる。昂じてくると、脅威をあたえてくる相手ばかりでなく、関係のない人や、足もとにいる猫にまで当たり散らす。「八つあたり」である。
A罪意識 「八つあたり」が自分に向けられてしまう場合である。「それというのも僕が悪いんだ」という伝である。悪ければ改めたらよさそうなものだが、「僕が悪いんだ」でことがらを治め、脅威を解消しようとするだけの意識だから、その後努力などはしない。
 したがって成長になるはずがない。アージリスは、昇進すると思っていたのにしなかった者が、「それというのも、人事部の記録がそこまでいっていないからで、もとはといえば自分がだらしないため」と自分を傷けることで治めようとする例をあげている。
B継続 ある罪意識をながいこと継続させるやり方である。その罪意識をしょっちゅう現わすことによって、そのときどきの脅威をかわそうとする。「むかし、若いとき、医学部を受験して落ちた自分がいけないのだ。医者になっていれば、いまごろ、こんなこと(脅威)で苦労することはなかったのに」こう心の中で思うことによって自己を守る。
C弁別決定 この防衛機制はふつう意識しながら行なわれる。伝統的経営学の事務管理論などでは、むしろ事務処理の方法として推奨しているところのものであるが、何か事を決定しなければならないとき、たとえばa君とb君のうちから職長一名を決めるとき、長所短所を書き並べていくと自然に答が出てきてしまう(出てこなければ、出てくるまで、根掘り葉掘り追求していって、しまいには、仕事にも会社にも関係のない、b君は親孝行だということを聞く、a君についてはそういう知識はない、などということで、b君が職長にきまったりする)。これは決定者の自己防衛である、とする。ちなみにアージリスは、別のところで、個人を、廉直性何点、忠誠心何点、創意率先性何点、協調性何点などと、性格特性項目表で評価してはならないという。
D否定 普通に用いられている意味とはだいぶ違う意味で用いられる。脅威はつまりは環境である。人間は環境を否定し切れるものではないが、心理的に否定するには、その脅威を見ても見えない、聞いても聞えなければいいわけである。しかしこれは、意識してそうするわけではない。本人は見ていても、熱心に聞いていても、脅威つまりつごうのわるいところになると幕がおりたように見えなく聞こえなくなる、大変につごうのいい防衛機制である。本を読んでいてそこのところで居眠りをしたわけでなく、ちやんと目を通している。
 上役の話を聞いていてそこのところでよそ見をしたわけでなく、ちゃんと聞いている。それなのにそこのところだけ記憶にないのである。忘れたのとも違う。これは、部下を集めて話をした場合など、そういう部下がでるのを上役は経験しているはずである。同じ本を読ませても、経営者と従業員とでは(それぞれにつごうのわるいところで幕がかかるから)まったく違った受取り方をして”理解”してしまったりする。どこを読んだのだなどと叱ったところで仕方がない。これは上役−部下の関係だけでなく、もちろん部下−上役の関係で上役側にもおきる。おもしろいといえばおもしろいが、始末におえぬ機制である。
E抑圧 脅威が外界にあるのではなく、自分の過去の体験などにある場合、これを否定し、忘れてしまう。無意識の部分に押し込め、押し込めたことも忘れてしまう。つまりその脅威は、人のパースナリティの無意識の部分に蓄積される。
F抑止 抑圧と違って、内容はおぼえていないが、無意識の部分に押し込めたことだけはおぼえている。
G抑制 脅威を意識の部分に置いたまま抑圧する。会議に出ていて、何かまずいこと、バカなこと、程度の低いことを発言してしまいはしないかという脅威を感じて、出席していてもほとんど発言しない人、これである。
H転換 さきに心身相関病のことを述べたが、これである。心理的な脅威を生理の故障に転換することによって、心理的な自分を守る。
I過剰補償 勤務終了時間がきても、目標を達成していても、仕事をやめないで、”よく””はげしく”働く。これは、重役やエグゼクティブに多い。本人は意識しなくても、能力がないなどと思われはしないか、思われたらかなわないという脅威を解消するために、必要以上に働いて、補償したつもりになって自己を防衛しているのである。これに対して、なまけものとみられるまでに働こうとしない職長など、反対の例もある。これは、前出「抑制」の例で、自分は能力がないのではないか、へたに働くとそれがバレてしまいはしないかという心理から、動こうとしない。そこでアージリスはいう、働ぎ過ぎるのも、働かないのも、実は自分の能力に自信がないからで、二つとも同じ心理からでている場合が多い、と。
J合理化 経営の合理化、と同じ言葉であるが、意味がまるっきり違う。はやい話が、「いいわけ」である。「すっぱい葡萄」、「あまいレモン」のイソップ童話が説明に用いられる。
 狐が葡萄をとろうとして躍び上がるが届かない。その様子を見られていたことに気づいて、「あの葡萄はまだすっぱくて、食べてもうまくない」といいわけし、いいわけできたと思って立ち去る。あさはかないいわけであり、問わず語りの愚であるが、当人はそれで自己防衛できたと思っている。ここにも成長はない。
K同一視 だれかに似たいというのは、その人の経験と同じものを自分ももっていると、自分も思いたいし、ひとにも思われたい心の現われである。「専務は中学の先輩なんだ」などと語るのはこれである。アージリスは、トップ・マネジメントの人にはふつう何人かのファンがいて、口調が似てきたり、歩きっぷりまで似てきたりしているという。
L投射 ケチな人間が自分よりケチな人をみつけ、あいつはケチだケチだと強調することによって、自分をいくらかでもケチでないように周囲に印象づけようとするはかなき防衛。つまり、自分の行動のし方、感情のもち方、考え方を非難されるのを避けるために、それをほかの人に転嫁すること。これが凝ってくるとつぎのようになる。もし自分にもあるとしたらとてもたまらぬ嫌な性質(行動のし方・感情のもち方・考え方)を、他の人に発見してそれを見ていることのできる機制になる。規則をよく守る行儀のよい従業員なのだが、規則を守らない仲間のことをしょっちゅう言いつけにくる。こういう従業員は、実は、自分が規則を破りたい気持をもっていて、それを告げ口をすることによって否定しているのであり、自分は誠実家だと思っている。実は大変な偽善者である。
M動揺 A案に決めたかと思うとすぐB案に決めなおそうとするなど、動揺して、ものごとが決まらない。そうすることによって自分を守っているのであり、ほかの部や課で決めてくれたりすると、ホッとする。
N両面価値 同一対象に対し、愛憎など正反対の感情が併存していて当人は矛盾を感じないこと。脅威のみなもとである人物に対し、愛憎の両感情をもつことによって自分の葛藤の心境を治めようとする。職長が専制的な上役を「畜生め、あたしゃ大嫌いさ。だけどね、立派でさあ。なかなかいいやつですよ」と評するなどがこれである。
O失言 どんな失言にも何らかの意味がある。それは無意識のうちにもっている考えや感情の発現で、予告もなしに妙なときに登場してきて、防衛しようとする。

 さらにこまかく分類して、たとえば「昇華」「置換」など分類の数を増やすことはできるが、ふつう心理学の本に登場するのは、これほどにも多くない。この意味でアージリスのこの例示は、得がたい展示である。時折りでもいいから、目下の自分の行動は防衛機制の発動ではないかと反省することは、個人的にも必要なことであろう。

 ここで付言しておきたいのは、最近の若い人たちのことである。われわれが学生時代とちがって、現在の大学では、心理学は必須課目になっている。われわれは、人間に防衛機制などというものがあること、そしてそれがこういうものであることなどは、知らないで過ごしてきた。現在会社で課長職、部長職につき、ひとの上に立っているほとんどの人は、こうした知識も、したがって反省ももっていない。
 ところが、いまの若い人たちは、学生時代に勉強家であったかどうかは別として、また彼らが使った教科書に詳細に説明がなされていたかどうかは別として、人間が、どんなえらい人でも、防衛機制の無意識の発動によって自分を守るものであることを知っている。したがって、上役の課長や部長が示す態度行動を、「あんな立派そうなことを言っているけれども、自己防衛に過ぎないではないか」ぐらいに読むことは、すでにかなり一般にみられる現象になっているのである。
 リースマンは、最近の若い人たちは、他人指向型であるという。この型の人間は、年配者に牛耳られている態度をよそいながら、逆に年配者を牛耳っていく能力をもってしまっているという。読まれているのは上役側である。上役が職場で会社実状を説明して労働組合を説得しようとしても、それを本気で聞く部下たちはだんだんいなくなっていく。真顔で説けば説くほど、部下の脳裡には平常自己防衛であけくれる上役の姿が思い出されるであろう。

 経営の担当者として、ミドルにもトップにも、勉強しなければならないことは多い。取引先のこと、商売仇のこと、勉強とは学問のことばかりではない。こうして、勉強しなければならぬことは多いが、何よりも急がれねばならないのは、「人間」を知ることではあるまいか。知らないあいだに、「人間」に関する解明は急速なテンポで進んでいる。若い人たちは進んだその水準の教育にまもられて育ってきている。言葉も態度も通じあわない環境がどんどんでき上がっていく。いつの世にも、老・若の間をとりもち、通訳になるのがミドルだった。そのミドルが、ミドルの役を果たせなくなり始めているばかりか、課長の廃止などによって排除され始めているのは(このことから廃止の是非を言おうとするのではないが)、由々しいことだと思う。

 単に、アビリティ能力だけをいうのなら、教育や機械道具の進歩から、若い人たちのほうが明らかに上だということがらが、どんどん増えている。その上にもってきて、「人」を見る目も若い人たちのほうが優ることになっては、ミドルは救われようがないであろう。もしいま必要な勉強を怠るならば、ミドルの人たちの将来は、みじめなものとなるであろう。
 自己防衛の機制というものを知ることは、機制の発動を見分けうることに通じる。それを見分けうることは、人の行動の表面下にある、その行動をおこしている(動機づけている)ものを知ることに通じる。だから、防衛機制の概念は、重要な概念なのである。

成功感と自己評価

とめどのない良循環

 防衛機制というものの認識により、われわれの、成長についての概念は、かなりダイナミックになってきたが、それをより一層ダイナミックにしよう。これまでのとらえ方は、「ほっておいても(あるいはほっておくと)」というものであった。以下のとらえ方は、これと反するものではないが、「行動」という水準でとらえる見方である。これまでの見方をマクロな見方とすれば、これはミクロな見方ということになろう。
 
 さきに、欲求が緊張状態に入ってエネルギーが泡立ち始めると述べたが、これは行動への準備状態に入ったことである。ここには行動へ駆り立てる力が存在する。これを動因という(動因をひきおこす外界の事象を誘発因という。動因は目本語の字づらからすると、外的事象ととられやすいが、そうではなくて内的な構成概念である。ついでにふれておくと、動機とは、欲求・動因・緊張状態等を、まとめても個別的にもいう概念で、これも内的なものである)。人間を行動に駆り立てるものは何かというと、それは、成功を体験したいということである。
心理的な成功感は、どういうときに生じるか。事はなし遂げても成功感の生まれない場合もある。それは、”なし遂げ”であり、目標到達であって、成功とはいわない。成功とは、それまでできなかったことができることであるから、成功する・成功感を味わうということは、自己評価が増すことである。自己評価が増すと、心理的なエネルギーが蓄積され始める。もう一段腕を上げてやれという気持になる。蓄積されたエネルギーが発動して、またしても成功し、成功感を味わう。自己評価はまた増す。この良循環にはとめどがない。成功を味わう限り、いつまでも続く。心理的エネルギーは、つきることなく生まれてくる。
では心理的成功感・自己評価は、どういうときに生まれるか、の定義をアージリスは示す。

@自分の目的・目標を、自分で決めることのできること。
Aこの目的なり目標なりは、当人の中心的に大事な欲求(したがって中心的に大事な能力(アビリティ))と大いに関係のある目的・目標でなければならない。自分にとってはつまらぬ能力を発揮して事が成るので は、成功感は得られない。
B目的・目標を決めるばかりでなく、どうしたらそれに到達できるか、それへの道も、自分で選び、決めることのできること。ひとに教わって到達したのでは、真からの成功感は味わえない。
Cこのようにして決めた目標への道を、いつまでにどこまでやろう、今日 はここまでやろうと、自分に要求を課して着々と歩み進んでいけること。これを心理学用語で、要求水準いう。要求が高すぎることがわかった ら程度を多少低くし、低すぎて手応えがなければ高くして、自分を励ましつつ進んでいく。

 要求水準という概念は、クルト・レヴィンの弟子で協力者でもあったクマラ・デンボウ女史の開発したもので、アージリスは、ホワイトやレヴィンたちの諸概念によって以上の定義を立てた(さきにあげたハーツバ ーグの成長概念には、防衛機制における諸概念やこの概念が、いろ  いろにかたちを変えて現われているのに気づくであろう)。
 われわれが求めているのは、こういう人間である。”やる気”というものの本体も、かなり明瞭になってきた。しかしまだ、これだけではきめがあらい。

  

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