Fallin'


「おはよう、舞」
「おはよ…」
 ふらふらと登校した舞は、友人との挨拶もそこそこに自分の机に突っ伏した。
 幼稚園からの親友・真壁弘人(まかべ ひろと)は、フッと笑うと、前にある自分の席に後ろ向きに座り、舞のちょっと長めの柔らかい髪の感触を楽しむように、数回頭を撫ぜた。

「その様子だと、昨日の事“ちーちゃん”に怒られた?」
 その言葉にピクリと反応した舞は、少しだけ頭をずらして目線を上げる。
「……うん」
 その子犬のような目に、ついつい弘人の目尻は下がり、またヨシヨシと頭を撫ぜた。
(可愛いなぁ〜)

「あんなエロいオッサンのどこが良いんだよっ…。ちーちゃんてば…」

 エロいオッサンって……;

 思わず「そのエロい所が、また良いんじゃないの?」と言いそうになるが、そんなことを言ったら舞が激怒してしまう事は目に見えているので、喉の奥で飲み込む。

「もう、そっとしておけば?ちーちゃんだってもう、いい大人なんだからさ」
「いい大人だから放って置けないんだよっ」
 教室内という事もあり、多少押さえて声を上げる。
「ちーちゃんは青春時代を丸ごとアイツに捧げたんだぞっ。それで報われるんならともかく、全然報われてないじゃないかっ。…いつまでこんな……っ」
 そこまで言って、机に顔を伏せてしまった舞に、弘人は苦笑してぽんぽんと頭を優しく叩いた。

「そうだな…。報われないのは、辛いかもな……」

(俺も報われてないんだけどね…)
 何を隠そうこの弘人も、幼稚園で舞に一目惚れして以来、ずっと片思いなのだ。
 女の子のような名前で女の子のような顔をした舞は、周りの誰よりも可愛く、弘人は一目で好きになった。必死でアタックして、なんとか一番の友達の座は手に入れたが、程なくして舞が実の叔父にあたるちーちゃん≠ノベタ惚れである事実を知る事になる。

 それでも所詮は叔父と甥。成長すればそのうち熱も冷めると踏んでいたのだが…、なぜか揃いも揃って皆一途過ぎたために、誰一人として報われていない現状なのだ。

(いい加減、舞にもちーちゃん≠ゥら卒業してほしいんだけどね……)

 弘人は、溜め息混じりに窓の外へ視線を向けると、どんよりと重たく陰った雲を見上げた。
 自分の心を代弁するかのような、降り出しそうな曇り空だった。





「千歳。椎名伊澄(しいな いすみ)という生徒は、どういう人物だ?」
 千歳は、后に呼び出されたいつもの一階の空き教室で、突然の質問に首を傾げた。
 椎名は、千歳が去年副担任を務めた1−Cの生徒で、今年も椎名のクラスの教科担当は受け持っているが、そんなに交流がある訳でもなく、どういう人物かと訊かれてもよく分からない。
「椎名…ですか?……特に、どうという事は…。授業態度も良くも無く、悪くも無く、普通ですけど」
「そうか…」
「なにかありましたか?」

 后は、窓枠に腰掛け長い足を組むと、組んだ足の上にヒジをつき、頬杖をついて一つ溜め息をこぼした。
「最近どうも、彼が異常に保健室を出入りしていてね…」
「そうですか……」
「汐瑠(しおる)君の事は、恵瑠(めぐる)から『くれぐれもよろしく頼むと』言われている…。何かあってからでは、あいつにも申し訳が立たないからな。気をつけた方が良いのかも知れない…」

 保健医・有栖(ありす)汐瑠の兄・恵瑠は、后の学生時代からの親友で、高校は別々の学校になってしまったが、千歳の中学時代の先輩でもあった。后と並ぶと小柄に見えてしまっていたが、実際は千歳よりも背が高く、明るくて男気のある先輩だったのをよく覚えている。
 千歳が后の情夫≠ニいう立場になってからも、それまでと変わらずに接してくれた…。

「あ、そういえば…」
 千歳が、思い出したように口を開いた。
「椎名の事ですが…、正義感は強いのかも知れません。先日桃井先生が、椎名のクラスでの授業中に、授業に関係の無い低次元な質問ばかりをしていた生徒を、椎名が一喝して黙らせてくれたと話していました」
 桃井とは、今年入った22歳の女性新米教師だ。可愛らしい容姿と服装のため、やはり生徒たちにナメられて苦労しているようだ。

「ふん……、なるほど…」

 后は思案顔で天井を見上げると、人差し指で顎を撫ぜた。

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