黒猫ミケは見た!
新学期のこと。 四月某日 晴れ。 女ご主人様は朝からそわそわしている。 今日は始業式とかいう儀式があるらしい。 紙の切れ端に妙な模様を赤いペンで描いて、 それを小さな皮の入れ物に入れていたけれど、 あれは何にかのおまじないだろうか。 いつまで経ってもご飯を用意してくれないので、 しかたなく足元にすり寄り催促しにいったら、 女ご主人様の呟きが聞こえた。 「どうか今年も浩二と同じクラスになれますように」 クラスってなんだろう? 浩二が男ご主人様のことなのはわかるけれど。 あの人とはいつでもぴったりくっついているのに。 何を悩んでいるのかまったく意味がわからない。 もうそんなことはどうでもいいから、早く朝ご飯にありつきたい。 |
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女ご主人様の日常。 4月某日 晴れ。 女ご主人様の朝は早い。 学校とかいう群れの中に入っているらしい彼女は、 出発の2時間前から準備に余念がない。 そのせいで、僕のご飯を忘れてしまいそうに なることもしばしばだ。 今日も制服という黒い布切れを身につけて (あんなの動きにくくてしかたないだろうに)、 長いこと頭の毛を念入りに毛づくろいしていた。 食事が無事終わって一段落しても、 また鏡の中の自分とにらめっこをしている。 きっと女ご主人様も鏡に映っているのが自分だという、 事実を知らないのだろう。 僕も経験があるので気持ちはよくわかるが、 意味のないことなのでやめた方がいいと思う。 教えようか迷っていたらけたたましい音がして、 女ご主人様の頬が蒸気した。 男ご主人様の登場だ。 慌てて玄関へ行く女ご主人様。 扉の境につまづいて派手に転ぶのもいつものことで。 年中恋の季節らしい人間ってつくづく大変だなと思う。 |
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男ご主人様の夢。 4月某日 曇りのち晴れ。 車のボンネットで昼寝をしていたら男ご主人様がやってきて、 僕の体を撫で回し始めた。 僕は眠かったからちょっと迷惑だったのだけれど、 また女ご主人様と何かあったんだろうなと思い、 されるがままにしてあげた。 まあ、この後くれるネコ缶がおいしいから、 というのが本音なんだけど。 とにかく、そのまま男ご主人様につきあっていたら、 男ご主人様がぼそりと呟いた。 「なあ、ミケ。どうしたらお前と同じように 美加子にいっぱい触れるかなあ」 相好の崩れきった面に全身の毛が逆立った。 恋に悩みは付き物かもしれないけれど、 僕を使ってあれこれ想像するのはよしてほしい。 |
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塾通い。 4月某日 小雨。 女ご主人様と男ご主人様が塾とかいう 新しい群れに入るらしい。 近所の猫仲間に聞いたところによると、 人間が知恵を磨くところなんだとか。 「人間は俺たちみたいに身体が優れていないから、 定期的に頭の体操をしないと生きる術を得られないのさ」 吉田家に住んでるトラさんが言っていたけど、 よくわからなかった。 でも確かに、 昨日から紙を前にうんうん唸っている2人のご主人様を見ていると、 色々と大変なんだろうな、とは思った。 |
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魅惑のゴールデンウィーク。 4月末日 雨時々曇り。 女ご主人様と男ご主人様が何だか浮かれている。 部屋のテーブルにたくさんの本を広げて、 2人できゃっきゃと午後からうるさい。 あんまり休めなさそうなので出て行こうとしたら、 無理やり体を抱えられてしまった。 しかたなく男ご主人様の膝で丸まっていたら、 会話が嫌でも耳に入ってくる。 「で、結局どこに行く?」 男ご主人様が尋ねると、 女ご主人様はしばらく黙った後、口を開いた。 「別にどこでもいいよ」 「どこでもって、お前なあ」 呆れ声の男ご主人様を前に、 女ご主人様は、だって、とそっぽを向いて顔を赤らめる。 「本当にどこでもいいんだもん。一緒にいられれば」 美加子、と呟き、 すり寄り始める2人の間は窮屈なことこの上ない。 仲がいいのはいいことだけど、 僕の存在を忘れないでほしいと思う今日このごろ。 |
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計画延期も幸せ気分。 5月某日 快晴 今日はどうやらゴールデンウィークという名のお祭りらしい。 なのに、女ご主人様と男ご主人様は玄関先で渋い顔をしている。 「こんな時まで講習だなんてついてないよなあ」 「しかたないわよ。私たち受験生なんだもん」 靴を履きながら女ご主人様が宥める。 「せっかく色々計画したのにな」 口惜しそうに呟く男ご主人様をよそに、 女ご主人様は何だか楽しそうだ。 「まあ、いいじゃない。 一日一緒にいられることには変わりないんだから」 女ご主人様は微笑み、 はい、と水色の包みを男ご主人様へ手渡す。 「寝不足をおして頑張ってみました」 どうやらあの中身は男ご主人様の餌らしい。 受けとった男ご主人様の顔の面白いこと面白いこと。 緩みきった顔を必死で引き締め、 赤くなる顔を見られないよう俯き、 視線ん忙しなくさ迷わせる。 頬を掻きながら、ありがとな、と小さく礼を言ったはいいが、 これ以上ないほど幸せそうな 女ご主人様の微笑み攻撃に狼狽える様は、 見ていてなかなか滑稽だった。 |
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喧嘩。 5月半ば 曇りのち雨 夜、帰ってくるなり女ご主人様がベッドに突っ伏した。 何事かと思い近づいてみたら、 がばっと起き上がって腕に抱え込まれてしまい。 どうにもしようがないので、おとなしくしていたのだが。 しばらくして耳の辺りに冷たいものが落ちてきた。 女ご主人様は泣いていた。 彼女の涙を見るのは久しぶりのことで。 僕は急に切なくなって、女ご主人様の頬を舐めた。 女ご主人様は、ありがとう、 と悲しげに微笑み、俯いて小さく呟く。 「浩二の馬鹿」 原因はやはり男ご主人様か。 だとしたら、 彼女が元気になるにはまだまだ時間がかかりそうである。 |
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只今冷戦中。 5月某日 晴れ時々曇り 女ご主人様が一人で学校から帰ってきて、 菅野とかいう友人宅の群へ夜通し遊びに行く と行って出かけていった。 僕はお腹がいっぱいで暇なので玄関前で昼寝をしていたら、 男ご主人様がやってきた。 「お前のご主人様はどこだ?」 何を言っているんだ、この人は。 僕は言っている意味が解らず首を傾げる。 だって、僕のご主人様は目の前にいる。 まあ、正確には二匹のうちの一匹ではあるけれど。 「お前に言っても分かるわけないけど、 俺アイツを怒らせちまったんだ。 いや、約束を忘れていたわけじゃないんだぜ? ただ、ちょっと隆の彼女に奴のところまで案内してたから、 遅れちまっただけでさ」 何だかよくわからないが、 原因は男ご主人様が思っているのとは少し違う気がする。 前に斜め向かいのメルさんが、 『メスの嫉妬は厄介なのよ。人間もあたしたちも、ね』 と言っていたのもあるし。 今回もきっとそれだよ、と一応鳴いて教えてあげたけど、 やっぱり何も伝わっていないようだった。 |
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仲直り。 5月半ば 小雨。 3日ぶりに男ご主人様と一緒に帰ってきた女ご主人様は、 すこぶる機嫌がいいらしく、僕におもちゃを買ってきてくれた。 それはとてもいい匂いのする猫じゃらしで。 僕が夢中になって、 先っちょについたピンクの綿毛を追い続けていると、 男ご主人様が吹き出した。 「何よ?」 女ご主人様が振り返って男ご主人様に問うと、 男ご主人様は、いや、とかぶりを振る。 「本当にごめんな。次は気をつけるから」 真剣な眼差しで女ご主人様を見つめる男ご主人様を前に、 女ご主人様が、うん、と深く頷いた。 「私もごめん。 ……信じてるから。今よりもっと、信じるようにするから」 時が止まったかのように見つめ合う二匹を横目に、 僕は大きく伸びをして平和を満喫した。 |
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あじさいの咲く頃に。 6月某日 雨また雨。 人間の暦によると、6月というらしいが。 ともかく、ここのところ雨続きである。 庭のあじさいが雨粒の中で一際光って見えるけれど、 それだけと言えばそれだけのことで。 「寒い、寒い」 腕を半分以上出した薄地の衣を 好んで身につけているくせに 不平を言う女ご主人様を、僕はぼんやりと見つめた。 僕らみたいに暖をとる体毛が発達していない人間は、 つくづく可哀想な生き物だな、と思った。 |
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いつもの日曜日。 6月某日 晴れ。 女ご主人様が本とかいうものを買いにでかけていった。 ここぞとばかりにお気に入りの場所で眠っていたら、 吉田さん家のトラさんがやってきた。 「おい、さっきオスのご主人を見かけたんだが。 あの人は今発情期みたいだな。 メスのご主人の後を必死で追いかけて行ったから。 近々ガキが産まれるかもしれないぞ」 人間のガキをお守りするのは大変だぞ、 と真剣な顔で告げてくるトラさんには悪いが、 それはないなと思った。 だって、男ご主人様が女ご主人様を追いかけているのは、 いつものことだから。 たまにまったく逆の立場なこともあるし、 それで子供ができた試しは今のところない。 博識のトラさんでもわからないことがあるんだなあ、と思いつつ。 僕は、彼にもわからないほど複雑な、 人間という生き物の神秘性について、少しだけ思いを馳せた。 |
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待ち人の幸福。 6月某日 雨。 外は雨。 女ご主人様が人待ち顔でカーテンごしに外を眺めていた。 僕はつまらないので昼寝をしばし決め込み、 その後女ご主人様の母親へおやつをねだりに行った。 もらった煮干しがまずまずの味だったから 満足して戻ってみると、 そこには、先ほどと少しも変わらない態勢で外を見つめている 女ご主人様の姿があった。 待っているのはおそらく男ご主人様のことで。 人を待つ気持ちはまったく理解できないけれど、 やたら幸せそうな女ご主人様を見ていて、ふと思いついた。 もしかしたら「待つ」という行為は 獲物を捕まえる前の興奮と似ているのかもしれないって。 それなら少しは理解できる気がするから、 お楽しみを邪魔しないように昼寝の場所を移動することにした。 |
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おやつの時間。 7月某日 曇りのち晴れ。 甘い香りに誘われて部屋へ行ってみると、 台所で女ご主人様が甘い小麦粉をのばしたものを型で抜き、 板のように固く焼いていた。 話の端々から推測するに、 それはクッキーとかいうお菓子らしい。 ちょっと興味があったのだけれど、 ミケにはだめよ、と言われてもらうことができなかった。 まあ、代わりに鰹節をもらったから構わないけど。 これでも結構、 巷でも有名な味のわかる猫で通っているだけに、 少しだけショックだった。 |
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お昼寝時には。 7月某日 一日晴れ。 僕のお気に入りの場所は、 車のボンネットと庭にある物置き横の日向だ。 そこでうとうとして平和を満喫しているだけで、 僕の心はもう3分の2くらいは幸福な気分に包まれてしまう。 じゃあ、残りの3分の1はと訊かれたら、 それはやっぱり食事なのだけど。 ともあれ、今日も僕は昼寝に勤しむ。 だからお願いだ。 男ご主人様、僕を見つけにこないでね。 |
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家族。 7月某日 嵐。 僕は家族という群のことがよくわからない。 気がついたら一匹だったし、 ようやく外の世界で生きる自信がついてきたところで、 ご主人様たちに捕まってしまったからだ。 まあ、不覚にも、 女ご主人様が乗っていた自転車とかいう鉄の乗り物の前へ 僕が飛び出してしまったのが、すべての原因なのだけれど。 とにかく、僕は家族というものを知らない。 知らないけれど、それが暖かなものだということは、 何となくわかる。 だって、女ご主人様とその父母の三匹が寛ぐ中で 彼女の膝に乗りつつ微睡む時は、 僕にとってもご主人様たちにとっても 幸せなひとときだと思えるから。 |
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夏が来た! 7月某日 晴れ。 暑い。 僕にとってはありとあらゆる意味で面倒臭い夏がやってきた。 それなのに、男ご主人様は今日もすこぶる機嫌がいいらしい。 暑いのが好きだなんて人間って変わっているな、 と思っていたら、どうやらそんな単純なことではないらしい。 「なあ、ミケ。今日はどんな服で出てくると思う? 俺としてはあんまり隠してるのももったいない気がするけど、 露出しすぎてるのもやっぱり心配なんだよなあ」 女ご主人様がどれだけ薄くて面積の狭い布を巻きつけるかが、 今の彼の関心事らしい。 複雑そうな声音とは対象的なにやけ顔から想像するに、 人間にとっては夏も恋の季節ということなのだろう。 |
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夏期講習。 7月下旬 一日晴れ。 ここのところ、ご主人様たちの朝がいつも以上に早い。 どうやら塾という群の方で何やら毎日集会があるらしい。 よくわからないが大変そうなので、 トラさんに尋ねてみたら重々しい口調でこう告げられた。 「お前のご主人様たちは『受験生』になったからさ」 『受験生』って何だろう。 女ご主人様たちもたまにそんな単語を口にしていたのだけれど、 それってそんなにすごいことなのだろうか。 不思議に思って再度尋ねたら、トラさんは頷き、 「若い人間が一番荒れる時期ってことさ」 お前も気をつけろよ、と重々言って去っていったが、 結局くわしいことはわからずじまいだった。 |
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ビデオ鑑賞。 8月某日 青々とした空。 男ご主人様が家に泊まりにやってきた。 女ご主人様の父母と一緒に食事をして、 その後部屋を暗くしてテレビという薄くて四角い板を、 みんなで注視しし続けていた。 僕は始終変な音や大きな音がするし、 変な格好の人間たちが現れては消えていくので、 少しも楽しくなかったのだけれど。 女ご主人様の膝の上にいたので、 逃げずに丸まって我慢していた。 やっと音が止んで電気がついたのは ずいぶん経ってからのことで。 ここぞとばかりに伸びをしていたら、 男ご主人様のひどく寂しげな表情と視線がぶつかった。 そういえば、隣の男ご主人様の視線が、 テレビより女ご主人様の方へいっていた気がする。 何でだろう。 明日トラさんにでも訊いてみようか。 |
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宿題の嵐。 8月某日 晴れ、一時雷雨。 女ご主人様と男ご主人様が、 宿題という何か大変なものに襲われているらしい。 朝からずっと紙の山に埋れながら苦しげに呻いているから、 かなり心配だ。 今まで見たことがないほど目が血走っているし、 頭の毛もいつもよりツヤがない。 紙が元凶なのは明らかだったので、 何枚か退治してやったのだけど、 却って怒られてしまった。 まったく守りがいのないご主人様たちである。 |
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怪談話と懲りない挑戦。 8月某日 綺麗な夜空。 夜。 男ご主人様がほくほく顏で女ご主人様の家にやってきた。 玄関先で立ち話をしていたのだけれど、 途中で声が小さくなったので気になって近づいてみると、 男ご主人様がいきなりものすごい声で叫んだ。 「お前だ!」 いきなりのことで固まっていると、 横で女ご主人様が大爆笑しだした。 「なあに? それがどうしても話したかったこと?」 男ご主人様は笑いすぎて涙まじりになっている女ご主人様に、 「笑えるだろ?」 と自身も笑っていたけれど。 その目がかなり寂しげだったのを僕は見逃さなかった。 |
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遊園地での顛末。 8月某日 ぴーかん天気。 「聞いてよ、ミケ!」 休日の夕方。 遊園地とかいう安息地から帰ってきた女ご主人様が、 眠っていた僕へいきなり駆け寄ってきた。 また何かあったのだろうか、と嫌々ながら顔を上げると、 目の前に妙にのっぺりとした顔の見知らぬ輩が鎮座していた。 僕の縄張りに寄り付こうとは! 不届きな奴だと思い即座に威嚇を試みると、 女ご主人様がおかしそうに僕の頭を撫でてきた。 「かわいいでしょう? 浩二が買ってくれたのよ? ぬいぐるみだけど仲良くしてね」 ぬいぐるみって何者だろう。 僕はやたらふわふわして平坦な顔をした、 もの言わぬそいつに軽く爪を立てる。 「こら! おもちゃじゃないのよ?」 一喝した後、愛おしそうにぬいぐるみとかいう新参者を 撫でる女ご主人様。 僕は酷く面白くない気分だったので、 さっさと部屋を出てやった。 |
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映画館ではお静かに。 8月某日 雨。 夕方、男ご主人様と女ご主人様が部屋へ 入ってくるなり口論を始めた。 「まったく、信じらんない! 映画館のマナーってものを知らないの?」 ぷりぷりと怒った様子の女ご主人様を前に、 男ご主人様が鼻をかく。 「しかたないだろ? 怖かったんだから」 決まり悪げにぼそりと呟く男ご主人様へ、 女ご主人様が吠えた。 「だからって、 いきなり大声あげて抱きつくことないでしょう!」 めちゃくちゃ怒られちゃったじゃない、 と頬を膨らませてそっぽを向く女ご主人様に、 男ご主人様が手を合わせる。 「ごめん」 必死で謝る男ご主人様を見て、 女ご主人様は諦めのため息をついていたけど、 その口の端が小さく緩んでいるように感じたのは 気のせいではないと思う。 |
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新学期の前の日に。 8月末日 晴れのち曇り。 朝から男ご主人様が僕らの部屋へやってきて、 女ご主人様と一緒に分厚い本の山の前でうんうん唸っている。 こういう光景を今年はもう何度見ただろう。 確か勉強とか、宿題とか言う行為だったっけ。 トラさんの言うとおり、 人間って悲しい生き物だとつくづくだな、 と感じてしまう一日だった。 |
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虫の声と新学期。 9月始め 晴ればれ。 今日から新学期という暦に入るらしいが、 僕の周りは相変わらずだ。 変わったことと言えば、 夜鳴く虫の音が少々増えてきたくらいだろうか。 そういえば、 女ご主人様と男ご主人様は眠たい目をこすりながらも、 何故か晴れ晴れとした顔をしていたっけ。 とにもかくにも、平和な一日である。 |
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お悩み相談会。 9月某日 晴れ一時曇り。 女ご主人様が美樹とかいう若い女を連れてきた。 今日は彼女が僕らの群れへ身を寄せるらしい。 いったい何があったのか知らないが、 あまりよその群れを行き来するのは感心しない。 男ご主人様だって、 いずれ僕らの群れに入るから許されているのだから。 けれど、涙ながらにあれこれ女ご主人様に語る姿は 痛々しくもあり。 しかたなく僕は隅の寝床で丸くなることにした。 女ご主人様は一晩中話を聞いていたみたいだったけど、 それに付き合う義理はない。 話を聞いてもらったらしい美樹は翌日 すっきりした表情で帰っていき、僕にも平穏が戻った。 |
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男ご主人の呟き。 9月某日 突風。 午後、男ご主人様が飲み物を取りにいった女ご主人様を、 待ちながら僕の体を抱き込んできた。 「なあ、ミケ。お前はいいなあ。 いつも美加子にぎゅっとしてもらえて」 俺としてはむしろしたい方なんだけどさ、 と夢見るように語る男ご主人様には、飽きれるほかない。 彼の頭にはきっと花畑が広がっているのだろうな。 |
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夢と希望の狭間で。 9月某日 小雨。 「美加子、俺さ。アメリカの大学行くわ」 男ご主人様が分厚い本を読みながら、 何気なく宣言した。 「え?」 女ご主人様は広げていたノートから顔をあげて、 表情をこわばらせる。 「何で?」 震える声で尋ねる女ご主人様に、 男ご主人様は真剣な表情で即答した。 「やりたいことがあるから」 ごめんな、と目を伏せる男ご主人様を前に、 女ご主人様は結局、沈黙したままだった。 |
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幸せの形。 10月末日 晴れ。 男ご主人様の言葉を聞いて以来、女ご主人様の表情が暗い。 第一あれ以来、男ご主人様が迎えにくることがなくなった。 女ご主人様は一人机で本を広げては、 何もない虚空を仰いでいる。 僕にはよくわからないが、勉強とやらが手につかないのは、 あまりよくないのではないだろうか。 悪いとは思うけれど、 男ご主人様のことを少し恨めしく思う今日この頃。 |
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願いごと。 11月某日 快晴。 「ねえ、ミケ。今日は流れ星が見られるんだって! 窓から一緒に見ようね」 女ご主人様が僕を抱え、窓を開ける。 寒がりの僕としては正直遠慮したいところだったけれど。 女ご主人様の笑顔を見るのは本当に久しぶりだったから、 しかたなく腕の中にいることにした。 しばらくして、夜空に一筋の光が走る。 「どうか浩二の夢が叶いますように。 それから、できれば私の夢も……」 偶然耳に入ってしまった女ご主人様の呟きは、 切なさに溢れていて。 僕は彼女の手に顔を寄せて、鳴くことしかできなかった。 |
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焼き芋と恋心。 11月末日 晴天。 夕暮れ時。 男ご主人様が焼き芋を持って女ご主人様の元へやってきた。 「ちゃんと話したくてさ」 焼き芋を差しだしながら告げる男ご主人様に、 女ご主人様が明後日の方角を見る。 「話って言っても、どうせ決心は変わらないんでしょう?」 女ご主人様の言葉に、男ご主人様は短く、ああ、と答えた。 「何年? 4年くらい? それとも6年?」 「一応、4年」 「ふうん」 そのまま降りる沈黙を、男ご主人様が破ってまくしたてる。 「休みには必ず帰るし、 それに頑張れば早く卒業することも可能なんだ。だから!」 男ご主人様が言葉を詰まらせると、 女ご主人様が長いため息をつき男ご主人様を見つめた。 「わかった」 「え」 「待ってるから」 女ご主人様はふわりとした微笑みを浮かべると、 差しだされたままの焼き芋を手にとる。 「ありがとう、美加子」 噛みしめるように紡がれた男ご主人様の言葉に、 女ご主人様がくしゃりと顔を歪めた。 泣き笑いの表情を浮かべながら、焼き芋をかじる。 熱いね、と微笑み合いながら焼き芋を頬張る2人の姿を見て、 僕は何だか酷く幸せな気持ちになった。 |
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冬のはじまり。 12月某日 快晴。 男ご主人様と女ご主人様が、 僕を連れて葉の落ち切った銀杏並木へやってきた。 ここは僕らの出会いの場所。すべての始まりの場所だ。 季節は12月だからひと月違うのだけれど、 それでも思い出の詰まったこの小道を僕らは歩いた。 いや、正確にはご主人様たちが歩いて、 僕は自転車の籠に乗せられていたのだけれど。 とにかく重要なのは、僕らが今年も一緒にいるってことだ。 そしてきっと、 来年もこの道を同じように歩くことになるだろう。 その時、僕はどうしているかな。 僕ももういい歳だから、 来年の今頃は新しい家族が増えているかもしれない。 そうだといいと密かに願いながら、 僕は楽しげに歩く2人のご主人様たちを見あげ続けた。 |
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